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<title>ありエるブログ</title>
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<description>書評と史料に日常諸々の雑記ブログ。</description>
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<title>阿茶局について</title>
<description>阿茶局は、徳川家康の妻(側室)の一人である。NHK大河ドラマ「真田丸」「どうする家康」に登場したため、そこそこ知名度がある女性であろう。彼女については、史料集が2015年に発行されている。白嵜顕成、田中祥雄、小川雄『阿茶局』（文芸社）https://honto.jp/netstore/pd-book_27445431.html阿茶局の子孫の方が専門家に依頼して作成された本である。子孫の方の本にありがちな「贔屓」がなく、信頼がおけるものだと個人的に評価している。一次史料をほぼ網..</description>
<dc:subject>徳川家康関連</dc:subject>
<dc:creator>アリノリ</dc:creator>
<dc:date>2023-10-21T20:33:25+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
阿茶局は、徳川家康の妻(側室)の一人である。<br />NHK大河ドラマ「真田丸」「どうする家康」に登場したため、そこそこ知名度がある女性であろう。<br />彼女については、史料集が2015年に発行されている。<br /><br />白嵜顕成、田中祥雄、小川雄『阿茶局』（文芸社）<br /><a href="https://honto.jp/netstore/pd-book_27445431.html" target="_blank">https://honto.jp/netstore/pd-book_27445431.html</a><br /><br />阿茶局の子孫の方が専門家に依頼して作成された本である。<br />子孫の方の本にありがちな「贔屓」がなく、信頼がおけるものだと個人的に評価している。<br />一次史料をほぼ網羅しており、阿茶局を知るにはこれで十分である。<br />しかし、史料本であるが故に、慣れない人間には、やや難しいという難点がある。<br /><br />「どうする家康」に阿茶局が登場して以降、ネット上に彼女に関する情報が載せられるようになっているが、編纂物由来の情報ばかりで、当時の手紙や日記をほとんど参考にしていなかった。<br />中には不正確な情報を史実のように断定しているものまであるので、ここに史料を使った阿茶局の情報を書いた。<br /><br />以下に、阿茶局について、生年から順に年表形式で載せた。<br />阿茶局に関しては、慶長５年まで一次史料がないため、それ以前は全て信頼性を欠く情報となる。<br />そのため、以下に記す、慶長５年前の情報は、全て「かもしれない」情報なのはご承知おき願う。<br /><br /><br />＜阿茶局年表＞　（　）内は阿茶局の推定年齢<br /><br />1555年　誕生（１歳）『幕府祚胤(そいん)伝』<br />　武田氏家臣飯田氏の娘としてこの年に生まれる、とされるが、『幕府祚胤伝』情報なので正確性の保証はない。よって、（　）内の年齢は推定年齢となる。数え年表記のため、１歳から始まる。<br /><br />1574年　長男守世誕生（20歳）『寛政重修諸家譜』　<br />　これ以前に神尾忠重に嫁ぎ、守世を生む。『寛政重修諸家譜』情報なので、これも正確性はあまり保証されない。<br /><br />1577年　夫神尾忠重死亡（23歳）『幕府祚胤伝』<br />　神尾忠重死去の史料はもう１つあり、どちらが正しいのかは不明。<br /><br />1579,1583年　守世がお長(秀忠)の小姓となる『譜牒餘録』『寛永諸家系図伝』<br />　史料が２つあり、どちらが正しいか不明。<br /><br />1579年　家康が阿茶局を召し出し、以後、戦いに供奉させる（25歳）『幕府祚胤伝』<br />　家康が阿茶局をそば近くに置くようになった時期は不明で、編纂物の史料上でもこの1579年と1582年の２つがある。<br /><br />1582年　阿茶局が家康に近侍（28歳）『柳営婦女伝系』<br />　家康が信州に打ち入ったときに息子を連れて庇護を申し出たとする。家康が駿府にいた頃に彼女を好いていたため、母子ともに仕えるようになったと続く。勿論、信憑性はない。<br /><br />1584年　阿茶局が小牧の陣で流産（30歳）『幕府祚胤伝』<br />　『幕府祚胤伝』では、陣中で懐胎(妊娠)して戦場で流産とある。これも信憑性は不明。<br /><br />1588年　夫神尾忠重死去（34歳）『寛政重修諸家譜』　<br />　この年に神尾忠重が死亡していた場合、これ以前に阿茶局が家康に仕えていた可能性はあったとしても、陣中で妊娠＆流産は否定される。<br /><br />1589年　西郷局、死去（35歳）『家忠日記』<br />　お長(秀忠)と福松(忠吉)の母である西郷局が亡くなる。後に阿茶局は秀忠の「母代」と記される。見ず知らずの女性に後継の息子を託すとは考えられないので、この時点以前から阿茶局が家康に仕えていた可能性はかなり高い。<br /><br />1590年　家康から伝達役を任されるようになる『幕府祚胤伝』<br />　「御隠密之御用向、従奧執政江伝達蒙」とあり、家康が奥にいる(＝表にいない)ときには、「隠密之御用向」の伝達役を任されたとある。事実かどうか不明。<br /><br />1591年　お長が元服して「秀忠」となる（37歳）『光豊卿記』<br />　秀吉の一字をもらい、お長は「秀忠」を名乗る。秀忠は1590年に上洛して秀吉と会っており、秀吉は秀忠を「一段利発」と書状で誉めている。秀忠の移動に阿茶局がついていたかどうかは不明。<br /><br />1598年　羽柴秀吉、死去（44歳）<br /><br />1599年　家康養女蓮姫の婚姻で介添をつとめる（45歳）『譜牒餘録』<br />　蓮姫は徳川家康の異母妹の娘（父は松平康直）で、家康の養女として有馬豊氏に嫁いだ。蓮姫の介添役は阿茶局と本多正信とされる。『譜牒餘録』も一次史料ではないため参考程度となるが、阿茶局は後に秀忠養女の婚姻にも関わっている。<br /><br />ーーここから史料の確実性が上がる<br />　<br />1600年　関ヶ原の戦いの際、大坂城にいた（46歳）『徳川美術館所蔵文書』『木村宗右衛門先祖書』<br />　７月、大坂城にいた阿茶局は反徳川勢力に大阪城から退去させられ、淀の木村勝正に匿われた。そのため、後に木村家から相続面で頼まれごとをされた。阿茶局はこの時のお礼か、木村家に書状を出しているので、木村勝正に保護されたのは確かなようだ。その後、関ヶ原から戻った家康に上京を指示され、家康のいる京へと向かったらしい。<br /><br />1601年　北野社の裁定に関わる（47歳）『北尾社家日記』<br />　北野社で起きた殺人事件に関する家康の裁定を北政所に通知する役目を果たす。阿茶局が政治的な事柄に関わっていたと分かる最初の史料。<br /><br />1604年　義演が品物を贈る（50歳）『義演准后日記』<br /><br />1605年　同上（51歳）『義演准后日記』<br /><br />1608年　秀忠養女喜佐姫(秀康の娘)の婚姻に関わる（54歳）『毛利家文書』<br />　秀忠養女が毛利秀就に嫁ぐ際に、本多正信とともに随伴する者の書立を作成している。<br /><br />1610年　梵舜が品物を贈る（56歳）『舜旧記』<br /><br />1611年　家康が阿茶・お亀に書状を出す（57歳）『徳川美術館所蔵文書』<br />　９男義直（母はお亀）が疱瘡にかかった際、家康が「おかめ あちゃ」と宛名に二人の名を書いて義直の病を案じる書状を出している。義直の母ではない阿茶局の名があるのは、彼女が家康の奥を預かる正室格の立場だったからだろう。<br /><br />1612年　崇伝が品物を贈る（58歳）『本光國師日記』<br /><br />1613年　崇伝が家康への取次を依頼（59歳）『本光國師日記』<br /><br />1614年　大坂冬の陣（60歳）『駿府記』『当代記』<br />　阿茶局が京都から家康のいる茶臼山に移動し、京極忠高の陣中で本多正純と豊臣方との交渉にあたる。『駿府記』『当代記』ともに後世の編纂史料であるが、家譜などに比べると信憑性がやや高いとされる。<br /><br />1615年　大坂夏の陣（61歳）『本光國師日記』『駿府記』<br />　『本光國師日記』によれば、大坂夏の陣が終わった後、阿茶局は千姫とともに京都の寺院巡りをしている。その後、『駿府記』に千姫とともに江戸に下向したとある。千姫は秀忠の娘なので、秀忠の「母代」である阿茶局にとっては、孫と言える。<br /><br />1616年　家康が病没（62歳）『本光國師日記』<br />　家康が正月に病に倒れる。阿茶局は江戸にいたようで、すぐに江戸から駿府へと戻った。駿府にいる阿茶局に対し、貴族や蜂須賀家から品物が贈られる。<br /><br />1617年　義直が品物を贈る（63歳）『源敬様御代御記録』<br />　義直が阿茶局に３回にわたって着物を贈っている。この贈答はこの後もずっと続く。<br /><br />1620年　秀忠娘和子入内（66歳）『幸家公記』<br />　和子の入内に付き従った阿茶局が朝廷から従一位に叙される。貴族の日記に阿茶局の記録があり、大坂の陣の際に城から脱出した「るり」という女房が彼女に仕えていることが分かる。<br /><br />1626年　和子が皇子を出産（72歳）『中村通村日記』<br />　息子神尾守世が和子の皇子出産を知らせるため下向する(＝江戸に向かう)という記事に、「一位＝阿茶局」が秀忠の「母代」であると記されている。　<br /><br />1632年　秀忠、死去（78歳）『寛政重修諸家譜』<br />　阿茶局が剃髪(＝出家)。<br /><br />1635年　毛利家が銀子などを贈る（81歳）『公義所日乗』<br />　毛利家が家臣の帰参問題でたびたび阿茶局に贈答を行っている。<br /><br />1637年　阿茶局、死去（83歳）<br /><br /><br />阿茶局の書状は『本光國師日記』などに多数残されているが、大雑把に動向が分かる情報に絞った。<br />贈答を記してあるのは、贈答が重要な人物に対して行われるものだからだ。<br />阿茶局が有能な女性として紹介されるのは一連の活動を見れば分かると思う。<br />彼女は大名家の娘ではなく、大名に仕える立場の武家の娘である。<br />勿論、家康や秀忠の後ろ盾があってこそではあるが、その出自で大名や朝廷とのやりとり、戦の交渉などに関わっている。<br />相手の大きさを考えて欲しい。<br />並の女性にできることではない。<br />しかも、阿茶局は家康との間に子をなしていないし、出身家も大身ではない。<br />それなのに重用されたのは、単純に「有能」だから、であろう。<br />もしかしたら他の理由があったのかもしれないが、残る史料からはそう結論づけるしかない。<br />それが、阿茶局という女性だ。<br /><br /><br />参考：『幕府祚胤伝』『柳営婦女伝系』<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/945825/1/1" target="_blank">https://dl.ndl.go.jp/pid/945825/1/1</a><br /><a name="more"></a>

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<title>結城秀康史料年表</title>
<description>結城秀康史料年表秀康関連の史料(書状、日記)を年表順に並べた。年欠の書状については、年次が推定できるものだけ載せてある。推定文書には年号の後に「カ」を付けた。史料内容については、簡単なメモ解説が年次毎にある。●天正12年９月８日：秀吉書状（前田家所蔵文書）家康惣領子十一ニ成候９月１７日：脇坂甚内宛　秀吉書状（龍野神社旧蔵文書）家康嫡子11月13日：伊木長兵衛宛　秀吉書状（伊木文書）家康実子同日付：池田丹後入道他宛　秀吉書状（荒尾文書）家康実子同日付：土蔵四郎兵衛尉宛　秀吉書状..</description>
<dc:subject>結城秀康</dc:subject>
<dc:creator>アリノリ</dc:creator>
<dc:date>2023-07-24T20:24:26+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
結城秀康史料年表<br /><br />秀康関連の史料(書状、日記)を年表順に並べた。<br />年欠の書状については、年次が推定できるものだけ載せてある。<br />推定文書には年号の後に「カ」を付けた。<br />史料内容については、簡単なメモ解説が年次毎にある。<br /><br />●天正12年<br />９月８日：秀吉書状（前田家所蔵文書）<br />家康惣領子十一ニ成候<br />９月１７日：脇坂甚内宛　秀吉書状（龍野神社旧蔵文書）<br />家康嫡子<br />11月13日：伊木長兵衛宛　秀吉書状（伊木文書）<br />家康実子<br />同日付：池田丹後入道他宛　秀吉書状（荒尾文書）<br />家康実子<br />同日付：土蔵四郎兵衛尉宛　秀吉書状（大阪城天守閣）<br />家康実子<br />11月18日：前田又左衛門尉宛　秀吉書状（後撰芸集）<br />家康実子<br />12月６日：『家忠日記』<br />雨降、御きいさま上へ御越候<br />12月12日：『家忠日記』<br />雨降、濱松御きい様羽柴所へ養子ニ御こし候<br />12月22日：『多門院日記』<br />家康息（九才）上洛、筑州猶子也<br />12月25日：『兼見卿記』<br />民部卿法印へ為歳暮罷向、今朝三州徳川人質ヲ召具坂本へ下向、淀マテ送ニ被出也、<br />12月26日：『多聞院日記』<br />大坂へ家康ノ息（九才）為養子被入、筒井ノ小屋ヲ借テ被置之、一館明トテ、筒井坊并被官衆震動也、<br />12月：『顕如上人貝塚御座所日記』<br />三川家康ノ實子、（十二月）廿日比京着、石川伯耆守供、近日大坂へコサルヽト云々、家康ノ息（御義伊ト云）廿六日ニ大坂ヘコサルヽト云々、供千計云々、石川伯耆守供也、息ノ名ハ御義伊ト云、石川伯耆守罷上、これハやかて罷下ヘシト也、大坂にて筒井ノ家ニヲカルヽト云々、<br /><br />ーメモー<br />天正12年は、秀康のことが書状・日記で確認できる最初の年となる。<br />人質として秀吉のもとへ行くためで、寺社、貴族の日記にも記述がある。<br />秀吉と家康の関係がどうなるかは、中央でも注目されていたようだ。<br />秀吉は、秀康のことを「惣領子」「嫡子」「実子」と書状に記す。<br />11月の書状で実子と表記が変わるのが気になるが、この時点では秀康(お義伊)が家康の嫡子(後継)であった可能性はある。<br />12月12日に浜松を出立したお義伊は、石川数正とともに26日に大坂に着き、筒井定次の屋敷に置かれたようだ。<br />ーーー<br /><br />●天正13年<br />１月11日：『顕如上人貝塚御座所日記』<br />徳川息御義伊へ御音信、小袖二・道服一、石川伯耆守へ小袖二、其外杉田へ小袖一、御使寺内相模、<br />１月13日：『顕如上人貝塚御座所日記』<br />御義伊ニツキテ罷上杉田新兵衛、為参詣マイラレタルヲ聞付ラレテ、メサレテ御對面、鳥目五百疋進上、志トテ黄金一包、子共ノ言傳トテ鳥目少々あけらるゝ也、御肴一献盃被下之了、やかて國へ被下由物語也、<br />１月22日『顕如上人貝塚御座所日記』<br />御義伊より使小姓、石川伯耆守使ト両人被参也、御對面一献、<br />２月14日：秀吉書状（本多記録御用所本）<br />おきい上洛候<br />４月18日：『顕如上人貝塚御座所日記』<br />徳川息御義伊殿、秀吉御陣見廻ノタメニ、雑賀へ御越也、石伯モ供ト云々、<br />10月６日：『兼見卿記』<br />殿下御参内～中略～次二兵衛少将、殿下之甥、御對面御禮之義同前、次徳川息侍従、次うき田八郎侍従、次五郎左衛門尉侍従、次越中守侍従、次三吉侍従（信長御息）、次武衛侍従、次毛利河内守、次蜂屋侍従、各御對面終而、在一盞之儀、美濃守（殿下舎弟）天盃頂戴之、此外御通也、各相濟殿下御退出～後略～<br />11月17日：某宛自筆　秀吉書状（豊太閤真蹟集）<br />於義伊なとも迷惑<br /><br />ーメモー<br />天正13年、家康と秀吉の交渉はあまり進展していない。<br />秀康の情報は、主に本願寺の記録に残る。<br />徳川家中に一向宗門徒が多いためか、お義伊つきの上田新兵衛の参詣が確認できる。<br />本願寺は天正11年から三河の一向宗寺院の関係で徳川方と接触を開始している。<br />徳川の動向が気になるのか、継続して日記に情報を載せている。<br />秀康は10月６日に参内し、「徳川侍従」となる。<br />家康の臣従はうまく進まず、秀吉の書状には「於義伊なとも迷惑」と記されている。<br /><br /><br />●天正14年<br />５月13日：『家忠日記』<br />雨降、吉田ニ御逗留也、右分振舞也、おきいさまの御もり小右衛門尉、伊藤殿案内者ニこし候、ミあけ小ちゃハん五つ、此方ゟ持鑓二本出候、<br /><br />ーメモー<br />天正14年に秀吉の妹朝日姫が家康に嫁ぐ。<br />その際、秀康の「お守り」小右衛門尉が伊藤秀盛の案内として同行している。<br /><br /><br />●天正15年<br />４月９日：羽柴左衛門尉他宛　秀吉書状（赤木文明堂）<br />徳川三河侍従<br /><br />ーメモー<br />家康の臣従後、秀吉は九州へ出兵している。<br />秀康も従軍しており、「跡つめ」を「被仰付」ている。<br />秀康は「徳川」であり、「三河守」は、家康が使用していた官職でもある。<br />この段階では、秀康が徳川の嫡男だったのかもしれない。<br /><br /><br />●天正16年<br />４月15日：織田信兼等二十三名連署起請文写（聚楽亭行幸記）<br />三河少将豊臣秀康<br />11月17日：茶会自筆交名（豊太閤真蹟集）<br />ゆうきせうせう<br /><br />ーメモー<br />天正16年の聚楽第行幸には豊臣秀康で署名してあるが、同年の11月の茶会では、「ゆうきせうせう＝結城少将」と秀康の名字が「結城」になっている。<br />美作津山藩の『浄光公年譜』には、天正17年に結城家の世継に決まったとあるが、それより１年早く秀吉は秀康を「結城」と記す。<br />天正16年(４月16日以降)に、秀康は結城の養子となった？のだろうか。<br /><br /><br />●天正17年<br /><br />ーメモー<br />天正17年は、秀康に関する日記・書状が(まだ)見当たらない。<br />『家忠日記』で、天正17年５月から、お長の表記が「若君」、つまり、家康の後を継ぐ嫡男として記されるようになる。<br />天正16年に秀康が結城になった関係から、嫡男が変更されたのだろうか。<br />ただし、天正14年以来の秀忠登場(in家忠日記)なので、それ以前にお長が嫡男となった可能性もある。<br /><br /><br />●天正18年<br />天正18年カ？５月22日：平岩七之助宛　秀康書状（古沢文書）<br />天正18年カ？５月22日：鳥居彦右衛門宛　秀康書状写（古文書二）<br />上２通は小田原の戦い関連の書状か？<br />６月１日（６月５日？）：『天正日記』<br />かのとひつじ　天気よし　きしゆく　たてとの内々にて、この方へ御こし、ゆふき様より御たのみ也<br />６月２日（６月６日？）：『天正日記』<br />さる　ふる　たてとの、ゆふき様、御ちそう、ふろたくべしと仰出さる<br />６月４日（６月７日？）<br />大との様ゆふきさまたてとの御一所に殿下へ御こし也<br />７月29日：黒田勘解由、水野和泉守宛　家康書状（水野文書）<br />結城跡目之儀、三河守ニ仰付段、<br />９月：知行目録、寄進状、知行充行など<br />天正18年カ？10月11日：平岩主計宛　秀康書状写（松濤棹筆二十八）<br />天正18年カ？10月11日：平岩主計宛　秀康書状写（松濤棹筆二十八）<br />上２通は葛西大崎一揆関連の書状か？<br />11月４日：『天正日記』<br />くもる　本町の地わり少々なほる　少将様はじめて御つき御むかひ御案内に大助出す<br />12月12日：寄進状<br /><br />ーメモー<br />天正18年カ？の４通の書状は年欠で、内容から天正18年と推測されているものである。<br />『天正日記』は、内容と日付が『家忠日記』ほかと一致せず、偽書との疑いがある。<br />しかし、蓮沼啓介「校訂天正日記の史料価値」<a href="https://cir.nii.ac.jp/crid/1520572357857556224" target="_blank">https://cir.nii.ac.jp/crid/1520572357857556224</a>で、（　）内のように日付を改めれば内容が他史料と矛盾しないと指摘されていた。<br />この論文を参考にして、（　）内に日付を記した。<br />『天正日記』の内容が正しい場合、秀康は小田原に在陣していて、伊達政宗を出迎える役目を担い、秀吉との面会に向かう政宗に家康と共に付き添ったことになる。<br />７月29日の家康書状では、結城晴朝が隠居して、秀泰に結城の５万石を継がせることを家康が了承している。<br />秀康はこれより前に「結城」と記されているため、養子と跡目の相続は同時ではなく段階を経て行われた、か、この書状の年次が天正18年より前か、のどちらかである。（この家康書状は、年欠）<br />また、葛西大崎一揆へ出陣する際に、秀康は初めて江戸に来ている。<br /><br /><br />●天正19年<br /><br />ーメモー<br />天正19年も、秀康に関する日記・書状が(まだ)見当たらない。<br />次の天正20年の当人の書状に「去年よりの煩い、散々だったが」とあるので、長く患っていたのかもしれない。<br /><br /><br />●天正20年(文禄元年)<br />１月20日：松平又七宛　秀康書状（谷森健男氏所蔵文書）<br />～前略～随而自去年之煩、散々式候得共、～後略～<br />２月：知行充行、知行充行写<br /><br />ーメモー<br />秀康は長く患っていたが、秀吉の唐入りのために家康とともに？名護屋へ向かう。<br />その前に知行充行を急いで出していったようだ。<br /><br /><br />●文禄２年<br />５月20日：徳川家康等二十名連署起請文（東京国立博物館）<br />江戸大納言<br />～中略～<br />結城少将<br />文禄２年カ５月23日：長谷川惣大夫宛　秀康書状写（秋田藩家蔵文書五十）<br /><br />ーメモー<br />８月３日に秀頼が生まれ、家康は８月29日に大坂に着いている。<br />秀康の動向は不明だが、文禄３年６月までには京都に戻っている。<br /><br /><br />●文禄３年<br />６月16日：『家忠日記』<br />同普請、結城三州様ニふる舞にてこし候、<br />８月21日：伏見大光明寺建立勧進書立（相国寺文書）<br />一、百石　江戸大納言<br />～中略～<br />一、弐拾石　ゆうきの少将<br />８月24日：『言経卿記』<br />江戸亜相へ罷向了、御所労験気也、夕食有之、亜相子息三河守殿相伴了、十人計有之、<br /><br />ーメモー<br />秀康は、普請作業に励む松平家忠に振る舞いをしたり、駕籠から落ちて体を痛めた父親を見舞ったりしている。<br /><br /><br />●文禄４年<br />３月28日：『式御成之次第』<br />　式御成之次第<br />夫御成之儀被相定候付而<br />　～中略～<br />亜相(家康)御禮御進物之次第<br />　～中略～<br />結城少将(結城秀康)殿<br />　～中略～<br />御相伴之事<br />　～中略～<br />　同丹後　少将殿　　足打<br />　同結城　少将殿　　足打<br />　～後略～<br />７月20日：織田信雄等三十名連署起請文（木下文書）<br />羽柴結城少将<br />10月１日：『言経卿記』<br />伏見ヘ冷同道罷向、与右衛門尉所ニテ休息了、次　江戸亜相ヘ罷向、水無瀬黄門伊勢物語講尺之内也、則聴聞了、次夕食有之、相伴衆、水無瀬・予・冷・江戸黄門・同参河守・伊達侍従等也、亥下刻ニ帰宅了、<br /><br />ーメモー<br />『式御成之次第』は、秀吉が家康の屋敷へ「御成」したときのものである。<br />秀康は「徳川」の一員として秀吉に進物を出しつつ、「結城」の者として接待を受ける立場にもなっている。<br />また、『織田信雄等三十名連署起請文』で、かつては豊臣だった姓が羽柴へと変わったのが分かる。<br /><br /><br />●文禄５年(慶長元年)<br />１月、３月：知行充行、知行充行写、寺領充行<br />慶長元年カ６月５日：三川様宛　秀忠書状（個人所蔵文書）<br />12月：知行充行<br /><br />ーメモー<br />文禄５年１月の知行充行状は多い。<br />出陣や病、在京で対応できていなかった分を、この時期に集中して出したのだろう。<br />ただ、３月の知行充行写の後、12月まで期間が空く。<br />慶長元年カと推定になるが、６月５日の秀忠の書状で「明日伏見でお会いしましょう」とある。<br />３月13日より後～12月まで結城を離れ、在京していたようだ。<br /><br /><br />●慶長２年<br />10月10日：加藤主計頭書状写（後撰芸葉十）<br />羽柴三州宛<br /><br />ーメモー<br />加藤清正が朝鮮出兵の様子を秀康に知らせている。<br />先に秀康の方が書状を出しており、その返事。<br />次の浅野長慶の書状案も同じで、朝鮮出兵組と日本に残る大名らの間では多数の書状が交わされている。<br /><br /><br />●慶長３年<br />１月４日：浅野長慶書状案（浅野文書）<br />羽柴三河他宛<br />慶長３年カ２月：結城秀朝定書、秀朝安堵状<br />慶長３年カ８月７日：中納言様宛　秀康書状（服部玄三所蔵文書）<br />10月３日：秀忠様宛　秀康書状（越葵文庫文書）<br />11月21日：知行充行<br /><br />ーメモー<br />浅野長慶の書状は、多数の大名へ向けてのもので宛名の一人が秀康である。<br />内容は朝鮮情勢。<br />慶長３年のわずかな間、秀康は養父の晴朝から一字をもらって「秀朝」と改名していたらしい。<br />ただ、同年中には「秀康」に戻している。<br />慶長３年８月18日に秀吉が病没した件と関係する？のかもしれない。<br />だが、慶長３年カ？と年次推定の８月７日(秀吉没前)の書状で「秀康」と署名してあるため、秀吉の死との関わりは微妙である。<br />秀吉の死により、家康は京都から動けなくなり、秀忠は江戸、秀康は家康の側に、という形ができる。<br />上の２つの秀康書状はどちらも江戸の秀忠宛で、家康の様子などを知らせている。<br /><br /><br />●慶長４年<br />３月３日：吉原奉行中宛　中村一氏書状（静岡県史資料編13近世５）<br />結城三河守殿御家中之女房上下六人、江雪申理ニ候、吉原相違有間敷候也、<br />３月22日　三州宛　秀忠書状（大阪城天守閣所蔵文書）<br />４月８日：『言経卿記』<br />早暁伏見江戸（ユウキ）宰相殿・森右近家等火事也、右近ヨリ火出也云々、<br />５月２日『言経卿記』<br />城織部佑ヨリ知人ーー愛洲藥所望之由有間、十服遣了、結城宰相御内衆也云々、<br />５月11日：小早川秀秋等三十名連署公家衆法度請状写（旧記雑録後編四十五）<br />結城宰相<br />月日不明：黒印状写<br /><br />ーメモー<br />秀康家中の女房衆が領国→伏見、伏見→領国のどちらかの移動をしたようだ。<br />それとも秀康自身が一度結城に戻ったのか、３月22日の秀忠書状に「路次中無何事被御上着候由」とある。<br />慶長３年11月に知行充行が出ているので、可能性はある。<br />また、家康を糾弾する『内府ちかひの条々』に、「諸侍の妻子、ひいきひいきニ候て、國本へ被返候事」がある。<br />もしかしたら、この女房衆の移動がそれに該当するかもしれない。<br />この場合、女房衆の移動は「伏見→領国」が正しくなる。<br />伝聞情報ではあるが、4月８日には伏見の屋敷が火事になったらしい。<br />翌月に秀康の家来が山科言経に愛洲薬を所望しているのは、火事の関係だろうか。<br />５月11日の署名で、秀康は「羽柴」姓を使用していない。<br /><br /><br />●慶長５年<br />６月22日：三州宛　秀忠書状（松江松平文書）<br />６月23日：多賀谷左近宛　秀康書状（多賀谷文書）２通<br />７月10日：知行充行<br />７月14日：金松又四宛　秀康書状（兼松文書）<br />８月21日：羽作州宛　秀康書状写（譜牒余録五十四）<br />８月24日：羽三州宛　福島正則書状写（福島家系譜）<br />８月29日：池田吉左衛門他宛　秀康書状写（黄薇古簡集一）<br />９月17日：羽作州宛　秀康書状写（譜牒余録五十四）<br />９月25日：井兵部宛　秀康書状写（中村不能斎採集文書九）<br />９月28日：羽越州宛　秀康書状（天理大学図書館所蔵伊達文書）<br />９月28日：羽三州宛　伊達政宗書状（越葵文庫文書）<br />10月16日：佐州宛　秀康書状写（栃木県庁採集文書三）<br /><br />ーメモー<br />知行充行を除き、全て関ヶ原前後関連の書状。<br />年次が特定できる秀康書状の数が最も多いのがこの慶長５年である。<br />家康もこの時期の書状の数は多い。<br />宇都宮で対上杉を任された秀康は、あちこちと連絡を取り合っている。<br /><br /><br />●慶長６年<br />１月４日：結城宰相宛　秀忠書状（越葵文庫文書）<br />４月18日：宰相宛　秀忠書状（福岡市博物館所蔵文書）<br />８月13日：越前宰相宛　秀忠書状（越葵文庫文書）<br />８月23日：大関左衛門督宛　秀康書状（大関）文書<br />９月９日：知行充行、知行充行写<br />９月11日：寄進状写、定書写<br />９月15日：知行目録写<br />11月９日：寄進状<br />12月９日：黒印状<br /><br />ーメモー<br />慶長６年は、秀忠の書状が３通ある。<br />１月の書状では、秀康の越前拝領を喜び、４月のものでは秀康と会いたいと伝え、８月には秀康の目の具合を心配している。<br />どうやら、関ヶ原の後、秀康は目を患っていたようだ。<br />８月23日の書状によれば、越前を拝領した秀康は伏見を経由して８月14日に越前に入っている。<br />新しい領国に移ったため、知行充行などが多数出されている。<br />ただし、秀康に従って越前入りした結城の家臣は少なかった。<br />12月９日の黒印状では、越前入国の際に大量の金銀が納められているのが分かる。<br /><br /><br />●慶長７年<br />３月５日：伝馬定書<br />４月14日：寄進状写<br />５月27日：『舜旧記』<br />今日三河守殿依社参、二位卿俄豊國へ越也、予脚気ニ足痛故不参、次三河守殿奉納、銀子五枚、二位殿ヲソクテ三河守殿早ク社参也、<br />７月５日：『言経卿記』<br />伏見ヘ冷・倉部発足了、先結城宰相殿（内府息）ヘ罷向、自倉部ユカケ二具進了、盃酌云々、次内府ヘ罷向、夕食有之、<br />９月10日：黒印状<br />９月11日：黒印状<br />11月15日：結城宰相宛　秀忠書状（個人所蔵文書）<br /><br />ーメモー<br />秀康は領国支配のため、４月までは越前にいたようだ。<br />５月には伏見へ来ていて、秀吉を祀る豊国社に参詣している。<br />秀康の豊国社参詣はこの１回だけで、前日には家康の母於大の方の参詣が確認できる。<br />家康も伏見におり、徳川として礼を示すための参詣だったらしい。<br />11月の秀忠書状で、秀康が金沢城への落雷を報告しているのが分かる。<br />秀康の越前入りは、対前田家のためもあったようだ。<br /><br /><br />●慶長８年<br />１月９日：知行充行、知行充行写<br />１月10日：寄進状写、寄進状<br />１月21日：寄進状<br />２月12日：寄進状、寄進状写、禁制、禁制写<br />２月28日：寄進状<br />３月25日：『慶長日件録』<br />大樹参内也、～中略～次扈從衆五人、越前宰相、豊後宰相忠興、播磨少将、京極少将、安芸侍従等也、～以下略～<br />４月４日：『言経卿記』<br />殿中御能有之間、～中略～次大樹（御袴・肩衣）御出座、次相伴衆各被参了、三宝院准后（素絹）、両人上之段也、四方也、中之段（ニテ）烏丸亜相・日野亜相～中略～越前相公（結城、大樹子息）～以下略～<br />５月２日：判物<br />慶長８年カ７月17日：神田修理亮宛　秀康書状（神田文書）<br /><br />ーメモー<br />慶長８年は家康が将軍に就任する年である。<br />秀康は再び３月には伏見におり、家康の参内などの関連儀式に参加している。<br />５月には越前に戻ったようだ。<br /><br /><br />●慶長９年<br />慶長９年カ２月23日：越前宰相宛　秀忠書状（個人所蔵文書）<br />慶長９年カ６月１日：越前宰相宛　秀忠書状（越葵文庫文書）<br />慶長９年カ６月16日：堀帯刀宛　秀康書状（佐藤行信氏所蔵文書）<br />慶長９年カ６月17日：越宰相宛　秀忠書状（南部晋氏所蔵文書）<br />７月１日：伝馬手形<br />11月12日：知行充行<br />慶長９年カ11月25日：永見淡路守宛　秀康書状（知立明神文書）<br /><br />ーメモー<br />この頃から、秀康の体調が思わしくない。<br />秀忠の書状は３通とも秀康の煩いを気にかけており、堀帯刀宛の当人の書状でも病で会えなかったことを詫びている。<br />最後の永見淡路守宛は秀康の双子の兄弟とされ、その死去についての書状である。<br />ただ、文書の最後が「以上」で締められており、書式として妙な感じがする。<br /><br /><br />●慶長10年<br />慶長10年カ１月９日：越前宰相宛　秀忠書状（武生市立図書館所蔵文書）<br />２月7日：知行充行<br />慶長10年カ２月17日：本多上野介？宛　秀康書状（お茶の水図書館所蔵文書）<br />３月15日：『言経卿記』<br />大外記（中原）師生来、右大将殿任槐有之歟之由申、同兄弟越前宰相モ黄門ニ拝任之由申、<br />５月８日：島津陸奥宛　秀康書状（島津文書）<br />慶長10年カ５月18日：大方彦左衛門尉宛　秀康書状（大方文書）<br />慶長10年カ５月18日：秀康書状（秀康公御代御秘蔵御書付類）<br />慶長10年カ５月22日：宮川五助宛　秀康書状（水野家文書）<br />慶長10年カ５月26日：円光寺床下宛　秀康書状（三岳寺文書）<br />６月10日：越前中納言宛　秀忠書状（越葵文庫文書）<br />慶長10年カ６月27日：由井甚太郎宛　秀康書状写（水野家文書）<br />慶長10年カ６月29日：由井甚太郎宛　秀康書状写（水野家文書）<br />慶長10年カ６月30日：本目権十郎宛　秀康書状写（古文書二）<br />７月26日：『公卿補任』<br />前参議從三位源秀康、七月廿六日任権中納言<br /><br />ーメモー<br />慶長10年は秀忠が将軍に就任する年である。<br />秀康も中納言となり、この年に推定される書状も増加する。<br />しかし、病は悪化しており、秀康は腕が痛くて花押が書けず、印判で書状を出している。<br /><br /><br />●慶長11年<br />１月１日：多賀谷左近大夫宛　秀康掟書（多賀谷文書）<br />慶長11年カ２月２日：本多美濃宛　秀康書状写（中村不能斎採集文書十）<br />慶長11年カ２月５日：本多美濃宛　秀康書状写（中村不能斎採集文書十）<br />慶長11年カ２月12日：多賀谷左近大夫宛　秀康書状（多賀谷文書）<br />４月18日：越前中納言宛　秀忠書状（芦浦観音寺文書）<br />５月16日：『輝資卿記』<br />玄仍所へ越前中納言殿之御祈祷之連歌ニ罷出候、夜中迄酒宴、<br />５月18日：『慶長日件録』<br />午刻、伏見行、越前中納言殿へ、冷泉令同心、向彼亭於書院有御振舞、雖然御腫物之故無御對面、予進物薫衣香袋三ツ進之、冷泉中将、定家真筆三代集之抜書、被懸御目之、及晩天帰蓬畢、<br />６月２日：『慶長日件録』<br />午刻為勅使、越前中納言之亭へ向、於東福寺遊山之間帰京、<br />６月３日：『慶長日件録』<br />為勅使向越前中納言亭、薫衣香袋廿拝領也、仍持参、即中納言令頂戴給、後有振舞、中納言殿今日月待、無食也、仍無相伴之義、忝之由御返事申入畢、<br />６月４日：『慶長日件録』<br />未刻、越前中納言殿より御使被下、御書并帷子五拝領、即返事申入、高田遠江守宛所遣了、御使名字高田平左衛門、<br />７月７日：『慶長日件録』<br />早朝伏見へ行、前大樹へ御禮ニ参、御對面也、次越前中納言殿へ参、依御所労、無御對面、<br />慶長11年カ７月７日：松平飛騨守宛　秀康書状（三宅文書）<br />慶長11年カ８月４日：秀康書状（平成六年『古典籍下見展観大入札会目録』）<br />慶長11年カ８月16日：蒲生源左衛門宛　秀康書状写（新編会津風土記三）<br />慶長11年カ９月２日：秀康書状（毛谷黒滝神社文書）<br />慶長11年カ９月21日：江雪老宛　秀康書状（藩中古文書三）<br />10月１日：越前中納言宛　秀忠書状写（武家事紀三十二）<br />慶長11年カ12月26日：稲葉三十郎宛　秀康書状(館山市立博物館所蔵文書）<br /><br />ーメモー<br />家康の上洛に合わせて秀康も伏見にいる。<br />病状は改善しておらず、秀忠は書状で心配しており、里村玄仍の所では秀康の快癒を願って「御祈祷之連歌」が行われる。<br />秀康の書状では具合が悪く会えなかったことを詫びる文言が目に付く。<br />『慶長日件録』は船橋秀賢の日記で、秀賢は天皇の勅使として秀康に「薫衣香袋廿」を持参している。<br />おそらく、秀康が家康から伏見を任される立場になったためであろう。<br /><br /><br />●慶長12年<br />２月21日：羽柴陸奥守宛　秀康書状（島津文書）<br />３月５日：毛利伊予守宛　秀康書状（長府毛利文書）<br />３月９日：児玉若狭守他宛　秀康書状写（萩藩譜録こ二十六）<br />慶長12年カ３月19日：福原勝三郎宛　秀康書状写（萩藩譜録こ二十六）<br />慶長12年カ３月26日：津軽右京宛　秀康書状（佐藤文書）<br />４月６日：知行充行写<br />４月28日：『御湯殿上日記』<br />みかわのかみわつらいさんさんにて、きとうに御かくら申さるる、ふ行とうの辨なり、<br />閏４月13日：『鹿苑日録』<br />片主越前へ、自秀頼公三州御見廻被相越ト云、一説又三州早御遠行故、為弔慰被相越ト云、両説有之、不知其實、予相煩故不出門戸、不知虚實、<br />閏４月14日：『義演准后日記』<br />傳聞、去八日三河守死去云々、将軍子息也、去三月五日ニハ、尾張國守下野守死去、相續凶事、珍事々々、三河守ハ越前一國ノ主也、<br />閏４月15日：『鹿苑日録』<br />片主御出、昨日自越前帰宅ト云々、三州遠行必定ト云々、御若衆其外御近所ニ伺候之衆、當座ニ三人戴腹シテ御伴、其外六七人モ有之ト云々、<br />閏４月：『パジェー日本耶蘇史』<br />そは謁見式の當日、公方の長子になるが、正室の出にあらざるにより、位を継ぐ能ハざりし越前侯の凶報達したるに、上野殿ハ、公方若し此事を知らば、謁見の式ハ延期せられ、接待も厚からざるべきを前知し、國君が謁見の前に此報に接せざらん為に全力を盡し、越前より来れる書状は総べて之を押へ、接見の時刻を引き上げたるべしとなり、此非常なる親切ハ、大に宣教師の利益となりたり、<br />６月５日：『鹿苑日録』<br />東法印亦此三日上洛ト云々、大御所様御機嫌甚以難窺之、是亦無餘儀、両所迄捐館之上者、御愁嘆不及言語、下々至小身迄、無不愛其子、況於大人乎、<br /><br />ーメモー<br />病の秀康に、家康は寒い越前ではなく上方で養生するように伝えていた。（２月21日書状）<br />やや回復したので帰国したが、秀康は閏４月８日に越前で病没する。<br />４月28日の「お神楽」は、秀康の治癒を願って行われている。<br />その前の４月25日に、「さきのしやうくん(家康)より、ねんとうの御れゐとて、しろかね二百まい、…」(『御湯殿上日記』)とあるので、この神楽を依頼したのは家康の可能性が高い。<br />家康が天皇に納める白銀は毎回100枚で、大坂の陣のときでも同額である。<br />通常より多い100枚は秀康のためのものだったであろう。<br />しかし、神楽の甲斐なく、秀康は病没した。<br />片桐且元が、秀頼の使いとして見舞い、もしくは弔問に行っている。<br />『パジェー日本耶蘇史』で、本多正純が宣教師との謁見を優先して、秀康死去の知らせが直ぐに家康に届かないよう妨害していたのが分かる。<br />『鹿苑日録』には、「家康さまのご機嫌を伺うのがとても難しくなっている。仕方のないことだ。忠吉さまと秀康さまのお二人を亡くされたのだ。そのお嘆きは言うことが出来ないほどだろう」とある。<br /><br /><br />注意：秀康の書状や秀康宛の書状はまだ存在するが、年未詳のため、載せなかった。<br />年未詳のそれらは『近世初期大名の身分秩序と文書』で確認できる。<br /><a name="more"></a>

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<title>飯尾連龍後室(お田鶴の方？)は討死したのか？</title>
<description>飯尾連龍後室(お田鶴の方？)は討死したのか？飯尾連龍後室(お田鶴の方？)には、徳川勢と戦って討死したという話が残る。城の女主が侍女たちとともに果敢に戦って戦場で討死する。戦国時代らしい悲劇であるが、実際には、ほぼない出来事である。引間(ひくま)城の「お田鶴(たづ)の方」の話も、「事実」とは断定できない。引間城は浜松城の前身で、お田鶴の方は城主飯尾(いのお)連龍(つらたつ)の妻とされる。連龍については書状他の史料があり、存在が確かめられる。しかし、その妻(室)については、実在を..</description>
<dc:subject>徳川家康関連</dc:subject>
<dc:creator>アリノリ</dc:creator>
<dc:date>2023-03-19T20:47:46+09:00</dc:date>
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飯尾連龍後室(お田鶴の方？)は討死したのか？<br /><br />飯尾連龍後室(お田鶴の方？)には、徳川勢と戦って討死したという話が残る。<br />城の女主が侍女たちとともに果敢に戦って戦場で討死する。<br />戦国時代らしい悲劇であるが、実際には、ほぼない出来事である。<br /><br />引間(ひくま)城の「お田鶴(たづ)の方」の話も、「事実」とは断定できない。<br />引間城は浜松城の前身で、お田鶴の方は城主飯尾(いのお)連龍(つらたつ)の妻とされる。<br />連龍については書状他の史料があり、存在が確かめられる。<br />しかし、その妻(室)については、実在を保証する史料が後世の二次史料に限られる。<br />女性は系図でしか存在が確かめられない事例も多いため、そこは大きな問題ではない。<br />問題なのは、⑴彼女の存在が認められない二次史料と、⑵彼女の存在が認められる二次史料の２つがある、ことだ。<br />どちらも家康が遠江に進出した永禄十一年(1568)十二月十八日の出来事を記す。<br />この出来事で、家康は引間城を手に入れるのだが、⑴と⑵で入手方法が異なる。<br />17世紀後半(1673～84年)に編纂されたとされる『浜松御在城記』が両方の説を併記するので、下にそれぞれの概要を書いておく。<br />（参照ー国立公文書館『浜松御在城記』：<a href="https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/result?DEF_XSL=default&IS_KIND=summary_normal&IS_STYLE=default&DB_ID=G9100001EXTERNAL&GRP_ID=G9100001&IS_START=1&IS_TAG_S1=all&IS_NUMBER=100&LIST_TYPE=default&IS_LIST_ON_OF=off&LIST_VIEW=&ON_LYD=on&IS_SORT_KND=asc&IS_SORT_FLD=sort.tror%2Csort.refc&IS_KEY_S1=%E6%B5%9C%E6%9D%BE%E5%BE%A1%E5%9C%A8%E5%9F%8E" target="_blank">https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/result?DEF_XSL=default&IS_KIND=summary_normal&IS_STYLE=default&DB_ID=G9100001EXTERNAL&GRP_ID=G9100001&IS_START=1&IS_TAG_S1=all&IS_NUMBER=100&LIST_TYPE=default&IS_LIST_ON_OF=off&LIST_VIEW=&ON_LYD=on&IS_SORT_KND=asc&IS_SORT_FLD=sort.tror%2Csort.refc&IS_KEY_S1=%E6%B5%9C%E6%9D%BE%E5%BE%A1%E5%9C%A8%E5%9F%8E</a>）<br /><br />⑴飯尾連龍室が不在<br />　家康が遠江の安間村に陣を張っているとき、引間城の江間安芸守が江間加賀守を殺害したと、加賀守の家来が知らせてきた。その家来小野田彦右衛門が江間安芸守を切り殺したと急いで伝えに来たので、家康は早速引間城に乗り込んで、事態を収束させた。<br />安芸守は甲斐の武田に通じ、加賀守は家康に通じていたため、喧嘩となったのだ。加賀守の子孫は紀州の頼宣に仕えた。<br /><br />⑵飯尾連龍室が存在<br />　一説に、飯尾豊前守の後室(未亡人)が浜松を任されていた。家康は後藤太郎左衛門と松下與右衛門を使わして、城を開け渡せば扶持や家来については保証しようと伝えたが、後室は承知しなかった。徳川勢が攻めると、味方の手勢三百人が手負死人となり、城の兵も二百余人討たれた。後室も侍女を左右に引き連れて出て、十八人がひとつ所で討死したと、板倉家の記はある。しかし、ある人の記には、これは大河内兵庫助の合戦のことで時代も違うとある。手負死人が三百もいれば、名のある人も十や二十あまりが討死しているべきだ。ことに乗龍(連龍？)の北の方は、今川家の人なので人質として駿河にいるべきだ。もしくは、(江間)安芸守の妻などのことだろうか。<br /><br /><br />⑴は引間城を任されていた飯尾連龍の家臣が内部分裂を起こし、それに乗じて家康が城を接収したとなっており、⑵では、下ることをよしとしない飯尾連龍後室が徳川勢と戦って討死した、という内容である。<br />⑵については、文章中に疑問が提示されており、江戸時代から説として疑問視されていたのが分かる。<br />「板倉家の記」には、この後室討死の話があると記してあるが、自分が確認ができた板倉家の家譜の類いにはなかったので、この「板倉家の記」がどの板倉家の記なのかは不明。<br />また、続く「ある人の記」は、ある人が特定できないため、確認ができない。<br />同じ「家康による引間城の接収」でありながら、⑴は家臣しか出てこず、⑵では後室にしか出番がないなど、話の展開が全く違う。<br />これを他の史料で見てみると、次のようになる。<br /><br />⑴と似た展開を載せる史料<br />新城市誌資料10『菅沼家譜』ー<a href="https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/3010611/1/1" target="_blank">https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/3010611/1/1</a>（国会図書館）<br />菅沼主水の「貞享書上」<br />江間加賀守の子孫の「貞享書上」他ー朝野旧聞裒藁46<a href="https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000048536&ID=M2018042315173125538&TYPE=" target="_blank">https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000048536&ID=M2018042315173125538&TYPE=</a>（国立公文書館）<br /><br />⑵とほぼ同じ展開を載る史料<br />「曳馬拾遺」ー<a href="https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/ImageView/2213005100/2213005100200010/m002/" target="_blank">https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/ImageView/2213005100/2213005100200010/m002/</a><br />「官本三河記」<br />「三河記大全」ー朝野旧聞裒藁46<a href="https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000048536&ID=M2018042315173125538&TYPE=" target="_blank">https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000048536&ID=M2018042315173125538&TYPE=</a>（国立公文書館）<br /><br />それぞれの史料について簡単に説明すると、以下の通りになる。<br /><br />「朝野旧聞裒藁(ちょうやきゅうぶんほうこう)」は、江戸幕府が1819～1841年に編纂した徳川氏の事績を集めた史料集。<br />「貞享(ていきょう)書上」は、江戸幕府が徳川家と縁のある諸大名や庶民に1683～1684年の間に提出させた古文書・家伝類。<br />『菅沼家譜』は、家康の遠江侵攻に従った菅沼家(菅沼定盈の系統)の家譜。<br />貞享書上を提出した菅沼主水はその子孫。<br /><br />菅沼家の記録では、江間安芸守と江間加賀守は互いに陣を構えて戦っていて、加賀守が戦で殺害されている。<br />定盈(さだみつ)の功に触れるなど菅沼家よりの部分があり、小野田彦右衛門が家康に知らせる場面がない、などのオリジナリティがある。<br />対して、紀州徳川家に仕える江間加賀守の子孫は、「浜松御在城記」の「⑴」とほぼ同じ内容の貞享書上を提出している。<br />つまり、先祖が関わった家の史料では、⑴の系統を採用しているのだ。<br /><br />対して、「⑵」を記す史料は『浜松御在城記』か、共通する史料を参照しているらしく、内容が類似する。<br />『三河記大全』という書物では脚色が増える差分はあるが、展開は同じ。<br />山鹿素行の『武家事紀』(1673年の序文あり)は、⑵を採用して、後室と十八人の女性の討死の部分のみを載せる。<br /><br />⑴は内部分裂で、⑵は徳川との戦いである。<br />⑴と⑵の妥協をはかったのが、『浜松御在城記』の「もしくは、安芸守の妻などのこと」という部分だ。<br /><br />では、どうして、同じ出来事に全く別の話が残ったのか。<br />原因は、浜松城の丑寅の西の方角に「御台塚」という場所があったためではないだろうか。<br />「御台＝御台所＝妻」＋「塚＝墓」＝そこそこ身分の高い女性(妻)の墓があるのだから、そういう女性がここでなくなったのだろう、とたやすく連想が働く。<br />現在、この「御台塚」は存在せず、正確な場所は分からない。<br />そのあたりは、椿屋敷とも呼ばれていたらしく、江戸時代の浜松城図にも「ツバキ」と記されている部分がある。<br />「御台塚」「椿屋敷」という地名から、⑵のような「物語」ができた可能性はある。<br />2022年に地元の徳川家康関連の伝承を調べたとき、かなり多かったのが「地名や名字を説明するための家康伝承」であった。<br /><br />「この地名は家康が○○したので、こういう地名になりました」<br />「この名字は家康に○○してあげたのでいただきました」<br /><br />というパターンである。<br /><br />御台塚がある。<br />椿屋敷という地名だ。<br />もともと引間城は飯尾家の城であった。<br />家康が遠江に来たときに現地勢力と争いがあった。<br /><br />この複数の条件から、飯尾後室討死の話が作られても不思議はない。<br /><br />また、『浜松御在城記』が指摘するように、実際に引間(曳馬)城は「大河内兵庫助＝大河内貞綱(さだつな)」により占拠された歴史がある。<br />これは1512年の話で、今川氏と斯波氏の争いが背景にある。<br />今川と斯波は遠江をめぐって対立しており、今川氏に引間荘代官(曳馬城)を任されていたのが飯尾賢連(かたつら,連龍の祖父)であった。<br />大河内貞綱は1516年にも飯尾を追い出して引間城を占拠＆籠城をするが、翌年、今川氏親(うじちか,義元の父)により城は落とされ、貞綱は自害した。<br />「御台塚」がこちらの関連からできた可能性はあるだろう。<br /><br />⑴と⑵を比較すると、⑵の方が伝承性が高いと思う。<br />引間城は、⑴内部分裂して家康の所有となったのか、それとも、⑵徳川が飯尾連龍の後室と戦って手に入れたのか。<br />どちらも確たる資料はない。<br />ただ、⑴と⑵の２つを示す「史料」があり、これにより２つの説ができる。<br />そして、全く別の展開を示す史料が２つある以上、飯尾連龍後室の討死は「事実」とは断言できない。<br />飯尾連龍後室の討死はあくまでも説の一つに過ぎない。<br />これだけは確かなことだ。<br /><a name="more"></a>

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<title>家康の誕生日について</title>
<description>徳川家康の誕生日は、通説では旧暦の天文11年12月26日である。この日付は、西暦では1543年1月31日となる。ネットで検索したところ、この誕生日を寅年寅の月寅の日寅の刻生まれと紹介する例がいくつもあった。朝野旧聞裒藁(国立公文書館：https://www.digital.archives.go.jp/file/2549777.html)などを確認したところ、生年と日付を壬寅(みずのととら)と記す史料はあったが、寅の月、寅の刻は見当たらなかった。寅の刻は現在の午前４時前後。(..</description>
<dc:subject>徳川家康関連</dc:subject>
<dc:creator>アリノリ</dc:creator>
<dc:date>2022-12-25T20:58:27+09:00</dc:date>
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徳川家康の誕生日は、通説では旧暦の天文11年12月26日である。<br />この日付は、西暦では1543年1月31日となる。<br />ネットで検索したところ、この誕生日を寅年寅の月寅の日寅の刻生まれと紹介する例がいくつもあった。<br />朝野旧聞裒藁(国立公文書館：<a href="https://www.digital.archives.go.jp/file/2549777.html)" target="_blank">https://www.digital.archives.go.jp/file/2549777.html)</a>などを確認したところ、生年と日付を壬寅(みずのととら)と記す史料はあったが、寅の月、寅の刻は見当たらなかった。<br />寅の刻は現在の午前４時前後。(前後の幅はかなり大きい)<br />寅の月とされるのは一月。<br />月と刻限の根拠は何かも気になるとことではあるが、今回の記事の本題は「寅」ではない。<br /><br />この記事の本題は、＜家康の誕生日を「天文11年12月26日」としたのは、後世の神君史観or徳川史観であり、実際の誕生日は違う＞とする説への反証である。<br /><br />家康の誕生日は「天文11年12月26日ではない」とする説の根拠は、家康が記したとされる「都状」である。<br />写しではあるが、ネット上でも同じ史料が見られる。<br />（宮内庁書陵部図書寮文庫：<a href="https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Detail/1000307090000" target="_blank">https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Detail/1000307090000</a>）<br />都状とは、陰陽道で行われる祭りの際に読み上げられる祭文である。<br />家康の都状は、慶長８年２月12日に家康が将軍に就任する際に書かれたものとされる。<br />（参照ー大日本史料：<a href="https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/1201/0001?m=all&s=0001" target="_blank">https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/1201/0001?m=all&s=0001</a>）<br /><br />そこに家康の年齢が「６１歳」とあるのが、上の後世の創作説根拠である。<br /><br />慶長８年に61歳であると、生年は天文12年となる。<br />当時は、生まれたときに１歳となり、その後は毎年正月に年をとる数え方になる。<br />分かりづらいので、下に天文11年に生まれた場合の数え方を用意した。<br /><br />天文11年12月26日(1543年1月31日) 誕生１歳<br />天文12年正月(1543年2月) ２歳<br />天文13年正月(1544) ３歳<br />＜中略＞<br />慶長６年正月(1601) 60歳<br />慶長７年正月(1602) 61歳<br />慶長８年正月(1603) 62歳<br />＜中略＞<br />慶長19年正月(1614) 73歳<br />慶長20年正月(1615) 74歳<br />元和元年７月(1615) 74歳（７月に改元）<br />元和２年正月(1616) 75歳<br />元和２年４月17日(1616年６月) 死去<br /><br />見ての通り、天文11年に生まれると、慶長８年２月には62歳になるので、都状の年齢が正しい場合は天文12年の生まれとなる。<br />この都状は家康が書いたものだから、慶長８年に61歳が正しい。<br />よって、「天文11年12月26日」生まれは、家康の誕生日を寅年寅の日にするための後世の創作だ、という主張がある。<br />しかし、家康の年齢を示す史料はもう一つある。<br />家康の晩年の側近金地院崇伝が記した『本光国師日記』である。<br />（参照ー大日本史料：<a href="https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/1224/0325?m=all&s=0325&n=20" target="_blank">https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/1224/0325?m=all&s=0325&n=20</a>）<br /><br />崇伝は家康の没年齢を「７５歳」と記す。<br /><br />家康が駿府(静岡)で病没したのは、元和２年４月17日である。<br />この日付については、その場(駿府)にいた崇伝や山科言緒らが日記に記しているほか、複数の寺社や貴族の日記で確認できる。<br />没したときの年と日付は動かない。<br />そのため、崇伝の記述に従えば、75歳から逆算した天文11年が家康の生年となる。<br />家康の生年は、家康の都状では天文12年、崇伝の日記では天文11年となり、同時代史料で矛盾が生じている。<br />どちらかが誤っているのは確かだとしても、どちらが正しいのかの判断は難しい。<br />現代なら家康本人の記述を信用するのだろうが、当時の事情から崇伝の記録も正しい可能性があるのだ。<br /><br />現代人にとって誕生日が特別なように、昔の人々にとっても誕生日は重要であった。<br />（参照ー論文「近世における誕生日」<a href="https://cir.nii.ac.jp/crid/1390009224089587968?lang=ja" target="_blank">https://cir.nii.ac.jp/crid/1390009224089587968?lang=ja</a>）<br />天皇や貴族は誕生日に祈祷や祝いを行っており、江戸幕府将軍も誕生日の行事があった。<br />この論文にあるように、『鹿苑日録』慶長８年12月26日に家康の「将軍正誕生御祈祷」が行われている。<br />（参照ー『鹿苑日録』82コマ：<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/1921072/1/82" target="_blank">https://dl.ndl.go.jp/pid/1921072/1/82</a>）<br />『鹿苑日録』をさかのぼって読んでいくと、室町幕府将軍も誕生日の祈祷をさせているのが分かる。<br />鹿苑寺での誕生日祈祷は、室町位幕府将軍から続く将軍の伝統であった。<br />秀忠が将軍に就任すると、家康の祈祷はなくなり、秀忠の誕生祈祷が始まる。<br />『本光国師日記』慶長17年4月7日の書状案から、鹿苑寺だけでなく、崇伝も秀忠の「誕生日之祈祷」を行っていたのが分かる。<br />（参照ー本光国師日記：<a href="https://www.digital.archives.go.jp/file/3143638.html" target="_blank">https://www.digital.archives.go.jp/file/3143638.html</a>）<br />崇伝の日記を読んでいくと、占いや吉凶判断の依頼が目につく。<br />相手や内容によるが、その際に崇伝が相手の生まれ年・干支・誕生日を確認する例がある。<br />寺社での祈祷には生まれ年や誕生日が必要で、『義演准后日記』には家康の娘督姫と子供たちの生年月日が記録されている。<br />『本光国師日記』は慶長15年からの記述であり、崇伝が家康の誕生日祈祷をした記述はない。<br />しかし、家康の没年齢を「75歳」と記すからには、崇伝が家康の生年を「天文11年」と認識していたのは間違いないだろう。<br />先に書いた通り、崇伝は祈祷や占いのために対象者の生年月日を知らなければならない立場にあった。<br />寛永８年１月４日には、徳川和子(秀忠娘。後水尾天皇皇后)の「徳日(＝衰日)」の問い合わせに答えるため、養珠院(家康側室お万)に和子の年齢と干支を尋ねて、正確な年齢と干支を記録している。<br />そんな崇伝が家康の生年を誤るだろうか。<br />誤る可能性は低いと思われる。<br /><br />では、生年を間違えたのは、当人(家康)か、側近の僧侶崇伝か。<br />双方とも信用がおけてしまうため、自分にはどちらとも言いかねる。<br /><br />また、将軍の「誕生日の祈祷」は、当人の「誕生日」に行わなければ意味がない。<br />室町幕府将軍から続く「誕生日の祈祷」に偽りの誕生日を使用する理由はないので、日付の「12月26日」はほぼ確定で良いだろう。<br />生年については、上記の２つの史料から「天文11年と天文12年」が候補となる。<br />崇伝の日記は、江戸幕府が編纂した『朝野旧聞裒藁』と『徳川実紀』に使用されているので、家康が「天文11年12月26日」に生まれた、という通説は、崇伝が記した没年齢から逆算して出てきたのかもしれない。<br />他の(失われた)記録からの可能性も当然ある。<br /><br />つまるところ、家康の生年月日は、<br />崇伝を信用するなら、天文11年12月26日で、家康を信用するなら、天文12年12月26日、となる。<br /><br />当時の人の生年月日の１年違いは誤差の範囲内である。<br />これは「神君史観」や「徳川史観」なのだろうか？<br /><br />徳川家康の関連史料は膨大なので、全てを把握することは誰にもできない。<br />よって、１つだけの史料で「断定」できる事柄は数少ないと言える。<br />今後、どちらかに確定できる史料が出てくれば良いのだが、「よりによってこの二人で、一次史料に書き残したことが違う」という案件なので、なかなか難しいのではないだろうか。<br /><br />追加史料：徳川義直編纂の「御年譜」<br /><a href="http://e-library2.gprime.jp/lib_city_nagoya/da/detail?qf=&q=%E5%BE%A1%E5%B9%B4%E8%AD%9C&start=1&sort=%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%AB_STRING+asc%2C+METADATA_ID+asc&dispStyle=&fifq=&tilcod=0000000005-00001088&mode=result&category=" target="_blank">http://e-library2.gprime.jp/lib_city_nagoya/da/detail?qf=&q=%E5%BE%A1%E5%B9%B4%E8%AD%9C&start=1&sort=%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%AB_STRING+asc%2C+METADATA_ID+asc&dispStyle=&fifq=&tilcod=0000000005-00001088&mode=result&category=</a><br />家康の息子義直の編纂史料である。<br />「御年譜」は家康の生涯を簡潔に記したもので、これにも家康の没年齢があり、「75歳」となっていた。<br />義直は家康が病没する際に駿府城にいた。<br />崇伝と同じ場にいた息子も家康の生年を「天文11年」と認識していたため、追加史料としてリンクを貼っておく。<br /><a name="more"></a>

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<title>結城秀康に関する史料　その６</title>
<description>秀康の「おもり」の記述が『家忠日記』にあったので、記載する。○日記『家忠日記』：天正十四年五月十三日丁未雨降、吉田ニ御逗留也、右分振舞也、おきいさまの御もり小右衛門尉、伊藤殿案内者ニこし候、ミあけ小ちゃハん五つ、此方ゟ持鑓二本出候、↓●訳雨が降った。吉田に（朝日姫が）逗留された。右の分を振る舞った。おきい(秀康)さまのお守りの小右衛門尉が伊藤殿の案内人として来た。土産に小さな茶碗を５つ（持って来たため）、こちらから鑓二本を渡した。＊解説と検討天正14年(1586年)５月、秀吉..</description>
<dc:subject>結城秀康</dc:subject>
<dc:creator>アリノリ</dc:creator>
<dc:date>2019-05-10T20:04:33+09:00</dc:date>
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秀康の「おもり」の記述が『家忠日記』にあったので、記載する。<br /><br />○日記『家忠日記』：天正十四年五月十三日丁未<br /><br />雨降、吉田ニ御逗留也、右分振舞也、<br />おきいさまの御もり小右衛門尉、伊藤殿案内者ニこし候、<br />ミあけ小ちゃハん五つ、此方ゟ持鑓二本出候、<br />↓<br />●訳<br />雨が降った。<br />吉田に（朝日姫が）逗留された。<br />右の分を振る舞った。<br />おきい(秀康)さまのお守りの小右衛門尉が伊藤殿の案内人として来た。<br />土産に小さな茶碗を５つ（持って来たため）、こちらから鑓二本を渡した。<br /><br />＊解説と検討<br />天正14年(1586年)５月、秀吉の妹朝日姫が家康に嫁ぐために浜松へとやって来た。<br />その途上、三河国吉田（現：愛知県豊橋市）で雨が降ったために、前日に吉田に到着した朝日姫は、もう一日吉田に逗留した。<br />朝日姫には秀吉家臣が従っており、11日の『家忠日記』で名が確認できる。<br />浅野長政(長吉)、富田一白、伊藤太郎左衛門尉、滝川益重の４名である。<br />「おきいさまの御もり」である「小右衛門尉」は、「伊藤殿」の案内人として来ていた。<br />「伊藤殿」は「伊藤太郎左衛門尉」のことであろう。<br />秀吉家臣４名のうち３名は実名他の情報が分かるのだが、この伊藤太郎左衛門だけ実名すら不明である。<br />秀康は天正12年12月に11歳(実年齢)で上京して大坂に入り、天正13年10月には「侍従」となり参内している。<br />この時点で「元服」して「秀康」を名乗っている筈であるが、『家忠日記』では「おきいさま」表記である。<br />記述者の家忠は秀康の「侍従任官」を知らなかったのか、それとも、「御もり」の小右衛門の前に「侍従」表記はおかしいからだろうか。<br />小右衛門は伊藤殿の道案内として朝日姫の一行に加わっている。<br />吉田で松平家忠に会った小右衛門は、家忠に「土産」として「茶碗５つ」を渡した。<br />返礼として家忠は「持鑓」二本を小右衛門に与えている。<br />誰彼構わず土産を渡したりはしないだろうから、小右衛門は家忠とはそれなりの付き合いがある知り合いか、親族なのだろう。<br /><br />先に上げたように、『家忠日記』には文禄３年(1594年)６月16日に「同普請、結城三州様ニふる舞にてこし候」とあり、秀康が普請のために上洛した家忠に「振舞＝接待」をしている。<br />秀康が家忠以外の者にも「振舞」をしたのかどうかは不明。<br />家忠は妻が家康の母於大の方の姪である。<br />秀康の母お万の方の母は、於大の方の妹？ともされる。<br />徳川の親族であるから秀康が特に接待したのか、それとも、普請に関わる人達をまとめてねぎらったのか、上の記述だけでは何とも言えない。<br />ただ、小右衛門が家忠に土産を渡していることから、秀康の側近くにいる者達と家忠の間には何らかの繋がりがあったのは確かだろう。<br />小右衛門は道案内だけでなく、徳川に秀康の情報などを伝える役目もあったと思われる。<br /><br /><a name="more"></a>

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<item rdf:about="http://ari-eru.sblo.jp/article/185446070.html">
<link>http://ari-eru.sblo.jp/article/185446070.html</link>
<title>結城秀康に関する史料　その５</title>
<description>某ゲームの関係で『舜旧記』を読んでいたら、秀康の情報が見つかったので、一次史料を追加します。○日記『舜旧記』：慶長七年五月廿七日「今日三河守殿(秀康)依社参、　二位卿俄豊國へ越也、予脚気ニ足痛故不参、　次三河守殿奉納、銀子五枚、　二位殿ヲソクテ三河守殿早ク社参也、　次當院下部屋ヨリ火事出来之処ニ、早ク見付打ケス也、　誠神慮之加護、當院本尊神龍院(吉田兼倶)殿・　唯神院(吉田兼右)殿加護也、有難云々、」・『舜旧記』は豊国社の社僧梵舜の日記である。　日記から「三河守＝秀康」が慶長..</description>
<dc:subject>結城秀康</dc:subject>
<dc:creator>アリノリ</dc:creator>
<dc:date>2019-01-27T12:54:39+09:00</dc:date>
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某ゲームの関係で『舜旧記』を読んでいたら、秀康の情報が見つかったので、一次史料を追加します。<br /><br />○日記『舜旧記』：慶長七年五月廿七日<br /><br />「今日三河守殿(秀康)依社参、<br />　二位卿俄豊國へ越也、予脚気ニ足痛故不参、<br />　次三河守殿奉納、銀子五枚、<br />　二位殿ヲソクテ三河守殿早ク社参也、<br />　次當院下部屋ヨリ火事出来之処ニ、早ク見付打ケス也、<br />　誠神慮之加護、當院本尊神龍院(吉田兼倶)殿・<br />　唯神院(吉田兼右)殿加護也、有難云々、」<br /><br />・『舜旧記』は豊国社の社僧梵舜の日記である。<br />　日記から「三河守＝秀康」が慶長７年(1602)５月27日に豊国神社に参拝したのが分かる。<br />　その際、梵俊は足が痛くて豊国神社には行けなかった。<br />　二位卿は吉田兼見のことで、梵舜の兄である。<br />　秀康が豊国神社に詣でたため、吉田兼見は「俄に＝急いで」来た。<br />　秀康は「銀子５枚」を奉納して早く帰ったようだ。<br />　「二位殿ヲソクテ三河守殿早ク社参也、」とあるので、吉田兼見は秀康の参拝には間に合わなかったのだろう。<br />　その次に「當院＝神龍院」が火事になったが早く消すできたと記されている。<br />　梵舜が神龍院と唯神院の加護に感謝しているのは、彼がその院の僧侶だから。<br />　秀吉を祀る豊国社の社僧であっても、梵舜の尊崇の対象は自分の祖父と父の方らしい。<br /><br />では、秀康が慶長７年に豊国社を詣でた理由である。<br />それは前の５月23日の記事を読むと分かる。<br /><br />「内府公(家康)御母儀(於大の方)豊國へ社参、奉納九十貫、<br />　二位殿杉原二束・摺三巻、慶鶴丸同事、祝并予卅三貫、<br />　祢宜神官卅貫、巫女八人ニ生絹帷一人一充、<br />　社家ヨリ菓子折、熨斗、堅栗、四方ニスハル、是ヲ上也、<br />　次謡講於清水茶屋興行、予重衡稽古也、」<br /><br />・秀康が豊国社を詣でる四日前に、家康の母於大の方が豊国社を参拝している。<br />　於大の方はこの年に初めて上洛し、高台院(北政所)や天皇にも会った。<br />　豊国社に詣でるのは豊臣(羽柴)への気遣いを示すためだろう。<br />　九十貫(約900万〜1000万円？)を納め、吉田兼見をはじめとした神社関係者に贈り物をしている。<br />　対して、神社の方では菓子折他の品物を贈り、茶屋での謡(能)で於大の方をもてなしている。<br />　「予重衡稽古也」とあるから、能「重衡」を梵舜は演じたのだろう。<br />　秀康の豊国社参拝は祖母(於大の方)の参拝の延長であり、徳川家の一員として豊臣(羽柴)への気遣いを見せたのだ。<br />　ここでも秀康は徳川の子として動いている。<br />　秀康の動向は「徳川の者」で終始一貫しているのだ。<br />　<br />また、この日記により、慶長７年に秀康が５月には上洛していたのも判明した。<br />７月には京に入っていたのが『言経卿記』から分かっていたが、２ヶ月前からの在京であったのだ。<br /><a name="more"></a>

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<title>井伊家伝記（抜粋）＋中井家日記（部分）</title>
<description>『おんな城主直虎』だけではなく、井伊直虎を女性として描写するフィクションの元ネタとして使われるのが、この『井伊家伝記』である。江戸時代中期の成立で、龍潭寺住職祖山が書いたとされる。直虎を女性として記す唯一の史料である。後世に編纂されたもので、内容には誤りもあり、信憑性は高くないとされる。元ネタを知っておくとドラマや小説がより楽しめる場合もある。『井伊家伝記』はここで読めるが、くずし字なので難易度が高い。→https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/Hom..</description>
<dc:subject>徳川家康関連</dc:subject>
<dc:creator>アリノリ</dc:creator>
<dc:date>2017-05-27T21:30:08+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
『おんな城主直虎』だけではなく、井伊直虎を女性として描写するフィクションの元ネタとして使われるのが、この『井伊家伝記』である。江戸時代中期の成立で、龍潭寺住職祖山が書いたとされる。<br />直虎を女性として記す唯一の史料である。後世に編纂されたもので、内容には誤りもあり、信憑性は高くないとされる。<br />元ネタを知っておくとドラマや小説がより楽しめる場合もある。『井伊家伝記』はここで読めるが、くずし字なので難易度が高い。→<a href="https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/Home/2213005100/topg/naotora.html" target="_blank">https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/Home/2213005100/topg/naotora.html</a><br />翻刻されたものは『引佐町史料』にある。地元でないと読むのも難しいので、大河ドラマの内容と関係する部分をメインに抜き書きをしてみた。<br /><br />ーーー<br /><br />長文を書き出している関係で、誤字脱字などもあると思います。お気づきの方は、ご指摘下さい。訳は載せていません。よく出て来る「扨」は「さて」と読みます。この伝記は時系列順になっていません。○が付いている「タイトル」に関係する事柄について記す形になっていて、内容の重複や時系列の前後があります。<br /><br />ーーー<br /><br />○橘の御紋并井字旗幕の御紋の事。<br /><br />　井伊備中間織る共保公御誕生の節、御手洗井の傍に橘の木有之、右の橘を産衣に御付初て御着用被成候より御家定紋橘なり、是又井中出誕の御家瑞なり。扨又、幕の御紋井中より出誕の因縁にて井字御付被成候事なり。井伊侍従直政公、天正拾二年権現様尾州長久手え遠州浜松より御出陣の節、直政公え駿遠両国並甲州の武士を御吟味の上御付、先手初て被成　仰付候節、御家門の古老は諸方にて戦死、龍潭寺南渓和尚より古老無之故、御先祖累代の御旗御尋被遊候所に、井字御紋吹流は正八幡大菩薩の文字被遊候様に申上、左の通に被仰付御出陣の旨申伝候なり。<br /><br />○井伊保居城の事並井伊御家名始の事。<br /><br />　井伊元祖備中守共保公出生の郷故、井伊保城山を見立城をきつき居城、共保公出生の在名居城の縁に依て井伊と言うを以、初て御家名となるなり。（或は言う往古　井と言う一字名字か諸軍記井早田、井の八郎、井弾正左衛門と云如く、井一字と云共、元来井伊と二字名字なり。）<br />依之共保公を井伊氏の元祖申奉るなり。共保公十六代井伊肥後守直親公討死、以後は井伊信濃守直盛公の息女の次郎法師直政公御幼少故、後見被成候て地頭職被成、永禄十一年迄は城有之候、居城の山今以城山と名、追手の石垣、書院、仮山の旧跡干今有之。<br /><br />○井伊彦次郎直満、同平次郎直義傷害の事。<br /><br />　天文十年の頃より、甲州武田信玄差図を以、甲州家人漸々東北遠江境井伊家の領地段々押領申候、依之彦次郎直満、平次郎直義両人則信濃守直平公の下辞にて、信玄の家頼と相挑候内支度被成致候を、直盛公の家老小野和泉守亀之丞（井伊彦次郎直満の実施、井伊肥後守直親公、童名井伊侍従直政公実父なり）養子の儀に付遺恨故、密に駿府え下向候て今川義元え両人私の軍謀相企の旨讒言す。因之早々召状到来、則、直満、直義、両人共に駿府え下向、終には天文十三年十二月廿三日に傷害、傷害の後彦次郎や子規并山林不残龍潭寺末寺円通寺に寄附、則、東西南北の境相立寄進状に載り申候。就夫井伊平次郎直義、同形部直元右両人は直平公の四男五男に候えとも岡本古半助所編御系図には右両人落申候、然共右両人寄進状に法名相載り祠堂田も有之、南渓和尚過去帳に俗名法名共に有之相違無之候。平次郎直義法名即休成心、彦次郎直満と同時天文十年十二月廿三日於駿府傷害、形部直元法名賢翁道哲、天文十年五月十四日於井伊谷病死。<br /><br />○井伊彦次郎実子亀之丞信州落の事并今村藤七郎忠節の事。<br /><br />　井伊彦次郎直満、同平次郎直義傷害の後、小野和泉守駿州より帰国。直満実子亀之丞を失可申旨今川義元より下辞の旨申候故、今村藤七郎（彦次郎家老）かますに入候て隠し負て井伊谷山中黒田の郷に忍居申候所に、小野和泉守相尋申候故、近所にかくし申事難成南渓和尚（彦次郎肉兄）密に相談にて、今村藤七郎に亀之丞を負せて信州伊奈郡市田郷松源寺え落行申候。右松源寺と申す寺を南渓和尚師匠黙宗和尚伝法の寺故、南渓和尚より書状遣して、右の寺を便として亀之丞並当七郎信州に十二年隠れ居被申候。其間藤七郎付添居申候、拾弐年の中年々南渓和尚より使僧遣、金子等為持被遣、扨又今村藤七郎は元来当国城東郡の武士なり、勝間田を名乗系図勝間田なり舞鶴の紋勝間多の元祖遠州三か野にて鶴舞し申候より以来舞鶴の紋なり。当国にて横地勝間田八幡太郎義家の子孫にて源氏なり、城東郡に横地勝間多の在名有之（横地勝間多、西郷、戸塚、石谷、海老郷六家は元来一家にて遠州城東郡出生の武士なり今以不残在名有之）信州落の節、勝間多を相改て今村と名乗せ申候。扨又、信州落の節元日と中にて御吸物を祝申候を吉例と成り、今以来末代迄も正月元朝の御給仕は今村家相勤申旨伝候。又直政公御落の節も正月元朝故、藤七郎御給仕致候とも申伝候。右藤七郎は天正拾年迄は在命故、直政公御落行の節成程藤七郎御伴可致事に候。相考申候に藤七郎信州十二年の中只壱人付添御奉公申候故、年々正月の給仕とても他に致申候者無之、藤七郎相務申候えは、弘治元年信州より御帰国祝田村に住居被成候ても外に正月の御給仕致候者も無之、藤七郎相勤申候えは、其吉例自然と直政公御代に相伝、夫より御吉例に成、遠忌の節、藤七郎児孫の今村家相努申事と相見申候。右の由緒故、正徳二年の八月井伊肥後守直親公百五十年遠忌の節、藤七郎児孫今村忠右衛門、御代参に長寿院様被仰付なり。<br /><br />○井伊信濃守直盛公息女次郎法師遁世の事、並に次郎法師と申す名の事。<br /><br />　井伊信濃守直盛公息女壱人有之、両親御心入には時節を以、亀之丞を養子に被成、次郎法師と夫婦に可被成御約束にし所に亀之丞信州え落行候故、御菩提の心深く思召、南渓和尚の弟子に御成被成剃髪被成候、両親御なげきにて一度は亀之丞と夫婦に可被成に様を替候とて、尼の名をば付申間敷、南渓和尚え被仰渡候故、次郎法師は最早出家に成申候上は、是非に尼の名付申度と親子の間難黙止備中法師と申名は、井伊家惣領の名、次郎法師は女にこそあれ井伊家惣領に生候間、僧俗の名を兼て次郎法師とは無是非、南渓和尚御付被成候名なり。右次郎法師は井伊肥後守直親傷害の後、直政公未幼年故、井伊家領地地頭職御勤被成候。（井伊保近所瀬戸村保久に被下候。権現様判物に地頭次郎法師並主水之助一筆明鏡の上と申御文言有之。）永禄八年直政公五歳の節、寄進状御認南渓和尚え御渡被成候。その節、地頭御勤故寄進状に次郎法師名判有之、次郎法師は直政公実の叔母にて養母故、直政公御幼年の中より御世話被成候。殊更天正三年権現様え御出勤の節、御衣裳等迄御仕立被遣候。龍潭寺中松岳院と申庵に御老母祐春尼公一所被成御座候、天正十年の八月廿六日に御遠行、法名　妙雲院殿月船祐円大姉<br /><br />○井伊信濃守直盛公討死の事付、家来同枕討死人数の事。<br /><br />　永禄三年の五月今川義元、織田信長戦の為に出陣、此説引馬の城主井伊兵部少輔直平公は老人故に直盛公え井伊并引馬の人数を相催し出陣可致旨、義元より申来候故、直盛公直平公の家老飯尾豊前守を初、其外家頼不残召連出陣、尾州桶狭間にて五月十九日に今川義元と同時同枕に討死なり。小野玄蕃（右玄蕃妻奥山因幡守娘なり。直政公為に叔母なり。玄蕃嫡子小野亥之助直政公権現様え御出勤の節、御伴致罷出申候、万福と申名を被下置候、兵部少輔様家老小野七郎左衛門先祖なり。）田中善三郎、奥山彦市郎、奥山六郎次郎（奥山因幡守嫡子直政公為に叔父なり。奥山六左衛門先祖なり。）小野源五、上野惣右衛門、同源右衛門、同彦市郎、多久郷右衛門、気賀庄右衛門、御厨又兵衛、市村信慶、牧野市右衛門、上野孫四郎、奥山彦五郎、袴田甚八以上拾六人討死、右の通、南渓和尚自筆にて過去帳に付置、法名も逐一有之候。直盛公法名は龍潭寺殿当山開基前信州大守天運道鑑大居士。<br /><br />○井伊信濃守直盛公奥山孫市郎に遺言の事、并に中野越後守井伊保を預事。<br /><br />　今川義元駿遠三の大軍勢を催、出張、五月十九日所々の軍に打勝て少々休息油断の所え信長謀計を以、急に攻掛、軍兵を二手に分、一手は先手に掛、一手は義元の本陣え急攻掛、織田造酒丞、林佐渡守攻入、毛利新助終には義元を討取申候。依之近習六拾餘人不残或戦死、或切腹皆々傷害なり。直盛公右の人数の中なり。軍勢の中立退恙帰国申候者も有之候え共、義元近習の分不残傷害なり。直盛公切腹に臨て、奥山孫市郎に此遺言被仰渡候は、今度不慮の切腹不及是非候、其方介錯仕候て死骸を国え持参仕、南渓和尚焼香被成候様に可申候。扨又、井伊谷は小野但馬の心入無心元候故、中野越後守を留守に頼置候。此以後猶以小野但馬と肥後守主従の間無心元候間、中野越後守に井伊谷を預け候て、時節を以、肥後守引間え移替申候様に、直平公に委細可申旨被仰渡無是非、奥山孫市郎直盛公の御死骸を御介抱仕井伊谷え帰国申候。<br /><br />○中野信濃守井伊谷預る事付、今川氏真と肥後守と不和の事。<br /><br />　永禄三年井伊氏なの守討死の後、引馬城主井伊直平極老の身にて直盛討死の事、殊外御心細思召、直盛公御遺言の通小野但馬が心底見届無之故、直盛公遺言に任せて則、中野越後守を信濃守に被成井伊谷を御預け被成候事は、肥後守後見の為に右の通に被仰渡候。扨又、義元討死の後は、氏真の政道不宜酒宴遊興計心掛有之故、自然と幕下の武士疎遠の折柄肥後守直親、新野左馬助（今川家の親類井伊家縁者末に委細記之）を以、今川氏真に願立申候は引馬城主直平極老の身に候間、何卒井伊保え移、直親引馬え移度旨申候えども、此節氏真の近習三浦右衛門兼て引馬の城今川家幕下の中にて一番の城地故所望申候故、直親願を氏真得心不被致、此意趣に依て、自然と氏真と直親公と不和に成間柄不宜なり。<br /><br />○井伊肥後守直親三州岡崎へ折々参上仕候て、権現様遠州御発向御内通被成候事。<br /><br />　肥後守直親、引馬と井伊谷と入替の願氏真承引不致候を本にて不和に成申候其節、<br />権現様も氏真に不足有之、織田信長え御内通被成、元康（駿州今川義元にて、元字を以御名乗被成候なり。）を改て家康と御名乗、其上三郎信康公（家康公惣領）と信長の息女未弱年に候えども、一味同心御約束の固に御縁組相済申候故、三州所々の武士大方は、権現様え一味致申候事、其蔵れ無之依之直親公　権現様え一味被成候て折々三州え御越被成候事。<br />井伊谷山中え鹿狩に御人数可被遣由、折々三州岡崎え御越被成候。直親公　権現様え御内通被成候は、直政公を御取立の根本なり。後代に成申候ては此事をば委細に相考申事無之、能々吟味可致其証拠　権現様遠州御手に入申候初、小野但馬か井伊谷を押領可致陰謀相企候故、近藤、菅沼、鈴木三人衆被遣候て小野但馬を追払、永禄十二年四月五日小野但馬を井伊谷にをいて御仕置に被仰付、同五月五日但馬男子両人迄打首に被仰付、皆是直親の怨敵故　権現様右の通に被仰付事なり。直親忠節の事を無御失念被思召出候て、直政公を格別に御引立被遊候事なり。但馬を御仕置に被仰付候事は、南渓和尚過去牒に年月委細に有之、扨又、直親公　権現様え御内通被成候事、三河記には誤て信長え内通と書なり。其節、　権現様と信長と一味同心なれは三河記に左の通に書も尤もなり。三河記とても当前には記録不致、後日に聞伝斗を以て記録する故なり。<br /><br />○井伊直親公立願の事、並、直政公誕生の事。<br /><br />　永禄三年元朝直親龍潭寺え参詣南渓和尚え御立願御頼候は直親縁組み以後六年に罷成候えども男子無之候。直親信州に十二年の間流浪仕候事、父直盛公に実子無之故なり。只今井伊家僧俗の事直親壱人の身の上に有之、何卒一国一城を持申候て国器の男子をもふけ、井伊家相続武光を万代に伝度存候。直親申の年今年は庚申にて廿五の厄年なり、観音え立願頼入候旨被仰候。依之、南渓和尚も御祷祈被成直親公夫婦共御祈願不懈御勤被成候。同年五月御懐胎被成候故、猶又御立願不懈候。翌年永禄四年二月丙の日に御誕生被遊候。則、御名は虎松様と直平公御付被成候。（此段立願誕生の委細は、直政公氏神祝田村羽鳥明神の神主萩原新之丞と申八十余の老人、祖山へ二十年巳前に委細に物語、右新之丞は曾祖父に承置申候由、曾祖父は信濃守直盛公家人にて感状等今以所持申候。新之丞縁祖父直孝公御代に江戸え罷下、先祖の書付等掛御目申候。右の旨、直孝公より近藤小十郎へ被遣候手紙を、小十郎方より新之丞に遣候由にて今以所持申候。）<br /><br />○小野但馬讒言委細の事付、井伊肥後守傷害の事。<br /><br />　小野但馬守父小野和泉守、肥後守直親公父彦次郎、直満を傷害為致候宿意にて、主従共父と父との遺恨相残り平日君臣の間不宜、因茲、直盛傷害の後、井伊谷を押領可致陰謀兼て巧み申候えども、中野信濃守井伊谷を預り居被申候故見合申候。折柄、直親折々三州岡崎　権現様え往来内通被成、其上井伊谷山中え鹿狩にかこつけ御人数被遣候。直親領分の中、山中村々共鹿狩の案内被成候故、永禄五年の極月、小野但馬急に駿府え罷り下り今川氏真え讒言申候は、肥後守直親は　家康公信長両人え内通一味同心仕候、近日遠州発向の為に先勢の人数被遣候、追々大勢参候風説夥敷候。遠州は信長、家康公両人の手に入り可申と委細に訴申付候。依之、直親陣附の為に新野左馬助を駿府え被遣候、跡より直親公御越被成候所、掛川御通りの節、朝比奈備中守取囲一戦に及、直親主従共雖画粉骨無勢故、終に傷害被成候。直親公死骸一刻の中故、南渓和尚僧衆被遣引取、於龍潭寺焼香被成候。永禄五年十二月十四日なり。法名大藤寺殿前肥州大守剣峰宗慧大居士、右大藤寺と申候は、龍潭寺末寺にて御朱印四石五斗御朱印一本なり。<br /><br />○虎松様、新野左馬助宅え御入候事。左馬助井伊家え重縁有之故忠節の事。<br /><br />　直親傷害の上、虎松様母子共に新野左馬助宅に御入被遊候。小野但馬讒訴故、氏真、虎松様を可奉失旨、巳命危き所に新野左馬助身命に替、虎松様御命を申宥左馬助宅にて、我か女子と同養育するなり。扨、新野左馬助事は遠州城東郡新野村三千石の地頭、今川義元の親族。左馬之助、妻は奥山因幡守妹、又左馬助、妹井伊信濃守直盛公の妻なり。右の重縁故、城東郡新野郷を隠居、井伊谷え引越居住。居住の屋敷今以新野と申有之、直親公傷害の節は井伊家の御一門方々にて戦死被成。新野左馬助と中野信濃守斗井伊保に住宅、依之、新野左馬助今川家え縁戚有之故、直政公御命を申宥、左馬助夫婦并息女共無二に御介抱申所に、永禄七年に引馬城主飯尾豊前守今川氏真に反逆の節、氏真より二千人の加勢を蒙、井伊谷人枚相催、中野信濃守、新野左馬助両将にて飯尾豊前を相攻、不運にして敗軍、終には遠州引馬の東南天間橋にて両将共傷害す。永禄七年の九月十八日なり。法名大成院殿巧岳宗烈居士、直政公天正十年後、段々御立身大名に御昇進の上にて新野左馬助娘を不残家中え縁組被仰付なり。<br /><br />○井伊兵部少輔直平、遠州白須賀出陣の事。<br /><br />　永禄六年九月上旬今川氏真、織田信長え義元の弔軍被相催候故、直平人数相催、出陣可有之旨申来候。直平公此時七十五の老体其上直宗、直親迄も不残皆々討死被成、最早直平公実子は南渓和尚斗り故、則、被仰談候は、只今極老の身、直平壱人在命の所に今度出陣自然の事も有之候はは、虎松をもり立候て井伊家相続の子細、南渓に被仰置候。此節直平実子御親族とても在家には無之故、御出家南渓え、右の委細被仰置候て、直平公手勢引馬井伊保の人数を相催し、氏真一万八千人の押を被成、氏真は三州吉田迄出陣、直平公は遠州白須賀迄出陣被成候なり。<br /><br />○直平公白須賀出火の事、並びに氏真吉田より引返事。<br /><br />　氏真一万八千の人数三州吉田え相支直平公手勢遠州白須賀え張陣の所に不慮の南風激しき節、直平公軍中出火町中在々迄焼払い申候故、氏真陣中にて悪評申候は井伊直平は、肥後守直親を傷害被仰付候を鬱憤に存候て、今度白須賀より焼立尻打仕候、先は信長勢追付相支申候、後は井伊直平尻打候上は前後に大敵を引受けては無覚束候。此軍は一と先御引、直平方を糺明を被遂御尤に候。軍中にて一同評定申候故、氏真同心にて遠州本坂越より掛川城主朝比奈備中守方迄引退被申候。<br /><br />○井伊直平公最後の事并八城山出陣の事。<br /><br />　氏真掛川の城にて直平尻打の段吟味被成候所に直平公、則、新野左馬助を以、白須賀不慮の出火の旨被申候、因茲、氏真より右の過役に遠州八城山城主天野左衛門尉（氏真に不隨候）直平に可相攻旨被申候故、不遁請負被申候間出陣の支度被成候所に直平公の家老飯尾豊前守妻天野左衛門と縁者、豊前え相すゝめ夫婦同心にて直平公へ逆心、直平公出陣の節、豊前が妻直平公え茶を進申候所に、其毒茶にて直平公先勢は遠州国領蔵中瀬迄参候所に、直平公有玉旗屋の宿にて惣身すくみ落馬毒死被成候。惣人数引馬え引退候所に、飯尾豊前守一味同心の輩を相催大手を固み籠城仕候。此節は井伊家直平公斗故、直平公家頼も毒死の上多くは皆々豊前に一味同心申候なり。<br /><br />○新野左馬助、中野信濃守最後の事。<br /><br />　直平公の家老飯尾豊前守、直平公毒死の後押領引馬城主に罷成申候故、今川氏真にも不随却て反逆の支度陰謀相巧申候。因茲氏真より新野左馬助、中野信濃守両人にて可相攻事候えども、只今威勢強く両人の無勢にて難攻候間、加勢被下候様に願被申候故、氏真より二千人の加勢、手勢井伊谷の人数相催、引馬の城え取掛一戦に及候えども、豊前は引馬の城相固申候故、終には新野左馬助、中野信濃守引馬の城東天間橋にて敗軍両人共に討死、右両人討死の後は井伊家の御一門と申候は、新野左馬助法名大成院功岳宗烈居士、中野信濃守法名正澄院頓宝元機居士両人同時なり。永禄七年九月十五日なり。<br /><br />○次郎法師地頭職の事。<br /><br />　中野信濃守井伊谷を預り仕置被成候。跡に討死の後地頭も無之、依之直盛公後室と南渓和尚相談にて次郎法師を地頭と相定、直政公後見被成御家を相続可被成旨御相談にて次郎法師を地頭と相定申候。（瀬戸保久に被下候家康公御判物に地頭次郎法師と有之候。）其節井伊家御一族御家門方々にて戦死、直政公御壱人殊に御幼年故、井伊家御相続音大切に被思召候なり。因茲直政公五歳の節、次郎法師地頭故、井伊家相続子孫繁栄の懇祈の御文言にて、龍潭寺南渓和尚え寄進状御認被遣候事は永禄八年九月十五日なり。<br /><br />○小野但馬井伊保を押領の陰謀の事並直政公鳳来寺え御忍被成候事。<br /><br />　新野左馬助、中野信濃守討死の後、次郎法師持地頭職御勤、祐椿尼公（直盛公の内室なり）実母御揃、直政公御養育申候えども、皆々女中斗故、但馬所持事取斗我儘斗致、何とぞ井伊谷を押領可仕旨相巧み申候折節、永禄十一年の秋甲州武田信玄、駿府今川氏真を相攻、依之右軍用故、但馬駿府え罷下、帰国の上則申候は、氏真下辞にて直政公を奉失、井伊保人数召連、駿府発向可致旨、押領の支度殊更女中揃にて進退難叶、直政公早々龍潭寺え御忍被成、南渓和尚出家に可被成候由にて衣を御きせ奉り、其場を御のがれ御忍被遊候事は、直政公八歳の節なり。龍潭寺に御忍被成候えども、南渓和尚出家には被成間敷、御心入にて三州鳳来寺え奥山六左衛門相添被遣候て、剃髪は不被成候。<br /><br />○小野但馬井伊保を押領并権現様より井伊保三人衆を被遣候事。<br /><br />　小野但馬井伊保押領仕候訳は、永禄十一年、今川氏真より信玄防戦の為井伊谷の人数召連参向可致旨、其上直政公可奉失旨、小野但馬承之旨、於井伊谷、申触心儘に相斗、押領仕候。祐椿尼公（直盛公後室）次郎法師（直盛公息女直政公養母）なり。井伊谷城内に被成御座候事難成故、龍潭寺中松岳院と申小庵に御引越<br />住庵被成候。右松岳院は祐椿院尼公の菩提所なり。天正六年七月十五日に御遠行、御法名松岳院寿窓祐椿大姉。次郎法師天正十年八月廿六日御遠行、法名妙雲院殿月船祐円大姉。扨又　権現様於三州岡崎、小野但馬井伊保を押領致候て直政公御立退被成候段、御聞及、則、近藤平右衛門、鈴木三郎太夫、菅沼次郎右衛門（是を井伊谷三人衆と云）右三人衆を被遣候て、井伊谷を御乗取被成候。右三人衆宇利より進発、山越に遠州頓幕山奥山の郷え入候て、三人衆人数鬨の声を揚に防き戦者一人も無之故、直に井伊保の城を取巻所に小野但馬防戦難成、井伊谷を立退き、近辺に忍び居申候所、永禄十二年四月七日に　権現様堀川城責の節御仕置に被仰付候。其罪科は権現様え御内通仕候、井伊直親傷害は但馬讒言、其後、段々直政公を可奉失相巧申候故、陰謀重科にて、則井伊保に獄門に御掛被成候。但馬子二人有之、同年五月七日に御吟味被遊候て、弐人共に又々御仕置に被仰付候。<br /><br />○直政公実母松下源太郎方え被嫁候事。<br /><br />　直盛公内室并次郎法師御相談にて直政公御実母御年若故、松下源太郎方え御縁付被成候、是又直政公御養育の為に右の通被成候故、松下源太郎養子に御成り被成候。　権現様え御出勤の節も、源太郎宅より御出被為遊候故、松下を御名乗御出被為遊候。実父直親公の事御聞届の上被驚御聞、向後井伊と相改、直親名跡相続可致旨被仰出候て、井伊万千代と相改、因茲、松下源太郎方に男子無之故、中野越後守妻は奥山因幡守息女にて直政公為伯母なり。直政公実母の為には甥故、越後守次男を源太郎又養子に致、松下の家相続申候。松下志摩守と申候。直政公実母、源太郎宅にて遠行、井伊谷龍潭寺にて取置、南渓和尚焼香被成候。法名永護院蘭庭宗徳大姉。天正十三年八月六日なり。右松下家は松下源太郎と南渓和尚、直政公浜松にて、　権現様え御出勤の節御世話仕候由緒相互に失念不致候様にとの約束にて、縦え遠国にて相果候とても、井伊谷龍潭寺え骨を相送葬申候。夫故上州江州遠州掛川は猶以、松下家は代々相替不申候て井伊谷龍潭寺檀那に候。右の由緒故、龍潭寺釣鐘は松下志摩守寄進にて、則、鐘の銘に大檀那松下志摩守一定と有之候故、今以松下源左衛門井伊谷龍潭寺と師檀断絶不致候事なり。<br /><br />○松下常慶　権現様え早追に参候事。<br /><br />　松下定慶と申候は、松下家の武士にて候えども、其節は国の物見の為に遠州秋葉山の札杯くばり浜松に住宅仕候。三州へも数度参候て案内存候故、江間、加賀、定慶を密に招き相談申候は、兄常陸此城を信玄え可渡との内通は無思案なり。其子細は信玄只今駿府を攻取可申支度最中なり、然上は駿府を差置候て当城え人数を遣申道理なし、家康公は近年氏真えも不随候て尾州信長と一味同心被成候故、氏真の領分三河をば大方手に入、遠州発向の心掛承及家康公さへ当城に御入候えば、三州は勿論尾州信長迄も後詰に持申候故、駿府氏真と挑合に勢強し、若氏真より今にも城請取に人数を遣申候ては後悔無益なり、兎角に案内手引きは加賀可致候、片時も早く家康公より人数被遣、当城を御乗取可被成旨、常慶に申含候所に常慶得心仕候て三州岡崎え早追に参候。右常慶は夫より　権現様格別御内意を被仰聞、態と山伏の様に方々え物見に被遣候。依之浜松有之秋葉　権現様常慶に被仰付勧請なり。扨、常慶は右の御奉公故引佐郡の御代官を被仰付、手代松下勘衛門、角岡仁左衛門、山内新左衛門三人に一郡を割、支配を申付、其身は物見杯相勤方々え参候。当国は勿論駿府え権現様御引越の節罷越住宅申候故、則、常慶屋敷と申今以相残有之なり。<br /><br />○権現様三州岡崎より遠州浜松え御出馬の事。<br /><br />　永禄十一年松下常慶を早追にて三州岡崎え参、江間、加賀内通の委細逐一言上申候所に家康公不斜御悦にて御支度被仰付、御人数二千人、先勢本坂越被遣候所に遠州引佐郡、気賀の郷人尾藤主膳、山村修理両人大将にて一揆相企、権現様御入国を相拒、先勢え鉄砲を打掛申候故、是より本坂引廻し、家康公え注進す。依之三州豊川とり井之瀬を渡、加茂下宇利通、冨賀寺本陣奥山通、井伊谷え御出被為遊候。今泉四郎兵衛、菅沼新八郎（只今菅沼織部先祖なり）牧野馬之丞（只今牧の駿河守先祖なり）戸田丹波（二連木松平丹波守殿先祖なり）牧野半右衛門、稲垣平右衛門、山下帯刀等御人数二千人、松下常慶を案内として山路を踏分、昼夜もみ立遠州井伊谷迄御出発被成候事。<br /><br />○直政公鳳来寺御出の事并龍潭寺にて御出勤御相談の事。<br /><br />　天正二年の極月十四日、井伊肥後守直親十三年忌にて直政公鳳来寺より龍潭寺え御越被成候。則、祐椿尼公（直盛公後室）次郎法師并実母、南渓和尚御相談有之候は、井伊家は元祖以来武家の棟梁たるに只今虎松壱人の事、何卒　家康公は三州、遠州、駿州御手に入候上は　権現様え出勤可然と御相談相究、夫より鳳来寺えは御帰無之、松下源太郎方に深く忍ひ被成候。鳳来寺より色々難題申候て相尋申候えども、南渓和尚挨拶被成候て、事相済申候て鳳来寺え御帰無之候。右、直政公十四歳にて天正二年に龍潭寺え御越の節、松岩と申候出家態々御目に掛り、器量利発諸人に御勝れ候旨物語申候事、右岩松八十六迄在命、先住徹叟二十頃迄在命にて直政公の物語仕候旨、先住咄被申候。<br /><br />○直政公　権現様え御出勤の事。<br /><br />　直政公　権現様え御出勤の為に浜松松下源太郎の宅え御越被成候。御小袖二つ祐椿次郎法師より御仕立被遣候なり。天正三年二月初鷹野にて御目見被為遊候、早速可被召抱の御上意にて御伴御城え御入被遊候、則、於御前御尋の上父祖の由来具に令言上の所に被驚　台聴被仰出候は、実父直親は家康か遠州発向の陰謀露見故氏真傷害為致、家康の為に命を失ひ、直親の実子取立不叶の旨、則、松下を相改、直親の家名井伊氏可成旨、又、権現様御童名竹千代様の千代を被下、千代万代と御祝、虎松を改て万千代と御名被下、直政公御供仕候小野亥之助に万福と申名被下、万千代万福と御祝被為遊被下千秋万歳目出度御祝ひ御上下御拝領即座に三百石被下候事は、天正三年直政公拾五歳の節なり。<br /><br />○小野玄蕃子亥之助事。<br /><br />　小野玄蕃は、井伊氏なの守直盛公と一所に、尾州桶狭間にて討死仕候。玄蕃子亥之助、直政公と従弟故、（玄蕃妻は奥山因幡守娘にて直政公伯母なり依之亥之助従弟なり。）直政公御伴仕、浜松え罷出申候所に、　権現様より万福と申名被下候故、直政公と一所に御城内に罷在候故、水戸頼房郷御幼年の節、御つれに罷成申候。立身の後、右の由緒故次男壱人水戸え被召出候て、於水戸小野角右衛門と申候、今以児孫水戸に有之候。右万福は小野源蔵後七郎左衛門、直政公より中野越後守娘縁組被仰付候、只今井伊兵部少輔様家老小野七郎左衛門先祖なり。<br /><br />○直政公初陣高名御加増の事。<br /><br />　天正四年の春、甲州勝頼、遠州高天神近所柴原にをいて御合戦の時　権現様陣小屋の中に御休息被遊候所に夜中忍びの敵近藤武助と申者を直政公御次の間にて御討取被成候故、権現様殊の外御悦にて御感不斜、則、十倍の御加増にて三千石に被仰付なり。<br /><br />○直政公御立身の事。<br /><br />　直政公御奉公日夜御勤労忠節異代故、拾八の御年に壱万石御加増被成候。又、廿歳の節弐万石に被仰付候。因茲中野越後守、奥山六左衛門を初、其外井伊谷譜代の家頼山中に引込居申候皆々罷出御奉公申候、就中、奥山六左衛門弟祖閑と申候て出家仕候所に、直政公還俗被仰付、知行千石被下候。天正十年の秋、　権現様甲州御入国、直政公御伴にて一倍の御加増四万石の大名に御取立、一方の大将に被仰付候て　権現様近仕の侍、木俣清左衛門守勝、椋原次右衛門、西郷藤左衛門三人を家老にられ仰付候。其上信玄幕下に飯冨兵部と申侍大将は数度の軍功一時に其隠れ無之故、井伊兵部（此節、直政公御元服被成、兵部少輔様と申候えども万千代と申候御名、権現様被下置候故御元服の後も多くは万千代と申候なり。）と飯冨兵部と実名仮名共に響近く似より申候故、則直政公武具其外不残赤備に被仰付候故、尾州長久手御出陣の節、軍中にて井伊赤鬼と申候て殊外恐れ申候由なり。<br /><br />○直政公尾州長久手先手被　仰付候事。<br /><br />　天正十二年三月、太閤秀吉公と織田信雄争戦の事に付　権現様信長の旧好故、御出馬の思召の所に、信雄より援兵の旨申来候故、於浜松軍勢御催の節、直政公於甲州大名一方の大将に御取立、一条、山県、土屋、原四人の武士、其外甲州勢御付被成候。甲州衆え神誓にて直政公え信玄の軍配不揃相伝可致旨被仰付なり。因茲甲州衆正陣記（或天正記とも云、井伊家に相伝有之軍書なり。右の軍書には出陣の帰立委細に記之者なり。）と申軍記を記録して今言上候故、　権現様御安堵にて、則、長くての先手の大将を直政公え初て被仰付候。猶又、御大切に思召候故、井伊谷三人衆近藤石見守、鈴木兵衛、菅沼次郎右衛門を与力に被仰付、又外に甲州衆七拾人、遠州浜松秋葉山にて血判被仰付、御付被為遊候。右血判の書付今に浜松秋葉叶坊方に有之、血判の所はくさり申候由。右の人数の覚、井伊兵部少輔、同心前土屋衆、梶原肥後守、向山又兵衛、飯島宮内助、関主水助、早川半兵衛、渡邊靱負、三沢美濃守、脇又十郎、細野豊後守、土屋次郎右衛門、代継式部助、早川弥三右衛門、中村与兵衛、横屋市右衛門、向山佐渡守、後藤弥三右衛門、落合将監、矢田儀左衛門、丸山半右衛門、小池水右門、渡辺右馬之助、小倉源兵衛、田中源左衛門、同名弥九郎、後藤文左衛門、荒川吉之丞、高塚七郎太夫、青柳源三、河村作右衛門、井戸権兵衛、四宮彦右衛門、浅井無右衛門、水口平太、大塚新之丞、原田又右衛門、関新兵衛、田村助三、横田甚八、根津小兵衛、伴加右衛門、鶴田内匠助、川口殿右衛門、細野藤右衛門、武藤長助、中村平右衛門、渡辺太夫、土屋与兵衛、篠弥三左衛門、飯嶋半右衛門、岩下円書助、一瀬平三、千野牛之助、小金久五郎、柳沢市右衛門、相良左近助、土橋介太夫、岡吉丹後守、平井十右衛門、矢嶋又右衛門、飯塚次右衛門、秋山宗右衛門、神尾甚兵衛、清水惣七郎、金丸四郎兵衛、神戸忠右衛門、古屋新十郎、野田助八郎、薬袋主計、渡辺新七郎、渡辺清七郎、以上七拾人血判にて御付被為遊候。惣人数甲州流の軍配にて初て御先手被仰付候。直政公廿四歳の御時なり。（太閤記に直政公十八歳と有之は誤なり。井早田末葉と有之はなお以って誤なり。）其の節は、祐椿次郎法師は御遠行、実母ばかり御在命故、俄に太名大将の御威勢御満足に被思召候えども、大軍の先手殊の外、気づかいに思召し種々御立願有之候。右御立願の訳にて　天照大神より　黙宗和尚え御授被為遊候、日月松有之、金銀の扇子を直政公先手大将の陣扇に被遣候。右の扇子は宝物故、龍潭寺に相伝、即扇子に記録有之、於井伊谷南渓和尚弟子衆両人被遣候。出家といへども武芸達者に御座候。壱人は傑山と申候て強弓なり、壱人は彦根龍潭寺開山昊天なり長刀上手にて今以一宗にて長刀昊天と申候。於長久手池田勝入、森武蔵守両備を追崩、敵数多討取、直政公御自身功名勝利を得なり。合戦の次第諸軍記有之。<br /><br />○直政公親類え女中を御家中に縁組被仰付事。<br /><br />　直政公於浜松、官禄共高く御座候故、井伊谷譜代は勿論、引佐郡武家を心掛申候者皆々出勤相願申候。就中新野左馬助、直政公え忠節深重の事に御座候えども、男子無之女子斗三人有之、右三人の女中、直政公御幼年の節御念頃被成候事、其上新野左馬助妻奥山因幡姉妹なれば、直政公為に叔母なり。左馬助息女は直政公為従妹なり。御一の息女を木俣土佐守え婚礼被仰付候。第二の息女を庵原助右衛門、第三の息女を三浦与右衛門に縁組被仰付なり。右両人（庵原と三浦と）の縁組は前方とも申伝候なり。右三人の息女え直孝公より左馬助忠節故扶持方御合力被成候。又、奥山因幡守息女大勢有之、先壱人は西郷伊豫守、又壱人は菅沼淡路守え縁組被仰付なり。右女中は直政公為に皆伯母なり。又、中野越後守息女も直政公為に従妹なり、小野源蔵重縁にて縁組被仰付候。源蔵事は先達て婚礼相済申候旨申上候えば、直政公被仰候は、親類の重縁を以申付候縁組の事に候間、只今迄の妻は早々離別仕候て中野越後守息女を相迎可申旨直々被仰渡候故、小野源蔵主命不及異儀御請仕候て只今迄の今を離別仕、中野越後守息女を相迎申事なり。<br /><br />ーーー<br /><br />この伝記の作成には小野玄蕃の子孫も関わったとwikiにありました。ここに掲載していない分を読むと、この伝記は、１龍潭寺。２井伊家。３小野玄蕃の系統。の３つの「都合」に合わせて書かれているように見受けられます。後世の編纂物にありがちなことですが、主君となる徳川家康の動き（遠州進出）なども、井伊家に都合のよい描写になっています。<br /><br />ーー追加ー<br /><br />小野家に関する冊子でこの史料が紹介されていたので、引佐町史の「中井家日記」から抜き出してみた。現在、井伊谷にある二宮神社には「但馬社」があり、小野但馬守が祀られている。では、どうして祀られるようになったのか、について二宮神社の神主であった中井家が記録したものである。下に気になった点を載せた。<br /><br />--<br /><br />「中井家日記」<br /><br />但馬明神のイハレいにしへ井殿御代に小野但馬守と申候て井伊殿家老人と云々。井殿打死被成御跡犯略の砌あやまりの子細有之候に付て、井殿一紋衆より但馬守に切腹被仰付候由に候。其の後、悪りようと成、与惣左衛門子孫にタタリをなされ候に付て、則若宮と説、社を立先年の但馬屋敷に祭申候処に後地近藤石見殿御知行に成、内屋敷に成申候に付て、但馬殿右社をば二の宮の敷地へ引申間、然処に二の宮御建立の次でを以、但馬殿社をも弥右衛門建立申候。正保四年丁亥三月五日に二の宮御遷宮の上にて御タクを上げ申候へば此次でに但馬殿タクセンに向後我をば但馬明神と説候へ由、望に存候。其上二の宮の末社と号、鳥居より内に社立候へ由、タクセンにて候。則二の宮の御タクをうかがい候へば右但馬殿タクセンに少しも替事無之候付て、同三月七日につちのへ申日、鳥居より内に社を立、但馬明神と説申候。但馬明神領下畑弐畝歩以前より与惣左衛門申請置候キ。正保弐年酉年彦九郎殿自分の御検地の時も先例の断申、右通本田の内にて下畑弐畝歩御供領に附申候事。<br /><br />--<br /><br />上の『井伊家家伝』とは小野但馬守の死に方が異なっている。家伝では徳川の命令で打首→獄門であるが、こちらでは井伊一門の命令で切腹である。また、切腹の理由も「井殿打死被成御跡犯略の砌あやまりの子細有之候に付て、」である。井殿打死の「井殿」は直盛か直親であろう。但馬守の切腹理由は井殿が討死した「御跡」の「犯略の砌あやまり」になっている。ということは、今川氏に直親を讒言したのが理由になっていない。この「犯略の砌あやまり」を蜂先神社に残る徳政令の書状としたらどうだろう？<br />但馬守が関口氏経らに加担して、井伊直虎（＝井伊次郎？）から井伊谷支配権を奪ったのが切腹の理由なら、話が通じる気がする。<br />但馬守が中井家に祟ったのは、場所からして二宮神社が井伊家と関わりが深く、井伊の関係者の大半が既に彦根に移った跡に祟りが置きたから、だろう。<br />祟られたら祀るのはよくあるパターンだ。もとは小野但馬の屋敷に社があったが、そこが近藤石見守の屋敷内になったため、「タクセン＝占い」で「但馬」と「宮＝二宮神社」の神に聞いた上で、二宮神社の鳥居の内側に社を建てたとある。が、ネット上の画像で見たところ、現在の位置は鳥居の外になっている？ように見える。また、二宮神社における但馬社の説明も上の中井家日記と違う。文中の正保４年は小野但馬守の死から88年が経過している。88年だとだいたい３世代分となる。どの程度、但馬社に関する情報が正確に伝わっていたのだろうか。<br /><a name="more"></a>

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<title>結城秀康に関する史料ーその４</title>
<description>結城秀康に関する史料　その４追加分を前の史料に挿入すると、読みづらくなるので、別にした。書状３と貴族の日記１に式次第１。○書状１：家康→秀康【古典籍展観大入札會】　　尚明日委細可承候、今日者貴下も御草臥候哉、定事之外痛申候、　改暦之御慶珍重存候、如仰先刻者得賢意本望之至ニ存候、　然者袖印先可然之由候旨、則御使ニ進之候、御意ニ入候者貴下御用ニ候間、　迚之義ニ染させ本給次第仕立、廿六日之御用ニ立候様ニ可申候、　此方ニもいつそハ又入申事も御座候ハん間、次手なから仕立置可申候、　恐々..</description>
<dc:subject>結城秀康</dc:subject>
<dc:creator>アリノリ</dc:creator>
<dc:date>2017-05-03T20:51:29+09:00</dc:date>
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結城秀康に関する史料　その４<br /><br />追加分を前の史料に挿入すると、読みづらくなるので、別にした。書状３と貴族の日記１に式次第１。<br /><br />○書状１：家康→秀康【古典籍展観大入札會】<br /><br />　　尚明日委細可承候、今日者貴下も御草臥候哉、定事之外痛申候、<br />　改暦之御慶珍重存候、如仰先刻者得賢意本望之至ニ存候、<br />　然者袖印先可然之由候旨、則御使ニ進之候、御意ニ入候者貴下御用ニ候間、<br />　迚之義ニ染させ本給次第仕立、廿六日之御用ニ立候様ニ可申候、<br />　此方ニもいつそハ又入申事も御座候ハん間、次手なから仕立置可申候、<br />　恐々謹言<br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　家康<br />　結城中将殿<br /><br />・この書状は、年月日が不明である上に写文書と思われると『徳川家康文書の研究』にある。結城中将との宛名から、天正18年〜慶長２年？の間に、家康が秀康に出した正月の書状になるようだ。<br />冒頭に「尚明日委細可承候」とあるため、家康が明日、秀康と会うか、または、使者が来る予定などがあるようだ。次に「草臥れたのではないですか」と続けている。秀康が何事か仕事なり役割を任されたのか？とも思われるが、この部分には秀康年譜の情報からとある解釈ができるので、下でそれを指摘しておく。<br />内容は「袖印＝敵味方を区別するために甲冑につける袖標」に関するもので、家康は秀康の使者にこれを渡している。26日に袖標が必要なようで、家康は自分のところの袖標を仕立てるついでに、秀康が必要な分も用意する？と伝えているように読めるのだが、それであっているのかどうか、自信はない。<br />写しだとしても捏造の必要性がある文書ではないため、家康が秀康に出した書状であろう。<br />使者を送った秀康は家康に「袖標」が必要であるのに「ない」と伝えて、家康に「袖標」を貰ったようだ。息子の頼みに親が応えて、更に面倒をみようとしたようだが、残念ながら文意が読み取りにくい。<br />結城家に養子に入った後でも、秀康が実の親の世話になることが普通にあったと分かる書状である。<br />天正18年〜慶長２年の間で、秀康が「袖標」を必要とする場面は、奥州出兵か、朝鮮出兵。『秀康年譜』によれば、名護屋へは家康と同道しているから、朝鮮出兵の可能性が高いかもしれない。他の大名が朝鮮出兵で「袖標」を用意したなどの文書があれば、意味が分かりやすくなるだろう。<br /><br />冒頭の「今日者貴下も御草臥候哉、定事之外痛申候」に着目して、別の情報から文禄４年の正月という具体的な年次の可能性も指摘しておく。この部分を訳すと「今日はあなたもお疲れになったのではないでしょうか。（私も）とても（心が？）痛みます」という意味になる。秀康年譜によれば、文禄３年11月に秀康の長女（家康にとっても久しぶりの孫）が亡くなっている。「改暦之御慶珍重存候」から、この書状が正月開けのものなのは確実で、年明けに家康が秀康の「草臥」をねぎらうのなら、長女の四十九日がある文禄４年の正月ではないか、と推測できる。<br />実は文禄４年には次の朝鮮出兵の予定があったらしく、そのために「袖標」を用意していたのなら、辻褄は合う。<br /><br />○書状２：秀忠→秀康【思文閣墨蹟資料目録第三〇五號所載】<br /><br />　　尚ゝ其元御様子、被入御念被仰越候、忝候、<br />　御飛札本望之至令存候、路次中無何事被成御上著候由、<br />　珍重存候、将又　内府(家康)様彌御息災ニ御座候由、<br />　是又目出度存候、仍大納言(前田利家)殿煩付　<br />　内府様大坂へ被成御下候處、御入魂之由、満足ニ存候、<br />　随而六人のうちへ御入なされ候由、御尤ニ存候、<br />　何事も自是可申入候間、不能具候、恐々謹言、<br /><br />（慶長四年）三月廿二日　　　　　秀忠（花押）<br /><br />　三州守（結城秀康）　　　武蔵守　秀忠<br />　　御報<br /><br />・慶長３年８月に豊臣秀吉が病没した。この慶長４年３月11日に家康は病気の前田利家を見舞っている。文中の「大納言殿御煩付」がそれで、秀康は家康の安全と、上方の動向を江戸の秀忠に知らせた。この秀忠の書状は、その秀康書状への返事である。「路次中無何事被成御上著」とあるので、秀康はこの少し前に上洛したのだろう。前に慶長４年３月に秀康の所の女房衆６人が吉原を通過する許可を得ている書状を載せた。秀康が３月初旬か、それ以前に上洛したことを示す証左になるかもしれない。<br />『徳川家康文書の研究』では「随而六人のうちへ御入なされ候由」を、秀康が慶長２年６月に没した小早川隆景の代わりに五大老（徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元・小早川隆景でカウントすれば６人）に入るという噂があったのか？と解釈しているが、どうなのだろうか。<br />その部分を外しても、秀康が江戸の秀忠に父家康の無事と上方の情勢を知らせていたのが分かる意義は大きいと思う。<br /><br />○書状３：秀忠→秀康【徳川美術館】<br /><br />　金澤雷火之儀<br />　付而早々仰預、御<br />　飛脚御念入<br />　事候、無是非仕<br />　合候、猶大久保相模<br />　可申入、恐々謹言<br /><br />　　霜月十五日　秀忠（花押）<br />　越前宰相(秀康)殿<br /><br />・金沢城に雷が落ちて、火事になったことを秀康が秀忠に知らせた。この書状はその知らせに対する返事である。金沢城に落雷があって天守が焼失したのは、慶長７年10月晦日である。加賀(石川県)の隣国越前(福井県)にいた秀康は、その情報を入手していち早く江戸の秀忠に知らせたのだ。この時期には家康は京都にいるため、そちらにも知らされただろう。越前に秀康が配された理由の一端が分かる書状でもある。<br />秀康は周辺大名、特に前田家の動向を見張る役割も任され、その役目をしっかと果たしたのだろう。<br /><br />○日記：『輝資卿記』慶長11年５月16日<br /><br />　玄仍所へ越前中納言殿之御祈祷之連歌ニ罷出候、<br />　夜中迄酒宴、<br /><br />・『輝資卿記』は日野輝資の日記である。玄依は連歌師の里村玄仍のことであろう。越前中納言が結城秀康で、慶長11年といえば、舟橋秀賢の日記『慶長日件録』（前に載せた５月18日の条）で秀康の病が確認できる年である。日野輝資は後に娘の死去を機に出家して、大御所となった家康に仕えている。この時期には家康も在京しており、輝資は同年の５月29日に家康から桑山法師のために寸白の薬をもらい、使い方を教えてもらっており、同時期に家康との交流が確認できる。<br />輝資は家康の取り成しで京都に戻った過去もあるため、病となった家康の息子のために「祈祷の連歌」に参加したのだろう。里村玄仍の所で催されているから、主催者は玄仍か？家康か秀康の依頼の可能性もあるが、確認はできない。<br /><br />ーー<br /><br />以上、結城秀康に関する追加史料でした。<br />４つとも家康ー秀康ー秀忠の繋がりを確かめることができる史料だと思います。<br /><br />ーー更に追加<br /><br />○日記：『家忠日記』文禄三年六月十六日<br /><br />　同普請、結城三州様ニふる舞にてこし候、<br /><br />・『家忠日記』はその１に載せた徳川家臣松平家忠の日記である。於儀伊が秀吉の人質となる際に使ったが、その日記の最後にも秀康のことが載っていた。<br />結城三州が秀康である。松平家忠は上洛して伏見で普請作業(＝土木工事)にあたっており、冒頭にある「同普請」が続く日々のなかに、秀康の名があった。秀康は普請に励む家忠を「ふる舞」に招いて歓待している。<br />秀康は「結城」とあるように、既に結城家に養子に入った後だ。他家の人間であるにも関わらず、家忠に「振舞」をするのは、結城を名乗っていても実質的には「徳川の人間」だからだろう。<br /><br />ーーーまた追加<br /><br />○徳川美術館：『式御成之次第』<br /><br />　式御成之次第<br />夫御成之儀被相定候付而<br />　【中略】<br />亜相(家康)御禮御進物之次第<br />　○初献　御太刀　長光　　　　一腰<br />　　　　　御馬　　黒毛御鞍置　一疋<br />　○二献　御小袖　唐織縫薄　　百<br />　　【中略】<br />　○七献　巻物　　　　　　　　三百<br />　　　　以上<br />　　黄門(秀忠)ヨリ<br />　御太刀一腰　御馬　月毛　一匹<br />　御小袖　五十<br />　銀子　　五百<br />　　　以上<br />　　結城少将(結城秀康)殿<br />　御太刀　御折帋<br />　御小袖　三十<br />　　　以上<br />　　井侍従(井伊直政)殿<br />　御太刀　御折帋<br />　御小袖　五縫薄<br />　　　以上<br />　　福松(松平忠吉)殿<br />　御太刀　御折紙<br />　御小袖　二十<br />　　　以上<br />   【中略】<br />御相伴之事<br />　羽柴備前中納言殿　三方<br />　同岐阜　中納言殿　三方<br />　【中略】<br />　同丹後　少将殿　　足打<br />　同結城　少将殿　　足打<br />　【中略】<br />　文禄四年三月廿八日<br /><br />・文禄４年３月28日に豊臣秀吉が徳川家康の邸に「御成」したときの記録である。この「御成」は邸を訪ねて来た相手（将軍など）を料理・能・茶などで一日がかりで接待するもので、室町時代の将軍も行った。江戸幕府でも２代将軍の秀忠がよく「御成」をしている。<br />このときの秀吉の御成は『言経卿記』の３月28日の条にも「大閤(秀吉)御方江戸亜相(家康)渡御也云々、御能有之、御機嫌ヨキ云々」と記載があり、実際に行われたのが確認できる。<br />式次第には料理の担当者やメニュー、秀吉以外のお客の名などが載っており、秀康は接待される「客（相伴＝秀吉と一緒に接待を受ける人達のこと）」と接待する「徳川一門」の両方の名にある。御成した訪問者へは接待の他、贈答も行われる。家康、秀忠の次に秀康の名と贈答品が記されており、秀康は「結城家」の人間として接待を受けながらも「徳川家」の一員として客を接待する立場でもあるのだ。当主の家康も「主」として食事をしながら客を饗応しているので、秀康も接待される側に名があっても徳川の者として客をもてなす立場でもあったのだろう。<br />秀康が秀吉の養子ではなく「徳川家の一員」として秀吉へ贈答しているのは間違いなく、他家(結城家)を継承しながらも「徳川一門」であったのが分かる史料の１つである。<br /><br />その１→<a href="http://ari-eru.sblo.jp/article/175750730.html?1500262293" target="_blank">http://ari-eru.sblo.jp/article/175750730.html?1500262293</a><br />その２→<a href="http://ari-eru.sblo.jp/article/175920564.html?1500262349" target="_blank">http://ari-eru.sblo.jp/article/175920564.html?1500262349</a><br />その３→<a href="http://ari-eru.sblo.jp/article/176007043.html?1500262370" target="_blank">http://ari-eru.sblo.jp/article/176007043.html?1500262370</a><br /><a name="more"></a>

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<title>結城秀康関連史料　その３</title>
<description>慶長12年閏４月８日、結城秀康は越前で病没する。慶長８年、もしくは９年からの長い患いの後の死去であった。秀康の病については、『当代記』に「唐瘡（＝痘瘡）」とある他は、その病名が分かるものが手持ちの史料にはない。天然痘で三〜四年の患いは考えられないので、「痘瘡」が意味するもう１つの病「梅毒」が死因であったのだろうか？『当代記』の記述だけでは断定はできない。慶長十一年七月二日『言経卿記』　禁中御普請之縄引有之、板倉伊賀守被参、七月十三日『同上』　禁中御作事テウノ始了、九月『慶長日..</description>
<dc:subject>結城秀康</dc:subject>
<dc:creator>アリノリ</dc:creator>
<dc:date>2016-07-09T20:15:32+09:00</dc:date>
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慶長12年閏４月８日、結城秀康は越前で病没する。慶長８年、もしくは９年からの長い患いの後の死去であった。秀康の病については、『当代記』に「唐瘡（＝痘瘡）」とある他は、その病名が分かるものが手持ちの史料にはない。天然痘で三〜四年の患いは考えられないので、「痘瘡」が意味するもう１つの病「梅毒」が死因であったのだろうか？『当代記』の記述だけでは断定はできない。<br /><br />慶長十一年<br />七月二日『言経卿記』<br />　禁中御普請之縄引有之、板倉伊賀守被参、<br />七月十三日『同上』<br />　禁中御作事テウノ始了、<br />九月『慶長日記』<br />　禁裏仙洞境内狭シテ朝儀カタシト聞玉ヒ、<br />　宰相秀康ヲ惣奉行トシ、諸大名ニ仰テ公家ノ家宅ヲ移シ、<br /><br />・慶長11年７月に「禁中、禁裏＝天皇の御所」と「仙洞＝上皇の御所」の工事が始まる。結城秀康はその惣奉行となったと『慶長日記』『当代記』『慶長見聞録案紙』『松平津山家譜』は記す。恐らく、秀康が惣奉行となったのは確かだろう。しかし、彼は病によりこの仕事を全うできなかった。『朝野舊聞裒稿』『松平津山家譜』には慶長12年３月１日に越前に帰国したとある。<br /><br />慶長十一年<br />九月廿一日『言経卿記』<br />　大御所(家康)関東へ御下向也云々、<br />同年同月『鹿苑日録』<br />　今日大御所(家康)様御下向ト云々、長原御宿ト云々、<br />　来春者御上洛可為不定ト云々、不知虚実、<br /><br />・同年の９月に家康が京を出立する。相国寺の西笑承兌(秀吉・家康に仕えた僧侶)の日記『鹿苑日録』に来年の春の上洛は「不定＝決まっていない」らしいと書かれている。これまで家康は毎年京に来ていた。しかし、来年は分からないという。『当代記』には「此度ハ越前中納言(秀康)主、在伏見シ可給之由」とあり、秀康に伏見の留守を任せたとある。(『松平家譜』も同じ)<br />前のその２に家康は秀康に伏見を任せるつもりだったと書いたのは、ここからである。そして、実際に家康は慶長12年には上洛しない。だが、上に書いたように秀康は同年３月に病により、越前北荘に帰る。なお、秀康の家臣本多富正は慶長11年から駿府城の普請に出ていたようである。(『福井鑑』ほか)<br /><br />慶長十二年<br />四月二十八日『御湯殿上日記』<br />　みかわのかみ(秀康)わつらいさんさんにて、きとうに御かくら申さるる、<br />　ふ行とうの辨なり、…<br />四月廿五日『孝亮宿禰日次記』<br />　廿八日内侍所御神楽可有之由、從頭辨有示、<br /><br />・４月28日、秀康の病平癒のために宮中で神楽が催された。病が治るように宮中で神楽を演奏する例は、家康や秀吉,秀頼,前田利長(母まつの立願)で確認できる。<del>というか、この３人レベルでないと宮中での病平癒祈祷の神楽は催されない。</del>それが「秀康」のために行われている。<br />この『御湯殿上日記』は宮中の女官が記した日記であり、秀康の「わつらいさんさん＝病がひどい状態」なので(病平癒の)祈祷の為に「神楽」を(天皇から)申し付けられたとある。<br />貴族である小槻孝亮の日記『孝亮宿禰日次記』によれば、この神楽は25日に「頭辨」から指示が出されている。「頭辨」は『御湯殿上日記』で「ふ行＝奉行」となっている「とうの辨」と同じ。この神楽は間違いなく25日に開催の指示が出された。その25日には、実は家康からの歳首(＝年始初めの挨拶)の使者が宮中を訪れている。<br />慶長12年４月25日「さきのしやうくん(家康)より、ねんとうの御れゐとて、しろかね二百まい、…」(『御湯殿上日記』)<br />『御湯殿上日記』に家康からの依頼と書いていないため推測となるが、秀康の病平癒のための神楽を頼んだのは、家康ではないだろうか。日付が一致しているため、その可能性は高いと思う。慶長14年の歳首で家康が贈答した白銀は100枚で、上の25日の歳首はそれより100枚多く、慶長13年２月に秀頼が疱瘡(天然痘)にかかった際の神楽は、大坂からの申入で催されている。<br />誰かの依頼がなければ天皇が病平癒の神楽を催さない？のならば、この秀康のための神楽は、家康が白銀100枚で頼んだものだろう。<br /><br />しかし、神楽の甲斐なく、秀康は同年の閏４月に病没する。<br /><br />慶長十二年<br />閏四月十四日『義演准后日記』<br />　傳聞、去八日三河守(秀康)死去云々、将軍(家康)子息也、<br />　去三月五日ニハ、尾張國守下野守(松平忠吉)死去、<br />　相續凶事、珍事々々、三河守ハ越前一國ノ主也、<br />閏四月十三日『鹿苑日録』<br />　片主(片桐且元)越前へ、自秀頼公三州(秀康)御見廻被相越ト云、<br />　一説又三州早御遠行故、為弔慰被相越ト云、両説有之、<br />　不知其實、予相煩故不出門戸、不知虚實、<br />閏四月十五日『同上』<br />　片主(片桐且元)御出、昨日自越前帰宅ト云々、<br />　三州(秀康)遠行必定ト云々、御若衆其外御近所ニ伺候之衆、<br />　當座ニ三人戴腹シテ御伴、其外六七人モ有之ト云々、<br />六月五日<br />　東法印亦此三日上洛ト云々、大御所(家康)様御機嫌甚以難窺之、<br />　是亦無餘儀、両所(忠吉、秀康)迄捐館之上者、御愁嘆不及言語、<br />　下々至小身迄、無不愛其子、況於大人乎、…<br /><br />・『義演准后日記』は醍醐寺の僧侶義演の日記である。義演は秀吉の時代から大坂(豊臣)方と関係の深い僧侶であるが、家康の側室から子どもの病気平癒の祈祷も頼まれおり、豊臣・徳川双方とも関係がある。義演は日記に「傳聞」と前置きした上で、８日に秀康が死去したと記し、３月５日の松平忠吉(家康四男)死にも触れ、凶事が相次いでいると続ける。<br />『鹿苑日録』には閏４月13日に片桐且元が秀頼からの「見廻＝見舞」もしくは「弔慰＝弔問」のために越前へ向かったとある。15日にその且元が「昨日」越前から帰宅して相国寺を訪ねている。そこで西笑承兌は秀康の死去と３人もしくは６、７人がが殉死したとの話を聞いている。８日に秀康が死去していることから、且元の越前行きは「弔問」のためだったろう。西笑承兌の書き方だと、京ー越前間を且元は13日に出立して14日に戻って来るという速さで移動しているように見えるが、恐らく出立は11or12日ではないだろうか。それでも２日もあれば越前からの情報は京や大坂に届くのだろう。京ー越前の間は交通網が比較的発達・充実している。<br />６月５日には家康は「御機嫌甚以難窺之」とあり、家康の機嫌が非常に悪いと推測している。西笑承兌は関ヶ原以前から家康と交流があり、秀吉没後は外交その他の顧問として家康の側近くにあった。家康の性情を知った上での推測であろう。「両所」とは家康の息子である松平忠吉(４男)と結城秀康(次男)の２人を意味しており、その２人の死去に対する家康の「愁嘆＝嘆き」は言葉に表せない、と記してもいる。<br />秀康死去の際には殉死者がいた。西笑承兌は３人と記すが、『当代記』では永見、土屋の２人に介錯人の自害も含んだ４人が確認できる。人質時代から秀康と共にあった本多富正も自害をしようとしたらしいが、これは家康と秀忠に止められている。（下の書状を参照）先の４人は家康から殉死禁止の命令が届く前に死んでしまったようだ。<br /><br />閏四月『譜牒餘録』<br />　権現(家康)様<br />　一御書　御黒印　閏四月廿四日<br />　中納言秀康卒去之砌、殉死一切停止可仕旨にて、<br />　家老共に被下置候、<br /><br />　台徳院(秀忠)様<br />　一御書　御黒印　後卯月十六日<br />　右同時、本多伊豆守(本多富正)殉死、<br />　停止可仕旨にて被下置、<br /><br />慶長十二年<br />閏四月『パジェー日本耶蘇史』<br />　…八日の後、府中を去る五里の所にある一地に着し、幕府の沙汰を待てり、<br />　三日の後、招を受けて府中に行けり、上野(本多正純)殿ハ<br />　人を遣して安著を賀せしめ、将軍の寵厚きソトサフロー(後藤庄三郎)殿<br />　自ら来りて、為めに周旋すべき旨を申出せり、…【中略】…<br />　そは謁見式の當日、公方(家康)の長子になるが、正室の出にあらざるにより、<br />　位を継ぐ能ハざりし越前侯(秀康)の凶報達したるに、上野(正純)殿ハ、<br />　公方若し此事を知らば、謁見の式ハ延期せられ、接待も厚からざるべきを前知し、<br />　國君が謁見の前に此報に接せざらん為に全力を盡し、越前より来れる書状は<br />　総べて之を押へ、接見の時刻を引き上げたるべしとなり、此非常なる親切ハ、<br />　大に宣教師の利益となりたり、…<br /><br />・秀康が没したとの連絡が家康のもとに届いたその日、宣教師のパエスらが駿府に来ていて家康に会う予定だった。秀康の死去を家康が知れば、「謁見の式ハ延期＝家康に会うのが延期」されるからと、本多正純が越前からの書状を全て押さえた上に面会時間を繰り上げてくれてとても親切だった、と記している。徳川家康は身内が死んだ連絡が届くと、引き蘢って人に会わないということをする人で、その事例が『言経卿記』で２つ確認できる。秀康の訃報に対しても同じことになると本多正純は分かっていたのだろう。越前からの連絡を止めて、宣教師との面会が延期にならないよう取り計らっている。<br />宣教師側は有り難かったろうが、たとえ数刻でも息子の死を知るのが遅れた家康はどうだったのだろうか…。<br /><br />以上が主に手持ちの史料から書き出した「結城秀康」の情報である。秀康に関する史料をまとめた『結城秀康の研究』でも紹介されていないものが多い。徳川家康周囲の研究には、貴族の日記があまり用いられないという傾向があり、それが「徳川」に関する情報を狭める要因になっている。<br />史料というものは、１次史料として日記、書状があり、先ずはそれから研究対象になるべきなのだが、結城秀康に関してはそもそもあまり「研究されていない」のが現状である。秀康に関する情報は「物語性」を重視する逸話、小説由来のものばかりになっており、「結城秀康＝不遇、気の毒、かわいそう、勇猛」という図式が定着してしまっている。<br />秀康に関しては江戸時代から上記のイメージが創作されている。理由としては、次男でありながら家康の後継者になれず、三男の秀忠が将軍に就任したのが大きいだろう。しかし、秀康は羽柴家→結城家の養子になっているため、徳川家を継げる筈もないのだ。<br /><br />今回、史料をまとめてみて分かったのは、秀康がほぼ「戦功がない」にも関わらず大大名になっているのは、偏に家康の息子であるから、ということ、また、彼はどこに養子にいこうが、外部の人間に家康の子として見られ続け、家康と秀忠もずっと秀康を徳川の人間として遇していた事実、である。<br />秀康は徳川を継ぐ立場にはなくとも、家康の次男として徳川家によく貢献した。病の身でありながら、上洛した家康の側近くに居続け、そして、大事なのは決して秀忠の立場を危うくするようなことをしなかった点である。<br />秀康と秀忠の立ち位置は、弟が兄の上にある、という高確率で御家騒動に繋がりそうな兄弟関係である。しかし、２人の間にそのような問題は起こらなかった。秀康は、徳川を、江戸幕府を危うくする「問題を起こさなかった」、ただそれだけでも「優秀」と評するに値する徳川家の次男であった、と個人的には思う。<br /><br />その１〜その３と取り敢えず手持ちの史料をまとめてみました。これら以外の秀康に関する１次史料が手に入りましたら、追加していく所存です。なお、史料をどう解釈するかは「人」によりますので、私が載せた解説は参考程度にして下さい。<br /><br />その１→<a href="http://ari-eru.sblo.jp/article/175750730.html" target="_blank">http://ari-eru.sblo.jp/article/175750730.html</a><br />その２→<a href="http://ari-eru.sblo.jp/article/175920564.html" target="_blank">http://ari-eru.sblo.jp/article/175920564.html</a><br /><a name="more"></a>

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<title>結城秀康関連史料　その２</title>
<description>手元にある結城秀康関係史料の抜粋その２。その１はこちら→http://ari-eru.sblo.jp/article/175750730.html?1467450043その１で文禄四年までの史料を載せた。その後、手持ちの史料で秀康の動向が分かるのは次の慶長四(1599)年からである。その１でも使用した『言経卿記』からとなる。（『静岡県史』資料編から慶長４年の書状を追加）慶長四(1599)年三月三日『静岡県史資料編13近世５』　結城三河守(秀康)殿御家中之女房上下六人、　江雪(..</description>
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<dc:creator>アリノリ</dc:creator>
<dc:date>2016-07-03T12:40:32+09:00</dc:date>
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手元にある結城秀康関係史料の抜粋その２。その１はこちら→<a href="http://ari-eru.sblo.jp/article/175750730.html?1467450043" target="_blank">http://ari-eru.sblo.jp/article/175750730.html?1467450043</a><br />その１で文禄四年までの史料を載せた。その後、手持ちの史料で秀康の動向が分かるのは次の慶長四(1599)年からである。その１でも使用した『言経卿記』からとなる。（『静岡県史』資料編から慶長４年の書状を追加）<br /><br />慶長四(1599)年<br />三月三日『静岡県史資料編13近世５』<br />　結城三河守(秀康)殿御家中之女房上下六人、<br />　江雪(板岡部江雪斎)申理ニ候、吉原相違有間敷候也、<br />　　慶長四<br />　　　三月三日　　　　　　　(花押)中村一氏<br />　　吉原<br />　　　奉行中<br /><br />・結城秀康の動向が分かる史料ではないが、秀康と江雪の名があったため、載せた。内容は結城秀康の家中(家臣)の女房６人に対する通行許可である。慶長４年といえば、秀吉が死去した翌年であり、同年の閏３月には秀康は石田三成を佐和山まで護送している。この書状はその閏３月の一月前のもので、秀康は恐らく伏見にあり、家康の側にいる。６人の女房衆が結城の本拠地に帰るのか、それとも伏見へ向かうのか分からないが、吉原を通る許可を得て通行したようだ。書状の発行者は駿河府中を任された豊臣の家臣中村一氏であり、吉原の奉行に彼女達が通ることを知らせている。一氏にその許可を求めたのが、「江雪＝板岡部江雪斎(時期的に改名後の岡野江雪斎か？)」である。小田原の戦いの後、江雪斎は秀吉の御伽衆となった。慶長４年は秀吉没後である。この時点で既に家康に仕えている立場になっているかどうかは不明であるが、長男の房恒は天正19年から家康に仕えている(井上美保子『岡野融成江雪』より)。秀吉の御伽衆から家康の側近にそのまま移動した人物は多いので、江雪斎も同じだと思われる。<br />秀康は江雪斎に依頼して中村一氏に取次いでもらい、許可を得たのだろう。慶長４年は中央情勢が緊張している時期である。家臣の女房衆の身の安全のため、結城氏の領国へ帰した可能性はある。<br /><br />慶長四(1599)年<br />四月八日『言経卿記』<br />　早暁伏見江戸（ユウキ）宰相(結城秀康カ)殿・森右近(忠政)家等火事也、<br />　右近ヨリ火出也云々、<br /><br />五月二日『同上』<br />　城織部佑(昌茂)ヨリ知人ーー愛洲藥所望之由有間、十服遣了、<br />　結城宰相(秀康)御内衆也云々、<br /><br />・閏３月に石田三成を護送した後、４月８日に森忠政(森蘭丸の弟)の屋敷から火が出て結城秀康の屋敷も火事になったとの話が広まっている。文の最後に「云々」とある場合は伝聞、つまり聞いた話となり、正確さを欠く。ただ、次の５月２日の条で秀康の「御内衆＝家来」が山科言経に「愛洲(あいす)藥」を「所望＝希望、要求」して10服貰っている。残念ながら、その家来の名前は「ーー」となっており、載っていない。「愛洲藥」は駕篭から落ちた家康や猫に噛まれた怪我人が貰っているため、傷を直す、もしくは痛み止めの効能のある薬だったようだ。（＊愛洲藥は山科家特製の薬）もしかしたら、４月の火事で火傷をして痛みが治まらないため、愛洲薬を求めたのかもしれない。秀康の家来は知人の「城昌茂」の紹介で言経の所に来た。城昌茂は『言経卿記』に度々出てくる人物で、家康の家来である。秀康の家来と家康の家来の間に「知人」関係が成立する交流があるのが確認できる史料となる。<br /><br />慶長七(1602)年<br />七月五日『言経卿記』<br />　伏見ヘ冷(冷泉為満)・倉部(山科言緒)発足了、<br />　先結城宰相(秀康)殿（内府(家康)息）ヘ罷向、自倉部ユカケ二具進了、<br />　盃酌云々、次内府(家康)ヘ罷向、夕食有之、<br /><br />・関ヶ原の戦いから２年が過ぎた慶長７年、家康は正月に上洛して、長期の在京をしている。秀康がいつから京にいるのかは不明であるが、伏見城に滞在している家康の側近くにいるのは確かなようだ。伏見に向かった貴族の冷泉為満と山科言緒(山科言経の息子)が秀康の所に行き、「ユカケ＝弓懸」を２つ「進＝進上＝プレゼント」して、秀康から「盃＝酒」でもてなされている。その後、２人は家康の所に行って、夕食をご馳走になっているから、秀康と家康はそう離れた所にはいないだろう。このとき秀康は久々に「贈答対象」となっている。先にも書いたが、「贈答」は贈り甲斐のある人物にしかされない。彼の立場が上がった証拠だろう。<br />家康はこの年の10月２日に京都を離れ江戸に帰るが、再び、同年の12月25日に上洛する。慶長８年に将軍に就任するためだ。秀康も上洛する。<br /><br />慶長八(1603)年<br />三月廿五日『慶長日件録』<br />　大樹(家康)参内也、【中略】次扈從衆五人、越前宰相(結城秀康)、<br />　豊後宰相忠興(細川忠興)、播磨少将(池田輝政)、京極少将(京極高次)、<br />　安芸侍従(？)等也、【以下略】<br /><br />四月四日『言経卿記』<br />　殿中(二条城)御能有之間、【中略】次大樹(家康)（御袴・肩衣）御出座、<br />　次相伴衆各被参了、三宝院准后(義演)（素絹）、両人上之段也、四方也、<br />　中之段（ニテ）烏丸亜相・日野亜相【中略】越前相公（結城、大樹子息）<br />　・安芸相公（毛利）(毛利秀元)・豊後相公（長岡）(細川忠興)・<br />　若狭公（京極）(京極高次)以上三方也、【中略】播磨少将（池田）(池田輝政)<br />　・廣嶋少将（福嶋）(福島正則)・丹後少将（京極弟）(京極高知)・ヽヽヽ<br />　出羽侍従（最上）(最上義光)等下之段、足付也、<br /><br />・徳川家康は慶長８年２月に将軍宣下を受け、３月25日に宮中に参内することで正式？に征夷大将軍に就任した。秀康は参内する家康に従う５人の大名のうちの１人であり、名が１番前にある。この３月25日の記事を載せる『慶長日件録』は明経博士舟橋秀賢の日記である。彼は「明経博士」としての知識を買われ、慶長４年から家康の学問に関する問に答えたり、雑談相手をしたりしている。（秀賢は豊臣秀頼にも２度の教授が確認できる人物）<br />西洞院時慶の日記『時慶卿記』では、「越前宰相(秀康)、長岡宰相(細川忠興)、京極宰相(京極高次)、池田宰相(池田輝政)、福島(福島正則か？)」という並びになる。人名が多少異なるが、秀康の位置は変わらない。<br />次の４月４日の二条城での能の上演でも、大名の中では秀康の名が１番前である。<br />天正13年に秀吉が参内したとき、秀康は秀吉、秀長に次いで３番目であった。それが慶長８年には家康に次ぐ位置となる。弟の秀忠がいないのは、江戸を空にはできないのと、前年でも確認できるように、在京中の家康の側近くには秀康という形ができつつあったから、のようだ。<br />しかし、秀康はこの慶長８年あたりから発病した可能性がある。『秀康年譜』に２度そういう記述が見られる。『当代記』によれば、彼の病は「痘瘡」。痘瘡が意味する病は２つあり、１つは疱瘡(＝天然痘)でもう１つは梅毒である。秀康の病はその患いの長さから「梅毒」であった可能性がある。<br /><br />その具合が悪い秀康に対する秀忠の書状がある。<br /><br />慶長九年<br />六月十七日【大阪青山歴史文學博物館所蔵】<br />　　猶ゝもと三州(長吉丸、のち忠直)息災候之間、可被心安候、<br />　先申候、以後不申入候、路次中御気色能御上著候哉、承度被存候、<br />　将又御煩之儀、如何御座候哉、是又無御心元候、<br />　委細者使者口上申含候之間、不能具候、恐々謹言<br />　　(慶長九年)六月十七日　　　　　　　　秀忠　(花押)<br />　　越前　宰相殿<br /><br />・この慶長９年３月に家康が江戸から伏見に向かった。秀康は『当代記』(＝後世に編纂された史書)によれば６月５日に岐阜着。それ以前の５月下旬に江戸を出立して家康がいる伏見に行ったようだ。上の秀忠の手紙は、秀康の体調を心配して出されたのだろう。冒頭の「三州」は、秀康の子長吉丸(忠直)のことである。この慶長９年４月に秀康は息子を伴って江戸に赴いたようで、その江戸に置いて来た息子の様子を秀忠は真っ先に「息災」だから安心して下さいと書いている。次に秀康の体調を案じる内容を記しており、慶長９年に秀康の具合が悪くなっていたのは確かなようだ。<br />手持ちの史料では、慶長９年の貴族の日記に秀康の名が見当たらない。ただ、『当代記』では７月17日に伏見の屋敷に家康を招いて「相撲」を見せ、21日には諸大名をもてなして能を上演したとある。<br />そして、この年も在京(伏見or二条城)中の家康の側には秀康となっている。秀康の上洛が家康より遅いのは、その体調を考慮したためであろう。(『秀康年譜』には体調が悪いのなら(越前から)江戸に参勤しなくてもいいですよ、との書状が秀忠から届いたとある)<br /><br />翌年は弟の秀忠が将軍に就任する年である。そのため、家康は慶長10年の２月には上洛している。『秀康年譜』では同じ２月に秀康も越前(＝福井県)を出立。<br /><br />慶長十年<br />三月十五日『言経卿記』<br />　大外記（中原）師生来、右大将(秀忠)殿任槐有之歟之由申、<br />　同兄弟越前宰相(秀康)モ黄門ニ拝任之由申、<br /><br />七月廿六日『公卿補任』<br />　前参議從三位源秀康、七月廿六日任権中納言<br /><br />・『言経卿記』の３月15日に秀康が「黄門＝中納言」になるとの話が載っていて、実際に７月(４月説あり)に秀康は権中納言に任じられている。同じ３月に秀忠が「任槐＝太政大臣、右大臣、左大臣に任じられる」とあるが、これは征夷大将軍就任の意味合いだろうか。３月に秀忠が東国大名を引き連れて上洛。４月に秀忠が将軍に就任する。久々に親子３人が同時期に上洛しているが、文禄４年のような３人で伊勢物語の講釈を聞くような時間はもう持てなかったに違いない。<br />『續武家補任』『松平家譜』などによれば、秀康の息子長吉丸が同年９月に従四位下侍従に任じられ、元服。秀忠から一字をもらって「忠直」と名を改めている。（但し、元服については前年の可能性が指摘されている）<br />秀忠は５月15日に江戸へ出立し、家康も９月15日に京を離れている。恐らく、秀康も体調を考慮しつつ家康と同時期に越前へ帰っただろう。<br />翌年、彼の病状は身内の書状だけでなく、他者の日記に書かれるほどになる。<br /><br />慶長十一年<br />五月十八日『慶長日件録』<br />　午刻、伏見行、越前中納言(秀康)殿へ、冷泉令同心、<br />　向彼亭於書院有御振舞、雖然御腫物之故無御對面、<br />　予進物薫衣香袋三ツ進之、冷泉中将、定家真筆三代集之抜書、<br />　被懸御目之、及晩天帰蓬畢、<br />六月二日『同上』<br />　午刻為勅使、越前中納言(秀康)之亭へ向、於東福寺遊山之間帰京、<br />六月三日『同上』<br />　為勅使向越前中納言亭、薫衣香袋廿拝領也、仍持参、<br />　即中納言令頂戴給、後有振舞、中納言殿今日月待、無食也、<br />　仍無相伴之義、忝之由御返事申入畢、<br />六月四日『同上』<br />　未刻、越前中納言殿より御使被下、御書并帷子五拝領、<br />　即返事申入、高田遠江守宛所遣了、御使名字高田平左衛門、<br />七月七日『同上』<br />　早朝伏見へ行、前大樹(家康)へ御禮ニ参、御對面也、<br />　次越前中納言(秀康)殿へ参、依御所労、無御對面、<br /><br />・家康が４月に上洛しているためか、秀康も伏見にいる。この年は舟橋秀賢の日記で在京中の秀康の動向が分かる。５月18日に秀賢が冷泉為満とともに秀康を訪ねた。しかし、秀康は「腫物」で２人に会うことはなかった。当時の病は「腫物」表記で片付けられることが多いため、これだけでは秀康の病は特定できない。ただ、彼の具合は良くなったり悪くなったりしていたようで、次の６月２日には東福寺へ「遊山＝遊び」に出掛けている。その日、秀賢は「勅使＝天皇の使い」として秀康を訪ねたが会えなかった。そのため、翌日もう一度秀康を訪ねて天皇からの贈答品「薫衣香廿＝香り袋20」を渡している。天皇から「勅使」を派遣されて「贈答品」を受け取るのは、秀康に関してはこれが初見。彼の立ち位置がかなり高くなったことを示している。（＊天皇の勅使は限られた人や場合にしか派遣されない）この日、秀康は「月待」だからと秀賢と「相伴＝食事を共に」していない。当時の日記でも月待はよく見掛けるが、ネットで検索して出る月待の行事とは少し内容が違うようだ。<br />勅使へのお礼のため、秀康は翌４日に秀賢に使いを送り、手紙と帷子を渡す。このように６月には良くなっていたらしい秀康の具合は、翌月にまた悪くなっている。<br />７月７日は七夕であるが、主や重要人物に挨拶に出向く日でもある。秀賢は先ず家康の所に行って会い、次に秀康の屋敷へ向かったが、「依御所労＝具合が悪いため」会えなかった。<br /><br />家康の上洛時には秀康も、との形が続いた結果、秀康の地位は朝廷からも「贈答対象」と見なされるほどになった。恐らく、家康は秀康に伏見を任せるつもりだったのだろう。秀康の病状はずっと悪い訳ではなく、良くなったり悪くなったりを繰り返していたようなので、家康は治ることを期待していたと思われる。だが、この慶長11年７月から、秀康の病状は悪化するばかりとなっていく。<br /><br />病状の悪化から没年まではその３に載せます。<br /><a name="more"></a>

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<title>『徳川家康ーその政治と文化・芸能』　笠谷和比古編</title>
<description>★★★☆☆帯「趣味は鷹狩、能、香道、薬作りに囲碁・将棋ーー。家康は知勇兼備の名将であると同時に、多方面に造詣の深い文化人でもあった。内政・軍事は勿論、東南アジアとの交易・西洋貿易の奨励、出版活動等の外交・文かにおける功績・好事家としての一面など、新たな家康像を提示する。」以下、各論ごとに簡潔に述べる。目次序章総論徳川家康の政治と文化　笠谷和比古・この本は新たな家康像に迫るものであるハズなのだが、冒頭から自論(別に家康が将軍になったからって、そんなに強い権力はなかったんだよ～)..</description>
<dc:subject>徳川家康関連</dc:subject>
<dc:creator>アリノリ</dc:creator>
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★★★☆☆<br /><br />帯「趣味は鷹狩、能、香道、薬作りに囲碁・将棋ーー。家康は知勇兼備の名将であると同時に、多方面に造詣の深い文化人でもあった。内政・軍事は勿論、東南アジアとの交易・西洋貿易の奨励、出版活動等の外交・文かにおける功績・好事家としての一面など、新たな家康像を提示する。」<br />以下、各論ごとに簡潔に述べる。<br /><br />目次<br />序章総論<br />徳川家康の政治と文化　笠谷和比古<br />・この本は新たな家康像に迫るものであるハズなのだが、冒頭から自論(別に家康が将軍になったからって、そんなに強い権力はなかったんだよ～)に頁数を割き、他の論者が論には最後にちろっと触れるだけという序論でも総論でもないものを冒頭から読むハメになり、編者の仕事とは？という疑問だけが残る序章且つ総論であった。<br /><br />第一章　政治史<br />「三河大名としての徳川氏」小宮山敏和<br />・三河時代の松平氏でお馴染みの平野明夫氏、新行紀一氏と本多隆成氏の研究成果を紹介している…だけ。対象に対する自論も検討もほぼなし。<br /><br />「関ヶ原合戦と大坂の陣」笠谷和比古<br />・相変わらずの二重公儀主張が継続しており、尚且つ、その自論が評価されて当然という書き方に読んでいて目が点になった。笠谷氏と同様に秀忠に不安があるから家康は豊臣を滅ぼしたという説は度々目にするが、それが「確定」できるほど「徳川秀忠」の研究はされていないと思う。<br /><br />「徳川家康と朝廷」野村玄<br />・主に後陽成天皇の譲位時における天皇と家康の意見の対立について論じている。家康が半ばは主張を通し、半ばは天皇に妥協した対応を徳川の権力の弱さとしているが、「妥協するのも知恵」という考えはないのだろうか。ごねる後陽成天皇に、それ以上の無理を通すのを避けたとの見方もできる。大坂の陣の後なので説得力は落ちるが、「院(後陽成上皇)ヨリ可参之由、御物語今日武家御所(家康)御入魂之由被仰聞了」と『言緒卿記』にあり、後陽成上皇と家康の関係は修復されている。<br /><br />「『御三家』の成立と家康の戦略」白根孝胤<br />・家康が義直・頼宣・頼房について。御三家の基本的な部分の確認。特に目新しい視点はない。<br /><br />「徳川家康の兄弟姉妹とその血縁関係ー家康の姉妹を中心に」門脇朋裕<br />・これまでの研究成果をもとに検討を加えながら、家康の兄弟姉妹の、特に姉妹と家康の血縁関係について、その実在不在も含めて検討する内容である。新出史料が出ない限り、この結論が妥当であると思われる。<br /><br />第二章　文化・外交史<br />「徳川家康の外交ー外国の史料に見る家康像」フレデリック・クレインス<br />・朝鮮、東南アジア、西欧など、徳川家康の積極的な外交姿勢が確認できる。秀吉の強圧的なやり方(書状、朝鮮出兵)との比較はないが、対キリスト教の姿勢を除けば、家康の外交はあくまでも友好・交易がメインとなる。<br /><br />「徳川家康の学問・儒学と紅葉山文庫」揖斐高<br />・林羅山に触れつつ、家康の学問・儒学、そして「本」にかけた情熱について述べられている。家康が羅山を「重用していなかった」という指摘には同意。後に羅山が記したほど、家康に対する影響力を彼は持ち得ていない。家康は大坂の陣のときにも本の書写をやらせていたし、鷹狩で出掛けた田中城で発病する二日前にも本の出版を命じている。政治的な意味以上の情熱を「本」にかけていた思わせる内容であった。<br /><br />「徳川体制の神格化と『井上主計頭覚書』の家康阿弥陀論」平野寿則<br />・筆者が論の前提としている「井上主計頭覚書」の内容が紹介されない上に、偽書検討もないまま論が進むため、主張は理解できても消化不良感が残ってしまう。これは本当に史料として扱って問題ないものなのだろうか…。<br /><br />「徳川家康と連歌」入口敦志<br />・家康と連歌の関係が目的で読んだ『武家権力と文学』と内容が変わらなかった。<br /><br />「徳川家康と本草学」宮本義己<br />・家康の趣味の一つである薬作り及び香道について論じる。細川忠興の書状もあるなど、史料検討の幅が広く、割と楽しめる内容であったが、家康と薬についての情報が多く載る『言経卿記』の紹介・引用がなかったのが残念。<br /><br />「徳川家康の武具」宮崎隆旨<br />・徳川家康に関する博物館・美術館での展示によく赴き、図録を購入している人にはほぼ既知の内容。<br /><br />「徳川家康と狩猟」横山輝樹<br />・頁数も少なく、検討内容も狭い。家康と狩猟の関係について論じるのに10頁では全く足りない。家康はもとから鷹狩をよくしており、大坂の陣の後だけ数え上げているのが変。<br /><br />「徳川家康の肖像画ー神として、人として」松島仁<br />・家康が死後どう描かれたかについて検討している。比較対照として載っているのが秀吉の事例だけなのが残念。文章の説明だけではイメージが掴み辛いので載せて欲しかった。家康の肖像画の白描(紙形)として紹介されていた絵にある衣紋の一つを「転法輪」と書いていたが、あれは山科言経が家康とともに考案した「丁子唐草葵」の「丁子」の部分のハズ。実際に家康を見て描いたとされる「白描(徳川記念館蔵)」の容貌がなかなかワイルドだった。<br /><br />第三章　芸能史<br />「徳川家康と能」<br />・家康が能をよく鑑賞していたのは知っていたが、今川時代からずっと特定の能楽師(観世)が側近くにいたというのには驚いた。日記で確認できる家康が演じた能の演目は「野宮」「雲林院」「松風」「三輪」「熊野」「東北」「仏原」であり、女体の遊舞的な能が多い傾向があるらしい。<br /><br />「徳川家康と雅楽ー元和元年二条城舞楽上覧の意味するもの」武内恵美子<br />・家康は宮中の雅楽の装束などを新調しており、雅楽の保護にも動いていたのだが、筆者が『言経卿記』などを参照していないため、その点の指摘がいっさいない。元和元年の二条城での舞楽上覧に焦点を当てているため、家康と雅楽の関係を論じていても、内容は狭い。<br /><br />「徳川家康と茶の湯」佐藤豊三<br />・おおざっぱに家康と茶の湯の関係を知るには手頃な内容と分量。<br /><br />「徳川家康が生きた時代のいけ花ーたて花、抛入、立花」小林善帆<br />・家康といけ花の関係を示す史料が極小であるため、タイトルの通りに「いけ花」についての論が展開され、家康の他、秀忠、家光の抛入について述べることで本の題名に寄せているが、本の趣旨である「家康像」にはあまり関係ない内容である。これを載せるくらいなら、研究者もいる家康と着物の関係についての論が欲しかった。<br /><br />「徳川家康と囲碁・将棋」増川宏一<br />・家康が囲碁・将棋を愛好したのは、当時の大名の娯楽の一つでもあったのだから、ごく普通の話である。また、家康が囲碁・将棋の接待を諜報活動に利用していたなどと書いているが、盤上に向き合っている棋士にそんな余裕があるのだろうか。別に家康だけが囲碁・将棋を接待に活用したワケではないのは、筆者自身が引用している細川幽斎の接待でも明らかである。本因坊の贈答関係をあげてそのコネクションの広さを取り上げているが、そのメンバーは家康のコネクションともかぶっている。本因坊が独自に形成したコネではなく、家康を介して広がった付き合いではないのだろうか。<br /><br />新たな「家康像」を提示するには物足りない内容であったが、その一歩として「文化・芸能」を取り入れたのは評価に値する。今年の大河のせいか、個人的には家康主導ではなく秀忠主導であった可能性が高いと思う大坂の陣への言及が多いのが気になった。家康に関係性が低い戦いをメインのように取り上げる必要はないと思う。主に編者のせいで★は３つ。<br /><a name="more"></a>

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<title>結城秀康関連の史料ーその１</title>
<description>結城秀康について調べようとしたら、研究論文が少ないという現状にあたってしまった。徳川家康の周辺を調べていると、必然的に息子たちの情報も集まる。多く集まっているとは言い難いが、逸話と小説しか情報源がないよりはマシだと思い、取り敢えず、手元にある「結城秀康」に関する史料を年代順に抜粋して掲載した。(使用史料は『言経卿記』『大日本史料』ほか)今後、見つける度に追加できればいいと思っている。天正十二(1584)年十二月六日『家忠日記』　雨降、御きいさま上へ御越候十二月十二日『家忠日記..</description>
<dc:subject>結城秀康</dc:subject>
<dc:creator>アリノリ</dc:creator>
<dc:date>2016-06-19T16:39:03+09:00</dc:date>
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結城秀康について調べようとしたら、研究論文が少ないという現状にあたってしまった。徳川家康の周辺を調べていると、必然的に息子たちの情報も集まる。多く集まっているとは言い難いが、逸話と小説しか情報源がないよりはマシだと思い、取り敢えず、手元にある「結城秀康」に関する史料を年代順に抜粋して掲載した。(使用史料は『言経卿記』『大日本史料』ほか)<br />今後、見つける度に追加できればいいと思っている。<br /><br /><br />天正十二(1584)年<br />十二月六日『家忠日記』<br />　雨降、御きいさま上へ御越候<br />十二月十二日『家忠日記』<br />　雨降、濱松御きい様羽柴所へ養子ニ御こし候<br /><br />十二月廿二日『多聞院日記』<br />　家康息（九才）上洛、筑州(秀吉)猶子也、<br />十二月廿五日『兼見卿記』<br />　民部卿法印(前田玄以)へ為歳暮罷向、今朝三州徳川人質ヲ召具坂本へ下向、<br />　淀マテ送ニ被出也、<br />十二月廿六日『多聞院日記』<br />　大坂へ家康ノ息（九才）為養子被入、筒井ノ小屋ヲ借テ被置之、<br />　一館明トテ、筒井坊并被官衆震動也、<br />十二月『顕如上人貝塚御座所日記』<br />　三川家康ノ實子、（十二月）廿日比京着、石川伯耆守(数正)供、<br />　近日大坂へコサルヽト云々、<br />　家康ノ息（御義伊ト云）廿六日ニ大坂ヘコサルヽト云々、<br />　供千計云々、石川伯耆守供也、息ノ名ハ御義伊ト云、<br />　石川伯耆守罷上、これハやかて罷下ヘシト也、<br />　大坂にて筒井ノ家ニヲカルヽト云々、<br /><br />・結城秀康が幼名の「御義伊」で同時代の史料に現れるのは、上記のように天正十二年である。<br />家康の親族で家臣でもある松平家忠が残した『家忠日記』、興福寺多聞院の僧侶英俊の『多聞院日記』、本願寺顕如について記した『顕如上人貝塚御座所日記』、公家吉田兼見の日記『兼見卿記』の四つである。全て内容は養子(＝人質)として羽柴秀吉の所に行ったときのものである。<br />12月12日に浜松を出立して、同月20日か25日には京に着き、26日に大坂の筒井定次の屋敷に預けられたようだ。『多聞院日記』にある「筒井ノ小屋」の表記が誤解を招きそうだが、次に「一館明トテ、筒井坊并被官衆震動也」とあり、意味は「一つの館を空けるように言われて、筒井定次と家来衆が動揺している」となるため、館を１つ取り上げられて筒井方は迷惑だったようだ。『顕如上人〜』によれば、石川数正と「千人計＝千人ほど」の人員が秀康に同行しているので、館一つは必要であったのだろう。<br />『譜牒餘録』『徳川家譜』他によると、「御義伊」には石川数正の子「勝千代(康勝)」と本多重次の子「仙千代(盛重)」が同じく秀吉の人質として従っているが、２人の名は上の史料では確認できない。<br />次に「御義伊」の名が確認できるのは再び本願寺の日記である。<br /><br />天正十三(1585)年<br />正月十一日『顕如上人貝塚御座所日記』<br />　徳川息御義伊へ御音信、小袖二・道服一、石川伯耆守へ小袖二、<br />　其外杉田へ小袖一、御使寺内相模、<br />正月十三日『同上』<br />　御義伊ニツキテ罷上杉田新兵衛、為参詣マイラレタルヲ聞付ラレテ、<br />　メサレテ御對面、鳥目五百疋進上、志トテ黄金一包、<br />　子共ノ言傳トテ鳥目少々あけらるゝ也、御肴一献盃被下之了、<br />　やかて國へ被下由物語也、<br />正月廿二日『同上』<br />　御義伊より使小姓、石川伯耆守使ト両人被参也、御對面一献、<br /><br />・御義伊は秀吉の養子になったのだが、本願寺の日記には「徳川息＝徳川家康の息子」で書かれている。本願寺から秀康に正月の「音信＝贈答」があった。本願寺がこうも秀康のことを記して、贈答品(小袖２)まで渡すのは、彼が家康の息子であるのが大きい。一向宗の総本山である本願寺は、天正10年、信長の没後から家康とその家臣に贈答を行っている。これはかつて三河で起きた一向一揆のために家康の支配下では一向宗が押さえ込まれていたからだ。本願寺はそれを止めてもらうために家康に接近し、家康側からも石川家成の母(一向宗信徒)が本願寺にそれを依頼？した形跡がある。<br />石川家成は石川数正の叔父で、数正は天正10年にも本願寺の贈答の対象となっている。御義伊は家康の実子であるからこそ、本願寺にとって贈答に値する相手であった。（＊他者への贈答は基本的に「重要である」と思われる相手に行われるものである。）<br />13日に本願寺を参詣している杉田新兵衛は、恐らく11日の杉田と同一人物だと思われる。彼は「やかて國へ被下由物語＝そのうち国(三河？)に帰ることを話し」ている。12月に秀康と共に上洛した千人は、秀康の供回りの者を残して、この杉田の言葉の通りにそのうち帰ったのだろう。<br /><br />天正十三年<br />二月十四日【古文書：本多記録御用所本】<br />　今度家康入魂申付、おきい上洛候、依之御息被指越之段祝著候、<br />　仍馬一疋（黒毛）被給候、可被秘蔵候、尚委細津田四郎左衛門尉・<br />　富田平右衛門尉可被申候、謹言、<br />　　二月十四日　　　　　　　　　　　　　　秀吉判<br />　　　本田作左衛門殿<br /><br />・御義伊と共に本多重次の息子(仙千代)も秀吉の所に行ったことが分かる書状である。息子を寄越したのは良いことであると秀吉から本多重次に「馬一疋」が贈られている。にも関わらず、本多重次はこの後、息子の仙千代を戻させて、兄の子源四郎と<br />交代させる。交代させた理由は不明であるが、これに秀吉が怒ったために重次は家康によって蟄居させられる。ただ、交代して人質になった源四郎は非常に優秀な人物だったようで、後々、秀康の片腕として越前藩を支える重臣となり、秀康没後に追い腹を切ろうとするのを家康と秀忠に全力で止められるほどの要人になる。<br /><br />天正十三年<br />四月十八日『顕如上人貝塚御座所日記』<br />　徳川息御義伊殿、秀吉御陣見廻ノタメニ、雑賀へ御越也、<br />　石伯モ供ト云々、<br /><br />・秀吉が雑賀攻めを行っている紀伊まで御義伊が出向いて、秀吉の御陣を「見廻＝陣中見舞」している。この前日に織田信雄も同じことをしており、小牧長久手の戦いのときに織田・徳川方についた雑賀への圧力として織田・徳川関係者を自陣に招いたのだろうか。石川数正が御義伊に同行している。家康の重臣である数正が正月からずっと大坂に滞在していたとは思えない。秀吉の取次担当になっているから、度々、大坂に来て秀吉と交渉するほか、秀康の様子を確認するなどしていたのだろう。<br /><br />天正十三年<br />十月六日『兼見卿記』<br />　殿下(秀吉)御参内〜中略〜次二兵衛少将(秀次)、殿下之甥、<br />　御對面御禮之義同前、次徳川息侍従(秀康)、<br />　次うき田八郎侍従(秀家)、次五郎左衛門尉侍従(丹羽長秀)、<br />　次越中守侍従(長岡忠興)、次三吉侍従（信長御息）(織田信秀)<br />　次武衛侍従(津川義近)、次毛利河内守(秀頼)、次蜂屋侍従(頼隆)、<br />　各御對面終而、在一盞之儀、美濃守（殿下舎弟）天盃頂戴之、<br />　此外御通也、各相濟殿下御退出〜後略〜<br /><br />・秀吉が参内したときの同行者に「徳川息侍従＝秀康」がいる。秀康の名は秀次(秀吉の甥)の次にあり、秀吉猶子の宇喜多秀家の前である。「侍従」のなかで一番前にいるのは、秀吉の「養子」だからか、家康の子だからか、それとも官職就任の順なのか、これだけでは分からない。<br />同年の11月13日に石川数正が徳川を裏切り、秀吉のもとに出奔。以後、暫く、秀康の動向が手持ちの史料では追えなくなる。<br />次に秀康が確認できるのは文禄三(1594)年である。<br /><br />文禄三年<br />八月廿一日『言経卿記』<br />　江戸亜相(家康)へ罷向、所労也、少対顔了、<br />　帰路五条口ニテノリ物打落了、少々打云々、<br />　二三ヶ所痛云々、愛洲薬用之、<br /><br />八月廿四日『言経卿記』<br />　江戸亜相(家康)へ罷向了、御所労験気也、夕食有之、<br />　亜相子息三河守(結城秀康)殿相伴了、十人計有之、<br /><br />・前の史料から９年が経過しており、秀康は秀吉の養子から結城晴朝の養子へと立場が変わっている。しかし、秀康は相変わらず「亜相子息＝徳川家康の息子」と記され続ける。引用している『言経卿記』は天皇に勅勘(＝クビ)されてしまった山科言経(やましなときつね)の日記である。彼は天正19年に家康から扶持をもらう(＝雇ってもらう)ようになり、京都に長く滞在する家康とその周囲についての情報を多く書き残している。<br />上の条では８月21日に「ノリ物＝駕篭」から落ちて体を痛めた家康を、24日に結城秀康が見舞って？いる。父親の「見舞い」であったかどうかは不明だが、秀康が家康の所で「夕食」を食べているのは確実である。<br />あまり知られていないが、秀康は上洛した家康や弟の秀忠とはしばしば会っていたようだ。福井新聞が該当記事を削除したため、現在は見ることができないが、慶長元(1596)年に京都へ向かう途中の秀忠が秀康に「お目にかかりたい」と伝えた書状が2014年に発見されている。他にも秀忠→秀康の書状の数は多い。<br />実際に会っているのが文禄四(1595)年に確認できる。<br /><br />文禄四年『言経卿記』<br />十月一日<br />　　伏見ヘ冷同道罷向、与右衛門尉所ニテ休息了、<br />　　次　江戸亜相(家康)ヘ罷向、水無瀬黄門(兼成)伊勢物語講尺之内也、<br />　　則聴聞了、次夕食有之、相伴衆、水無瀬・予・冷・江戸黄門(秀忠)<br />　　・同参河守(結城秀康)・伊達侍従(伊達政宗)等也、<br />　　亥下刻(22時過ぎ)ニ帰宅了、<br /><br />・文禄四年は秀次事件があるほか、徳川家にとっても大きな変化があった年である。先ず、６月に秀康に長男忠直が誕生、次に秀忠が信長の姪(秀吉の養女)お江と９月に結婚した。ここで親子３人が揃ったのは、そういった目出たい出来事が続いたためかもしれない。<br />貴族の水無瀬兼成が「伊勢物語」の講釈を家康の伏見屋敷で行っており、家康の所に挨拶に出向いた冷泉為満(れいぜいためみつ)と山科言経がこれ幸いと便乗して聞いている。（月の一日は仕えている主に挨拶に行く日になっていて、為満と言経はそのために伏見まで出向いた。伊達政宗がいるのも恐らく同じ理由であろう。）講釈はそのまま「夕食」まで続いたようで、水無瀬兼成、山科言経、冷泉為満、徳川秀忠、結城秀康、伊達政宗が家康と「夕食」を共にしたと記してある。（この当時の「等」は現在の「等」と意味が違う。この「等」が記してあった場合、その場にいた人物はそこまでの人数となる。つまり、参加者は伊達政宗まで。）伊勢物語は当時の武家に人気があったらしく、『家忠日記』でも伊勢物語を聞いている記述がある。恐らく、家康は身内(家康、秀康、秀忠)で聞くつもりで水無瀬兼成に講釈を依頼し、それに言経、為満、政宗が便乗したのだろう。<br />夕食が終わった後も講釈が続いたのか、話をしていたのか、言経が帰宅したのは夜22時過ぎである。全員がこの時間まで家康の屋敷にいたかどうかは分からないが、在京中の大名の過ごし方と親子揃っての勉強会もあったというのが、両方が分かる事例である。<br />結城家を継承した秀康は、秀吉勢力に在京を強制されている家康と違い、１年の大半を京で過ごすことはなかったろう。秀忠と同じように領国と京都を行ったり来たりしていた筈だ。秀忠が事前に書状を出して「会いたいです」と連絡をしていることから、在京期間が重なれば、上記のように親子３人で会う機会を持っていたのだろう。『言経卿記』では確認できないが、秀忠の書状からして慶長元年にも会う機会を持った可能性は高い。<br />他家(結城家)を継いだが、秀康の立ち位置は秀吉の養子だったときと同じように「徳川家康の子」であることが大事であったようだ。家康、秀忠もそのつもりで秀康と会っていたのだろうし、秀康もその意識を持ち続けたのでは？と思わせる『言経卿記』の内容である。<br /><br />以後、再び手持ちの史料に秀康が現れなくなるため、続きはその２へ持ち越します。<br /><br />その２<a href="http://ari-eru.sblo.jp/article/175920564.html?1472119522" target="_blank">http://ari-eru.sblo.jp/article/175920564.html?1472119522</a><br />その３<a href="http://ari-eru.sblo.jp/article/176007043.html" target="_blank">http://ari-eru.sblo.jp/article/176007043.html</a><br />その４<a href="http://ari-eru.sblo.jp/article/179639340.html?1493812293" target="_blank">http://ari-eru.sblo.jp/article/179639340.html?1493812293</a><a name="more"></a>

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<title>『武家権力と文学ー柳営連歌、『帝鑑図説』』　入口敦志</title>
<description>★★★☆☆帯に「将軍家や大名家は、文学的活動をその権力の誇示として積極的に利用していた。寺社に奉納された将軍の歌仙絵、幕府で行われた柳営連歌、帝王教育の教材とされた『帝鑑図説』など、権力といかに関わっていたかを解明する」とある。これに目次を読むとだいたいの内容が分かると言いたいところではあるが、タイトルが簡潔であるため、目次での内容推察は難しい。序章　武家の荘厳第一章　柳営連歌考　第一節　将軍の連歌　　　　　　　　　　第二節　二ノ丸権現様興廃記　　　　　　　　　　第三節　御連..</description>
<dc:subject>日本史関係（書評）</dc:subject>
<dc:creator>アリノリ</dc:creator>
<dc:date>2016-06-11T19:00:15+09:00</dc:date>
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★★★☆☆<br /><br />帯に「将軍家や大名家は、文学的活動をその権力の誇示として積極的に利用していた。寺社に奉納された将軍の歌仙絵、幕府で行われた柳営連歌、帝王教育の教材とされた『帝鑑図説』など、権力といかに関わっていたかを解明する」とある。<br />これに目次を読むとだいたいの内容が分かると言いたいところではあるが、タイトルが簡潔であるため、目次での内容推察は難しい。<br /><br />序章　武家の荘厳<br />第一章　柳営連歌考　第一節　将軍の連歌<br />　　　　　　　　　　第二節　二ノ丸権現様興廃記<br />　　　　　　　　　　第三節　御連歌御由緒考<br />第二章　『帝鑑図説』考　第一節　模倣と変容<br />　　　　　　　　　　　　第二節　唐冠人物の来歴<br />　　　　　　　　　　　　第三節　唐破風考<br />　　　　　　　　　　　　第四節　『帝鑑図説』の読まれ方<br />終章　権力と出版<br /><br />簡単に各章の内容を記すと、<br />序章：東照宮などの社に奉納された歌仙絵と武家の関係について<br />第一章：徳川将軍家と連歌の関係について考察しつつ、三代将軍が如何に初代の家康に執着していたか、についても<br />第二章：秀頼のために作られた『帝鑑図説』についての考察と、その図説の「図」についての検討と、使われ方や解釈について<br />（終章は第二章と継続した内容であるため割愛）<br />となる。<br />武家権力が如何に文学を「権力誇示」のために活用したか、を主張する本であるため、逆からの視点が連歌参加者の部分くらいである。序章で家康が冷泉為満に古今伝授を受けたことについて触れているが、それも偏に権力のためと書くのみで、冷泉為満が長く家康に仕えていたことや、家康には経済的に困窮していた冷泉為満の方から接近したなどの事情については言及されない。そもそも大御所時代に家康と為満に和歌に関する交流があったと書いており、それ以前を全く調べていないのは明白で、家康と和歌のことについての追求はさほど深くない。（古今伝授も大谷俊太氏の論文を引用して、その主張をそのまま使っている。古今伝授と細川幽斎、徳川家康、智仁親王の関係については、何も触れていない）<br />ただ、連歌と将軍家の関係や祖父に入れ込み過ぎておかしい家光など、個人的に浅かった部分での新しい知見はあったので、★３つ。<br />第二章の『帝鑑図説』は、一〜三まで「図説」に使われている絵の考察である。秀吉の肖像画との関係や日光東照宮などでの「図」の使用など、帝王教育ための本が第一章と同じく、権力にどう利用されたか、について検討されている。政治的な影響力に関しては第四節の読まれ方に池田光政による百姓への「仁愛」実践例などがある。帝王学の「本」と解釈が実際の政治に影響する例が興味深かった。<br /><br />終章で再び権力と文学の関係に戻るが、池田光政の実例のように権力者は文化を利用しているようで、本の内容に影響されて動いてしまうことからも、文化に「踊らされてもいる」のだな、と思った。<br /><a name="more"></a>

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<title>『戦国時代の天皇と公家衆たち』　日本史史料研究会監修　神田裕理編</title>
<description>★★★☆☆タイトルの前には「ここまでわかった」とあるが、長くなるので省略。家康に関する情報を増やそうと貴族の日記を読んでいるので、基本を押さえようかと買ってみた。が、貴族の日記を読んでいる人間には７割近くが「既知」の内容であった。戦国時代に興味があり、各地の大名の動向は知っていても「朝廷」「貴族」のことはよく知らないし史料も読んだことがない、という人にはおススメの本だろう。ただ、一部の内容に「それは違うのでは？」という点があったため、この書評ではそこを指摘しておく。６、武家も..</description>
<dc:subject>日本史関係（書評）</dc:subject>
<dc:creator>アリノリ</dc:creator>
<dc:date>2016-04-01T19:05:26+09:00</dc:date>
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★★★☆☆<br /><br />タイトルの前には「ここまでわかった」とあるが、長くなるので省略。家康に関する情報を増やそうと貴族の日記を読んでいるので、基本を押さえようかと買ってみた。が、貴族の日記を読んでいる人間には７割近くが「既知」の内容であった。<br />戦国時代に興味があり、各地の大名の動向は知っていても「朝廷」「貴族」のことはよく知らないし史料も読んだことがない、という人にはおススメの本だろう。ただ、一部の内容に「それは違うのでは？」という点があったため、この書評ではそこを指摘しておく。<br /><br />６、武家も重宝した公家の「家業」とは？<br />というタイトルの中で山科家の「衣紋」が「公家の家業」の事例として取り上げられている。そこに「言経は勅勘(ちょっかん：天皇の怒りにより、朝廷への出仕を禁じられること)中に豊臣秀吉・秀次や徳川家康の知遇を受けることになる」とあるが、言経が秀吉と直に会ったのは勅勘前で勅勘後ではない。秀吉に頼んで勅免(ちょくめん：天皇の許し。勅勘の反対)を得ようとはしていても、それは細川幽斎や大村由己を挟んでの間接的な動きである。勅勘中に言経が扶持を貰っていたのは秀次と家康であり、秀吉との間には「知遇」と呼べるほどの関係はないのを指摘しておく。<br />また、「山科家の装束調達は朝廷だけでなく、武家にも必要とされた」と、山科家の「家業」が徳川にとって重要だったかのように書いているが、山科言経は「衣紋」の家業で家康から扶持を貰い始めたのではない。その証拠に言経が家康の所に行って何をするかといえば、基本的に「雑談」だ。時期にもよるが、言経は＜毎日＞家康の所に行って話をし、夕食を相伴して帰るときもある。家業の衣紋の話題もあったろうが、言経に求められたのは家康の「話し相手」という役目であった。２人は酒を飲みながら明け方まで話している日もあり、気も合ったようだ。そして、２人に共通する話題といえば、薬作りである。山科家の家業は「衣紋」だけではなく、先代の山科言継から「薬師」も生業の１つになっていて、趣味が薬作りの家康とは、その点でも話題は多かったろう。ただ、「薬師」として言経が家康に薬を提供したのは一度だけで、「薬師」の家業が必要とされた形跡はない。<br />徳川が山科家の衣紋の「家業」を本格的に必要とするのは秀吉が死去する前後からで、しかも徳川が必要としたのは「衣紋」だけではない。言経は「皮籠」や「牛車」の造作など参内に必要な諸々の準備や儀式に広く関わっている。つまり、徳川家康が山科言経に求めたのは、家業を含む彼の公家としての経験と知識の全てであり、事実、言経はよくそれに応えた。<br />息子の言緒の代には、家康・秀忠の在京期間が減ることもあり、「衣紋」の注文が徳川との関係のメインになっていく。しかし、元和二年に家康の容態が悪化し、多くの公家が駿府へと赴いた際、山科言緒は他の公卿に京に戻るよう「暇」が出されるなか、冷泉為満とともに駿府に残るように告げられている。久能山への埋葬が決まっていた家康に、死に装束の「烏帽子、狩衣」を着付けさせるためもあったろう。が、大坂の陣の最中に武家傅奏とは別に家康の陣中見舞いをし、他の公家らとは差がある形で家康が埋葬された久能山を一足先に訪れるなど、山科家と徳川との関係は、衣文の「家業」が必要とされた、だけに留まるものではない。<br />家業で重宝された例として取り上げるのならば、梵舜や吉田兼見、舟橋秀賢の方が好例であったのではないか、と思われる内容であった。山科家は例として用いるには、徳川との関係が特殊に過ぎる。<br /><br />９、豊臣時代からじょじょに朝廷に食い込む家康<br />永禄十二年、朝廷に二万疋を進上した。「その後長く、家康と朝廷・天皇との接触は確認できず、官位の昇進もなかった」と文中にあった。次に朝廷との関係が秀吉経由で確認できるのが、天正十四年。この年に従三位となっている。確かに「朝廷」との接触を「天皇」及び「官位の昇進」にだけ絞るのなら、永禄十二年以後から天正十四年まで家康「朝廷・天皇との接触」がない。しかし、公家との接触はこの間にある。公家を朝廷の一部としないのなら、「朝廷・天皇との接触」は確認できない。だが、天正十～十一年にかけて近衛前久が家康の庇護下にあった確実で、天正十一年八月には前久に会うためか、前権大納言の柳原淳光が三河に下っている。天正十一年二月には三條西國公が家康の領国となった駿河より戻って来ている。この三名の下向を朝廷との接触として捉えないのなら、上記の説明にも頷けるが、どうだろうか。<br />ちなみに柳原淳光は、在京中の家康の所に山科言経と共に何度も顔を出しており、先に書いた酒を飲みながら明け方まで話す場にもいた。<br />また、ここでも山科言経と家康の関係に触れている。その中に「閑室元佶の講釈にも顔を出し、これには、子の言緒や冷泉為満・四条隆昌もたびたび出席している」と書かれているが、主に顔を出しているのは、言緒と冷泉為満の方であり、足が悪い言経は二人ほど講釈を聞きに行っていない。更に四条隆昌も参加したように書いてあるが、隆昌は言経が勅免されるまで、家康の所には一度も行ったことがなく、講釈も聞いていないのを指摘しておく。<br />著者は最後に「家康はこうして朝廷にも食い込んでいく」と〆ている。しかし、言経は扶持を得るために自ら家康に接近したのであり、家康に伺候するようになる他の公家も家康が呼び寄せた証拠はない。家康が言経に「紹介」を依頼して呼び寄せたと確認できるのは、明経博士の舟橋秀賢くらいである。水無瀬兼成などは言経に家康への「斡旋」を依頼して、家康の所に出入りするようになる。このように、武家として力がある家康に公家の方から接近した事例があるのだから、家康が一方的に「食い込んで」いったように記すのは、妥当ではない。<br /><br />公家・朝廷ともに「武家」の力なくしては、特に収入面でやっていけない時代であるのだから。<br /><br />新書の内容なので、細かい指摘はどうかと思ったが、一応書いておいた。<br />褒める所も上げておいた方がいいと思うので、最後に。この本は第１部から第４部までの構成になっていて、第４部が＜「戦国領主」化した貴族たちの戦い＞である。土佐の一条家は兎も角、飛驒、伊勢、津軽の事情に関しては、滅多に取り上げられるものではないため、興味深く読んだ。特に津軽の発掘調査を踏まえた浪岡氏に関する報告は、もっと増えればよい類いのものだと思う。<br /><a name="more"></a>

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<title>『阿茶局』　白嵜顕成、田中祥雄、小川雄</title>
<description>★★★★☆帯の「家康、秀忠、家光の三代将軍に仕え、徳川幕府のために生き抜いたある女性の生涯」と「家康の数多い側室のなかでも特に著名で、その重要性を認知されながらも、学術的には半ば放置された存在であった阿茶局に焦点を当てた初の本格的歴史論考」が的確に内容を紹介している。今年の大河ドラマ「真田丸」では、珍しくこの「阿茶局」を家康最愛の側室としてドラマに登場させている。家康には築山殿と旭姫という二人の正室がいるが、築山殿は天正七年に没し、旭姫は四年と少しの間、名目上の正室として存在..</description>
<dc:subject>日本史関係（書評）</dc:subject>
<dc:creator>アリノリ</dc:creator>
<dc:date>2016-03-24T18:46:43+09:00</dc:date>
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★★★★☆<br /><br />帯の「家康、秀忠、家光の三代将軍に仕え、徳川幕府のために生き抜いたある女性の生涯」と「家康の数多い側室のなかでも特に著名で、その重要性を認知されながらも、学術的には半ば放置された存在であった阿茶局に焦点を当てた初の本格的歴史論考」が的確に内容を紹介している。<br />今年の大河ドラマ「真田丸」では、珍しくこの「阿茶局」を家康最愛の側室としてドラマに登場させている。家康には築山殿と旭姫という二人の正室がいるが、築山殿は天正七年に没し、旭姫は四年と少しの間、名目上の正室として存在しただけだ。家康の生涯において「正室」の女性は、側にいる時期よりいない時期の方が長い。しかし、家政の「奥」を仕切る女性は必要である。徳川家康の場合、母である「於大の方」が慶長七年に没するまで「奥」を任されていたようだ。（←『家忠日記』よりの推測）ただ、徳川は天正十年の武田滅亡後に「三河、遠江」の二か国に「駿河、甲斐、信濃南部」が加わり、一気に領土が拡大した。当然、家臣も増えて家政にも人手が必要になっただろう。側室は正室が選ぶものだが、家康の場合は母である於大の方が息子に斡旋をしたと思われる。<br />恐らく、阿茶局は於大の方に選ばれて家康の側室となった。<br /><br />阿茶局は天正年間に家康に仕え始めたとされる。武田氏家臣飯尾氏の出身で、夫であった今川氏の旧臣神尾忠重は天正五年？(天正十六年説あり)に死去。忠重との間には一男守世がおり、この子が小姓として秀忠に天正七年もしくは天正十一年に仕えるようになっているため、阿茶局の奥入りもその頃であろう。上記のような必要性から、天正十年以後の方が妥当のように思われる。<br />このように阿茶局の前半生ついては不明な点が多い。同時代の史料で、家康の「力ある側室」としての彼女の活動が確認できるのは、慶長六年からである。これ以後、彼女は貴族や寺社からの「贈答」の対象として名前が日記や書状に現れるようになる。彼女が物を贈られるのは、相応の実力があってのことである。実際に阿茶局は家康への「取次」役として様々な場面で名が上がり始め、残る史料の数も増加していく。<br />阿茶局といえば、大坂の陣での和睦交渉に徳川方として臨んだのが知られる。ドラマでもこの場面だけに登場することも多々ある。大坂方の淀殿・常高院(お初)に合わせるため、「女性」である阿茶局が選ばれたとの登用理由がよく使われる。しかし、彼女は上記のように徳川の有力な女性官僚であり、単なる使いっ走りではない。「女性だから」という理由を上げる人は阿茶局について調べたことがないのだろう。<br />また、この『阿茶局』の慶長五年の史料によれば、関ヶ原の戦いが起きたとき阿茶局は「大坂城にいた」ことが分かる。「木村宗衛門先祖書」にある板倉勝重、阿茶局の書状だけでは史料として心許ないが、それを裏付ける家康の書状があるため、この「先祖書」の内容は信用してもいいだろう。<br />家康は慶長四年に大坂城西の丸入りした。そのときに阿茶局も共に入ったようだ。於大の方は存命中だが、彼女は留守を預かる立場で江戸から動かない。秀吉に従って以降、江戸と京、大坂を行ったり来たりしていた家康の側についていたのは、阿茶局や他の側室であった。秀吉亡き後に政権を担った家康の仕事は増えた。それを支えるためにも有能な女性は必要であり、また、大坂城には淀殿(茶々)や秀頼がいる。淀殿と奥向きのことを話し合える徳川方の女性もなくてはならない。<br />阿茶局は慶長四年から大坂城にいて、淀殿と面識・交流があった可能性が高い。それ故に大坂の陣の和睦交渉の場に彼女もいたのだ。「女性だから」という理由だけで和睦交渉の場に呼ばれたのではない。<br />また、関ヶ原の戦いの時点で阿茶局が大坂城にいたのは興味深い。関ヶ原のときに大坂城には毛利輝元が入った。二の丸にいた阿茶局は人質にはならず、城を退去して淀川の船奉行である木村勝正と河村与三衛門に匿われた。戦が終わって家康に書状で呼び戻されるまで、阿茶局と徳川の女性達は彼らのもとにいた。この事実は、また多くの推測を生みそうな事柄だ。<br />気になるのは、次の３点。<br /><br />・１つに、毛利が阿茶局を人質としていない点。（細川ガラシャらの例のように西軍は積極的に東軍側の女性を人質に取ろうとしていた。家康の側室である阿茶局は、人質として最も「使える人材」であるのに城からの退去で済まされている。それとも絶対に寝返らない敵方の「大将」の人質は取っても意味がないものなのだろうか）<br />・２つ目は、家康が阿茶局を大坂城に残していること。（家康は石田三成を挙兵させるためにわざと畿内を空けたとの見解があるが、挙兵を予想していたのなら、１のように「人質」になってしまう人員を大坂城に置いていくだろうか。警戒していたのなら、家康が大名らの妻や子を人質として江戸まで同伴すればいいのだ）<br />・３番目は淀殿について。（彼女が関ヶ原の時点で西軍寄りだったか、東軍側だったか、意見が分かれるところである。ただ、阿茶局を匿った木村・河村は豊臣によって船奉行に任命されている。彼らが自主的に阿茶局を匿って西軍から守ったとは考えにくい。彼らに阿茶局を託したのは淀殿である可能性が高いのではないだろうか。もっと言うのなら、毛利輝元に阿茶局を引き渡さなかったのは淀殿であったかもしれない。それならば、大坂の陣での和睦交渉の場に阿茶局がいる意義も大きくなる）<br /><br />ついでに付け加えると、阿茶局の実子神尾守世は安藤重信とともに、大坂の陣の際、毛利家にいた後藤又兵衛の息子を通して、後藤(又兵衛)基次と接触をしている。これは神尾守世が毛利家と徳川の間を繋ぐ取次であったためであり、実際、後藤基次は徳川の工作に応じた様子がある。これも阿茶局が和睦交渉の場に立つ要因の１つになりそうだ。<br /><br />阿茶局は徳川家康の子を生まなかった。（小牧長久手の際に陣中で流産したとの伝承があるが、確たる史料はない）<br />家康との間に子がいない彼女は、「側室」としての最も大事な存在意義を欠く。その上、実家の飯尾も婚家の神尾もさして大きな力を持つ武家ではない。でありながら、阿茶局は大名や公家から贈答や書状を受けるほどの立場になった。勿論、家康あってのことではある。が、強固な後ろ盾もなく、「子」を欠く側室が奥に居続けて力を持っていられたのは、つまるところ、彼女が「有能」であったからだ。<br />秀忠・忠吉の母「西郷局」が天正十七年に没した後、家康は阿茶局に二人の養育を任せている。流産で子が成せなくなった彼女を家康が哀れに思ったなどと説明されることがあるが、秀康が既に秀吉の人質兼養子となっており、徳川の後継者は「秀忠」にほぼ決まっていた。後継者となる男子を可哀想という理由で託すなどというのは有り得ない。家康は彼女の能力を信頼していたが故に阿茶局に後継者を任せ、子がない彼女の立場を強く安定させたのだろう。（あるいは、ここにも於大の方の意向が働いていたのかもしれない）<br />これにより、阿茶局は後に二代将軍の「養母(母代)」となり、秀忠の娘和子が天皇に嫁ぐ際には「従一位」の位階を得て彼女に付き添った。<br />家康は己の死に際しても彼女だけはその有能さを惜しんで、出家を許さなかったらしく、彼女が出家したのは秀忠の没後である。<br />阿茶局の立身出世は「家康・秀忠」あってのものである。しかし、彼らに信頼される「高い能力」を、数多くの側室の中で彼女がもっともよく備えていたのは、「養母(代母)」「従一位」だけでも確かなことと言える。<br /><br />今回取り上げた『阿茶局』は、神尾氏の子孫の方が編者とつとめ、出版された本である。通常、子孫やその関係者が出した本は先祖のフォローをしたがるため、「信用できない」内容になりがちである。しかし、この本は子孫の方の執筆が「はじめに」の挨拶部分だけで、他は全て専門家に任せている。そのため、内容は今後の研究の「叩き台」となっており、十二分に歴史考証に使えるものになっている。当時の女性としては史料が多い方ではありながら、彼女には大名となった実子がおらず、神尾家も大名になっていないため、充実した家譜や彼女を誉め称える逸話などはほぼない。その分、実体に即した「部分」が残されているのが、他の側室とは違う阿茶局の特徴であろう。<br />最後に注意書きとして『阿茶局』の頁数は395で、そのうち阿茶局当人に関係する部分は100程度であることを記しておく。残りは神尾家の代々の事蹟になっている。<br /><a name="more"></a>

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