★★☆☆☆
原題:REFUGEE AND SURVIVOR-Reseue Attempts during theHolocaust
副題:ヒトラーの魔手を逃れて約束の地への長い旅
帯に「杉原千畝の命がけの決断がユダヤ人を救った!」と煽り文を入れているが、センポ・スギハラの出番はほんのちょっとである。ので、ユダヤ人のために頑張った日本人の何と素晴らしいことよ〜なんて話を期待しても無駄。この本の主体はあくまでも「ホロコーストから逃れたユダヤ人」にあり、日本はその「逃亡」のための「重要な通過地点」に過ぎない。
帯は更に「リトアニアの日本領事・杉原千畝は、本省の指令に反してビザを発行し、何千人ものユダヤ人が日本にやってきた。ホロコーストという民族の悲劇に直面しながら、苦難の中にも希望を失わない人々の感動のドキュメント!」と続けている。説明としては間違っていないが、「感動」はどうだろうか?というのが正直な感想。この本を読んで、特に私の印象に強く残ったのは既知であるユダヤ人の苦しみよりも、世界中に暮らす「ユダヤ人」に括られる人々の「連携の悪さ」なのだ。
どんな宗教も信者が増えると、中で幾つもの「宗派」に分かれる。ユダヤ教も「分れている」のは知っていたが、ホロコーストという危機に対して全く足並みが揃わないのには…驚くと同時に呆れた。
当時、「ホロコースト」の実体は世間にはほとんど知られていなかった。「ホロコースト」の悲惨な現実が明らかになったのは戦後になってからである。しかし、それでも大勢のユダヤ人達がヒトラーの支配地から脱出し、逃亡先を求めているのに、ヨーロッパ外のユダヤ人組織の動きは鈍い。著者自身が脱出組で、且つシオニスト指導者であるため余計にその「連携の悪さ」と「鈍さ」が強調されているのもあろうが、大勢の脱出希望者に対し、「○○○の関係者のみ」といちいち条件をつけている点にユダヤ人という少数派の限界と、宗派による同族?集団の分断が見える。
また、著者は海軍大佐「犬塚惟重」(ペンネーム:宇都宮希洋)を、wikiなどにあるような親ユダヤの人物ではなく、反ユダヤ文書を翻訳発行し、反ユダヤ神話を説き回っていたと告発している。この事実は既に1950年代には明らかにされているのだが、ざっと検索した限りでは、今でもこの「犬塚惟重」大佐はユダヤ人を助けた親ユダヤであるという扱いのようだ。実際に犬塚大佐と交渉したことがある著者は、そんな事実は無いと否定している。
帯やタイトルだけでは「日本」に焦点が当たっているような感じだが、中身は完全に「ホロコーストから逃れるために、日本に暫し滞在したユダヤ人のシオニストリーダー」の話なので、ユダヤ人の「逃亡方法」と彼らを巡る当時の国際情勢、ユダヤ人の分裂振りなど、について関心がある人向けの本である。
2015年07月26日
2015年03月20日
『海賊と商人の地中海-マルタ騎士団とギリシア商人の近世海洋史』 モーリー=グリーン
★★★★☆
原題「Catholic Pirates and Greek Merchants-A maritime History of the Mediterranean」
地中海で活動していた「海賊」はイスラーム系の方が知られているが、キリスト教勢力にも「海賊」はいた。それはオスマン帝国にクレタ島を追い出され、マルタ島などに定住した「マルタ騎士団」である。彼らはレパントの海戦でオスマン帝国の海軍力が低下して以降、活動場所を西地中海から東地中海に移し、17世紀に海賊となって地中海を荒し回った。彼らは十字軍の流れを汲むため、イスラーム勢力との戦いが存在理由である。しかし、このとき、彼らが標的としたのは、同じキリスト教徒の「ギリシア商人」であった。
イスラーム勢力との「永久戦争」を掲げながら、マルタ騎士団がギリシア商人を襲ったのは、ギリシア商人がオスマン帝国の臣民であり、オスマン帝国内で商売をしていたからである。
しかも、彼らはこの海賊行為を当時の「法」に則って行っていた。
それは「戦争」の最中ならば、敵国の船に対する「私掠」が許されるというものだ。
マルタ騎士団はイスラーム勢力との「永久戦争」の最中にある。ギリシア商人は(建前はキリスト教徒相手の商売を装いながら)イスラームであるオスマン帝国で商売をしている。敵国と取引をする商船は「私掠」の対象にしても問題はない、という理屈でマルタ騎士団の私掠船はギリシア商人の船を襲った。大抵の場合、積荷だけでなく船ごと略奪され、ムスリム(=イスラーム教徒)が乗船していた場合は捕らえられて奴隷として売り飛ばされた。
マルタ騎士団は永久戦争という「大義」を掲げ、海賊行為を繰り返していたが、大義のためだけに同じキリスト教徒を襲ったのではない。経済的事情が背景にある。騎士団が与えられたマルタ島は不毛の地であった。彼らは生活のためにも海賊行為をせざるを得なかった。そして、その海賊行為によって大いに儲け、17世紀にマルタ島の人口は増加していく。儲かる海賊行為をするために騎士団に入った者もいたようだ。
襲われる側のギリシア人は、襲撃を逃れるために商品を「十字架」が書かれた袋に積めたり、聖人やフランス国旗を掲げたり、と様々に工夫を凝らした。無論、実際はオスマン帝国との商売である。ただ、襲撃逃れの手段は荒くれ者達が集う騎士団には通じなかったようだ。
運良く略奪後に生き延びたギリシア商人は、裁判に訴えて財産を取り戻そうとした。この本はその裁判資料を多用して書かれている。
積荷を取り戻そうとする彼らの努力は大概報われなかったようだ。それでも、商人達は裁判に勝つため、フランスやバチカンなど、カトリック側からの証言をできるだけ集めてマルタ島へ向かった。ギリシア人の多くはカトリックではなく正教徒である。彼らは自らをカトリックに偽装?する証言すら持参して、裁判に臨んだ。
マルタ騎士団は既になきに等しい「永久戦争」を大義として同じキリスト教徒を襲い、ギリシア商人は自らの信仰や商売を偽装してまでそれに対抗する。宗教とは所詮「口実」に過ぎないのかと思わせる両者の行為であるが、彼らの信仰心は嘘ではないのが、またやっかいである。
様々な面で興味深い地中海での「海賊行為」で、著者が何度も指摘するのは、この海賊行為が「法」から外れないように行われていた、という事実である。実はかのカリブ海の海賊達も自らの「海賊行為」を法に叶ったものとしており、できるだけ犯罪者にならないように立ち回っていたのだ。
「海賊」が自らを「犯罪者」にしないように努めていた。
海賊ファンが聞いたらがっくりしそうな現実だが、悪い事をしても罪にならないならその方が良いと思ってしまう、のは現代人も同じだろう。
裁判資料の引用が多く、また、オスマン帝国やキリスト教の基本的な知識が必須であるため、少し難易度が高い本である。ただ、著者が学者の割には文章は読みやすい。
原題「Catholic Pirates and Greek Merchants-A maritime History of the Mediterranean」
地中海で活動していた「海賊」はイスラーム系の方が知られているが、キリスト教勢力にも「海賊」はいた。それはオスマン帝国にクレタ島を追い出され、マルタ島などに定住した「マルタ騎士団」である。彼らはレパントの海戦でオスマン帝国の海軍力が低下して以降、活動場所を西地中海から東地中海に移し、17世紀に海賊となって地中海を荒し回った。彼らは十字軍の流れを汲むため、イスラーム勢力との戦いが存在理由である。しかし、このとき、彼らが標的としたのは、同じキリスト教徒の「ギリシア商人」であった。
イスラーム勢力との「永久戦争」を掲げながら、マルタ騎士団がギリシア商人を襲ったのは、ギリシア商人がオスマン帝国の臣民であり、オスマン帝国内で商売をしていたからである。
しかも、彼らはこの海賊行為を当時の「法」に則って行っていた。
それは「戦争」の最中ならば、敵国の船に対する「私掠」が許されるというものだ。
マルタ騎士団はイスラーム勢力との「永久戦争」の最中にある。ギリシア商人は(建前はキリスト教徒相手の商売を装いながら)イスラームであるオスマン帝国で商売をしている。敵国と取引をする商船は「私掠」の対象にしても問題はない、という理屈でマルタ騎士団の私掠船はギリシア商人の船を襲った。大抵の場合、積荷だけでなく船ごと略奪され、ムスリム(=イスラーム教徒)が乗船していた場合は捕らえられて奴隷として売り飛ばされた。
マルタ騎士団は永久戦争という「大義」を掲げ、海賊行為を繰り返していたが、大義のためだけに同じキリスト教徒を襲ったのではない。経済的事情が背景にある。騎士団が与えられたマルタ島は不毛の地であった。彼らは生活のためにも海賊行為をせざるを得なかった。そして、その海賊行為によって大いに儲け、17世紀にマルタ島の人口は増加していく。儲かる海賊行為をするために騎士団に入った者もいたようだ。
襲われる側のギリシア人は、襲撃を逃れるために商品を「十字架」が書かれた袋に積めたり、聖人やフランス国旗を掲げたり、と様々に工夫を凝らした。無論、実際はオスマン帝国との商売である。ただ、襲撃逃れの手段は荒くれ者達が集う騎士団には通じなかったようだ。
運良く略奪後に生き延びたギリシア商人は、裁判に訴えて財産を取り戻そうとした。この本はその裁判資料を多用して書かれている。
積荷を取り戻そうとする彼らの努力は大概報われなかったようだ。それでも、商人達は裁判に勝つため、フランスやバチカンなど、カトリック側からの証言をできるだけ集めてマルタ島へ向かった。ギリシア人の多くはカトリックではなく正教徒である。彼らは自らをカトリックに偽装?する証言すら持参して、裁判に臨んだ。
マルタ騎士団は既になきに等しい「永久戦争」を大義として同じキリスト教徒を襲い、ギリシア商人は自らの信仰や商売を偽装してまでそれに対抗する。宗教とは所詮「口実」に過ぎないのかと思わせる両者の行為であるが、彼らの信仰心は嘘ではないのが、またやっかいである。
様々な面で興味深い地中海での「海賊行為」で、著者が何度も指摘するのは、この海賊行為が「法」から外れないように行われていた、という事実である。実はかのカリブ海の海賊達も自らの「海賊行為」を法に叶ったものとしており、できるだけ犯罪者にならないように立ち回っていたのだ。
「海賊」が自らを「犯罪者」にしないように努めていた。
海賊ファンが聞いたらがっくりしそうな現実だが、悪い事をしても罪にならないならその方が良いと思ってしまう、のは現代人も同じだろう。
裁判資料の引用が多く、また、オスマン帝国やキリスト教の基本的な知識が必須であるため、少し難易度が高い本である。ただ、著者が学者の割には文章は読みやすい。
2014年08月02日
『禁欲のヨーロッパ』修道院の起源 佐藤彰一
★★★☆☆
帯には「西洋思想のもう一つのルーツ:『我欲』克服を求める心性は、なぜ生まれ、広まったかーギリシア・ローマから修道院の誕生までの1000年史」とある。
日本ではもう守られていないが、仏教では出家の結婚、飲酒、肉食は戒律で禁じられており、一般信者に対しても殺生は戒められた。イスラームでは守るべき五行があり、こちらも地域差がかなりあるが、飲酒が駄目だ。なら、キリスト教は何を禁じているか、といえば、実は全ての宗派に共通する「これ」というものが見当たらない。
そんな中で、禁止事項の多いのがキリスト教の修道院である。
日本では北海道のトラピスチヌ修道院が有名だろうか。
修道院の中での禁欲的生活の起源は、キリスト教自体がそうであるように、ヨーロッパではなく東方にある。東方、即ちオリエント発祥で、ヨーロッパに定着したものは数多ある。では、禁欲の場である修道院はどのように伝わり、どう定着したのか。
著者は古代ギリシア・ローマに遡り、その起源を辿る。
そして、禁欲の場を構成するに至る過程で書き出されるのは、正反対の「欲望」である。
当然であるが、欲望あっての禁欲なので、初めの方ではローマ帝国人の欲望あっての禁欲が目につく。個人的に面白いと思ったのが、身体を健康に保つためには禁欲が必要であるとして、健康のためにセックスを控えた方がよい、という考えがあったところだ。
健康でありたいという欲を実現するために性欲を抑える。
つまり、「禁欲」する理由と目的が「欲望」なのだ。
こういうところにツッコミを入れるとキリがないので止めておくが、「禁欲のヨーロッパ」というタイトルの本で、まざまざとローマ人の欲望を見せつけられると思っていなかったので、書いておいた。また、同じ理由で修道士の欲望と、欲望との戦いも扱われている。
古代ギリシア・ローマから徐々に形成されていた禁欲を許容する、もしくは必要とする土壌が東方由来の「修道院」を受け入れ、発展させていく過程は以下の目次の通り。
第一部 第一章 古代ギリシアとローマの養生法
第二章 女性と子どもの身体をめぐる支配連関
第三章 抑圧の社会的帰結
第四章 キリスト教的禁欲への道程
第五章 社会的禁欲における女性の役割
第二部 第六章 東方修道制の西漸
第七章 聖域と治癒
第八章 聖マルティヌスによる宗教心性の転換
第九章 レランス修道院とローヌ修道院
第十章 ポスト・ローマの司教権力と修道院
この本を読むには、前提として古代ギリシア・ローマ、及びキリスト教に関する最低限の知識は必要であろう。また、東方正教会の諸修道院についてはあまり触れられない。
帯には「西洋思想のもう一つのルーツ:『我欲』克服を求める心性は、なぜ生まれ、広まったかーギリシア・ローマから修道院の誕生までの1000年史」とある。
日本ではもう守られていないが、仏教では出家の結婚、飲酒、肉食は戒律で禁じられており、一般信者に対しても殺生は戒められた。イスラームでは守るべき五行があり、こちらも地域差がかなりあるが、飲酒が駄目だ。なら、キリスト教は何を禁じているか、といえば、実は全ての宗派に共通する「これ」というものが見当たらない。
そんな中で、禁止事項の多いのがキリスト教の修道院である。
日本では北海道のトラピスチヌ修道院が有名だろうか。
修道院の中での禁欲的生活の起源は、キリスト教自体がそうであるように、ヨーロッパではなく東方にある。東方、即ちオリエント発祥で、ヨーロッパに定着したものは数多ある。では、禁欲の場である修道院はどのように伝わり、どう定着したのか。
著者は古代ギリシア・ローマに遡り、その起源を辿る。
そして、禁欲の場を構成するに至る過程で書き出されるのは、正反対の「欲望」である。
当然であるが、欲望あっての禁欲なので、初めの方ではローマ帝国人の欲望あっての禁欲が目につく。個人的に面白いと思ったのが、身体を健康に保つためには禁欲が必要であるとして、健康のためにセックスを控えた方がよい、という考えがあったところだ。
健康でありたいという欲を実現するために性欲を抑える。
つまり、「禁欲」する理由と目的が「欲望」なのだ。
こういうところにツッコミを入れるとキリがないので止めておくが、「禁欲のヨーロッパ」というタイトルの本で、まざまざとローマ人の欲望を見せつけられると思っていなかったので、書いておいた。また、同じ理由で修道士の欲望と、欲望との戦いも扱われている。
古代ギリシア・ローマから徐々に形成されていた禁欲を許容する、もしくは必要とする土壌が東方由来の「修道院」を受け入れ、発展させていく過程は以下の目次の通り。
第一部 第一章 古代ギリシアとローマの養生法
第二章 女性と子どもの身体をめぐる支配連関
第三章 抑圧の社会的帰結
第四章 キリスト教的禁欲への道程
第五章 社会的禁欲における女性の役割
第二部 第六章 東方修道制の西漸
第七章 聖域と治癒
第八章 聖マルティヌスによる宗教心性の転換
第九章 レランス修道院とローヌ修道院
第十章 ポスト・ローマの司教権力と修道院
この本を読むには、前提として古代ギリシア・ローマ、及びキリスト教に関する最低限の知識は必要であろう。また、東方正教会の諸修道院についてはあまり触れられない。
2014年07月20日
『永楽帝』中華「世界システム」への夢 壇上寛
★★★★☆
永楽帝は明王朝の第三代皇帝である。
明はモンゴル勢を追い出して成立した王朝で、中国の歴代王朝の中では元の後、清の前となり、北方の騎馬遊牧民族系王朝に前後を挟まれている。初代皇帝の朱元璋(しゅげんしょう)こと洪武帝は、貧農出の乞食坊主から皇帝まで成り上がり、皇帝権力の強い独裁政権を打ち立てた。
三代目の永楽帝こと朱棣(しゅてい)は彼の第四子である。第四子である彼がどうして第三代皇帝であるのか。それは彼が第二代皇帝であった甥の建文帝から皇位を簒奪したからである。
永楽帝が簒奪者となったのは皇位への野心もあるが、建文帝が叔父を警戒したのも大きく、簒奪者にならなかった場合は恐らく死が待っていただろう。
著者は「華夷思想」「天命思想」を根幹において、朱元璋から永楽帝にかけての諸政策について読み解いていく。
「華夷思想」とは、世界を、その中心である文明化された「中華」と周辺の文明化されていない「夷狄」に分けて捉える思想である。このような自と他を分けて、他を差別する思想は珍しくない。が、ローマやエジプトにもあった周辺への差別意識と違うのは、華夷思想では「夷狄」を差別しつつも包摂して「華」と「夷」を民族ではなく文化で区別した点と、「天命思想」にある。
「天命思想」とは、天子(=皇帝)になるのはその徳を天に認められた有徳者であり、徳を失った天子からは民衆の心は離れ、天は別の有徳者に天命を下すという考え方である。中国では「元」や「清」など、本来なら夷狄にあたる民族が王朝を形成することができた。これは、たとえ夷狄であっても中華の礼と義を獲得すれば中華の民と同列とみなされ、徳があれば民族に関係なく天命は下るということだ。
中国は東アジア世界の中で長らく周縁に先んじる存在であった。そのために形成されたのが「華夷思想」であり、皇帝支配と王朝の交替を肯定・補強する「天命思想」であった。
朱元璋の「海禁」政策、「皇帝独裁体制」の形成、朱棣の「鄭和の南海遠征」、積極的な「モンゴル討伐」など、明初期の特徴的な政策を著者は「華夷思想」によるものとしていく。
鄭和の南海遠征については、建文帝捜索のため、対ティムールのためなど様々な理由が今まであげられているが、これも「華夷思想」によるとされる。何故なら、夷狄の来貢が多ければ多いほど、天子である皇帝にとって己が有徳者である証となるからだ。そのため、永楽帝は何度も鄭和を派遣して朝貢国を積極的に増やしていった。朝貢国の増加は簒奪者である永楽帝を正統化する手段の一つであった。故に、永楽帝はフビライ(クビライ)が従わせることができなかった日本からの朝貢を大いに喜び、足利義満の死に際しては使者を派遣して「恭献王」の諡号を与えている。
日明(勘合)貿易の背景には倭寇だけでない、永楽帝側の事情もあったのだ。
著者は朱元璋と朱棣の政策の要因を「華夷思想」秩序に求めて、一見相反する「海禁」と「南海遠征」を、突き詰めてみれば、同根のものとする。そのため、本の記述は初代の洪武帝から始まっていて、永楽帝に至る道のりはやや長い。
ただ、「南海遠征」=「華夷思想」=簒奪者故の必要性は一読の価値ありだと思う。
永楽帝は明王朝の第三代皇帝である。
明はモンゴル勢を追い出して成立した王朝で、中国の歴代王朝の中では元の後、清の前となり、北方の騎馬遊牧民族系王朝に前後を挟まれている。初代皇帝の朱元璋(しゅげんしょう)こと洪武帝は、貧農出の乞食坊主から皇帝まで成り上がり、皇帝権力の強い独裁政権を打ち立てた。
三代目の永楽帝こと朱棣(しゅてい)は彼の第四子である。第四子である彼がどうして第三代皇帝であるのか。それは彼が第二代皇帝であった甥の建文帝から皇位を簒奪したからである。
永楽帝が簒奪者となったのは皇位への野心もあるが、建文帝が叔父を警戒したのも大きく、簒奪者にならなかった場合は恐らく死が待っていただろう。
著者は「華夷思想」「天命思想」を根幹において、朱元璋から永楽帝にかけての諸政策について読み解いていく。
「華夷思想」とは、世界を、その中心である文明化された「中華」と周辺の文明化されていない「夷狄」に分けて捉える思想である。このような自と他を分けて、他を差別する思想は珍しくない。が、ローマやエジプトにもあった周辺への差別意識と違うのは、華夷思想では「夷狄」を差別しつつも包摂して「華」と「夷」を民族ではなく文化で区別した点と、「天命思想」にある。
「天命思想」とは、天子(=皇帝)になるのはその徳を天に認められた有徳者であり、徳を失った天子からは民衆の心は離れ、天は別の有徳者に天命を下すという考え方である。中国では「元」や「清」など、本来なら夷狄にあたる民族が王朝を形成することができた。これは、たとえ夷狄であっても中華の礼と義を獲得すれば中華の民と同列とみなされ、徳があれば民族に関係なく天命は下るということだ。
中国は東アジア世界の中で長らく周縁に先んじる存在であった。そのために形成されたのが「華夷思想」であり、皇帝支配と王朝の交替を肯定・補強する「天命思想」であった。
朱元璋の「海禁」政策、「皇帝独裁体制」の形成、朱棣の「鄭和の南海遠征」、積極的な「モンゴル討伐」など、明初期の特徴的な政策を著者は「華夷思想」によるものとしていく。
鄭和の南海遠征については、建文帝捜索のため、対ティムールのためなど様々な理由が今まであげられているが、これも「華夷思想」によるとされる。何故なら、夷狄の来貢が多ければ多いほど、天子である皇帝にとって己が有徳者である証となるからだ。そのため、永楽帝は何度も鄭和を派遣して朝貢国を積極的に増やしていった。朝貢国の増加は簒奪者である永楽帝を正統化する手段の一つであった。故に、永楽帝はフビライ(クビライ)が従わせることができなかった日本からの朝貢を大いに喜び、足利義満の死に際しては使者を派遣して「恭献王」の諡号を与えている。
日明(勘合)貿易の背景には倭寇だけでない、永楽帝側の事情もあったのだ。
著者は朱元璋と朱棣の政策の要因を「華夷思想」秩序に求めて、一見相反する「海禁」と「南海遠征」を、突き詰めてみれば、同根のものとする。そのため、本の記述は初代の洪武帝から始まっていて、永楽帝に至る道のりはやや長い。
ただ、「南海遠征」=「華夷思想」=簒奪者故の必要性は一読の価値ありだと思う。
2014年05月26日
『真珠の世界史』富と野望の五千年 山田篤美
★★★★☆
交易品としての「真珠」史を網羅した本である。
書かれる対象はヨーロッパから、アメリカ大陸、日本、アラビア半島、インド、南海諸島と幅広いが、生産地が限られるため、焦点を絞りやすいのが「真珠」の特徴でもある。
地中から掘り出される諸々の宝石と違い、真珠を産するのは生きた貝である。内側に真珠層のある貝はアコヤガイ、アワビ、クロチョウガイ、シロチョウガイ、種類の多い淡水真珠貝など。この中で、特に丸い真珠を抱くアコヤガイは、アラビア湾、紅海、インドとセイロン島の間のマンナール湾、ベネズエラ沖、中国南部のトンキン湾、そして、日本、と古来は生息地が限られていた。
この生きた貝から得られる宝石は、古代から人々を魅了し、早くから貴重な「交易品」となった。
日本での早い事例は、邪馬台国の女王卑弥呼が魏の皇帝から下賜された「真珠五十斤」と、後継者の壱与が、逆に中国に貢いだ「白珠五千孔」である。
真珠は既に弥生時代にその価値が認められており、中国は日本を真珠の産地として認識していた。縄文時代にも真珠を得るためとの確信はないようだが、アコヤガイが山積みになった遺跡が見つかっている。奈良時代までは日本人も真珠を身に付けていたが、平安時代以降、装飾として真珠を用いることを止めてしまう。以後、明治に洋装を着るようになるまで日本人にとって真珠は粉にして飲む薬種の一つに過ぎなくなる。ただ、中国への交易品としての価値は維持していたようだ。
真珠は日本以外の地では、宝石として最高の貴重品であった。
アラブ人、インド人、トルコ人、ヨーロッパ人らを古代から引き付け、多くの財と労力を費やさせた。
彼らは真珠を手に入れるために命懸けで人々を海に潜らせ、大枚をはたいた。また、真珠は大航海時代の要因の一つでもあり、スペイン人はベネズエラ沖で真珠の産地を見つけるなり、インディオを死ぬまで海に潜らせた。フランシスコ=ザビエルがインドに赴いたのも、真珠取りの潜水夫をカトリックに改宗させて、きちんと真珠取りをさせるためであり、彼の後に日本を任されたトーレスが布教の拠点としたのは真珠の産地として知られた長崎の彼杵であった。
真珠は財のある場所に流れ、アメリカの台頭による富裕者の増加で、一挙に値段がつり上がっていった。
そんな真珠高騰の時期に、日本で養殖真珠が生また。この養殖真珠の出現により、宝石としての真珠の価値は一気に下落する。真珠に宝石としての価値を見出して来なかった日本人が養殖真珠の生産に成功したのは皮肉な話だが、ある意味、必然だったのかもしれない。
ただ、今では日本の真珠もかつてのように世界を席巻してはいないし、真珠の養殖が盛んだった場所はアコヤガイの排泄物などによる汚染が深刻であり、貝の病気も蔓延している。日本以外の養殖地でも海の汚れで貝が育たなくなっている。
改善のための努力はされているが、もし、今後、養殖真珠の生産量が目激減すれば、真珠の価値はまた変わるに違いない。
大航海時代、真珠2粒は奴隷1人の値段に相当した。
貝がたまたま作り出す白い珠が、人間と同じ価値を持ったような時代がまた来るかもしれない…、と想像だけで済めば良いのだが。
交易品としての「真珠」史を網羅した本である。
書かれる対象はヨーロッパから、アメリカ大陸、日本、アラビア半島、インド、南海諸島と幅広いが、生産地が限られるため、焦点を絞りやすいのが「真珠」の特徴でもある。
地中から掘り出される諸々の宝石と違い、真珠を産するのは生きた貝である。内側に真珠層のある貝はアコヤガイ、アワビ、クロチョウガイ、シロチョウガイ、種類の多い淡水真珠貝など。この中で、特に丸い真珠を抱くアコヤガイは、アラビア湾、紅海、インドとセイロン島の間のマンナール湾、ベネズエラ沖、中国南部のトンキン湾、そして、日本、と古来は生息地が限られていた。
この生きた貝から得られる宝石は、古代から人々を魅了し、早くから貴重な「交易品」となった。
日本での早い事例は、邪馬台国の女王卑弥呼が魏の皇帝から下賜された「真珠五十斤」と、後継者の壱与が、逆に中国に貢いだ「白珠五千孔」である。
真珠は既に弥生時代にその価値が認められており、中国は日本を真珠の産地として認識していた。縄文時代にも真珠を得るためとの確信はないようだが、アコヤガイが山積みになった遺跡が見つかっている。奈良時代までは日本人も真珠を身に付けていたが、平安時代以降、装飾として真珠を用いることを止めてしまう。以後、明治に洋装を着るようになるまで日本人にとって真珠は粉にして飲む薬種の一つに過ぎなくなる。ただ、中国への交易品としての価値は維持していたようだ。
真珠は日本以外の地では、宝石として最高の貴重品であった。
アラブ人、インド人、トルコ人、ヨーロッパ人らを古代から引き付け、多くの財と労力を費やさせた。
彼らは真珠を手に入れるために命懸けで人々を海に潜らせ、大枚をはたいた。また、真珠は大航海時代の要因の一つでもあり、スペイン人はベネズエラ沖で真珠の産地を見つけるなり、インディオを死ぬまで海に潜らせた。フランシスコ=ザビエルがインドに赴いたのも、真珠取りの潜水夫をカトリックに改宗させて、きちんと真珠取りをさせるためであり、彼の後に日本を任されたトーレスが布教の拠点としたのは真珠の産地として知られた長崎の彼杵であった。
真珠は財のある場所に流れ、アメリカの台頭による富裕者の増加で、一挙に値段がつり上がっていった。
そんな真珠高騰の時期に、日本で養殖真珠が生また。この養殖真珠の出現により、宝石としての真珠の価値は一気に下落する。真珠に宝石としての価値を見出して来なかった日本人が養殖真珠の生産に成功したのは皮肉な話だが、ある意味、必然だったのかもしれない。
ただ、今では日本の真珠もかつてのように世界を席巻してはいないし、真珠の養殖が盛んだった場所はアコヤガイの排泄物などによる汚染が深刻であり、貝の病気も蔓延している。日本以外の養殖地でも海の汚れで貝が育たなくなっている。
改善のための努力はされているが、もし、今後、養殖真珠の生産量が目激減すれば、真珠の価値はまた変わるに違いない。
大航海時代、真珠2粒は奴隷1人の値段に相当した。
貝がたまたま作り出す白い珠が、人間と同じ価値を持ったような時代がまた来るかもしれない…、と想像だけで済めば良いのだが。
2014年05月05日
『イギリス繁栄のあとさき』 川北稔
★★★★★
かつての大英帝国が現在進行形で続けている「緩やかな没落」から、今後、間違いなく同じ道を辿る(辿っている)日本について学べることがあるのでは、という視点を混ぜた歴史エッセイである。
帯にある「大都市への一極集中、老親の扶養問題、新しい生活様式の誕生…、現代日本を考えるヒントの数々 イギリスの緩やかな没落に学ぶ 一国史観でも、発展段階論でもない、世界システム論で歴史を読み解く」でもう内容の説明は十分だと思う。
ただ、用語として「世界システム論」がよく分からないという人もあると思うので、これについては少し書いておく。
「世界システム論」とは、近代の世界史を読み解く際に「世界は1つ」という視点から歴史の事象を掘り下げるものである。
産業革命によって、世界は「先進国」と「後進国」に分かれたのではない。
西ヨーロッパがアメリカ大陸やカリブ海諸国、アフリカなどを植民地とし、食料・原材料・エネルギー供給地とすることで、それらの地域は「周辺」、そして、「後進国」となり、西ヨーロッパは「中核」として産業発展を遂げた。つまり、産業革命を成し遂げたから大英帝国になったのではなく、広大な植民地を所有する大英帝国になったから、産業革命が起き、後進国は発展が遅れたのではなく、中核に食料などの供給地を担わされたために、産業が起きようがなかったのだ。
既に世界史の教科書などでもこの視点は用いられており、最新の見方ではない。この本も原型は1995年に出ている。
1995年の時点で日本の後退は自明であった。
二十年近く前に出た本の内容が、現在でも十分に読むに値し、通用すると思われることからも、この本の「緩やかな没落に学ぶ」有効性は立証できるだろう。
もしかして、伝統に基づかない「受けそうな」日本の文化を世界に売り込もうとする風潮は、この本を読んだ誰かが仕掛けたのではないか…?
そんな読了感が残る本である。
かつての大英帝国が現在進行形で続けている「緩やかな没落」から、今後、間違いなく同じ道を辿る(辿っている)日本について学べることがあるのでは、という視点を混ぜた歴史エッセイである。
帯にある「大都市への一極集中、老親の扶養問題、新しい生活様式の誕生…、現代日本を考えるヒントの数々 イギリスの緩やかな没落に学ぶ 一国史観でも、発展段階論でもない、世界システム論で歴史を読み解く」でもう内容の説明は十分だと思う。
ただ、用語として「世界システム論」がよく分からないという人もあると思うので、これについては少し書いておく。
「世界システム論」とは、近代の世界史を読み解く際に「世界は1つ」という視点から歴史の事象を掘り下げるものである。
産業革命によって、世界は「先進国」と「後進国」に分かれたのではない。
西ヨーロッパがアメリカ大陸やカリブ海諸国、アフリカなどを植民地とし、食料・原材料・エネルギー供給地とすることで、それらの地域は「周辺」、そして、「後進国」となり、西ヨーロッパは「中核」として産業発展を遂げた。つまり、産業革命を成し遂げたから大英帝国になったのではなく、広大な植民地を所有する大英帝国になったから、産業革命が起き、後進国は発展が遅れたのではなく、中核に食料などの供給地を担わされたために、産業が起きようがなかったのだ。
既に世界史の教科書などでもこの視点は用いられており、最新の見方ではない。この本も原型は1995年に出ている。
1995年の時点で日本の後退は自明であった。
二十年近く前に出た本の内容が、現在でも十分に読むに値し、通用すると思われることからも、この本の「緩やかな没落に学ぶ」有効性は立証できるだろう。
もしかして、伝統に基づかない「受けそうな」日本の文化を世界に売り込もうとする風潮は、この本を読んだ誰かが仕掛けたのではないか…?
そんな読了感が残る本である。
2014年02月11日
『アッバース大王』-現代イランの基礎を築いた苛烈なるシャー- デイヴィッド・ブロー
★★★★☆
英題「Shah Abbas:The Ruthless King Who Became an Iranian Legend」
帯の表に「『大胆かつ残酷な決断。サファヴィー朝を救った英主にして暴君』大量処刑や反乱の弾圧で、シーア派宗教指導者による権威の保障と協力な中央集権体制を実現したアッバース一世。「大王」の生涯とその影響を、資料を駆使して描破する」とある。
確かにそうなのだが、この帯の表の煽り文はイマイチだと思う。裏の「長男を亡き者にし、下の息子二人の目を潰した冷酷な暴君。だがしかし、臣民には英雄と讃えられた。」の方が人物アピールとして分かり易くて良い。そもそもアッバース一世を知る日本人は少ない。
アッバース一世はイランにあったサファヴィー朝の第五代のシャー(=君主)である。同時代の君主として、イングランドのエリザベス一世、日本の徳川家康などを挙げれば、だいたいの時代感覚は掴めるだろう。日本で戦国時代が終わり、イングランドが大英帝国としての第一歩を踏み出そうとしていた頃、イランでは国家の「基礎」ができあがった。
ここで言うイランの基礎とは、国教としての「シーア派」と中央集権国家体制の確立である。
イスラームにおいてシーア派は少数派であり、スンナ(スンニ)派が多数派である。アッバース一世の時代も現代でも両者の少数多数の関係と、対立の深刻さはあまり変わらない。スンナ派が大勢を占める中にあって、イランは、イランだけはシーア派を国教としている。それ故にイランはイスラームの中にあって同じイスラームに攻撃されやすい立場となり、国内にシーア派を抱える周辺国から常に警戒されてもいる。では、どうしてイランでは少数派のシーア派が圧倒的に優勢なのかと言えば、その理由はサファヴィー朝にある。
サファヴィー朝という王朝名はアッバース一世の祖先シャイフ・サフィー・ウッディーンに由来する。彼はサファヴィー教団なるスーフィー教団(スーフィーとはイスラーム神秘主義のこと)を興し、自分を「無謬の導師」、信者を「弟子」と呼び、弟子は導師に絶対的に服従するという関係をつくりあげた。教団は大勢の信者を獲得し、十五世紀後半まではスンナ派であったが、中途からシーア派過激主義となった。教団は教主を終末の日に「世界を正義で満たすため」に現れる隠れイマームの化身とし、トルコ系の遊牧民にも多くの信者を得た。アッバース一世の祖父イスマーイール一世は、キズィルバーシュと呼ばれる、このトルコ系遊牧部族の熱狂的な支持を得て、イランの征服に乗り出し、サファヴィー朝を成立させ、イスラーム・シーア派を国教とした。
つまり、サファヴィー朝はその名も成立過程も「宗教団体」由来なのだ。
君主は代々「隠れイマームの代理者」であると主張し、それをサファヴィー朝がイランを支配する正統な根拠とした。しかし、トルコ系遊牧民族の軍事力に頼る君主の立場はさほど強いものではなく、政治の実権はキズィルバーシュが握った。このキズィルバーシュを抑え、独自の常備軍を整えてイランに中央集権体制を築いたのが、アッバース一世である。
本書ではサファヴィー朝の成立過程を簡潔に記した後、アッバース一世がどのように中央集権体制を築いたのか、を描写していく。
イランは隣国のオスマン帝国への圧力を狙って、ヨーロッパとも積極的に交渉を重ねた。その交渉相手にはローマ教皇も含まれるのがアッバース一世の柔軟性を示している。
この点から分かるように、アッバース一世の人物像は複雑である。国家の基盤をイスラームに置きながらキリスト教徒と交渉し、父王から力で王位を簒奪し、己の地位を守るため子を殺すなど非情な面があるながら、国民からは現代に至るまで「偉大な王」として慕われている。アッバース一世が王位に就いたとき、サファヴィー朝は弱体化し、疲弊していた。弱り切った国を建て直し、サファヴィー朝に最盛期をもたらしたアッバース一世は何をしたのか、そして彼はどのような人物であったのか。
この本では第1章から13章でその生涯を紹介し、14章から20章でアッバース一世の個性を描写する。
資料はふんだんに用いられ、脚注も充実している。一般向けに書かれているので、かなり読みやすい。ただ、オスマン帝国、ムガル帝国などの同時代の周辺事情の基本的な知識はあった方がいいだろう。
私はこのアッバース一世に関するこの本を読みながら、先に挙げたエリザベス一世・徳川家康との妙な共通性を感じた。三者とも弱い立ち位置から成り上がって、国家を安定に導いた、非情と妥協と強情を使い分ける「複雑」な様相の持ち主だ。この三者に共通する「複雑」な様相には、同時代の支配者だからではなく、三者に共通する即応的な現実主義が表れているような気がするのだが、さて、どうだろうか。
英題「Shah Abbas:The Ruthless King Who Became an Iranian Legend」
帯の表に「『大胆かつ残酷な決断。サファヴィー朝を救った英主にして暴君』大量処刑や反乱の弾圧で、シーア派宗教指導者による権威の保障と協力な中央集権体制を実現したアッバース一世。「大王」の生涯とその影響を、資料を駆使して描破する」とある。
確かにそうなのだが、この帯の表の煽り文はイマイチだと思う。裏の「長男を亡き者にし、下の息子二人の目を潰した冷酷な暴君。だがしかし、臣民には英雄と讃えられた。」の方が人物アピールとして分かり易くて良い。そもそもアッバース一世を知る日本人は少ない。
アッバース一世はイランにあったサファヴィー朝の第五代のシャー(=君主)である。同時代の君主として、イングランドのエリザベス一世、日本の徳川家康などを挙げれば、だいたいの時代感覚は掴めるだろう。日本で戦国時代が終わり、イングランドが大英帝国としての第一歩を踏み出そうとしていた頃、イランでは国家の「基礎」ができあがった。
ここで言うイランの基礎とは、国教としての「シーア派」と中央集権国家体制の確立である。
イスラームにおいてシーア派は少数派であり、スンナ(スンニ)派が多数派である。アッバース一世の時代も現代でも両者の少数多数の関係と、対立の深刻さはあまり変わらない。スンナ派が大勢を占める中にあって、イランは、イランだけはシーア派を国教としている。それ故にイランはイスラームの中にあって同じイスラームに攻撃されやすい立場となり、国内にシーア派を抱える周辺国から常に警戒されてもいる。では、どうしてイランでは少数派のシーア派が圧倒的に優勢なのかと言えば、その理由はサファヴィー朝にある。
サファヴィー朝という王朝名はアッバース一世の祖先シャイフ・サフィー・ウッディーンに由来する。彼はサファヴィー教団なるスーフィー教団(スーフィーとはイスラーム神秘主義のこと)を興し、自分を「無謬の導師」、信者を「弟子」と呼び、弟子は導師に絶対的に服従するという関係をつくりあげた。教団は大勢の信者を獲得し、十五世紀後半まではスンナ派であったが、中途からシーア派過激主義となった。教団は教主を終末の日に「世界を正義で満たすため」に現れる隠れイマームの化身とし、トルコ系の遊牧民にも多くの信者を得た。アッバース一世の祖父イスマーイール一世は、キズィルバーシュと呼ばれる、このトルコ系遊牧部族の熱狂的な支持を得て、イランの征服に乗り出し、サファヴィー朝を成立させ、イスラーム・シーア派を国教とした。
つまり、サファヴィー朝はその名も成立過程も「宗教団体」由来なのだ。
君主は代々「隠れイマームの代理者」であると主張し、それをサファヴィー朝がイランを支配する正統な根拠とした。しかし、トルコ系遊牧民族の軍事力に頼る君主の立場はさほど強いものではなく、政治の実権はキズィルバーシュが握った。このキズィルバーシュを抑え、独自の常備軍を整えてイランに中央集権体制を築いたのが、アッバース一世である。
本書ではサファヴィー朝の成立過程を簡潔に記した後、アッバース一世がどのように中央集権体制を築いたのか、を描写していく。
イランは隣国のオスマン帝国への圧力を狙って、ヨーロッパとも積極的に交渉を重ねた。その交渉相手にはローマ教皇も含まれるのがアッバース一世の柔軟性を示している。
この点から分かるように、アッバース一世の人物像は複雑である。国家の基盤をイスラームに置きながらキリスト教徒と交渉し、父王から力で王位を簒奪し、己の地位を守るため子を殺すなど非情な面があるながら、国民からは現代に至るまで「偉大な王」として慕われている。アッバース一世が王位に就いたとき、サファヴィー朝は弱体化し、疲弊していた。弱り切った国を建て直し、サファヴィー朝に最盛期をもたらしたアッバース一世は何をしたのか、そして彼はどのような人物であったのか。
この本では第1章から13章でその生涯を紹介し、14章から20章でアッバース一世の個性を描写する。
資料はふんだんに用いられ、脚注も充実している。一般向けに書かれているので、かなり読みやすい。ただ、オスマン帝国、ムガル帝国などの同時代の周辺事情の基本的な知識はあった方がいいだろう。
私はこのアッバース一世に関するこの本を読みながら、先に挙げたエリザベス一世・徳川家康との妙な共通性を感じた。三者とも弱い立ち位置から成り上がって、国家を安定に導いた、非情と妥協と強情を使い分ける「複雑」な様相の持ち主だ。この三者に共通する「複雑」な様相には、同時代の支配者だからではなく、三者に共通する即応的な現実主義が表れているような気がするのだが、さて、どうだろうか。
2014年01月03日
『黒死病』疫病の社会史 ノーマン・F・カンター
★★★☆☆
『IN THE WAKE OF THE PLAGUE』The Black Death & the World it Made
歴史・社会学および比較文学を専門とする米国の中世史研究者による「黒死病」の本である。
黒死病がヨーロッパの人口の三〜四割を死に至らしめたことは知っていても、具体的な黒死病の症状や社会的影響についてはさして知らないなと思い、購入した。本屋にあった黒死病の本が二冊だったため、ジャーナリストが著者のと迷ったのだが、こちらにしてみた。
専門家らしくヨーロッパ全域を広く浅く扱うのではなく、イングランドの修道院の記録文書などを用いながら、局地的な資料から周辺を読み解いていく記事が多い。そのため、慣れない人には読み辛い内容になっている。
どんな具合かといえば、こんな感じだ。
イングランド国王エドワード三世の娘ジョーン王女はペドロ皇太子との婚姻のためにスペインに向かう途中…という前振りをした後に英仏の百年戦争の話題に入って、当時の王族階級の女性の寿命や妊娠にいき、王女が持参しようとしていた衣裳に触れた後、次は…と周囲を巡ってから王女の話に戻って、彼女が黒死病に感染し、十五歳で命を落とした…その結果、という書き方になっている。
この書き方を適切だと思うかどうかは、読む人によるだろう。
黒死病が本当にペストであったか、にも疑義を差し挟んで炭疽菌などの可能性にも触れた後、宇宙からの飛来説も取り上げているあたりが人によっては「え?」となる筈だ。
個人的には黒死病とユダヤ人への迫害なども興味深く読めた。
黒死病の流行に関して、ユダヤ人が井戸へ毒を投げ入れたからだ、という理由が流布したのは比較的知られている。それでユダヤ人への迫害が広がったのも有名な話だ。興味深いのは、まだ黒死病が流行していない地域でもユダヤ人への迫害が行われ、キリスト教教会のお偉いさんが流行ってもいない黒死病を理由に、ユダヤ人達から財産を積極的に没収している事実だ。
ナチスもユダヤ人を迫害しつつ財産を没収していたのを思い出した。
宗教の力でも対抗できない病を利用する人間のしたたかさというより、もうこれは極悪さに近い。黒死病から見える社会の諸相はイングランドに集中していて広範ではないが、他所でも通じる変化と人間性であるから特に問題はないだろう。
『IN THE WAKE OF THE PLAGUE』The Black Death & the World it Made
歴史・社会学および比較文学を専門とする米国の中世史研究者による「黒死病」の本である。
黒死病がヨーロッパの人口の三〜四割を死に至らしめたことは知っていても、具体的な黒死病の症状や社会的影響についてはさして知らないなと思い、購入した。本屋にあった黒死病の本が二冊だったため、ジャーナリストが著者のと迷ったのだが、こちらにしてみた。
専門家らしくヨーロッパ全域を広く浅く扱うのではなく、イングランドの修道院の記録文書などを用いながら、局地的な資料から周辺を読み解いていく記事が多い。そのため、慣れない人には読み辛い内容になっている。
どんな具合かといえば、こんな感じだ。
イングランド国王エドワード三世の娘ジョーン王女はペドロ皇太子との婚姻のためにスペインに向かう途中…という前振りをした後に英仏の百年戦争の話題に入って、当時の王族階級の女性の寿命や妊娠にいき、王女が持参しようとしていた衣裳に触れた後、次は…と周囲を巡ってから王女の話に戻って、彼女が黒死病に感染し、十五歳で命を落とした…その結果、という書き方になっている。
この書き方を適切だと思うかどうかは、読む人によるだろう。
黒死病が本当にペストであったか、にも疑義を差し挟んで炭疽菌などの可能性にも触れた後、宇宙からの飛来説も取り上げているあたりが人によっては「え?」となる筈だ。
個人的には黒死病とユダヤ人への迫害なども興味深く読めた。
黒死病の流行に関して、ユダヤ人が井戸へ毒を投げ入れたからだ、という理由が流布したのは比較的知られている。それでユダヤ人への迫害が広がったのも有名な話だ。興味深いのは、まだ黒死病が流行していない地域でもユダヤ人への迫害が行われ、キリスト教教会のお偉いさんが流行ってもいない黒死病を理由に、ユダヤ人達から財産を積極的に没収している事実だ。
ナチスもユダヤ人を迫害しつつ財産を没収していたのを思い出した。
宗教の力でも対抗できない病を利用する人間のしたたかさというより、もうこれは極悪さに近い。黒死病から見える社会の諸相はイングランドに集中していて広範ではないが、他所でも通じる変化と人間性であるから特に問題はないだろう。
2013年12月31日
『ナチスのキッチン』-「食べること」の環境史- 藤原辰史
★★★☆☆
タイトルにナチスとあるが、これは現代のシステムキッチンが形成されていく過程でもある。台所といえば、今でも女性の仕事場だ。本書はその「台所」を通して、設計、調理道具、家政学、レシピからナチスがどのように台所にまで介入していたか、また主婦をはじめとした女性達がどのように台所を通してナチスに貢献したか、ドイツ民族ならではキッチンへの復古を主張しながら真逆のシステムキッチン化推奨しかできなかったナチスのジレンマとその要因を書き出していく。
これも目次があった方が内容が把握しやすいので、記しておく。
序章 台所の環境思想史
一、歴史の基層としての台所
二、テイラー・システムとナチズム
三、台所の変革者たち
四、台所をどうとらえるか―定義とアングル
第1章 台所空間の「工場」化―建築課題としての台所
一、ドイツ台所小史―「煙と煤」から「ガスと電気」へ
二、ドイツ台所外史―「キッチンの集団化」という傍流
三、第一次世界大戦の衝撃―集団給食の登場
四、フランクフルト・キッチンー「赤いウィーン」から来た女性建築家
五、考えるキッチンーエルナ・マイヤーの挑戦
六、ナチス・キッチン?
七、労働者、約一名の「工場」
第2章 調理道具のテクノロジー化―市場としての台所
一、電化される家族愛ー快適、清潔、衛生的
二、台所道具の進歩の背景
三、マニュアル化する台所仕事ー人間から道具
四、市場化する家事ー消費者センター「ハイバウディ」の歴史
五、報酬なきテイラー主義の果てに
第3章 家政学の挑戦
一、家政学とは何か
二、家政学の根本問題―『家政年報』創刊号
三、家政学の可能性と限界ー『家政年報』1928-1932
四、家政学のナチ化ー『家政年報』1933-1935
五、家政学の戦時体制化ー『家政年報』1939-1944
六、家政学が台所に与えた影響
第4章 レシピの思想史
一、ドイツ・レシピ少史
二、読み継がれる料理本ー食の嗜好の変化のなかで
三、企業のレシピーナチズムへの道
四、栄養素に還元される料理
第5章 台所のナチ化ーテイラー主義の果てに
一、台所からみたナチズム
二、「第二の性」の戦場
三、「主婦のヒエラルキー」の形成ー母親学校、更生施設、そして占領地へ
四、無駄なくせ闘争
五、残飯で豚を育てるー食料援助事業
六、食の公共化の帰結
終章 来たるべき台所のために
一、労働空間、生態空間、信仰の場
二、台所の改革者たちとナチズム
三、ナチスのキッチンを超えて
一口に台所と言っても、そこから見えてくる背景は広い。著者は「ナチス」に特化することで台所から見える戦時体制と戦時が台所に与えた影響、そしてそれが台所とその環境をどのように変化させたか、資料を豊富に使いながら読み解き、女性を拘束する場としての台所の存在自体にも疑義を差し挟んでいく。
女性一人で効率的に働けるように構築された「台所」にはどんな将来像が描けるか。
著者の問題提起には「背景」が抱える諸問題も含まれる。
タイトルにナチスとあるが、これは現代のシステムキッチンが形成されていく過程でもある。台所といえば、今でも女性の仕事場だ。本書はその「台所」を通して、設計、調理道具、家政学、レシピからナチスがどのように台所にまで介入していたか、また主婦をはじめとした女性達がどのように台所を通してナチスに貢献したか、ドイツ民族ならではキッチンへの復古を主張しながら真逆のシステムキッチン化推奨しかできなかったナチスのジレンマとその要因を書き出していく。
これも目次があった方が内容が把握しやすいので、記しておく。
序章 台所の環境思想史
一、歴史の基層としての台所
二、テイラー・システムとナチズム
三、台所の変革者たち
四、台所をどうとらえるか―定義とアングル
第1章 台所空間の「工場」化―建築課題としての台所
一、ドイツ台所小史―「煙と煤」から「ガスと電気」へ
二、ドイツ台所外史―「キッチンの集団化」という傍流
三、第一次世界大戦の衝撃―集団給食の登場
四、フランクフルト・キッチンー「赤いウィーン」から来た女性建築家
五、考えるキッチンーエルナ・マイヤーの挑戦
六、ナチス・キッチン?
七、労働者、約一名の「工場」
第2章 調理道具のテクノロジー化―市場としての台所
一、電化される家族愛ー快適、清潔、衛生的
二、台所道具の進歩の背景
三、マニュアル化する台所仕事ー人間から道具
四、市場化する家事ー消費者センター「ハイバウディ」の歴史
五、報酬なきテイラー主義の果てに
第3章 家政学の挑戦
一、家政学とは何か
二、家政学の根本問題―『家政年報』創刊号
三、家政学の可能性と限界ー『家政年報』1928-1932
四、家政学のナチ化ー『家政年報』1933-1935
五、家政学の戦時体制化ー『家政年報』1939-1944
六、家政学が台所に与えた影響
第4章 レシピの思想史
一、ドイツ・レシピ少史
二、読み継がれる料理本ー食の嗜好の変化のなかで
三、企業のレシピーナチズムへの道
四、栄養素に還元される料理
第5章 台所のナチ化ーテイラー主義の果てに
一、台所からみたナチズム
二、「第二の性」の戦場
三、「主婦のヒエラルキー」の形成ー母親学校、更生施設、そして占領地へ
四、無駄なくせ闘争
五、残飯で豚を育てるー食料援助事業
六、食の公共化の帰結
終章 来たるべき台所のために
一、労働空間、生態空間、信仰の場
二、台所の改革者たちとナチズム
三、ナチスのキッチンを超えて
一口に台所と言っても、そこから見えてくる背景は広い。著者は「ナチス」に特化することで台所から見える戦時体制と戦時が台所に与えた影響、そしてそれが台所とその環境をどのように変化させたか、資料を豊富に使いながら読み解き、女性を拘束する場としての台所の存在自体にも疑義を差し挟んでいく。
女性一人で効率的に働けるように構築された「台所」にはどんな将来像が描けるか。
著者の問題提起には「背景」が抱える諸問題も含まれる。
2013年08月04日
『国民アイデンティティの創造』 アンヌ=マリ・ティエス
★★★★☆
副題:十八〜十九世紀のヨーロッパ
「国家」「国民」「民族」は全て人によって「創作」されたものである。しかも、その形成は新しく、頑張って遡ってもせいぜい18〜19世紀のヨーロッパである。18世紀以前に「国民」は存在しない。日本では明治維新以後、日清戦争前後になってようやく形成されたものだろう。それは他のアジア諸国でも同じで、主に植民地支配への抵抗を経て、「国家」「国民」の意識ができあがっていった。
さりながら、そうやって近代国家を真っ先に創作し、他の地域にもこれを強制したヨーロッパにおいて、国家としての境界をゆるがす「EU」が成立したのは2つの大戦と、経済的な事情が大きい。
著者はその「国家」「国民」がどのような人々(グリム兄弟ら)の手によって、どのように創作されていったのか。東西南北全てのヨーロッパ諸国の事例を挙げながら、その歴史的な過程を追っている。
面白いのは「国民(ネーション)」アイデンティティの創作がどの国でも「インターナショナル」に展開している点である。
卑近な例で言えば、中国は日本と戦い、日本の近代化に学ぶことで、「中国」という国家を形成し、「中国人」という国民を形成した。その道を示した孫文などリーダー達は多くが日本やヨーロッパなどに留学・亡命経験があり、インターナショナルな人材であった。
ヨーロッパでも事情は同じで、他者に対する対抗心から自己のアイデンティティや歴史、祖先、伝統、物語、国家言語、民族衣装が創作されるが、その方法は大概他国や外国人に学んで始まるのだ。
「ネーション」の成立は他の「ネーション」との対立に繋がる。これは個人がアイデンティティを確立した場合でも同じだ。それが強烈であればあるほど、他者との衝突を生みやすい。衝突を回避するためインターナショナルに努めれば努めるほど、今度は自己のアイデンティティが揺らいでしまう。
個と集団を如何に上手くコントロールするか、近現代の歴史はそれを前に右往左往するだけの時代でもあるといえる。
副題:十八〜十九世紀のヨーロッパ
「国家」「国民」「民族」は全て人によって「創作」されたものである。しかも、その形成は新しく、頑張って遡ってもせいぜい18〜19世紀のヨーロッパである。18世紀以前に「国民」は存在しない。日本では明治維新以後、日清戦争前後になってようやく形成されたものだろう。それは他のアジア諸国でも同じで、主に植民地支配への抵抗を経て、「国家」「国民」の意識ができあがっていった。
さりながら、そうやって近代国家を真っ先に創作し、他の地域にもこれを強制したヨーロッパにおいて、国家としての境界をゆるがす「EU」が成立したのは2つの大戦と、経済的な事情が大きい。
著者はその「国家」「国民」がどのような人々(グリム兄弟ら)の手によって、どのように創作されていったのか。東西南北全てのヨーロッパ諸国の事例を挙げながら、その歴史的な過程を追っている。
面白いのは「国民(ネーション)」アイデンティティの創作がどの国でも「インターナショナル」に展開している点である。
卑近な例で言えば、中国は日本と戦い、日本の近代化に学ぶことで、「中国」という国家を形成し、「中国人」という国民を形成した。その道を示した孫文などリーダー達は多くが日本やヨーロッパなどに留学・亡命経験があり、インターナショナルな人材であった。
ヨーロッパでも事情は同じで、他者に対する対抗心から自己のアイデンティティや歴史、祖先、伝統、物語、国家言語、民族衣装が創作されるが、その方法は大概他国や外国人に学んで始まるのだ。
「ネーション」の成立は他の「ネーション」との対立に繋がる。これは個人がアイデンティティを確立した場合でも同じだ。それが強烈であればあるほど、他者との衝突を生みやすい。衝突を回避するためインターナショナルに努めれば努めるほど、今度は自己のアイデンティティが揺らいでしまう。
個と集団を如何に上手くコントロールするか、近現代の歴史はそれを前に右往左往するだけの時代でもあるといえる。