2016年06月11日

『武家権力と文学ー柳営連歌、『帝鑑図説』』 入口敦志

★★★☆☆

帯に「将軍家や大名家は、文学的活動をその権力の誇示として積極的に利用していた。寺社に奉納された将軍の歌仙絵、幕府で行われた柳営連歌、帝王教育の教材とされた『帝鑑図説』など、権力といかに関わっていたかを解明する」とある。
これに目次を読むとだいたいの内容が分かると言いたいところではあるが、タイトルが簡潔であるため、目次での内容推察は難しい。

序章 武家の荘厳
第一章 柳営連歌考 第一節 将軍の連歌
          第二節 二ノ丸権現様興廃記
          第三節 御連歌御由緒考
第二章 『帝鑑図説』考 第一節 模倣と変容
            第二節 唐冠人物の来歴
            第三節 唐破風考
            第四節 『帝鑑図説』の読まれ方
終章 権力と出版

簡単に各章の内容を記すと、
序章:東照宮などの社に奉納された歌仙絵と武家の関係について
第一章:徳川将軍家と連歌の関係について考察しつつ、三代将軍が如何に初代の家康に執着していたか、についても
第二章:秀頼のために作られた『帝鑑図説』についての考察と、その図説の「図」についての検討と、使われ方や解釈について
(終章は第二章と継続した内容であるため割愛)
となる。
武家権力が如何に文学を「権力誇示」のために活用したか、を主張する本であるため、逆からの視点が連歌参加者の部分くらいである。序章で家康が冷泉為満に古今伝授を受けたことについて触れているが、それも偏に権力のためと書くのみで、冷泉為満が長く家康に仕えていたことや、家康には経済的に困窮していた冷泉為満の方から接近したなどの事情については言及されない。そもそも大御所時代に家康と為満に和歌に関する交流があったと書いており、それ以前を全く調べていないのは明白で、家康と和歌のことについての追求はさほど深くない。(古今伝授も大谷俊太氏の論文を引用して、その主張をそのまま使っている。古今伝授と細川幽斎、徳川家康、智仁親王の関係については、何も触れていない)
ただ、連歌と将軍家の関係や祖父に入れ込み過ぎておかしい家光など、個人的に浅かった部分での新しい知見はあったので、★3つ。
第二章の『帝鑑図説』は、一〜三まで「図説」に使われている絵の考察である。秀吉の肖像画との関係や日光東照宮などでの「図」の使用など、帝王教育ための本が第一章と同じく、権力にどう利用されたか、について検討されている。政治的な影響力に関しては第四節の読まれ方に池田光政による百姓への「仁愛」実践例などがある。帝王学の「本」と解釈が実際の政治に影響する例が興味深かった。

終章で再び権力と文学の関係に戻るが、池田光政の実例のように権力者は文化を利用しているようで、本の内容に影響されて動いてしまうことからも、文化に「踊らされてもいる」のだな、と思った。
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2016年04月01日

『戦国時代の天皇と公家衆たち』 日本史史料研究会監修 神田裕理編

★★★☆☆

タイトルの前には「ここまでわかった」とあるが、長くなるので省略。家康に関する情報を増やそうと貴族の日記を読んでいるので、基本を押さえようかと買ってみた。が、貴族の日記を読んでいる人間には7割近くが「既知」の内容であった。
戦国時代に興味があり、各地の大名の動向は知っていても「朝廷」「貴族」のことはよく知らないし史料も読んだことがない、という人にはおススメの本だろう。ただ、一部の内容に「それは違うのでは?」という点があったため、この書評ではそこを指摘しておく。

6、武家も重宝した公家の「家業」とは?
というタイトルの中で山科家の「衣紋」が「公家の家業」の事例として取り上げられている。そこに「言経は勅勘(ちょっかん:天皇の怒りにより、朝廷への出仕を禁じられること)中に豊臣秀吉・秀次や徳川家康の知遇を受けることになる」とあるが、言経が秀吉と直に会ったのは勅勘前で勅勘後ではない。秀吉に頼んで勅免(ちょくめん:天皇の許し。勅勘の反対)を得ようとはしていても、それは細川幽斎や大村由己を挟んでの間接的な動きである。勅勘中に言経が扶持を貰っていたのは秀次と家康であり、秀吉との間には「知遇」と呼べるほどの関係はないのを指摘しておく。
また、「山科家の装束調達は朝廷だけでなく、武家にも必要とされた」と、山科家の「家業」が徳川にとって重要だったかのように書いているが、山科言経は「衣紋」の家業で家康から扶持を貰い始めたのではない。その証拠に言経が家康の所に行って何をするかといえば、基本的に「雑談」だ。時期にもよるが、言経は<毎日>家康の所に行って話をし、夕食を相伴して帰るときもある。家業の衣紋の話題もあったろうが、言経に求められたのは家康の「話し相手」という役目であった。2人は酒を飲みながら明け方まで話している日もあり、気も合ったようだ。そして、2人に共通する話題といえば、薬作りである。山科家の家業は「衣紋」だけではなく、先代の山科言継から「薬師」も生業の1つになっていて、趣味が薬作りの家康とは、その点でも話題は多かったろう。ただ、「薬師」として言経が家康に薬を提供したのは一度だけで、「薬師」の家業が必要とされた形跡はない。
徳川が山科家の衣紋の「家業」を本格的に必要とするのは秀吉が死去する前後からで、しかも徳川が必要としたのは「衣紋」だけではない。言経は「皮籠」や「牛車」の造作など参内に必要な諸々の準備や儀式に広く関わっている。つまり、徳川家康が山科言経に求めたのは、家業を含む彼の公家としての経験と知識の全てであり、事実、言経はよくそれに応えた。
息子の言緒の代には、家康・秀忠の在京期間が減ることもあり、「衣紋」の注文が徳川との関係のメインになっていく。しかし、元和二年に家康の容態が悪化し、多くの公家が駿府へと赴いた際、山科言緒は他の公卿に京に戻るよう「暇」が出されるなか、冷泉為満とともに駿府に残るように告げられている。久能山への埋葬が決まっていた家康に、死に装束の「烏帽子、狩衣」を着付けさせるためもあったろう。が、大坂の陣の最中に武家傅奏とは別に家康の陣中見舞いをし、他の公家らとは差がある形で家康が埋葬された久能山を一足先に訪れるなど、山科家と徳川との関係は、衣文の「家業」が必要とされた、だけに留まるものではない。
家業で重宝された例として取り上げるのならば、梵舜や吉田兼見、舟橋秀賢の方が好例であったのではないか、と思われる内容であった。山科家は例として用いるには、徳川との関係が特殊に過ぎる。

9、豊臣時代からじょじょに朝廷に食い込む家康
永禄十二年、朝廷に二万疋を進上した。「その後長く、家康と朝廷・天皇との接触は確認できず、官位の昇進もなかった」と文中にあった。次に朝廷との関係が秀吉経由で確認できるのが、天正十四年。この年に従三位となっている。確かに「朝廷」との接触を「天皇」及び「官位の昇進」にだけ絞るのなら、永禄十二年以後から天正十四年まで家康「朝廷・天皇との接触」がない。しかし、公家との接触はこの間にある。公家を朝廷の一部としないのなら、「朝廷・天皇との接触」は確認できない。だが、天正十〜十一年にかけて近衛前久が家康の庇護下にあった確実で、天正十一年八月には前久に会うためか、前権大納言の柳原淳光が三河に下っている。天正十一年二月には三條西國公が家康の領国となった駿河より戻って来ている。この三名の下向を朝廷との接触として捉えないのなら、上記の説明にも頷けるが、どうだろうか。
ちなみに柳原淳光は、在京中の家康の所に山科言経と共に何度も顔を出しており、先に書いた酒を飲みながら明け方まで話す場にもいた。
また、ここでも山科言経と家康の関係に触れている。その中に「閑室元佶の講釈にも顔を出し、これには、子の言緒や冷泉為満・四条隆昌もたびたび出席している」と書かれているが、主に顔を出しているのは、言緒と冷泉為満の方であり、足が悪い言経は二人ほど講釈を聞きに行っていない。更に四条隆昌も参加したように書いてあるが、隆昌は言経が勅免されるまで、家康の所には一度も行ったことがなく、講釈も聞いていないのを指摘しておく。
著者は最後に「家康はこうして朝廷にも食い込んでいく」と〆ている。しかし、言経は扶持を得るために自ら家康に接近したのであり、家康に伺候するようになる他の公家も家康が呼び寄せた証拠はない。家康が言経に「紹介」を依頼して呼び寄せたと確認できるのは、明経博士の舟橋秀賢くらいである。水無瀬兼成などは言経に家康への「斡旋」を依頼して、家康の所に出入りするようになる。このように、武家として力がある家康に公家の方から接近した事例があるのだから、家康が一方的に「食い込んで」いったように記すのは、妥当ではない。

公家・朝廷ともに「武家」の力なくしては、特に収入面でやっていけない時代であるのだから。

新書の内容なので、細かい指摘はどうかと思ったが、一応書いておいた。
褒める所も上げておいた方がいいと思うので、最後に。この本は第1部から第4部までの構成になっていて、第4部が<「戦国領主」化した貴族たちの戦い>である。土佐の一条家は兎も角、飛驒、伊勢、津軽の事情に関しては、滅多に取り上げられるものではないため、興味深く読んだ。特に津軽の発掘調査を踏まえた浪岡氏に関する報告は、もっと増えればよい類いのものだと思う。
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2016年03月24日

『阿茶局』 白嵜顕成、田中祥雄、小川雄

★★★★☆

帯の「家康、秀忠、家光の三代将軍に仕え、徳川幕府のために生き抜いたある女性の生涯」と「家康の数多い側室のなかでも特に著名で、その重要性を認知されながらも、学術的には半ば放置された存在であった阿茶局に焦点を当てた初の本格的歴史論考」が的確に内容を紹介している。
今年の大河ドラマ「真田丸」では、珍しくこの「阿茶局」を家康最愛の側室としてドラマに登場させている。家康には築山殿と旭姫という二人の正室がいるが、築山殿は天正七年に没し、旭姫は四年と少しの間、名目上の正室として存在しただけだ。家康の生涯において「正室」の女性は、側にいる時期よりいない時期の方が長い。しかし、家政の「奥」を仕切る女性は必要である。徳川家康の場合、母である「於大の方」が慶長七年に没するまで「奥」を任されていたようだ。(←『家忠日記』よりの推測)ただ、徳川は天正十年の武田滅亡後に「三河、遠江」の二か国に「駿河、甲斐、信濃南部」が加わり、一気に領土が拡大した。当然、家臣も増えて家政にも人手が必要になっただろう。側室は正室が選ぶものだが、家康の場合は母である於大の方が息子に斡旋をしたと思われる。
恐らく、阿茶局は於大の方に選ばれて家康の側室となった。

阿茶局は天正年間に家康に仕え始めたとされる。武田氏家臣飯尾氏の出身で、夫であった今川氏の旧臣神尾忠重は天正五年?(天正十六年説あり)に死去。忠重との間には一男守世がおり、この子が小姓として秀忠に天正七年もしくは天正十一年に仕えるようになっているため、阿茶局の奥入りもその頃であろう。上記のような必要性から、天正十年以後の方が妥当のように思われる。
このように阿茶局の前半生ついては不明な点が多い。同時代の史料で、家康の「力ある側室」としての彼女の活動が確認できるのは、慶長六年からである。これ以後、彼女は貴族や寺社からの「贈答」の対象として名前が日記や書状に現れるようになる。彼女が物を贈られるのは、相応の実力があってのことである。実際に阿茶局は家康への「取次」役として様々な場面で名が上がり始め、残る史料の数も増加していく。
阿茶局といえば、大坂の陣での和睦交渉に徳川方として臨んだのが知られる。ドラマでもこの場面だけに登場することも多々ある。大坂方の淀殿・常高院(お初)に合わせるため、「女性」である阿茶局が選ばれたとの登用理由がよく使われる。しかし、彼女は上記のように徳川の有力な女性官僚であり、単なる使いっ走りではない。「女性だから」という理由を上げる人は阿茶局について調べたことがないのだろう。
また、この『阿茶局』の慶長五年の史料によれば、関ヶ原の戦いが起きたとき阿茶局は「大坂城にいた」ことが分かる。「木村宗衛門先祖書」にある板倉勝重、阿茶局の書状だけでは史料として心許ないが、それを裏付ける家康の書状があるため、この「先祖書」の内容は信用してもいいだろう。
家康は慶長四年に大坂城西の丸入りした。そのときに阿茶局も共に入ったようだ。於大の方は存命中だが、彼女は留守を預かる立場で江戸から動かない。秀吉に従って以降、江戸と京、大坂を行ったり来たりしていた家康の側についていたのは、阿茶局や他の側室であった。秀吉亡き後に政権を担った家康の仕事は増えた。それを支えるためにも有能な女性は必要であり、また、大坂城には淀殿(茶々)や秀頼がいる。淀殿と奥向きのことを話し合える徳川方の女性もなくてはならない。
阿茶局は慶長四年から大坂城にいて、淀殿と面識・交流があった可能性が高い。それ故に大坂の陣の和睦交渉の場に彼女もいたのだ。「女性だから」という理由だけで和睦交渉の場に呼ばれたのではない。
また、関ヶ原の戦いの時点で阿茶局が大坂城にいたのは興味深い。関ヶ原のときに大坂城には毛利輝元が入った。二の丸にいた阿茶局は人質にはならず、城を退去して淀川の船奉行である木村勝正と河村与三衛門に匿われた。戦が終わって家康に書状で呼び戻されるまで、阿茶局と徳川の女性達は彼らのもとにいた。この事実は、また多くの推測を生みそうな事柄だ。
気になるのは、次の3点。

・1つに、毛利が阿茶局を人質としていない点。(細川ガラシャらの例のように西軍は積極的に東軍側の女性を人質に取ろうとしていた。家康の側室である阿茶局は、人質として最も「使える人材」であるのに城からの退去で済まされている。それとも絶対に寝返らない敵方の「大将」の人質は取っても意味がないものなのだろうか)
・2つ目は、家康が阿茶局を大坂城に残していること。(家康は石田三成を挙兵させるためにわざと畿内を空けたとの見解があるが、挙兵を予想していたのなら、1のように「人質」になってしまう人員を大坂城に置いていくだろうか。警戒していたのなら、家康が大名らの妻や子を人質として江戸まで同伴すればいいのだ)
・3番目は淀殿について。(彼女が関ヶ原の時点で西軍寄りだったか、東軍側だったか、意見が分かれるところである。ただ、阿茶局を匿った木村・河村は豊臣によって船奉行に任命されている。彼らが自主的に阿茶局を匿って西軍から守ったとは考えにくい。彼らに阿茶局を託したのは淀殿である可能性が高いのではないだろうか。もっと言うのなら、毛利輝元に阿茶局を引き渡さなかったのは淀殿であったかもしれない。それならば、大坂の陣での和睦交渉の場に阿茶局がいる意義も大きくなる)

ついでに付け加えると、阿茶局の実子神尾守世は安藤重信とともに、大坂の陣の際、毛利家にいた後藤又兵衛の息子を通して、後藤(又兵衛)基次と接触をしている。これは神尾守世が毛利家と徳川の間を繋ぐ取次であったためであり、実際、後藤基次は徳川の工作に応じた様子がある。これも阿茶局が和睦交渉の場に立つ要因の1つになりそうだ。

阿茶局は徳川家康の子を生まなかった。(小牧長久手の際に陣中で流産したとの伝承があるが、確たる史料はない)
家康との間に子がいない彼女は、「側室」としての最も大事な存在意義を欠く。その上、実家の飯尾も婚家の神尾もさして大きな力を持つ武家ではない。でありながら、阿茶局は大名や公家から贈答や書状を受けるほどの立場になった。勿論、家康あってのことではある。が、強固な後ろ盾もなく、「子」を欠く側室が奥に居続けて力を持っていられたのは、つまるところ、彼女が「有能」であったからだ。
秀忠・忠吉の母「西郷局」が天正十七年に没した後、家康は阿茶局に二人の養育を任せている。流産で子が成せなくなった彼女を家康が哀れに思ったなどと説明されることがあるが、秀康が既に秀吉の人質兼養子となっており、徳川の後継者は「秀忠」にほぼ決まっていた。後継者となる男子を可哀想という理由で託すなどというのは有り得ない。家康は彼女の能力を信頼していたが故に阿茶局に後継者を任せ、子がない彼女の立場を強く安定させたのだろう。(あるいは、ここにも於大の方の意向が働いていたのかもしれない)
これにより、阿茶局は後に二代将軍の「養母(母代)」となり、秀忠の娘和子が天皇に嫁ぐ際には「従一位」の位階を得て彼女に付き添った。
家康は己の死に際しても彼女だけはその有能さを惜しんで、出家を許さなかったらしく、彼女が出家したのは秀忠の没後である。
阿茶局の立身出世は「家康・秀忠」あってのものである。しかし、彼らに信頼される「高い能力」を、数多くの側室の中で彼女がもっともよく備えていたのは、「養母(代母)」「従一位」だけでも確かなことと言える。

今回取り上げた『阿茶局』は、神尾氏の子孫の方が編者とつとめ、出版された本である。通常、子孫やその関係者が出した本は先祖のフォローをしたがるため、「信用できない」内容になりがちである。しかし、この本は子孫の方の執筆が「はじめに」の挨拶部分だけで、他は全て専門家に任せている。そのため、内容は今後の研究の「叩き台」となっており、十二分に歴史考証に使えるものになっている。当時の女性としては史料が多い方ではありながら、彼女には大名となった実子がおらず、神尾家も大名になっていないため、充実した家譜や彼女を誉め称える逸話などはほぼない。その分、実体に即した「部分」が残されているのが、他の側室とは違う阿茶局の特徴であろう。
最後に注意書きとして『阿茶局』の頁数は395で、そのうち阿茶局当人に関係する部分は100程度であることを記しておく。残りは神尾家の代々の事蹟になっている。
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2016年03月14日

『江戸城のインテリアー本丸御殿を歩く』 小粥祐子

★★★☆☆

江戸城には「明暦の大火(1657年)」で焼失して以後、天守閣がない。時代劇でよく「江戸城」として映る天守閣は姫路城のものである上に、そもそも1657年以降に天守閣があったら、それは「江戸城ではない」のだ。今でも「お城=天守閣」というイメージが強いが、天守閣は戦の際に使用する場であって日常生活を送るための建物ではない。そのため、江戸城は長い戦のない時代において、「必要ではなかった」故に天守閣を持たないまま、幕末を迎え、今に至る。
しかし、お城は将軍や藩主の住まいであり、政治の中心となる場でもある。天守閣ではなく、どこで暮らしと政治が営まれていたかといえば、それは「本丸御殿」である。
「本丸御殿」は文字通り、城の本丸に建てられた「御殿」で、将軍や藩主の住居と政庁を兼ねる平屋の建造物だ。江戸城の場合、大奥もここに含まれるため、非常に広大な「御殿」となる。全国の大名達は参勤交代で江戸に滞在している間、年に何度か登城する必要がある。だだっ広い「本丸御殿」の内部を年に数回行っただけで把握できるワケがなく、供の者も御殿内にまではついて行けない。初登城ともなると御殿は迷路そのものとなった。おまけに「御殿」は日本家屋であるのだから、襖や建具は移動可能であり、実際に儀式のたびにそれらは外されたり、位置を変えたりした。
そのため、大名らは迷わないように「間取り図」を手に本丸御殿に入った。その絵図には本丸御殿の俯瞰図と、障壁画や杉戸の絵の説明が書き込まれており、大名達はこれを見ながら御殿の廊下を歩き、目的の部屋へと向かったのだ。もし、江戸城を再現するなら、江戸時代にほとんど存在しなかった天守閣ではなく、この本丸御殿を建てて、大名達のように絵図を片手に歩いて回るのも楽しのではないだろうか。(季節ごとに建具や襖を移動して分かり辛くするという手も使える)
著者はこの「間取り図」や作事方が残した図面など、多いとはいえないが、新たに発見されることもある資料を用いて「本丸御殿」のインテリア(=室内装飾)を描写していく。
著者は章を4つに分け、第一章で「本丸御殿」に関して説明し、第二章で将軍の仕事場である「表」について述べ、第三章では将軍のプライベート空間の「中奥」を取り上げ、最後の第四章で「大奥」について記す。天守閣が焼けたように、本丸御殿もたびたび火災に遭っている。その度に立て替えられた御殿は、建て替える度に内部装飾がリニューアルされた。また、将軍の私的な空間である「中奥」は将軍の代替わりにより、主の「お好み」が変わると、部屋の使い方、作りや障壁画が変更された。
将軍ごとに変わる空間の様を、著者は資料が残る「三代、四代、五代、六代、八代、十代、十一代、十二〜十四代」について記す。将軍にもよるが、彼らは自分に合わせてプライベート空間を作り替えさせており、先代と同じままということがあまりない。そして、将軍の注文は意外と細かい。大奥の障壁画の話ではあるが、家慶がキクイタダキの数を十三羽から十羽に変更させている例がある。
最後の「大奥」は一層資料に制限があるため、インテリアが確認できる場所は少ない。そして、ここも部屋の主が変わる度にリニューアルされた。
「本丸御殿」では、政治の舞台となる「表」、将軍が暮らす「中奥」、女達が集う「大奥」と、公的な場と私的な場が繋がっていた。実はインテリアはその公的→私的空間を「区切る」機能を持っており、表→中奥→大奥と移動していくと、視覚で分かる形で装飾が変化していくのだ。
「御殿」としては一体化していても、「空間」としては分けられている「本丸御殿」。
特に私的な空間は代ごとに様変わりしたという事実が、興味深かった。
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2016年03月07日

『落日の豊臣政権』ー秀吉の憂鬱、不穏な京都ー 河内将芳

★★★★☆

『多聞院日記』に、秀吉勢力が金商人(金貸し)を捕えたと思ったら、放し、また捕えるなど、妙なことを繰り返している記事が続くときがあった。秀吉の朝鮮出兵のさなかであったため、その関係か?と推測はしたが、『多聞院日記』の内容だけでは推測以上のことができなかった。該当する内容を取り上げた論文も見つからず、何だろう?と気になっていた。
そこへ出版されたのが、この本である。目次の「ならかし」にー金商人ーの項目があり、気になっていた部分を取り上げてくれていると確信できたため、購入した。この本のおかげで金商人の捕縛、解放、また捕縛の理由が分かった。
豊臣秀吉といえば、豪勢な城を作り、大名や貴族に気前良く「金」を配るなど、金払いがよい太っ腹なイメージがある。秀吉の時代に京都は景気がよくなり、町並みが拡充し、人口も増えた事実もあり、経済政策が上手かったかのようにも見える。確かに彼は信長が貴族の抵抗により廃止を止めた洛中の関所をなくし、天正19年には座も廃止した。聚楽第、大坂城、伏見城の相次ぐ造営は、今で言う公共事業として周囲の人々を潤したのは間違いない。しかし、秀吉は同時期に「朝鮮出兵」も行っており、そのための出費も正確な額は全く不明であるが膨大であったのは確かだ。勿論、出兵した大名の負担も大きかったため、秀吉自身がどの程度の金銭的を負ったかは分からない。それでも出費ゼロは有り得ない。
金商人たちはそれに巻き込まれたのだ。
大和を治めていた羽柴秀長は、奈良の町人らに金商人を通して強制的に金を貸し付け、利子付きでそれを回収していた。この強制的な貸し付けと回収は、一家心中や一揆発生の噂に繋がり、秀吉は天正19年に「徳政」を出した上で金商人を捕えて事態を収拾しようとした。しかし、天正20(慶長元)年、再び、奈良で騒動が起こる。奈良の町人らが南京奉行の井上源吾に捕えられたのだが、一部が逃れて、秀吉側近(木下半介ら)に直訴に及んだ。その訴状により、井上源吾が金を貸して毎月利子を「過分に」回収していたことが分かる。この訴えにより、奈良の町人たちは自由の身になったが、その後、再び捕えられ、京に連れて行かれた。この金貸しをめぐるごたごたは文禄3年まで続き、結果的に奈良の金商人はその多くが没落し、一方、井上源吾は慶長5年に死去するまで南京奉行の座にあった。
奈良の町人や金商人から集められた金は、羽柴秀長や井上源吾の懐にも入ったようであるが、当然、秀吉の方にも回っている。そして、一部が朝鮮出兵用の造船費用に使われたことが史料から明らかになる。
つまり、奈良での強制貸し付けと過分な利子回収は、秀吉・秀長兄弟とその配下がもうけるため、朝鮮出兵の費用にも流用するために行った「支配者による政策」だったのだ。
羽柴秀長の死後、その手元には金子が五万六千枚あまり、銀子は数知れず、銭は何万貫も残されたと『多聞院日記』は記す。
時代劇ならば、完全に退治されるべき悪役の所行である。

『落日の豊臣政権』は、この「ならかし」以外にも、天変地異、秀次事件、後継者問題を取り上げ、秀吉政権の不安定さを記していく。これらは同時代の史料を読めば分かる事柄であるが、今までまとめて読める本はなかった。「ならかし」以外にも町人や貴族から見た秀吉政権の横暴さが色々と伺える内容でもあり、豊臣政権が早い段階で継続不可能になった理由がおのずと見えて来る内容でもある。

個人的に抱えていた疑問が解決したのもあり、出てくれてありがとう!皆におススメしておきます!と言える本なのだが、史料慣れしていない人にはちょっと読み辛いところもあるかもしれない点は記しておきます。


ーー以下、この本に関係するかもしれない秀吉勢力についての史料の補足

・座:本能寺の変後、秀吉は金銭と引き換えに座の特権を承認し、諸役の免除をしている。が、天正19年に座を廃止する。これは座の特権自体も否定することになる。金銭と引き換えに特権を保証された「座」は払い損である。抗議しなかったのだろうか。

・悪銭:本願寺の日記に「金子ノ箱、三百枚入ノ箱十、五百枚入ノ箱八アリ」と記されているように、大坂城に金銀が大量に蓄財されていたのはよく知られた事実である。であるのに、そんな超お金持ちの豊臣関係者が何故か吉田兼見への支払いに「悪銭=質の悪い銭」を用いている。しかも、支払いのうち何%かが悪銭という可愛げのあるものではなく、「千疋悉悪銭=全て悪銭」という非常にタチの悪いものであった。支払っているのは、大政所(秀吉母)、北政所(秀吉室)、金吾(小早川秀秋)、東殿(大谷吉継母、北政所侍女)、孝蔵主(北政所侍女)である。銭の選定を誰がしているのかは不明だが、全てを「悪銭」で払うのは間違いなく意図的なものだ。ちなみに、貰う方の兼見は銭での支払いを嫌がっている。

参照:「16世紀後半京都における貨幣の使用状況」https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kiyo/20/kiyo0020-kawato.pdf

・日蓮宗:織田信長は安土宗論で負けた日蓮宗(法華宗)の日bを逼塞させたが、秀吉はこれを天正13年7月に解いた。当然、タダではなく、日蓮宗側は相応の御礼を支払うことになる。しかし、その「礼物調達」が難しいくらい「過分=高額」で9月にはそのための勧進をしている。京都の町衆に信者が多い日蓮宗の寺院が調達不可能な金額がいくらかは分からない。ただ、勧進を必要とするほど「高額」であったのは確かだ。

ここ最近読んだ天正年間の史料に以上のようなことが立て続けに現れていた。『落日の豊臣政権』の内容を更に裏付けるものであろうと思われたので、ここに記しておく。ケチと言う言葉は徳川家康によく使われるが、豊臣(羽柴)秀吉とその周囲は、それを上回る「がめつい」人々であった…のかもしれない。そして、これは豊臣だからこうだったのか、それとも、当時の大名ではよくあることだったのか。
どうも前者の可能性が高いような気がする。
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2015年12月06日

『京都に残った公家たち』華族の近代 刑部芳則

v★★★☆☆

明治二年、版籍奉還と同日に、いわゆる「華族令」が公布された。これにより、「公家」と「武家」という区別はなくなり、諸侯と貴族は同じ「華族」という括りにまとめられた。明治政府は「華族」に対し、天皇の側近くにあって勉学にも軍事にも励み、庶民の手本となるような立派な在り方を期待した。しかし、「華族」となった公家たちの何割かは上京した天皇に従わず、京都に残った。
彼らはどうして京都に残ったのか。
細かく見れば事情は家ごとに違うのだろうが、だいたいが先祖代々暮らし続けた場を離れることへの抵抗感が強かったようだ。東京に行った公家の中にも病気になると療養のために京都に戻る者もいた。天皇と同様に東京に住居を移せば、祖先の墓の守もできなくなり、菩提寺も新たに必要となる。しかも、この変化は彼らが自ら望んだものではなかった。急に変われと強制されて即変われたら、それは寧ろ、伝統を担う「公家」の中では特異な存在だろう。
それでも「華族」となった公家たちは髪を切り、天皇に渡す写真に姿を残し、洋装を着て、新たな知識を得るための勉強を始め、新しい時代に順応しようとした。帝国議会の設立に合わせて憲法も学んだ。
しかし、元公家たちは政府から支給される家禄では生活できず、借金を重ねた。借金の理由は様々であるが、華族としての対面を保つには家禄が少なかったのが大きい。が、単なる散財もあり、また、投資に失敗するものや旨い話に騙された者もいた。
私がここで何度も取り上げた『言経卿記』も、このとき借金にまみれになった山科家が宮内省に250円で買い上げてもらった「旧記」の中に入っていたものではなかろうか。山科家は楽・装束のほかに日記の記述も家職の一つになっていた。先祖代々のものを手放したのは山科家だけではない。ある者は屋敷、ある者は土地を、と京都に残った公家たちの家計は非常に厳しかった。
政府も陳情を受けて彼らの救済に乗り出したが、それでもまた借金をしてしまう者もいた。同じ公家華族であっても、戊辰戦争にも参加して政府で官職の地位を得た四条隆平は、「皇室の藩屛」となる責任感を持つべきだと意見書を提出した。四条家は山科家とも姻戚関係のある家であるが、隆平は尊王派として早くから活動しており、維新後はすんなりと政府の一員となっていた。彼のように積極的に動く人間からは京都に残った公家たちは、情けなく見えていただろう。だが、同時に、この隆平は奈良県令の際に先頭に立って寺院破壊をすすめた人物でもある。藤原氏の氏寺興福寺も彼の「廃仏毀釈」で塀や建物、仏像が失われた。歴史・伝統を象徴する公家が、自らが寄るべきところであったものを壊していくのも明治の一面なのだ。
暫くしてから、明治天皇は公家華族たちに一度捨てさせた蹴鞠・衣紋・雅楽などの伝統文化を担わせるようになる。天皇の即位や祭りなどで、有職故実などの知識が必要になったためだ。他の武家華族、新華族にはできない分野の継承と研究。以前と変わらぬ分野で公家華族は再び、ある程度の価値ある存在となる。しかし、明治での断絶は大きかったように思われる。公家華族たちは天皇の近くに侍るときがあることはあったが、それは年に数度であり、かつてのように日常的に傍にいることはなくなった。もはや、明治以後の天皇は明治以前の天皇とは全く違う存在となり、宮中文化・王朝文化は失われた。
天皇と日本の文化・伝統(=公家)は離れ、太平洋戦争後は公家華族も地位と家職では食べていけなくなった。

実は日本は天皇を中心として形成してきた伝統文化を、とっくの昔に9割以上消失しているのではないか、と思う内容であった。
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2015年10月25日

『戦国貴族の生き残り戦略』 岡野友彦

★★★☆☆

「戦国貴族」とタイトルにあるが、内容のほぼ9割は精華家の「久我家」についてとなっている。久我家に伝わった『久我家文書』をもとにした著書だからだ。
武家の台頭にともない、都に住む貴族は徐々に経済基盤を失っていく。「荘園」からの収入は途絶えがちになり、経済的に困窮した貴族は武力以外の手で戦乱の時代を生き抜いていこうとする。では、どのようにして彼らは自分達の生活を支えたのか。応仁・文明の乱から近世まで、つまり、都が戦火に包まれた時期から世の中が安定するまで、著者は久我家の「生き残り戦略」を追っていく。
貴族が生き残るために頼りとしたのは、「所領=荘園」「大名」「室町幕府or天下人」「利権」である。最後の「利権」は「権利」と言い換えてもいいが、これは「室町幕府or天下人」に承認されないと手に入らない。久我家も当初は「所領」や「大名」を頼りにし、所領への支配権が薄れていくと、「利権」を手に入れようとする。都を舞台とした戦乱が終わると、京都の経済活動は寧ろ盛んになった。戦国時代に入ってもそれは変わらず、貴族たちはその「商売」へと経済基盤の軸足を移していった。
久我家が目を付けたのは「立売」「傾城=売春業」「盲目琵琶法師」である。経済活動の隆盛は専門職を増やし、職人・商人・芸人らは同じ職業の者たちで「座」を結成した。寺社が「座」を保護する代わりに「座」から金銭を得ていたのを、貴族もやるようになるのだ。今まで特に関係がなかった業種でも「我が家とこういう謂れ(or関わり)がある」とでっちあげて、幕府か幕府権力を後ろ盾にした朝廷から許可を取り、その「座」から金銭を取り立てるのだ。保護と引き換えに応じる「座」もあるが、応じない「座」もある。久我家は「琵琶法師」の「座」とは大いに揉めた。保護を与えると言っても、実際に保護をするのは武力を有する幕府や天下人であって、貴族ではない。ただ、貴族は幕府や天下人に「依頼」ができる。故に全く頼りにならないワケではないが、利権を盾に「座」に介入することもあり、それが久我家の場合は琵琶法師たちとの対立に繋がった。

つまるところ、貴族の生き残りは、如何に上手く百姓や職能のある者たちから収奪するか、でしかないのだが、著者がそこに触れることはない。久我家はいわゆる血筋のよい清華家であるために、中流貴族ほどの「職能」もない。ここのブログで何度も取り上げた山科家は「薬師」の業を持っていたため、所領・利権を失って収奪ができなくなってもどうにかやっていけた。(本願寺の庇護もあるが)
勿論、収奪対象の百姓や職人・商人・芸人たちもただ黙って奪われるだけの存在ではない。自分達に利がなければ抵抗するので、「利権」もそう容易くは手に入らない。また、幕府や天下人の入れ替わりや弱体化は貴族にも大きく影響する。(羽柴秀吉は貴族の利権を認めなかったため、逆らって牛の公事を集めた薄諸似は夫婦ともども自害もしくは処刑された)それでも、他に糧を得る術がない貴族は、上記の手段を用いて生き残っていく。
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2015年08月17日

『織田信長』 神田千里

★★★★☆

新幹線内で読むべく購入。
帯の「伝統的権威と協調し、世間の評判にも敏感だったー決定版!戦国武将の知られざる実像 この男、革命児に、あらず!」で内容はほぼ説明できる。が、一応内容は紹介しておこう。
信長は若い頃に「うつけ」と呼ばれており、それをドラマなどのフィクションで何度も描写した結果、畿内へ進出していい年になった後も、古い慣習に捕われず様々な「改革」を成した人物として描かれるのが続いてきた。このイメージは明治に編纂された『大日本史料』の編者の講義内容に端を発し、学校の教科書や小説などを経て定着するに至った。型破りな人物が世の中を変えていく、というのはマンガのようで痛快でもあるためか、坂本龍馬なども同じ理由で人気がある。が、そんな「マンガの登場人物ような人」が「世の中を変える」筈もなく、二人ともに実体はイメージとは一致しない。
個人的には「創作物」を真に受ける方がおかしいと思うのだが、創作物を現実の人物に投影して、固執したり、偏見を持ったりする人はいる。
信長の場合は教科書でも鉄砲の使用、楽市楽座が革新的であった、だから、勝ったと説明していたのもマズかったろう。既に楽市楽座は教科書でも信長から分離されているが、鉄砲の方は長篠の戦いの検証が未だにテレビ番組で取り上げられるくらいなので、まだ暫く「信長=鉄砲」の方は続くようだ。
では、革新性を排除したら「織田信長」はどんな人物になるのか。
上記の帯にあるような人物となる。
「悪い評判が立ってますが、大丈夫ですか?改めた方がいいですよ」と将軍足利義昭を追い出すより先に諌める常識人、そして、「評判」を利用して武田勝頼を追い詰め、武田氏滅亡にまで繋げる知略の人となる。
知略の一例として上げられるのが「高天神城の戦い」である。武田と徳川は、この遠江にある高天神城をめぐって長く争っていた。長篠の戦い以後、武田側となっていた高天神城に徳川が攻勢をかける。武田勝頼は長篠での敗北に加えて北条氏との敵対もあり、身動きが取れない状況にあった。追い詰められた高天神城について、信長はこんな書状を家康に出す。
「…城中一段迷惑候体、矢文をもって懇望の間、近々に候か。然らば、命を助くるにおいては、最前に滝坂をあい副え、只今は小山を副え、高天神とも三ヶ所渡すべきの由、これをもって造意の心中推量せしめ候。そもそも、三城を請け取り、…ただし、見聞き及び候体に、以来小山を始め取り懸かり候とも、武田四郎分際にては、重ねても後巻なるまじく候や。」
家康から連絡があったのだろう。
そろそろ高天神城が降伏しそうだという頃合いに、信長は武田勝頼は救援に来られないと予想し、それを利用しようとする。
「自然後巻を構えず、高天神同前に小山・滝坂見捨て候らえば、その響きをもって、駿州の端々小城拘え候事実らず候。…この通り家康に物語り、家中の宿老どもにも申し聞かせ、談合尤もに候。これは信長思い寄る心底を残らず申し送るものなり。」
信長は、勝頼が高天神城を助けることができなければ、「その響き=評判」が悪くなって駿河の城を維持できなくなるでしょう、と続けた。話し合って決めて下さいと徳川の苦労をねぎらいつつ、信長は控え目に自分の意見を伝えている。何故なら、戦いの実質的な主体は徳川であるからだ。武田と国境を接する徳川は、信玄の頃からずっと武田と敵対して来た。
徳川は包囲戦で敵が劣勢になった場合は、無理をせずに和睦して従わせ、自軍に組み入れるという方法を選択してきた。信長の文面からして、このときも和睦に持ち込むつもりであったようだ。しかし、信長は武田勝頼の評判を落とすために、和睦はしない方がいいと提案した。和睦をしないということは、城の兵達を助けないということ。つまりは、皆殺しである。
文面に強制的なところはない。話し合って決めるようにと、信長は最終的な判断を徳川に委ねている。が、最後に「心底を残らず申し送る」と書かれており、徳川がこれを無視できるワケがない。(著者は信長が最終判断を徳川に委ねていることを強調するが、ここで信長に逆らって城兵を助けるという選択ができるとは思えない)高天神城は多くの餓死者を出した挙げ句、残った城兵が討って出て、全滅する。
そして、この信長の知略は功を奏す。
高天神城を救わなかった勝頼から離反する者が相次ぎ、翌天正10年には武田氏は滅びるのだ。
(その際、信長は徹底して武田の家臣等を殺したが、家康はこっそり何人かを助けて遠江に匿った)
武田信玄時代の強引且つ不完全な信濃攻略など、過去のマイナス面が作用したこともあるが、信長は「評判」を利用してあっけないほどの短期間で武田氏を倒すことに成功した。「評判」の悪化は、大名にとって致命傷になり兼ねない。ために、信長は「評判」を気にした。気にする人物であったと著者は記す。(ただ、その割には明智光秀からの己に対する評判が掴めていなかったのは、何故だろうか)

この他にも、将軍や天皇の権威には逆らわず、その権威に積極的に服従しつつ利用していた信長の姿勢が取り上げられる。つまり、当時の社会の規範にきっちりおさまる形で物事を進める、無茶苦茶なところのない人物、それがこの本での「織田信長像」なのである。マンガや小説の主人公にするには物足りないだろうが、だいたいにおいて、カッコ良く扱われる人物の実体はこんなものだ。
個人的には、規範を破壊していたのは羽柴秀吉の方で、織田信長像にそれが影響したせいで、実体と違うイメージが形成される要因になったのではなかろうか、という考えがある。
また、天下統一に関しても、「天下」という用語自体の意味と、織田信長の姿勢を改めて問い直す内容になっている。書状は全て現代語訳されている平易な新書なので、興味のある人は自分で読むことをおススメする。

ただ、歴史という学問は、「証拠」と「解釈」に尽きるため、未発見の書状などの新たな「証拠」が見つかれば、織田信長像は再び修正される。ここにあるのは、こうじゃないかな、と先の徳川に対する信長のように推測の上、提案されたもので、絶対ではない。しかし、修正をするにはそれなりの「証拠」と、より説得力のある「解釈」が必要である。
posted by アリノリ at 19:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本史関係(書評)

2015年08月10日

『学歴貴族の栄光と挫折』 竹内洋

★★★★☆

タイトルの「学歴貴族」とは「旧制高校出身者」を指す。現在でも「学歴」は就職や結婚などを左右する社会的価値を持つが、明治〜昭和時代において、「旧制高校」卒業は極少数の人々だけが手にしうる高値買取保証の「最上ブランド」であった。本書はその「旧制高校」の誕生から解体までを丁寧に追いながら、「旧制高校」というエリート育成の場が近代の日本社会に与えた影響と、その逆も精査していく。
目次は以下の通り。

プロローグ 学歴貴族になりそこねた永井荷風
 永井壮吉 荷風と龍之介 庶民・中堅・エリート
第一章 旧制高等学校の誕生
 官立高等中学校 薩長藩閥のサバイバル戦略
 東京大学と帝国大学 差異化戦略
第二章 受験の時代と三五校の群像
 『藩閥之将来』 高校入試 高校増設 帝大入試
 スクール・カラー
第三章 誰が学歴貴族になったか
 栗野事件 パブリック・スクールと旧制高校
 学習院進学事情 教育機会の虚像と実像
 社会移動か社会的再生産か
第四章 学歴貴族文化のせめぎあい
 明治三十年代の第一高等学校 魚住あやうし
 一高魂は日本魂 攻防 新渡戸校長と弁論部
第五章 教養の輝きと憂鬱
 教養書ブーム 芳香としての教養
 差異化=卓越化としての教養 疎遠と反撥
 苦悩する教養
第六章 解体と終焉
 教養の衰微と復活 丸山眞男という範型
 蜜月から反乱へ 大衆的サラリーマン
 テロル 終焉
エピローグ 延命された大学と教養主義

日本を近代化するため、明治時代には「学校」が設立された。小学校教育は義務とされたが、進学率がほぼ100%にまで到達するには二十年以上かかった。だが、戦時中に海軍に徴兵された漁師の中には、ひらがなの読み書きすら危うい人達がいた。ために、海軍は先ず戦より前にひらがなカタカナから彼らに教えなければならなかった。ほぼ100%入学しても、通わない(通えない)生徒が昭和でもいたようである。そんな時代にあって、入学困難な「旧制高校」に通う生徒はエリートで秀才であった。いや、秀才でなければならなかった。将来、優れた官吏として国家を背負う立場を期待された「旧制高校」生徒は、そこを卒業すれば「帝国大学」への道が開けたからだ。しかし、実は山口県からだけは学力的に劣る生徒でも、高等中学校に入りさえすれば無試験で帝国大学に進めた時期もあった。その道は明治三十五年の入試変更によって閉ざされるが、このあたりを記述しているのが、第一章の「薩長藩閥のサバイバル戦略」である。
文庫本ではあるが、頁数は400を超えており、内容も旧制高校の成立から、入試事情の変化、各地の旧制高校の校風、寮生活、生徒と校長との関係、学校別の帝大合格率の変遷などなど、多岐にわたる。旧制高校を卒業した生徒の進学先だけでなく、就職先データの数値もあり、明治〜昭和まで存在した「旧制高校」に関心がある人は大いに楽しめ、且つ、多くを学べる本である。個人的にへーと思ったのは、旧制高校への入学者の変化である。当初は旧士族が多いが、近代化の進展に伴い、都市部の中流階級が増加していくのだ。貧乏な地方の秀才が篤志家の支援を得て旧制高校にまで進学する事例は話に聞くほど多くない、というか、ほぼ無に近いという実体だ。つまりは、勉強のできるできないは親の進学熱と財力次第。昔も今も進学事情はほぼ変わらないのだ。
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2015年07月12日

『戦争の日本中世史 -「下剋上」は本当にあったのか』 呉座勇一

★★★☆☆

歴史は「資料」あっての学問である。しかし、「資料」は失われるものであり、時代の経過とともに数は減り、古い時代であればあるほど資料は「無」に近付く。その少ない手がかりから「歴史」を書き出すのが歴史研究者の仕事である。資料が少なければ分かることは少ない。にも関わらず、研究者の主張・意見は多様である。分かりやすい例として、邪馬台国の位置がある。ほぼ「魏志倭人伝」しかない状態でありながら、邪馬台国の所在地候補は1つに絞られなかった。(近年は考古資料から有力候補地が出てきている)
資料が少ないのに意見が多様になるのは、研究者の「解釈」に差があるからである。解釈に「差」が生じる要因は、個人的な理由から社会的背景まで様々である。有りがちなのが、○○(人物名)をフォローしよう、もしくはその反対の意気込みを持つ場合で、研究者ですら「恣意的」に資料を扱う傾向がある。ただ、これは「方針」として見えているため、その「偏り」が分かりやすい。
自覚し辛いのが、社会的背景が「解釈」に影響を与えている場合である。この『戦争の日本中世史』は主にマルクス史観による解釈を溯上に上げながら、「中世の戦争」について、勝敗ではなく、戦争の過程やその社会背景に焦点をあてて通説を考察し直していく。個人的には「悪党」の解釈を興味深く読んだ。
対象となるのは源平合戦、元寇、南北朝の動乱、応仁の乱までと幅広い。人気の高い戦国時代は入っていないが、その前段階であり、社会的に共通する部分も多い。読みやすさを優先してか資料の引用は控え目で、文章も平易で分かりやすい。価格も1,500円とこの手の本にしてはかなり安いので、中世に関心のある人にはおススメの本である。
posted by アリノリ at 18:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本史関係(書評)