2023年07月24日

結城秀康史料年表

結城秀康史料年表

秀康関連の史料(書状、日記)を年表順に並べた。
年欠の書状については、年次が推定できるものだけ載せてある。
推定文書には年号の後に「カ」を付けた。
史料内容については、簡単なメモ解説が年次毎にある。

●天正12年
9月8日:秀吉書状(前田家所蔵文書)
家康惣領子十一ニ成候
9月17日:脇坂甚内宛 秀吉書状(龍野神社旧蔵文書)
家康嫡子
11月13日:伊木長兵衛宛 秀吉書状(伊木文書)
家康実子
同日付:池田丹後入道他宛 秀吉書状(荒尾文書)
家康実子
同日付:土蔵四郎兵衛尉宛 秀吉書状(大阪城天守閣)
家康実子
11月18日:前田又左衛門尉宛 秀吉書状(後撰芸集)
家康実子
12月6日:『家忠日記』
雨降、御きいさま上へ御越候
12月12日:『家忠日記』
雨降、濱松御きい様羽柴所へ養子ニ御こし候
12月22日:『多門院日記』
家康息(九才)上洛、筑州猶子也
12月25日:『兼見卿記』
民部卿法印へ為歳暮罷向、今朝三州徳川人質ヲ召具坂本へ下向、淀マテ送ニ被出也、
12月26日:『多聞院日記』
大坂へ家康ノ息(九才)為養子被入、筒井ノ小屋ヲ借テ被置之、一館明トテ、筒井坊并被官衆震動也、
12月:『顕如上人貝塚御座所日記』
三川家康ノ實子、(十二月)廿日比京着、石川伯耆守供、近日大坂へコサルヽト云々、家康ノ息(御義伊ト云)廿六日ニ大坂ヘコサルヽト云々、供千計云々、石川伯耆守供也、息ノ名ハ御義伊ト云、石川伯耆守罷上、これハやかて罷下ヘシト也、大坂にて筒井ノ家ニヲカルヽト云々、

ーメモー
天正12年は、秀康のことが書状・日記で確認できる最初の年となる。
人質として秀吉のもとへ行くためで、寺社、貴族の日記にも記述がある。
秀吉と家康の関係がどうなるかは、中央でも注目されていたようだ。
秀吉は、秀康のことを「惣領子」「嫡子」「実子」と書状に記す。
11月の書状で実子と表記が変わるのが気になるが、この時点では秀康(お義伊)が家康の嫡子(後継)であった可能性はある。
12月12日に浜松を出立したお義伊は、石川数正とともに26日に大坂に着き、筒井定次の屋敷に置かれたようだ。
ーーー

●天正13年
1月11日:『顕如上人貝塚御座所日記』
徳川息御義伊へ御音信、小袖二・道服一、石川伯耆守へ小袖二、其外杉田へ小袖一、御使寺内相模、
1月13日:『顕如上人貝塚御座所日記』
御義伊ニツキテ罷上杉田新兵衛、為参詣マイラレタルヲ聞付ラレテ、メサレテ御對面、鳥目五百疋進上、志トテ黄金一包、子共ノ言傳トテ鳥目少々あけらるゝ也、御肴一献盃被下之了、やかて國へ被下由物語也、
1月22日『顕如上人貝塚御座所日記』
御義伊より使小姓、石川伯耆守使ト両人被参也、御對面一献、
2月14日:秀吉書状(本多記録御用所本)
おきい上洛候
4月18日:『顕如上人貝塚御座所日記』
徳川息御義伊殿、秀吉御陣見廻ノタメニ、雑賀へ御越也、石伯モ供ト云々、
10月6日:『兼見卿記』
殿下御参内〜中略〜次二兵衛少将、殿下之甥、御對面御禮之義同前、次徳川息侍従、次うき田八郎侍従、次五郎左衛門尉侍従、次越中守侍従、次三吉侍従(信長御息)、次武衛侍従、次毛利河内守、次蜂屋侍従、各御對面終而、在一盞之儀、美濃守(殿下舎弟)天盃頂戴之、此外御通也、各相濟殿下御退出〜後略〜
11月17日:某宛自筆 秀吉書状(豊太閤真蹟集)
於義伊なとも迷惑

ーメモー
天正13年、家康と秀吉の交渉はあまり進展していない。
秀康の情報は、主に本願寺の記録に残る。
徳川家中に一向宗門徒が多いためか、お義伊つきの上田新兵衛の参詣が確認できる。
本願寺は天正11年から三河の一向宗寺院の関係で徳川方と接触を開始している。
徳川の動向が気になるのか、継続して日記に情報を載せている。
秀康は10月6日に参内し、「徳川侍従」となる。
家康の臣従はうまく進まず、秀吉の書状には「於義伊なとも迷惑」と記されている。


●天正14年
5月13日:『家忠日記』
雨降、吉田ニ御逗留也、右分振舞也、おきいさまの御もり小右衛門尉、伊藤殿案内者ニこし候、ミあけ小ちゃハん五つ、此方ゟ持鑓二本出候、

ーメモー
天正14年に秀吉の妹朝日姫が家康に嫁ぐ。
その際、秀康の「お守り」小右衛門尉が伊藤秀盛の案内として同行している。


●天正15年
4月9日:羽柴左衛門尉他宛 秀吉書状(赤木文明堂)
徳川三河侍従

ーメモー
家康の臣従後、秀吉は九州へ出兵している。
秀康も従軍しており、「跡つめ」を「被仰付」ている。
秀康は「徳川」であり、「三河守」は、家康が使用していた官職でもある。
この段階では、秀康が徳川の嫡男だったのかもしれない。


●天正16年
4月15日:織田信兼等二十三名連署起請文写(聚楽亭行幸記)
三河少将豊臣秀康
11月17日:茶会自筆交名(豊太閤真蹟集)
ゆうきせうせう

ーメモー
天正16年の聚楽第行幸には豊臣秀康で署名してあるが、同年の11月の茶会では、「ゆうきせうせう=結城少将」と秀康の名字が「結城」になっている。
美作津山藩の『浄光公年譜』には、天正17年に結城家の世継に決まったとあるが、それより1年早く秀吉は秀康を「結城」と記す。
天正16年(4月16日以降)に、秀康は結城の養子となった?のだろうか。


●天正17年

ーメモー
天正17年は、秀康に関する日記・書状が(まだ)見当たらない。
『家忠日記』で、天正17年5月から、お長の表記が「若君」、つまり、家康の後を継ぐ嫡男として記されるようになる。
天正16年に秀康が結城になった関係から、嫡男が変更されたのだろうか。
ただし、天正14年以来の秀忠登場(in家忠日記)なので、それ以前にお長が嫡男となった可能性もある。


●天正18年
天正18年カ?5月22日:平岩七之助宛 秀康書状(古沢文書)
天正18年カ?5月22日:鳥居彦右衛門宛 秀康書状写(古文書二)
上2通は小田原の戦い関連の書状か?
6月1日(6月5日?):『天正日記』
かのとひつじ 天気よし きしゆく たてとの内々にて、この方へ御こし、ゆふき様より御たのみ也
6月2日(6月6日?):『天正日記』
さる ふる たてとの、ゆふき様、御ちそう、ふろたくべしと仰出さる
6月4日(6月7日?)
大との様ゆふきさまたてとの御一所に殿下へ御こし也
7月29日:黒田勘解由、水野和泉守宛 家康書状(水野文書)
結城跡目之儀、三河守ニ仰付段、
9月:知行目録、寄進状、知行充行など
天正18年カ?10月11日:平岩主計宛 秀康書状写(松濤棹筆二十八)
天正18年カ?10月11日:平岩主計宛 秀康書状写(松濤棹筆二十八)
上2通は葛西大崎一揆関連の書状か?
11月4日:『天正日記』
くもる 本町の地わり少々なほる 少将様はじめて御つき御むかひ御案内に大助出す
12月12日:寄進状

ーメモー
天正18年カ?の4通の書状は年欠で、内容から天正18年と推測されているものである。
『天正日記』は、内容と日付が『家忠日記』ほかと一致せず、偽書との疑いがある。
しかし、蓮沼啓介「校訂天正日記の史料価値」https://cir.nii.ac.jp/crid/1520572357857556224で、( )内のように日付を改めれば内容が他史料と矛盾しないと指摘されていた。
この論文を参考にして、( )内に日付を記した。
『天正日記』の内容が正しい場合、秀康は小田原に在陣していて、伊達政宗を出迎える役目を担い、秀吉との面会に向かう政宗に家康と共に付き添ったことになる。
7月29日の家康書状では、結城晴朝が隠居して、秀泰に結城の5万石を継がせることを家康が了承している。
秀康はこれより前に「結城」と記されているため、養子と跡目の相続は同時ではなく段階を経て行われた、か、この書状の年次が天正18年より前か、のどちらかである。(この家康書状は、年欠)
また、葛西大崎一揆へ出陣する際に、秀康は初めて江戸に来ている。


●天正19年

ーメモー
天正19年も、秀康に関する日記・書状が(まだ)見当たらない。
次の天正20年の当人の書状に「去年よりの煩い、散々だったが」とあるので、長く患っていたのかもしれない。


●天正20年(文禄元年)
1月20日:松平又七宛 秀康書状(谷森健男氏所蔵文書)
〜前略〜随而自去年之煩、散々式候得共、〜後略〜
2月:知行充行、知行充行写

ーメモー
秀康は長く患っていたが、秀吉の唐入りのために家康とともに?名護屋へ向かう。
その前に知行充行を急いで出していったようだ。


●文禄2年
5月20日:徳川家康等二十名連署起請文(東京国立博物館)
江戸大納言
〜中略〜
結城少将
文禄2年カ5月23日:長谷川惣大夫宛 秀康書状写(秋田藩家蔵文書五十)

ーメモー
8月3日に秀頼が生まれ、家康は8月29日に大坂に着いている。
秀康の動向は不明だが、文禄3年6月までには京都に戻っている。


●文禄3年
6月16日:『家忠日記』
同普請、結城三州様ニふる舞にてこし候、
8月21日:伏見大光明寺建立勧進書立(相国寺文書)
一、百石 江戸大納言
〜中略〜
一、弐拾石 ゆうきの少将
8月24日:『言経卿記』
江戸亜相へ罷向了、御所労験気也、夕食有之、亜相子息三河守殿相伴了、十人計有之、

ーメモー
秀康は、普請作業に励む松平家忠に振る舞いをしたり、駕籠から落ちて体を痛めた父親を見舞ったりしている。


●文禄4年
3月28日:『式御成之次第』
 式御成之次第
夫御成之儀被相定候付而
 〜中略〜
亜相(家康)御禮御進物之次第
 〜中略〜
結城少将(結城秀康)殿
 〜中略〜
御相伴之事
 〜中略〜
 同丹後 少将殿  足打
 同結城 少将殿  足打
 〜後略〜
7月20日:織田信雄等三十名連署起請文(木下文書)
羽柴結城少将
10月1日:『言経卿記』
伏見ヘ冷同道罷向、与右衛門尉所ニテ休息了、次 江戸亜相ヘ罷向、水無瀬黄門伊勢物語講尺之内也、則聴聞了、次夕食有之、相伴衆、水無瀬・予・冷・江戸黄門・同参河守・伊達侍従等也、亥下刻ニ帰宅了、

ーメモー
『式御成之次第』は、秀吉が家康の屋敷へ「御成」したときのものである。
秀康は「徳川」の一員として秀吉に進物を出しつつ、「結城」の者として接待を受ける立場にもなっている。
また、『織田信雄等三十名連署起請文』で、かつては豊臣だった姓が羽柴へと変わったのが分かる。


●文禄5年(慶長元年)
1月、3月:知行充行、知行充行写、寺領充行
慶長元年カ6月5日:三川様宛 秀忠書状(個人所蔵文書)
12月:知行充行

ーメモー
文禄5年1月の知行充行状は多い。
出陣や病、在京で対応できていなかった分を、この時期に集中して出したのだろう。
ただ、3月の知行充行写の後、12月まで期間が空く。
慶長元年カと推定になるが、6月5日の秀忠の書状で「明日伏見でお会いしましょう」とある。
3月13日より後〜12月まで結城を離れ、在京していたようだ。


●慶長2年
10月10日:加藤主計頭書状写(後撰芸葉十)
羽柴三州宛

ーメモー
加藤清正が朝鮮出兵の様子を秀康に知らせている。
先に秀康の方が書状を出しており、その返事。
次の浅野長慶の書状案も同じで、朝鮮出兵組と日本に残る大名らの間では多数の書状が交わされている。


●慶長3年
1月4日:浅野長慶書状案(浅野文書)
羽柴三河他宛
慶長3年カ2月:結城秀朝定書、秀朝安堵状
慶長3年カ8月7日:中納言様宛 秀康書状(服部玄三所蔵文書)
10月3日:秀忠様宛 秀康書状(越葵文庫文書)
11月21日:知行充行

ーメモー
浅野長慶の書状は、多数の大名へ向けてのもので宛名の一人が秀康である。
内容は朝鮮情勢。
慶長3年のわずかな間、秀康は養父の晴朝から一字をもらって「秀朝」と改名していたらしい。
ただ、同年中には「秀康」に戻している。
慶長3年8月18日に秀吉が病没した件と関係する?のかもしれない。
だが、慶長3年カ?と年次推定の8月7日(秀吉没前)の書状で「秀康」と署名してあるため、秀吉の死との関わりは微妙である。
秀吉の死により、家康は京都から動けなくなり、秀忠は江戸、秀康は家康の側に、という形ができる。
上の2つの秀康書状はどちらも江戸の秀忠宛で、家康の様子などを知らせている。


●慶長4年
3月3日:吉原奉行中宛 中村一氏書状(静岡県史資料編13近世5)
結城三河守殿御家中之女房上下六人、江雪申理ニ候、吉原相違有間敷候也、
3月22日 三州宛 秀忠書状(大阪城天守閣所蔵文書)
4月8日:『言経卿記』
早暁伏見江戸(ユウキ)宰相殿・森右近家等火事也、右近ヨリ火出也云々、
5月2日『言経卿記』
城織部佑ヨリ知人ーー愛洲藥所望之由有間、十服遣了、結城宰相御内衆也云々、
5月11日:小早川秀秋等三十名連署公家衆法度請状写(旧記雑録後編四十五)
結城宰相
月日不明:黒印状写

ーメモー
秀康家中の女房衆が領国→伏見、伏見→領国のどちらかの移動をしたようだ。
それとも秀康自身が一度結城に戻ったのか、3月22日の秀忠書状に「路次中無何事被御上着候由」とある。
慶長3年11月に知行充行が出ているので、可能性はある。
また、家康を糾弾する『内府ちかひの条々』に、「諸侍の妻子、ひいきひいきニ候て、國本へ被返候事」がある。
もしかしたら、この女房衆の移動がそれに該当するかもしれない。
この場合、女房衆の移動は「伏見→領国」が正しくなる。
伝聞情報ではあるが、4月8日には伏見の屋敷が火事になったらしい。
翌月に秀康の家来が山科言経に愛洲薬を所望しているのは、火事の関係だろうか。
5月11日の署名で、秀康は「羽柴」姓を使用していない。


●慶長5年
6月22日:三州宛 秀忠書状(松江松平文書)
6月23日:多賀谷左近宛 秀康書状(多賀谷文書)2通
7月10日:知行充行
7月14日:金松又四宛 秀康書状(兼松文書)
8月21日:羽作州宛 秀康書状写(譜牒余録五十四)
8月24日:羽三州宛 福島正則書状写(福島家系譜)
8月29日:池田吉左衛門他宛 秀康書状写(黄薇古簡集一)
9月17日:羽作州宛 秀康書状写(譜牒余録五十四)
9月25日:井兵部宛 秀康書状写(中村不能斎採集文書九)
9月28日:羽越州宛 秀康書状(天理大学図書館所蔵伊達文書)
9月28日:羽三州宛 伊達政宗書状(越葵文庫文書)
10月16日:佐州宛 秀康書状写(栃木県庁採集文書三)

ーメモー
知行充行を除き、全て関ヶ原前後関連の書状。
年次が特定できる秀康書状の数が最も多いのがこの慶長5年である。
家康もこの時期の書状の数は多い。
宇都宮で対上杉を任された秀康は、あちこちと連絡を取り合っている。


●慶長6年
1月4日:結城宰相宛 秀忠書状(越葵文庫文書)
4月18日:宰相宛 秀忠書状(福岡市博物館所蔵文書)
8月13日:越前宰相宛 秀忠書状(越葵文庫文書)
8月23日:大関左衛門督宛 秀康書状(大関)文書
9月9日:知行充行、知行充行写
9月11日:寄進状写、定書写
9月15日:知行目録写
11月9日:寄進状
12月9日:黒印状

ーメモー
慶長6年は、秀忠の書状が3通ある。
1月の書状では、秀康の越前拝領を喜び、4月のものでは秀康と会いたいと伝え、8月には秀康の目の具合を心配している。
どうやら、関ヶ原の後、秀康は目を患っていたようだ。
8月23日の書状によれば、越前を拝領した秀康は伏見を経由して8月14日に越前に入っている。
新しい領国に移ったため、知行充行などが多数出されている。
ただし、秀康に従って越前入りした結城の家臣は少なかった。
12月9日の黒印状では、越前入国の際に大量の金銀が納められているのが分かる。


●慶長7年
3月5日:伝馬定書
4月14日:寄進状写
5月27日:『舜旧記』
今日三河守殿依社参、二位卿俄豊國へ越也、予脚気ニ足痛故不参、次三河守殿奉納、銀子五枚、二位殿ヲソクテ三河守殿早ク社参也、
7月5日:『言経卿記』
伏見ヘ冷・倉部発足了、先結城宰相殿(内府息)ヘ罷向、自倉部ユカケ二具進了、盃酌云々、次内府ヘ罷向、夕食有之、
9月10日:黒印状
9月11日:黒印状
11月15日:結城宰相宛 秀忠書状(個人所蔵文書)

ーメモー
秀康は領国支配のため、4月までは越前にいたようだ。
5月には伏見へ来ていて、秀吉を祀る豊国社に参詣している。
秀康の豊国社参詣はこの1回だけで、前日には家康の母於大の方の参詣が確認できる。
家康も伏見におり、徳川として礼を示すための参詣だったらしい。
11月の秀忠書状で、秀康が金沢城への落雷を報告しているのが分かる。
秀康の越前入りは、対前田家のためもあったようだ。


●慶長8年
1月9日:知行充行、知行充行写
1月10日:寄進状写、寄進状
1月21日:寄進状
2月12日:寄進状、寄進状写、禁制、禁制写
2月28日:寄進状
3月25日:『慶長日件録』
大樹参内也、〜中略〜次扈從衆五人、越前宰相、豊後宰相忠興、播磨少将、京極少将、安芸侍従等也、〜以下略〜
4月4日:『言経卿記』
殿中御能有之間、〜中略〜次大樹(御袴・肩衣)御出座、次相伴衆各被参了、三宝院准后(素絹)、両人上之段也、四方也、中之段(ニテ)烏丸亜相・日野亜相〜中略〜越前相公(結城、大樹子息)〜以下略〜
5月2日:判物
慶長8年カ7月17日:神田修理亮宛 秀康書状(神田文書)

ーメモー
慶長8年は家康が将軍に就任する年である。
秀康は再び3月には伏見におり、家康の参内などの関連儀式に参加している。
5月には越前に戻ったようだ。


●慶長9年
慶長9年カ2月23日:越前宰相宛 秀忠書状(個人所蔵文書)
慶長9年カ6月1日:越前宰相宛 秀忠書状(越葵文庫文書)
慶長9年カ6月16日:堀帯刀宛 秀康書状(佐藤行信氏所蔵文書)
慶長9年カ6月17日:越宰相宛 秀忠書状(南部晋氏所蔵文書)
7月1日:伝馬手形
11月12日:知行充行
慶長9年カ11月25日:永見淡路守宛 秀康書状(知立明神文書)

ーメモー
この頃から、秀康の体調が思わしくない。
秀忠の書状は3通とも秀康の煩いを気にかけており、堀帯刀宛の当人の書状でも病で会えなかったことを詫びている。
最後の永見淡路守宛は秀康の双子の兄弟とされ、その死去についての書状である。
ただ、文書の最後が「以上」で締められており、書式として妙な感じがする。


●慶長10年
慶長10年カ1月9日:越前宰相宛 秀忠書状(武生市立図書館所蔵文書)
2月7日:知行充行
慶長10年カ2月17日:本多上野介?宛 秀康書状(お茶の水図書館所蔵文書)
3月15日:『言経卿記』
大外記(中原)師生来、右大将殿任槐有之歟之由申、同兄弟越前宰相モ黄門ニ拝任之由申、
5月8日:島津陸奥宛 秀康書状(島津文書)
慶長10年カ5月18日:大方彦左衛門尉宛 秀康書状(大方文書)
慶長10年カ5月18日:秀康書状(秀康公御代御秘蔵御書付類)
慶長10年カ5月22日:宮川五助宛 秀康書状(水野家文書)
慶長10年カ5月26日:円光寺床下宛 秀康書状(三岳寺文書)
6月10日:越前中納言宛 秀忠書状(越葵文庫文書)
慶長10年カ6月27日:由井甚太郎宛 秀康書状写(水野家文書)
慶長10年カ6月29日:由井甚太郎宛 秀康書状写(水野家文書)
慶長10年カ6月30日:本目権十郎宛 秀康書状写(古文書二)
7月26日:『公卿補任』
前参議從三位源秀康、七月廿六日任権中納言

ーメモー
慶長10年は秀忠が将軍に就任する年である。
秀康も中納言となり、この年に推定される書状も増加する。
しかし、病は悪化しており、秀康は腕が痛くて花押が書けず、印判で書状を出している。


●慶長11年
1月1日:多賀谷左近大夫宛 秀康掟書(多賀谷文書)
慶長11年カ2月2日:本多美濃宛 秀康書状写(中村不能斎採集文書十)
慶長11年カ2月5日:本多美濃宛 秀康書状写(中村不能斎採集文書十)
慶長11年カ2月12日:多賀谷左近大夫宛 秀康書状(多賀谷文書)
4月18日:越前中納言宛 秀忠書状(芦浦観音寺文書)
5月16日:『輝資卿記』
玄仍所へ越前中納言殿之御祈祷之連歌ニ罷出候、夜中迄酒宴、
5月18日:『慶長日件録』
午刻、伏見行、越前中納言殿へ、冷泉令同心、向彼亭於書院有御振舞、雖然御腫物之故無御對面、予進物薫衣香袋三ツ進之、冷泉中将、定家真筆三代集之抜書、被懸御目之、及晩天帰蓬畢、
6月2日:『慶長日件録』
午刻為勅使、越前中納言之亭へ向、於東福寺遊山之間帰京、
6月3日:『慶長日件録』
為勅使向越前中納言亭、薫衣香袋廿拝領也、仍持参、即中納言令頂戴給、後有振舞、中納言殿今日月待、無食也、仍無相伴之義、忝之由御返事申入畢、
6月4日:『慶長日件録』
未刻、越前中納言殿より御使被下、御書并帷子五拝領、即返事申入、高田遠江守宛所遣了、御使名字高田平左衛門、
7月7日:『慶長日件録』
早朝伏見へ行、前大樹へ御禮ニ参、御對面也、次越前中納言殿へ参、依御所労、無御對面、
慶長11年カ7月7日:松平飛騨守宛 秀康書状(三宅文書)
慶長11年カ8月4日:秀康書状(平成六年『古典籍下見展観大入札会目録』)
慶長11年カ8月16日:蒲生源左衛門宛 秀康書状写(新編会津風土記三)
慶長11年カ9月2日:秀康書状(毛谷黒滝神社文書)
慶長11年カ9月21日:江雪老宛 秀康書状(藩中古文書三)
10月1日:越前中納言宛 秀忠書状写(武家事紀三十二)
慶長11年カ12月26日:稲葉三十郎宛 秀康書状(館山市立博物館所蔵文書)

ーメモー
家康の上洛に合わせて秀康も伏見にいる。
病状は改善しておらず、秀忠は書状で心配しており、里村玄仍の所では秀康の快癒を願って「御祈祷之連歌」が行われる。
秀康の書状では具合が悪く会えなかったことを詫びる文言が目に付く。
『慶長日件録』は船橋秀賢の日記で、秀賢は天皇の勅使として秀康に「薫衣香袋廿」を持参している。
おそらく、秀康が家康から伏見を任される立場になったためであろう。


●慶長12年
2月21日:羽柴陸奥守宛 秀康書状(島津文書)
3月5日:毛利伊予守宛 秀康書状(長府毛利文書)
3月9日:児玉若狭守他宛 秀康書状写(萩藩譜録こ二十六)
慶長12年カ3月19日:福原勝三郎宛 秀康書状写(萩藩譜録こ二十六)
慶長12年カ3月26日:津軽右京宛 秀康書状(佐藤文書)
4月6日:知行充行写
4月28日:『御湯殿上日記』
みかわのかみわつらいさんさんにて、きとうに御かくら申さるる、ふ行とうの辨なり、
閏4月13日:『鹿苑日録』
片主越前へ、自秀頼公三州御見廻被相越ト云、一説又三州早御遠行故、為弔慰被相越ト云、両説有之、不知其實、予相煩故不出門戸、不知虚實、
閏4月14日:『義演准后日記』
傳聞、去八日三河守死去云々、将軍子息也、去三月五日ニハ、尾張國守下野守死去、相續凶事、珍事々々、三河守ハ越前一國ノ主也、
閏4月15日:『鹿苑日録』
片主御出、昨日自越前帰宅ト云々、三州遠行必定ト云々、御若衆其外御近所ニ伺候之衆、當座ニ三人戴腹シテ御伴、其外六七人モ有之ト云々、
閏4月:『パジェー日本耶蘇史』
そは謁見式の當日、公方の長子になるが、正室の出にあらざるにより、位を継ぐ能ハざりし越前侯の凶報達したるに、上野殿ハ、公方若し此事を知らば、謁見の式ハ延期せられ、接待も厚からざるべきを前知し、國君が謁見の前に此報に接せざらん為に全力を盡し、越前より来れる書状は総べて之を押へ、接見の時刻を引き上げたるべしとなり、此非常なる親切ハ、大に宣教師の利益となりたり、
6月5日:『鹿苑日録』
東法印亦此三日上洛ト云々、大御所様御機嫌甚以難窺之、是亦無餘儀、両所迄捐館之上者、御愁嘆不及言語、下々至小身迄、無不愛其子、況於大人乎、

ーメモー
病の秀康に、家康は寒い越前ではなく上方で養生するように伝えていた。(2月21日書状)
やや回復したので帰国したが、秀康は閏4月8日に越前で病没する。
4月28日の「お神楽」は、秀康の治癒を願って行われている。
その前の4月25日に、「さきのしやうくん(家康)より、ねんとうの御れゐとて、しろかね二百まい、…」(『御湯殿上日記』)とあるので、この神楽を依頼したのは家康の可能性が高い。
家康が天皇に納める白銀は毎回100枚で、大坂の陣のときでも同額である。
通常より多い100枚は秀康のためのものだったであろう。
しかし、神楽の甲斐なく、秀康は病没した。
片桐且元が、秀頼の使いとして見舞い、もしくは弔問に行っている。
『パジェー日本耶蘇史』で、本多正純が宣教師との謁見を優先して、秀康死去の知らせが直ぐに家康に届かないよう妨害していたのが分かる。
『鹿苑日録』には、「家康さまのご機嫌を伺うのがとても難しくなっている。仕方のないことだ。忠吉さまと秀康さまのお二人を亡くされたのだ。そのお嘆きは言うことが出来ないほどだろう」とある。


注意:秀康の書状や秀康宛の書状はまだ存在するが、年未詳のため、載せなかった。
年未詳のそれらは『近世初期大名の身分秩序と文書』で確認できる。
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2019年05月10日

結城秀康に関する史料 その6

秀康の「おもり」の記述が『家忠日記』にあったので、記載する。

○日記『家忠日記』:天正十四年五月十三日丁未

雨降、吉田ニ御逗留也、右分振舞也、
おきいさまの御もり小右衛門尉、伊藤殿案内者ニこし候、
ミあけ小ちゃハん五つ、此方ゟ持鑓二本出候、

●訳
雨が降った。
吉田に(朝日姫が)逗留された。
右の分を振る舞った。
おきい(秀康)さまのお守りの小右衛門尉が伊藤殿の案内人として来た。
土産に小さな茶碗を5つ(持って来たため)、こちらから鑓二本を渡した。

*解説と検討
天正14年(1586年)5月、秀吉の妹朝日姫が家康に嫁ぐために浜松へとやって来た。
その途上、三河国吉田(現:愛知県豊橋市)で雨が降ったために、前日に吉田に到着した朝日姫は、もう一日吉田に逗留した。
朝日姫には秀吉家臣が従っており、11日の『家忠日記』で名が確認できる。
浅野長政(長吉)、富田一白、伊藤太郎左衛門尉、滝川益重の4名である。
「おきいさまの御もり」である「小右衛門尉」は、「伊藤殿」の案内人として来ていた。
「伊藤殿」は「伊藤太郎左衛門尉」のことであろう。
秀吉家臣4名のうち3名は実名他の情報が分かるのだが、この伊藤太郎左衛門だけ実名すら不明である。
秀康は天正12年12月に11歳(実年齢)で上京して大坂に入り、天正13年10月には「侍従」となり参内している。
この時点で「元服」して「秀康」を名乗っている筈であるが、『家忠日記』では「おきいさま」表記である。
記述者の家忠は秀康の「侍従任官」を知らなかったのか、それとも、「御もり」の小右衛門の前に「侍従」表記はおかしいからだろうか。
小右衛門は伊藤殿の道案内として朝日姫の一行に加わっている。
吉田で松平家忠に会った小右衛門は、家忠に「土産」として「茶碗5つ」を渡した。
返礼として家忠は「持鑓」二本を小右衛門に与えている。
誰彼構わず土産を渡したりはしないだろうから、小右衛門は家忠とはそれなりの付き合いがある知り合いか、親族なのだろう。

先に上げたように、『家忠日記』には文禄3年(1594年)6月16日に「同普請、結城三州様ニふる舞にてこし候」とあり、秀康が普請のために上洛した家忠に「振舞=接待」をしている。
秀康が家忠以外の者にも「振舞」をしたのかどうかは不明。
家忠は妻が家康の母於大の方の姪である。
秀康の母お万の方の母は、於大の方の妹?ともされる。
徳川の親族であるから秀康が特に接待したのか、それとも、普請に関わる人達をまとめてねぎらったのか、上の記述だけでは何とも言えない。
ただ、小右衛門が家忠に土産を渡していることから、秀康の側近くにいる者達と家忠の間には何らかの繋がりがあったのは確かだろう。
小右衛門は道案内だけでなく、徳川に秀康の情報などを伝える役目もあったと思われる。

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2019年01月27日

結城秀康に関する史料 その5

某ゲームの関係で『舜旧記』を読んでいたら、秀康の情報が見つかったので、一次史料を追加します。

○日記『舜旧記』:慶長七年五月廿七日

「今日三河守殿(秀康)依社参、
 二位卿俄豊國へ越也、予脚気ニ足痛故不参、
 次三河守殿奉納、銀子五枚、
 二位殿ヲソクテ三河守殿早ク社参也、
 次當院下部屋ヨリ火事出来之処ニ、早ク見付打ケス也、
 誠神慮之加護、當院本尊神龍院(吉田兼倶)殿・
 唯神院(吉田兼右)殿加護也、有難云々、」

・『舜旧記』は豊国社の社僧梵舜の日記である。
 日記から「三河守=秀康」が慶長7年(1602)5月27日に豊国神社に参拝したのが分かる。
 その際、梵俊は足が痛くて豊国神社には行けなかった。
 二位卿は吉田兼見のことで、梵舜の兄である。
 秀康が豊国神社に詣でたため、吉田兼見は「俄に=急いで」来た。
 秀康は「銀子5枚」を奉納して早く帰ったようだ。
 「二位殿ヲソクテ三河守殿早ク社参也、」とあるので、吉田兼見は秀康の参拝には間に合わなかったのだろう。
 その次に「當院=神龍院」が火事になったが早く消すできたと記されている。
 梵舜が神龍院と唯神院の加護に感謝しているのは、彼がその院の僧侶だから。
 秀吉を祀る豊国社の社僧であっても、梵舜の尊崇の対象は自分の祖父と父の方らしい。

では、秀康が慶長7年に豊国社を詣でた理由である。
それは前の5月23日の記事を読むと分かる。

「内府公(家康)御母儀(於大の方)豊國へ社参、奉納九十貫、
 二位殿杉原二束・摺三巻、慶鶴丸同事、祝并予卅三貫、
 祢宜神官卅貫、巫女八人ニ生絹帷一人一充、
 社家ヨリ菓子折、熨斗、堅栗、四方ニスハル、是ヲ上也、
 次謡講於清水茶屋興行、予重衡稽古也、」

・秀康が豊国社を詣でる四日前に、家康の母於大の方が豊国社を参拝している。
 於大の方はこの年に初めて上洛し、高台院(北政所)や天皇にも会った。
 豊国社に詣でるのは豊臣(羽柴)への気遣いを示すためだろう。
 九十貫(約900万〜1000万円?)を納め、吉田兼見をはじめとした神社関係者に贈り物をしている。
 対して、神社の方では菓子折他の品物を贈り、茶屋での謡(能)で於大の方をもてなしている。
 「予重衡稽古也」とあるから、能「重衡」を梵舜は演じたのだろう。
 秀康の豊国社参拝は祖母(於大の方)の参拝の延長であり、徳川家の一員として豊臣(羽柴)への気遣いを見せたのだ。
 ここでも秀康は徳川の子として動いている。
 秀康の動向は「徳川の者」で終始一貫しているのだ。
 
また、この日記により、慶長7年に秀康が5月には上洛していたのも判明した。
7月には京に入っていたのが『言経卿記』から分かっていたが、2ヶ月前からの在京であったのだ。
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2017年05月03日

結城秀康に関する史料ーその4

結城秀康に関する史料 その4

追加分を前の史料に挿入すると、読みづらくなるので、別にした。書状3と貴族の日記1に式次第1。

○書状1:家康→秀康【古典籍展観大入札會】

  尚明日委細可承候、今日者貴下も御草臥候哉、定事之外痛申候、
 改暦之御慶珍重存候、如仰先刻者得賢意本望之至ニ存候、
 然者袖印先可然之由候旨、則御使ニ進之候、御意ニ入候者貴下御用ニ候間、
 迚之義ニ染させ本給次第仕立、廿六日之御用ニ立候様ニ可申候、
 此方ニもいつそハ又入申事も御座候ハん間、次手なから仕立置可申候、
 恐々謹言
                       家康
 結城中将殿

・この書状は、年月日が不明である上に写文書と思われると『徳川家康文書の研究』にある。結城中将との宛名から、天正18年〜慶長2年?の間に、家康が秀康に出した正月の書状になるようだ。
冒頭に「尚明日委細可承候」とあるため、家康が明日、秀康と会うか、または、使者が来る予定などがあるようだ。次に「草臥れたのではないですか」と続けている。秀康が何事か仕事なり役割を任されたのか?とも思われるが、この部分には秀康年譜の情報からとある解釈ができるので、下でそれを指摘しておく。
内容は「袖印=敵味方を区別するために甲冑につける袖標」に関するもので、家康は秀康の使者にこれを渡している。26日に袖標が必要なようで、家康は自分のところの袖標を仕立てるついでに、秀康が必要な分も用意する?と伝えているように読めるのだが、それであっているのかどうか、自信はない。
写しだとしても捏造の必要性がある文書ではないため、家康が秀康に出した書状であろう。
使者を送った秀康は家康に「袖標」が必要であるのに「ない」と伝えて、家康に「袖標」を貰ったようだ。息子の頼みに親が応えて、更に面倒をみようとしたようだが、残念ながら文意が読み取りにくい。
結城家に養子に入った後でも、秀康が実の親の世話になることが普通にあったと分かる書状である。
天正18年〜慶長2年の間で、秀康が「袖標」を必要とする場面は、奥州出兵か、朝鮮出兵。『秀康年譜』によれば、名護屋へは家康と同道しているから、朝鮮出兵の可能性が高いかもしれない。他の大名が朝鮮出兵で「袖標」を用意したなどの文書があれば、意味が分かりやすくなるだろう。

冒頭の「今日者貴下も御草臥候哉、定事之外痛申候」に着目して、別の情報から文禄4年の正月という具体的な年次の可能性も指摘しておく。この部分を訳すと「今日はあなたもお疲れになったのではないでしょうか。(私も)とても(心が?)痛みます」という意味になる。秀康年譜によれば、文禄3年11月に秀康の長女(家康にとっても久しぶりの孫)が亡くなっている。「改暦之御慶珍重存候」から、この書状が正月開けのものなのは確実で、年明けに家康が秀康の「草臥」をねぎらうのなら、長女の四十九日がある文禄4年の正月ではないか、と推測できる。
実は文禄4年には次の朝鮮出兵の予定があったらしく、そのために「袖標」を用意していたのなら、辻褄は合う。

○書状2:秀忠→秀康【思文閣墨蹟資料目録第三〇五號所載】

  尚ゝ其元御様子、被入御念被仰越候、忝候、
 御飛札本望之至令存候、路次中無何事被成御上著候由、
 珍重存候、将又 内府(家康)様彌御息災ニ御座候由、
 是又目出度存候、仍大納言(前田利家)殿煩付 
 内府様大坂へ被成御下候處、御入魂之由、満足ニ存候、
 随而六人のうちへ御入なされ候由、御尤ニ存候、
 何事も自是可申入候間、不能具候、恐々謹言、

(慶長四年)三月廿二日     秀忠(花押)

 三州守(結城秀康)   武蔵守 秀忠
  御報

・慶長3年8月に豊臣秀吉が病没した。この慶長4年3月11日に家康は病気の前田利家を見舞っている。文中の「大納言殿御煩付」がそれで、秀康は家康の安全と、上方の動向を江戸の秀忠に知らせた。この秀忠の書状は、その秀康書状への返事である。「路次中無何事被成御上著」とあるので、秀康はこの少し前に上洛したのだろう。前に慶長4年3月に秀康の所の女房衆6人が吉原を通過する許可を得ている書状を載せた。秀康が3月初旬か、それ以前に上洛したことを示す証左になるかもしれない。
『徳川家康文書の研究』では「随而六人のうちへ御入なされ候由」を、秀康が慶長2年6月に没した小早川隆景の代わりに五大老(徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元・小早川隆景でカウントすれば6人)に入るという噂があったのか?と解釈しているが、どうなのだろうか。
その部分を外しても、秀康が江戸の秀忠に父家康の無事と上方の情勢を知らせていたのが分かる意義は大きいと思う。

○書状3:秀忠→秀康【徳川美術館】

 金澤雷火之儀
 付而早々仰預、御
 飛脚御念入
 事候、無是非仕
 合候、猶大久保相模
 可申入、恐々謹言

  霜月十五日 秀忠(花押)
 越前宰相(秀康)殿

・金沢城に雷が落ちて、火事になったことを秀康が秀忠に知らせた。この書状はその知らせに対する返事である。金沢城に落雷があって天守が焼失したのは、慶長7年10月晦日である。加賀(石川県)の隣国越前(福井県)にいた秀康は、その情報を入手していち早く江戸の秀忠に知らせたのだ。この時期には家康は京都にいるため、そちらにも知らされただろう。越前に秀康が配された理由の一端が分かる書状でもある。
秀康は周辺大名、特に前田家の動向を見張る役割も任され、その役目をしっかと果たしたのだろう。

○日記:『輝資卿記』慶長11年5月16日

 玄仍所へ越前中納言殿之御祈祷之連歌ニ罷出候、
 夜中迄酒宴、

・『輝資卿記』は日野輝資の日記である。玄依は連歌師の里村玄仍のことであろう。越前中納言が結城秀康で、慶長11年といえば、舟橋秀賢の日記『慶長日件録』(前に載せた5月18日の条)で秀康の病が確認できる年である。日野輝資は後に娘の死去を機に出家して、大御所となった家康に仕えている。この時期には家康も在京しており、輝資は同年の5月29日に家康から桑山法師のために寸白の薬をもらい、使い方を教えてもらっており、同時期に家康との交流が確認できる。
輝資は家康の取り成しで京都に戻った過去もあるため、病となった家康の息子のために「祈祷の連歌」に参加したのだろう。里村玄仍の所で催されているから、主催者は玄仍か?家康か秀康の依頼の可能性もあるが、確認はできない。

ーー

以上、結城秀康に関する追加史料でした。
4つとも家康ー秀康ー秀忠の繋がりを確かめることができる史料だと思います。

ーー更に追加

○日記:『家忠日記』文禄三年六月十六日

 同普請、結城三州様ニふる舞にてこし候、

・『家忠日記』はその1に載せた徳川家臣松平家忠の日記である。於儀伊が秀吉の人質となる際に使ったが、その日記の最後にも秀康のことが載っていた。
結城三州が秀康である。松平家忠は上洛して伏見で普請作業(=土木工事)にあたっており、冒頭にある「同普請」が続く日々のなかに、秀康の名があった。秀康は普請に励む家忠を「ふる舞」に招いて歓待している。
秀康は「結城」とあるように、既に結城家に養子に入った後だ。他家の人間であるにも関わらず、家忠に「振舞」をするのは、結城を名乗っていても実質的には「徳川の人間」だからだろう。

ーーーまた追加

○徳川美術館:『式御成之次第』

 式御成之次第
夫御成之儀被相定候付而
 【中略】
亜相(家康)御禮御進物之次第
 ○初献 御太刀 長光    一腰
     御馬  黒毛御鞍置 一疋
 ○二献 御小袖 唐織縫薄  百
  【中略】
 ○七献 巻物        三百
    以上
  黄門(秀忠)ヨリ
 御太刀一腰 御馬 月毛 一匹
 御小袖 五十
 銀子  五百
   以上
  結城少将(結城秀康)殿
 御太刀 御折帋
 御小袖 三十
   以上
  井侍従(井伊直政)殿
 御太刀 御折帋
 御小袖 五縫薄
   以上
  福松(松平忠吉)殿
 御太刀 御折紙
 御小袖 二十
   以上
【中略】
御相伴之事
 羽柴備前中納言殿 三方
 同岐阜 中納言殿 三方
 【中略】
 同丹後 少将殿  足打
 同結城 少将殿  足打
 【中略】
 文禄四年三月廿八日

・文禄4年3月28日に豊臣秀吉が徳川家康の邸に「御成」したときの記録である。この「御成」は邸を訪ねて来た相手(将軍など)を料理・能・茶などで一日がかりで接待するもので、室町時代の将軍も行った。江戸幕府でも2代将軍の秀忠がよく「御成」をしている。
このときの秀吉の御成は『言経卿記』の3月28日の条にも「大閤(秀吉)御方江戸亜相(家康)渡御也云々、御能有之、御機嫌ヨキ云々」と記載があり、実際に行われたのが確認できる。
式次第には料理の担当者やメニュー、秀吉以外のお客の名などが載っており、秀康は接待される「客(相伴=秀吉と一緒に接待を受ける人達のこと)」と接待する「徳川一門」の両方の名にある。御成した訪問者へは接待の他、贈答も行われる。家康、秀忠の次に秀康の名と贈答品が記されており、秀康は「結城家」の人間として接待を受けながらも「徳川家」の一員として客を接待する立場でもあるのだ。当主の家康も「主」として食事をしながら客を饗応しているので、秀康も接待される側に名があっても徳川の者として客をもてなす立場でもあったのだろう。
秀康が秀吉の養子ではなく「徳川家の一員」として秀吉へ贈答しているのは間違いなく、他家(結城家)を継承しながらも「徳川一門」であったのが分かる史料の1つである。

その1→http://ari-eru.sblo.jp/article/175750730.html?1500262293
その2→http://ari-eru.sblo.jp/article/175920564.html?1500262349
その3→http://ari-eru.sblo.jp/article/176007043.html?1500262370
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2016年07月09日

結城秀康関連史料 その3

慶長12年閏4月8日、結城秀康は越前で病没する。慶長8年、もしくは9年からの長い患いの後の死去であった。秀康の病については、『当代記』に「唐瘡(=痘瘡)」とある他は、その病名が分かるものが手持ちの史料にはない。天然痘で三〜四年の患いは考えられないので、「痘瘡」が意味するもう1つの病「梅毒」が死因であったのだろうか?『当代記』の記述だけでは断定はできない。

慶長十一年
七月二日『言経卿記』
 禁中御普請之縄引有之、板倉伊賀守被参、
七月十三日『同上』
 禁中御作事テウノ始了、
九月『慶長日記』
 禁裏仙洞境内狭シテ朝儀カタシト聞玉ヒ、
 宰相秀康ヲ惣奉行トシ、諸大名ニ仰テ公家ノ家宅ヲ移シ、

・慶長11年7月に「禁中、禁裏=天皇の御所」と「仙洞=上皇の御所」の工事が始まる。結城秀康はその惣奉行となったと『慶長日記』『当代記』『慶長見聞録案紙』『松平津山家譜』は記す。恐らく、秀康が惣奉行となったのは確かだろう。しかし、彼は病によりこの仕事を全うできなかった。『朝野舊聞裒稿』『松平津山家譜』には慶長12年3月1日に越前に帰国したとある。

慶長十一年
九月廿一日『言経卿記』
 大御所(家康)関東へ御下向也云々、
同年同月『鹿苑日録』
 今日大御所(家康)様御下向ト云々、長原御宿ト云々、
 来春者御上洛可為不定ト云々、不知虚実、

・同年の9月に家康が京を出立する。相国寺の西笑承兌(秀吉・家康に仕えた僧侶)の日記『鹿苑日録』に来年の春の上洛は「不定=決まっていない」らしいと書かれている。これまで家康は毎年京に来ていた。しかし、来年は分からないという。『当代記』には「此度ハ越前中納言(秀康)主、在伏見シ可給之由」とあり、秀康に伏見の留守を任せたとある。(『松平家譜』も同じ)
前のその2に家康は秀康に伏見を任せるつもりだったと書いたのは、ここからである。そして、実際に家康は慶長12年には上洛しない。だが、上に書いたように秀康は同年3月に病により、越前北荘に帰る。なお、秀康の家臣本多富正は慶長11年から駿府城の普請に出ていたようである。(『福井鑑』ほか)

慶長十二年
四月二十八日『御湯殿上日記』
 みかわのかみ(秀康)わつらいさんさんにて、きとうに御かくら申さるる、
 ふ行とうの辨なり、…
四月廿五日『孝亮宿禰日次記』
 廿八日内侍所御神楽可有之由、從頭辨有示、

・4月28日、秀康の病平癒のために宮中で神楽が催された。病が治るように宮中で神楽を演奏する例は、家康や秀吉,秀頼,前田利長(母まつの立願)で確認できる。というか、この3人レベルでないと宮中での病平癒祈祷の神楽は催されない。それが「秀康」のために行われている。
この『御湯殿上日記』は宮中の女官が記した日記であり、秀康の「わつらいさんさん=病がひどい状態」なので(病平癒の)祈祷の為に「神楽」を(天皇から)申し付けられたとある。
貴族である小槻孝亮の日記『孝亮宿禰日次記』によれば、この神楽は25日に「頭辨」から指示が出されている。「頭辨」は『御湯殿上日記』で「ふ行=奉行」となっている「とうの辨」と同じ。この神楽は間違いなく25日に開催の指示が出された。その25日には、実は家康からの歳首(=年始初めの挨拶)の使者が宮中を訪れている。
慶長12年4月25日「さきのしやうくん(家康)より、ねんとうの御れゐとて、しろかね二百まい、…」(『御湯殿上日記』)
『御湯殿上日記』に家康からの依頼と書いていないため推測となるが、秀康の病平癒のための神楽を頼んだのは、家康ではないだろうか。日付が一致しているため、その可能性は高いと思う。慶長14年の歳首で家康が贈答した白銀は100枚で、上の25日の歳首はそれより100枚多く、慶長13年2月に秀頼が疱瘡(天然痘)にかかった際の神楽は、大坂からの申入で催されている。
誰かの依頼がなければ天皇が病平癒の神楽を催さない?のならば、この秀康のための神楽は、家康が白銀100枚で頼んだものだろう。

しかし、神楽の甲斐なく、秀康は同年の閏4月に病没する。

慶長十二年
閏四月十四日『義演准后日記』
 傳聞、去八日三河守(秀康)死去云々、将軍(家康)子息也、
 去三月五日ニハ、尾張國守下野守(松平忠吉)死去、
 相續凶事、珍事々々、三河守ハ越前一國ノ主也、
閏四月十三日『鹿苑日録』
 片主(片桐且元)越前へ、自秀頼公三州(秀康)御見廻被相越ト云、
 一説又三州早御遠行故、為弔慰被相越ト云、両説有之、
 不知其實、予相煩故不出門戸、不知虚實、
閏四月十五日『同上』
 片主(片桐且元)御出、昨日自越前帰宅ト云々、
 三州(秀康)遠行必定ト云々、御若衆其外御近所ニ伺候之衆、
 當座ニ三人戴腹シテ御伴、其外六七人モ有之ト云々、
六月五日
 東法印亦此三日上洛ト云々、大御所(家康)様御機嫌甚以難窺之、
 是亦無餘儀、両所(忠吉、秀康)迄捐館之上者、御愁嘆不及言語、
 下々至小身迄、無不愛其子、況於大人乎、…

・『義演准后日記』は醍醐寺の僧侶義演の日記である。義演は秀吉の時代から大坂(豊臣)方と関係の深い僧侶であるが、家康の側室から子どもの病気平癒の祈祷も頼まれおり、豊臣・徳川双方とも関係がある。義演は日記に「傳聞」と前置きした上で、8日に秀康が死去したと記し、3月5日の松平忠吉(家康四男)死にも触れ、凶事が相次いでいると続ける。
『鹿苑日録』には閏4月13日に片桐且元が秀頼からの「見廻=見舞」もしくは「弔慰=弔問」のために越前へ向かったとある。15日にその且元が「昨日」越前から帰宅して相国寺を訪ねている。そこで西笑承兌は秀康の死去と3人もしくは6、7人がが殉死したとの話を聞いている。8日に秀康が死去していることから、且元の越前行きは「弔問」のためだったろう。西笑承兌の書き方だと、京ー越前間を且元は13日に出立して14日に戻って来るという速さで移動しているように見えるが、恐らく出立は11or12日ではないだろうか。それでも2日もあれば越前からの情報は京や大坂に届くのだろう。京ー越前の間は交通網が比較的発達・充実している。
6月5日には家康は「御機嫌甚以難窺之」とあり、家康の機嫌が非常に悪いと推測している。西笑承兌は関ヶ原以前から家康と交流があり、秀吉没後は外交その他の顧問として家康の側近くにあった。家康の性情を知った上での推測であろう。「両所」とは家康の息子である松平忠吉(4男)と結城秀康(次男)の2人を意味しており、その2人の死去に対する家康の「愁嘆=嘆き」は言葉に表せない、と記してもいる。
秀康死去の際には殉死者がいた。西笑承兌は3人と記すが、『当代記』では永見、土屋の2人に介錯人の自害も含んだ4人が確認できる。人質時代から秀康と共にあった本多富正も自害をしようとしたらしいが、これは家康と秀忠に止められている。(下の書状を参照)先の4人は家康から殉死禁止の命令が届く前に死んでしまったようだ。

閏四月『譜牒餘録』
 権現(家康)様
 一御書 御黒印 閏四月廿四日
 中納言秀康卒去之砌、殉死一切停止可仕旨にて、
 家老共に被下置候、

 台徳院(秀忠)様
 一御書 御黒印 後卯月十六日
 右同時、本多伊豆守(本多富正)殉死、
 停止可仕旨にて被下置、

慶長十二年
閏四月『パジェー日本耶蘇史』
 …八日の後、府中を去る五里の所にある一地に着し、幕府の沙汰を待てり、
 三日の後、招を受けて府中に行けり、上野(本多正純)殿ハ
 人を遣して安著を賀せしめ、将軍の寵厚きソトサフロー(後藤庄三郎)殿
 自ら来りて、為めに周旋すべき旨を申出せり、…【中略】…
 そは謁見式の當日、公方(家康)の長子になるが、正室の出にあらざるにより、
 位を継ぐ能ハざりし越前侯(秀康)の凶報達したるに、上野(正純)殿ハ、
 公方若し此事を知らば、謁見の式ハ延期せられ、接待も厚からざるべきを前知し、
 國君が謁見の前に此報に接せざらん為に全力を盡し、越前より来れる書状は
 総べて之を押へ、接見の時刻を引き上げたるべしとなり、此非常なる親切ハ、
 大に宣教師の利益となりたり、…

・秀康が没したとの連絡が家康のもとに届いたその日、宣教師のパエスらが駿府に来ていて家康に会う予定だった。秀康の死去を家康が知れば、「謁見の式ハ延期=家康に会うのが延期」されるからと、本多正純が越前からの書状を全て押さえた上に面会時間を繰り上げてくれてとても親切だった、と記している。徳川家康は身内が死んだ連絡が届くと、引き蘢って人に会わないということをする人で、その事例が『言経卿記』で2つ確認できる。秀康の訃報に対しても同じことになると本多正純は分かっていたのだろう。越前からの連絡を止めて、宣教師との面会が延期にならないよう取り計らっている。
宣教師側は有り難かったろうが、たとえ数刻でも息子の死を知るのが遅れた家康はどうだったのだろうか…。

以上が主に手持ちの史料から書き出した「結城秀康」の情報である。秀康に関する史料をまとめた『結城秀康の研究』でも紹介されていないものが多い。徳川家康周囲の研究には、貴族の日記があまり用いられないという傾向があり、それが「徳川」に関する情報を狭める要因になっている。
史料というものは、1次史料として日記、書状があり、先ずはそれから研究対象になるべきなのだが、結城秀康に関してはそもそもあまり「研究されていない」のが現状である。秀康に関する情報は「物語性」を重視する逸話、小説由来のものばかりになっており、「結城秀康=不遇、気の毒、かわいそう、勇猛」という図式が定着してしまっている。
秀康に関しては江戸時代から上記のイメージが創作されている。理由としては、次男でありながら家康の後継者になれず、三男の秀忠が将軍に就任したのが大きいだろう。しかし、秀康は羽柴家→結城家の養子になっているため、徳川家を継げる筈もないのだ。

今回、史料をまとめてみて分かったのは、秀康がほぼ「戦功がない」にも関わらず大大名になっているのは、偏に家康の息子であるから、ということ、また、彼はどこに養子にいこうが、外部の人間に家康の子として見られ続け、家康と秀忠もずっと秀康を徳川の人間として遇していた事実、である。
秀康は徳川を継ぐ立場にはなくとも、家康の次男として徳川家によく貢献した。病の身でありながら、上洛した家康の側近くに居続け、そして、大事なのは決して秀忠の立場を危うくするようなことをしなかった点である。
秀康と秀忠の立ち位置は、弟が兄の上にある、という高確率で御家騒動に繋がりそうな兄弟関係である。しかし、2人の間にそのような問題は起こらなかった。秀康は、徳川を、江戸幕府を危うくする「問題を起こさなかった」、ただそれだけでも「優秀」と評するに値する徳川家の次男であった、と個人的には思う。

その1〜その3と取り敢えず手持ちの史料をまとめてみました。これら以外の秀康に関する1次史料が手に入りましたら、追加していく所存です。なお、史料をどう解釈するかは「人」によりますので、私が載せた解説は参考程度にして下さい。

その1→http://ari-eru.sblo.jp/article/175750730.html
その2→http://ari-eru.sblo.jp/article/175920564.html
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2016年07月03日

結城秀康関連史料 その2

手元にある結城秀康関係史料の抜粋その2。その1はこちら→http://ari-eru.sblo.jp/article/175750730.html?1467450043
その1で文禄四年までの史料を載せた。その後、手持ちの史料で秀康の動向が分かるのは次の慶長四(1599)年からである。その1でも使用した『言経卿記』からとなる。(『静岡県史』資料編から慶長4年の書状を追加)

慶長四(1599)年
三月三日『静岡県史資料編13近世5』
 結城三河守(秀康)殿御家中之女房上下六人、
 江雪(板岡部江雪斎)申理ニ候、吉原相違有間敷候也、
  慶長四
   三月三日       (花押)中村一氏
  吉原
   奉行中

・結城秀康の動向が分かる史料ではないが、秀康と江雪の名があったため、載せた。内容は結城秀康の家中(家臣)の女房6人に対する通行許可である。慶長4年といえば、秀吉が死去した翌年であり、同年の閏3月には秀康は石田三成を佐和山まで護送している。この書状はその閏3月の一月前のもので、秀康は恐らく伏見にあり、家康の側にいる。6人の女房衆が結城の本拠地に帰るのか、それとも伏見へ向かうのか分からないが、吉原を通る許可を得て通行したようだ。書状の発行者は駿河府中を任された豊臣の家臣中村一氏であり、吉原の奉行に彼女達が通ることを知らせている。一氏にその許可を求めたのが、「江雪=板岡部江雪斎(時期的に改名後の岡野江雪斎か?)」である。小田原の戦いの後、江雪斎は秀吉の御伽衆となった。慶長4年は秀吉没後である。この時点で既に家康に仕えている立場になっているかどうかは不明であるが、長男の房恒は天正19年から家康に仕えている(井上美保子『岡野融成江雪』より)。秀吉の御伽衆から家康の側近にそのまま移動した人物は多いので、江雪斎も同じだと思われる。
秀康は江雪斎に依頼して中村一氏に取次いでもらい、許可を得たのだろう。慶長4年は中央情勢が緊張している時期である。家臣の女房衆の身の安全のため、結城氏の領国へ帰した可能性はある。

慶長四(1599)年
四月八日『言経卿記』
 早暁伏見江戸(ユウキ)宰相(結城秀康カ)殿・森右近(忠政)家等火事也、
 右近ヨリ火出也云々、

五月二日『同上』
 城織部佑(昌茂)ヨリ知人ーー愛洲藥所望之由有間、十服遣了、
 結城宰相(秀康)御内衆也云々、

・閏3月に石田三成を護送した後、4月8日に森忠政(森蘭丸の弟)の屋敷から火が出て結城秀康の屋敷も火事になったとの話が広まっている。文の最後に「云々」とある場合は伝聞、つまり聞いた話となり、正確さを欠く。ただ、次の5月2日の条で秀康の「御内衆=家来」が山科言経に「愛洲(あいす)藥」を「所望=希望、要求」して10服貰っている。残念ながら、その家来の名前は「ーー」となっており、載っていない。「愛洲藥」は駕篭から落ちた家康や猫に噛まれた怪我人が貰っているため、傷を直す、もしくは痛み止めの効能のある薬だったようだ。(*愛洲藥は山科家特製の薬)もしかしたら、4月の火事で火傷をして痛みが治まらないため、愛洲薬を求めたのかもしれない。秀康の家来は知人の「城昌茂」の紹介で言経の所に来た。城昌茂は『言経卿記』に度々出てくる人物で、家康の家来である。秀康の家来と家康の家来の間に「知人」関係が成立する交流があるのが確認できる史料となる。

慶長七(1602)年
七月五日『言経卿記』
 伏見ヘ冷(冷泉為満)・倉部(山科言緒)発足了、
 先結城宰相(秀康)殿(内府(家康)息)ヘ罷向、自倉部ユカケ二具進了、
 盃酌云々、次内府(家康)ヘ罷向、夕食有之、

・関ヶ原の戦いから2年が過ぎた慶長7年、家康は正月に上洛して、長期の在京をしている。秀康がいつから京にいるのかは不明であるが、伏見城に滞在している家康の側近くにいるのは確かなようだ。伏見に向かった貴族の冷泉為満と山科言緒(山科言経の息子)が秀康の所に行き、「ユカケ=弓懸」を2つ「進=進上=プレゼント」して、秀康から「盃=酒」でもてなされている。その後、2人は家康の所に行って、夕食をご馳走になっているから、秀康と家康はそう離れた所にはいないだろう。このとき秀康は久々に「贈答対象」となっている。先にも書いたが、「贈答」は贈り甲斐のある人物にしかされない。彼の立場が上がった証拠だろう。
家康はこの年の10月2日に京都を離れ江戸に帰るが、再び、同年の12月25日に上洛する。慶長8年に将軍に就任するためだ。秀康も上洛する。

慶長八(1603)年
三月廿五日『慶長日件録』
 大樹(家康)参内也、【中略】次扈從衆五人、越前宰相(結城秀康)、
 豊後宰相忠興(細川忠興)、播磨少将(池田輝政)、京極少将(京極高次)、
 安芸侍従(?)等也、【以下略】

四月四日『言経卿記』
 殿中(二条城)御能有之間、【中略】次大樹(家康)(御袴・肩衣)御出座、
 次相伴衆各被参了、三宝院准后(義演)(素絹)、両人上之段也、四方也、
 中之段(ニテ)烏丸亜相・日野亜相【中略】越前相公(結城、大樹子息)
 ・安芸相公(毛利)(毛利秀元)・豊後相公(長岡)(細川忠興)・
 若狭公(京極)(京極高次)以上三方也、【中略】播磨少将(池田)(池田輝政)
 ・廣嶋少将(福嶋)(福島正則)・丹後少将(京極弟)(京極高知)・ヽヽヽ
 出羽侍従(最上)(最上義光)等下之段、足付也、

・徳川家康は慶長8年2月に将軍宣下を受け、3月25日に宮中に参内することで正式?に征夷大将軍に就任した。秀康は参内する家康に従う5人の大名のうちの1人であり、名が1番前にある。この3月25日の記事を載せる『慶長日件録』は明経博士舟橋秀賢の日記である。彼は「明経博士」としての知識を買われ、慶長4年から家康の学問に関する問に答えたり、雑談相手をしたりしている。(秀賢は豊臣秀頼にも2度の教授が確認できる人物)
西洞院時慶の日記『時慶卿記』では、「越前宰相(秀康)、長岡宰相(細川忠興)、京極宰相(京極高次)、池田宰相(池田輝政)、福島(福島正則か?)」という並びになる。人名が多少異なるが、秀康の位置は変わらない。
次の4月4日の二条城での能の上演でも、大名の中では秀康の名が1番前である。
天正13年に秀吉が参内したとき、秀康は秀吉、秀長に次いで3番目であった。それが慶長8年には家康に次ぐ位置となる。弟の秀忠がいないのは、江戸を空にはできないのと、前年でも確認できるように、在京中の家康の側近くには秀康という形ができつつあったから、のようだ。
しかし、秀康はこの慶長8年あたりから発病した可能性がある。『秀康年譜』に2度そういう記述が見られる。『当代記』によれば、彼の病は「痘瘡」。痘瘡が意味する病は2つあり、1つは疱瘡(=天然痘)でもう1つは梅毒である。秀康の病はその患いの長さから「梅毒」であった可能性がある。

その具合が悪い秀康に対する秀忠の書状がある。

慶長九年
六月十七日【大阪青山歴史文學博物館所蔵】
  猶ゝもと三州(長吉丸、のち忠直)息災候之間、可被心安候、
 先申候、以後不申入候、路次中御気色能御上著候哉、承度被存候、
 将又御煩之儀、如何御座候哉、是又無御心元候、
 委細者使者口上申含候之間、不能具候、恐々謹言
  (慶長九年)六月十七日        秀忠 (花押)
  越前 宰相殿

・この慶長9年3月に家康が江戸から伏見に向かった。秀康は『当代記』(=後世に編纂された史書)によれば6月5日に岐阜着。それ以前の5月下旬に江戸を出立して家康がいる伏見に行ったようだ。上の秀忠の手紙は、秀康の体調を心配して出されたのだろう。冒頭の「三州」は、秀康の子長吉丸(忠直)のことである。この慶長9年4月に秀康は息子を伴って江戸に赴いたようで、その江戸に置いて来た息子の様子を秀忠は真っ先に「息災」だから安心して下さいと書いている。次に秀康の体調を案じる内容を記しており、慶長9年に秀康の具合が悪くなっていたのは確かなようだ。
手持ちの史料では、慶長9年の貴族の日記に秀康の名が見当たらない。ただ、『当代記』では7月17日に伏見の屋敷に家康を招いて「相撲」を見せ、21日には諸大名をもてなして能を上演したとある。
そして、この年も在京(伏見or二条城)中の家康の側には秀康となっている。秀康の上洛が家康より遅いのは、その体調を考慮したためであろう。(『秀康年譜』には体調が悪いのなら(越前から)江戸に参勤しなくてもいいですよ、との書状が秀忠から届いたとある)

翌年は弟の秀忠が将軍に就任する年である。そのため、家康は慶長10年の2月には上洛している。『秀康年譜』では同じ2月に秀康も越前(=福井県)を出立。

慶長十年
三月十五日『言経卿記』
 大外記(中原)師生来、右大将(秀忠)殿任槐有之歟之由申、
 同兄弟越前宰相(秀康)モ黄門ニ拝任之由申、

七月廿六日『公卿補任』
 前参議從三位源秀康、七月廿六日任権中納言

・『言経卿記』の3月15日に秀康が「黄門=中納言」になるとの話が載っていて、実際に7月(4月説あり)に秀康は権中納言に任じられている。同じ3月に秀忠が「任槐=太政大臣、右大臣、左大臣に任じられる」とあるが、これは征夷大将軍就任の意味合いだろうか。3月に秀忠が東国大名を引き連れて上洛。4月に秀忠が将軍に就任する。久々に親子3人が同時期に上洛しているが、文禄4年のような3人で伊勢物語の講釈を聞くような時間はもう持てなかったに違いない。
『續武家補任』『松平家譜』などによれば、秀康の息子長吉丸が同年9月に従四位下侍従に任じられ、元服。秀忠から一字をもらって「忠直」と名を改めている。(但し、元服については前年の可能性が指摘されている)
秀忠は5月15日に江戸へ出立し、家康も9月15日に京を離れている。恐らく、秀康も体調を考慮しつつ家康と同時期に越前へ帰っただろう。
翌年、彼の病状は身内の書状だけでなく、他者の日記に書かれるほどになる。

慶長十一年
五月十八日『慶長日件録』
 午刻、伏見行、越前中納言(秀康)殿へ、冷泉令同心、
 向彼亭於書院有御振舞、雖然御腫物之故無御對面、
 予進物薫衣香袋三ツ進之、冷泉中将、定家真筆三代集之抜書、
 被懸御目之、及晩天帰蓬畢、
六月二日『同上』
 午刻為勅使、越前中納言(秀康)之亭へ向、於東福寺遊山之間帰京、
六月三日『同上』
 為勅使向越前中納言亭、薫衣香袋廿拝領也、仍持参、
 即中納言令頂戴給、後有振舞、中納言殿今日月待、無食也、
 仍無相伴之義、忝之由御返事申入畢、
六月四日『同上』
 未刻、越前中納言殿より御使被下、御書并帷子五拝領、
 即返事申入、高田遠江守宛所遣了、御使名字高田平左衛門、
七月七日『同上』
 早朝伏見へ行、前大樹(家康)へ御禮ニ参、御對面也、
 次越前中納言(秀康)殿へ参、依御所労、無御對面、

・家康が4月に上洛しているためか、秀康も伏見にいる。この年は舟橋秀賢の日記で在京中の秀康の動向が分かる。5月18日に秀賢が冷泉為満とともに秀康を訪ねた。しかし、秀康は「腫物」で2人に会うことはなかった。当時の病は「腫物」表記で片付けられることが多いため、これだけでは秀康の病は特定できない。ただ、彼の具合は良くなったり悪くなったりしていたようで、次の6月2日には東福寺へ「遊山=遊び」に出掛けている。その日、秀賢は「勅使=天皇の使い」として秀康を訪ねたが会えなかった。そのため、翌日もう一度秀康を訪ねて天皇からの贈答品「薫衣香廿=香り袋20」を渡している。天皇から「勅使」を派遣されて「贈答品」を受け取るのは、秀康に関してはこれが初見。彼の立ち位置がかなり高くなったことを示している。(*天皇の勅使は限られた人や場合にしか派遣されない)この日、秀康は「月待」だからと秀賢と「相伴=食事を共に」していない。当時の日記でも月待はよく見掛けるが、ネットで検索して出る月待の行事とは少し内容が違うようだ。
勅使へのお礼のため、秀康は翌4日に秀賢に使いを送り、手紙と帷子を渡す。このように6月には良くなっていたらしい秀康の具合は、翌月にまた悪くなっている。
7月7日は七夕であるが、主や重要人物に挨拶に出向く日でもある。秀賢は先ず家康の所に行って会い、次に秀康の屋敷へ向かったが、「依御所労=具合が悪いため」会えなかった。

家康の上洛時には秀康も、との形が続いた結果、秀康の地位は朝廷からも「贈答対象」と見なされるほどになった。恐らく、家康は秀康に伏見を任せるつもりだったのだろう。秀康の病状はずっと悪い訳ではなく、良くなったり悪くなったりを繰り返していたようなので、家康は治ることを期待していたと思われる。だが、この慶長11年7月から、秀康の病状は悪化するばかりとなっていく。

病状の悪化から没年まではその3に載せます。
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2016年06月19日

結城秀康関連の史料ーその1

結城秀康について調べようとしたら、研究論文が少ないという現状にあたってしまった。徳川家康の周辺を調べていると、必然的に息子たちの情報も集まる。多く集まっているとは言い難いが、逸話と小説しか情報源がないよりはマシだと思い、取り敢えず、手元にある「結城秀康」に関する史料を年代順に抜粋して掲載した。(使用史料は『言経卿記』『大日本史料』ほか)
今後、見つける度に追加できればいいと思っている。


天正十二(1584)年
十二月六日『家忠日記』
 雨降、御きいさま上へ御越候
十二月十二日『家忠日記』
 雨降、濱松御きい様羽柴所へ養子ニ御こし候

十二月廿二日『多聞院日記』
 家康息(九才)上洛、筑州(秀吉)猶子也、
十二月廿五日『兼見卿記』
 民部卿法印(前田玄以)へ為歳暮罷向、今朝三州徳川人質ヲ召具坂本へ下向、
 淀マテ送ニ被出也、
十二月廿六日『多聞院日記』
 大坂へ家康ノ息(九才)為養子被入、筒井ノ小屋ヲ借テ被置之、
 一館明トテ、筒井坊并被官衆震動也、
十二月『顕如上人貝塚御座所日記』
 三川家康ノ實子、(十二月)廿日比京着、石川伯耆守(数正)供、
 近日大坂へコサルヽト云々、
 家康ノ息(御義伊ト云)廿六日ニ大坂ヘコサルヽト云々、
 供千計云々、石川伯耆守供也、息ノ名ハ御義伊ト云、
 石川伯耆守罷上、これハやかて罷下ヘシト也、
 大坂にて筒井ノ家ニヲカルヽト云々、

・結城秀康が幼名の「御義伊」で同時代の史料に現れるのは、上記のように天正十二年である。
家康の親族で家臣でもある松平家忠が残した『家忠日記』、興福寺多聞院の僧侶英俊の『多聞院日記』、本願寺顕如について記した『顕如上人貝塚御座所日記』、公家吉田兼見の日記『兼見卿記』の四つである。全て内容は養子(=人質)として羽柴秀吉の所に行ったときのものである。
12月12日に浜松を出立して、同月20日か25日には京に着き、26日に大坂の筒井定次の屋敷に預けられたようだ。『多聞院日記』にある「筒井ノ小屋」の表記が誤解を招きそうだが、次に「一館明トテ、筒井坊并被官衆震動也」とあり、意味は「一つの館を空けるように言われて、筒井定次と家来衆が動揺している」となるため、館を1つ取り上げられて筒井方は迷惑だったようだ。『顕如上人〜』によれば、石川数正と「千人計=千人ほど」の人員が秀康に同行しているので、館一つは必要であったのだろう。
『譜牒餘録』『徳川家譜』他によると、「御義伊」には石川数正の子「勝千代(康勝)」と本多重次の子「仙千代(盛重)」が同じく秀吉の人質として従っているが、2人の名は上の史料では確認できない。
次に「御義伊」の名が確認できるのは再び本願寺の日記である。

天正十三(1585)年
正月十一日『顕如上人貝塚御座所日記』
 徳川息御義伊へ御音信、小袖二・道服一、石川伯耆守へ小袖二、
 其外杉田へ小袖一、御使寺内相模、
正月十三日『同上』
 御義伊ニツキテ罷上杉田新兵衛、為参詣マイラレタルヲ聞付ラレテ、
 メサレテ御對面、鳥目五百疋進上、志トテ黄金一包、
 子共ノ言傳トテ鳥目少々あけらるゝ也、御肴一献盃被下之了、
 やかて國へ被下由物語也、
正月廿二日『同上』
 御義伊より使小姓、石川伯耆守使ト両人被参也、御對面一献、

・御義伊は秀吉の養子になったのだが、本願寺の日記には「徳川息=徳川家康の息子」で書かれている。本願寺から秀康に正月の「音信=贈答」があった。本願寺がこうも秀康のことを記して、贈答品(小袖2)まで渡すのは、彼が家康の息子であるのが大きい。一向宗の総本山である本願寺は、天正10年、信長の没後から家康とその家臣に贈答を行っている。これはかつて三河で起きた一向一揆のために家康の支配下では一向宗が押さえ込まれていたからだ。本願寺はそれを止めてもらうために家康に接近し、家康側からも石川家成の母(一向宗信徒)が本願寺にそれを依頼?した形跡がある。
石川家成は石川数正の叔父で、数正は天正10年にも本願寺の贈答の対象となっている。御義伊は家康の実子であるからこそ、本願寺にとって贈答に値する相手であった。(*他者への贈答は基本的に「重要である」と思われる相手に行われるものである。)
13日に本願寺を参詣している杉田新兵衛は、恐らく11日の杉田と同一人物だと思われる。彼は「やかて國へ被下由物語=そのうち国(三河?)に帰ることを話し」ている。12月に秀康と共に上洛した千人は、秀康の供回りの者を残して、この杉田の言葉の通りにそのうち帰ったのだろう。

天正十三年
二月十四日【古文書:本多記録御用所本】
 今度家康入魂申付、おきい上洛候、依之御息被指越之段祝著候、
 仍馬一疋(黒毛)被給候、可被秘蔵候、尚委細津田四郎左衛門尉・
 富田平右衛門尉可被申候、謹言、
  二月十四日              秀吉判
   本田作左衛門殿

・御義伊と共に本多重次の息子(仙千代)も秀吉の所に行ったことが分かる書状である。息子を寄越したのは良いことであると秀吉から本多重次に「馬一疋」が贈られている。にも関わらず、本多重次はこの後、息子の仙千代を戻させて、兄の子源四郎と
交代させる。交代させた理由は不明であるが、これに秀吉が怒ったために重次は家康によって蟄居させられる。ただ、交代して人質になった源四郎は非常に優秀な人物だったようで、後々、秀康の片腕として越前藩を支える重臣となり、秀康没後に追い腹を切ろうとするのを家康と秀忠に全力で止められるほどの要人になる。

天正十三年
四月十八日『顕如上人貝塚御座所日記』
 徳川息御義伊殿、秀吉御陣見廻ノタメニ、雑賀へ御越也、
 石伯モ供ト云々、

・秀吉が雑賀攻めを行っている紀伊まで御義伊が出向いて、秀吉の御陣を「見廻=陣中見舞」している。この前日に織田信雄も同じことをしており、小牧長久手の戦いのときに織田・徳川方についた雑賀への圧力として織田・徳川関係者を自陣に招いたのだろうか。石川数正が御義伊に同行している。家康の重臣である数正が正月からずっと大坂に滞在していたとは思えない。秀吉の取次担当になっているから、度々、大坂に来て秀吉と交渉するほか、秀康の様子を確認するなどしていたのだろう。

天正十三年
十月六日『兼見卿記』
 殿下(秀吉)御参内〜中略〜次二兵衛少将(秀次)、殿下之甥、
 御對面御禮之義同前、次徳川息侍従(秀康)、
 次うき田八郎侍従(秀家)、次五郎左衛門尉侍従(丹羽長秀)、
 次越中守侍従(長岡忠興)、次三吉侍従(信長御息)(織田信秀)
 次武衛侍従(津川義近)、次毛利河内守(秀頼)、次蜂屋侍従(頼隆)、
 各御對面終而、在一盞之儀、美濃守(殿下舎弟)天盃頂戴之、
 此外御通也、各相濟殿下御退出〜後略〜

・秀吉が参内したときの同行者に「徳川息侍従=秀康」がいる。秀康の名は秀次(秀吉の甥)の次にあり、秀吉猶子の宇喜多秀家の前である。「侍従」のなかで一番前にいるのは、秀吉の「養子」だからか、家康の子だからか、それとも官職就任の順なのか、これだけでは分からない。
同年の11月13日に石川数正が徳川を裏切り、秀吉のもとに出奔。以後、暫く、秀康の動向が手持ちの史料では追えなくなる。
次に秀康が確認できるのは文禄三(1594)年である。

文禄三年
八月廿一日『言経卿記』
 江戸亜相(家康)へ罷向、所労也、少対顔了、
 帰路五条口ニテノリ物打落了、少々打云々、
 二三ヶ所痛云々、愛洲薬用之、

八月廿四日『言経卿記』
 江戸亜相(家康)へ罷向了、御所労験気也、夕食有之、
 亜相子息三河守(結城秀康)殿相伴了、十人計有之、

・前の史料から9年が経過しており、秀康は秀吉の養子から結城晴朝の養子へと立場が変わっている。しかし、秀康は相変わらず「亜相子息=徳川家康の息子」と記され続ける。引用している『言経卿記』は天皇に勅勘(=クビ)されてしまった山科言経(やましなときつね)の日記である。彼は天正19年に家康から扶持をもらう(=雇ってもらう)ようになり、京都に長く滞在する家康とその周囲についての情報を多く書き残している。
上の条では8月21日に「ノリ物=駕篭」から落ちて体を痛めた家康を、24日に結城秀康が見舞って?いる。父親の「見舞い」であったかどうかは不明だが、秀康が家康の所で「夕食」を食べているのは確実である。
あまり知られていないが、秀康は上洛した家康や弟の秀忠とはしばしば会っていたようだ。福井新聞が該当記事を削除したため、現在は見ることができないが、慶長元(1596)年に京都へ向かう途中の秀忠が秀康に「お目にかかりたい」と伝えた書状が2014年に発見されている。他にも秀忠→秀康の書状の数は多い。
実際に会っているのが文禄四(1595)年に確認できる。

文禄四年『言経卿記』
十月一日
  伏見ヘ冷同道罷向、与右衛門尉所ニテ休息了、
  次 江戸亜相(家康)ヘ罷向、水無瀬黄門(兼成)伊勢物語講尺之内也、
  則聴聞了、次夕食有之、相伴衆、水無瀬・予・冷・江戸黄門(秀忠)
  ・同参河守(結城秀康)・伊達侍従(伊達政宗)等也、
  亥下刻(22時過ぎ)ニ帰宅了、

・文禄四年は秀次事件があるほか、徳川家にとっても大きな変化があった年である。先ず、6月に秀康に長男忠直が誕生、次に秀忠が信長の姪(秀吉の養女)お江と9月に結婚した。ここで親子3人が揃ったのは、そういった目出たい出来事が続いたためかもしれない。
貴族の水無瀬兼成が「伊勢物語」の講釈を家康の伏見屋敷で行っており、家康の所に挨拶に出向いた冷泉為満(れいぜいためみつ)と山科言経がこれ幸いと便乗して聞いている。(月の一日は仕えている主に挨拶に行く日になっていて、為満と言経はそのために伏見まで出向いた。伊達政宗がいるのも恐らく同じ理由であろう。)講釈はそのまま「夕食」まで続いたようで、水無瀬兼成、山科言経、冷泉為満、徳川秀忠、結城秀康、伊達政宗が家康と「夕食」を共にしたと記してある。(この当時の「等」は現在の「等」と意味が違う。この「等」が記してあった場合、その場にいた人物はそこまでの人数となる。つまり、参加者は伊達政宗まで。)伊勢物語は当時の武家に人気があったらしく、『家忠日記』でも伊勢物語を聞いている記述がある。恐らく、家康は身内(家康、秀康、秀忠)で聞くつもりで水無瀬兼成に講釈を依頼し、それに言経、為満、政宗が便乗したのだろう。
夕食が終わった後も講釈が続いたのか、話をしていたのか、言経が帰宅したのは夜22時過ぎである。全員がこの時間まで家康の屋敷にいたかどうかは分からないが、在京中の大名の過ごし方と親子揃っての勉強会もあったというのが、両方が分かる事例である。
結城家を継承した秀康は、秀吉勢力に在京を強制されている家康と違い、1年の大半を京で過ごすことはなかったろう。秀忠と同じように領国と京都を行ったり来たりしていた筈だ。秀忠が事前に書状を出して「会いたいです」と連絡をしていることから、在京期間が重なれば、上記のように親子3人で会う機会を持っていたのだろう。『言経卿記』では確認できないが、秀忠の書状からして慶長元年にも会う機会を持った可能性は高い。
他家(結城家)を継いだが、秀康の立ち位置は秀吉の養子だったときと同じように「徳川家康の子」であることが大事であったようだ。家康、秀忠もそのつもりで秀康と会っていたのだろうし、秀康もその意識を持ち続けたのでは?と思わせる『言経卿記』の内容である。

以後、再び手持ちの史料に秀康が現れなくなるため、続きはその2へ持ち越します。

その2http://ari-eru.sblo.jp/article/175920564.html?1472119522
その3http://ari-eru.sblo.jp/article/176007043.html
その4http://ari-eru.sblo.jp/article/179639340.html?1493812293
posted by アリノリ at 16:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 結城秀康