山科言経が残した『言経卿記』から、秀忠に関連する事柄を特集して載せる2回目の記事である。1回目はこちら→http://ari-eru.sblo.jp/article/117174346.html?1428575302
今回は文禄五(慶長元)年から慶長十年の将軍就任まで、実年齢で17才から26才までの秀忠に関する内容となる。文禄四年の結婚により、一家の主としての活動も見られるようになった秀忠であるが、文禄五(慶長元)年以降はどのような動きがあるのか、順に取り上げていく。
長めの(*注)がうざい場合は読み飛ばして構いません。が、1つの記事には前後や背景があり、『言経卿記』や『家忠日記』、『徳川家康文書の研究』、その他で相互補完が可能になる「ラッキー」がたまにあります。あ、と思ったものは載せておきましたので、「参考」程度にどうぞ。
◎秀忠17才の記事
文禄五(慶長元,1596)年
正月廿五日【関連記事】
江戸中納言(秀忠)今朝関東武蔵國江戸城へ下向也云々、
伏見ヨリ発足了、来月ニハ可有上洛之由有之云々、
従太閤(秀吉)之仰也云々、
六月六日【関連記事】
又関東ヨリ中納言(秀忠)今日上洛也云々、
七月十九日
伏見へ発足了、江戸内府(家康)へ参之處ニ登城也云々、
次中納言(秀忠)へ罷向了、食有之、
中納言殿・予・土佐侍従(長宗我部元親)・祐乗坊・光浄院等相伴了、
↓
意訳:「伏見へ出立した。家康の所に行ったら、(伏見城へ)登城したとのことだった。次に秀忠の所に行った。食事が出た。秀忠・私(言経)・長宗我部元親・祐乗坊・光浄院が(食事を)共にした」
(*注:正月にお江と共に江戸に戻った秀忠は、6月に一人で上洛する。正月の下向の条には、「来月には上洛」するように秀吉に言われたらしいと書いてある。新婚夫婦にそれはないと家康が抗議したのかどうかは知らないが、秀吉の命令とは違い、2月ではなく秀忠は6月に京に来た。7月29日に秀忠は言経、長宗我部元親らを接待した。家康が伏見城へ行ったための代理のようだ。この条を特に取り上げるのは、大名である「長宗我部元親」を秀忠が単独で接待しているからだ。これまで、秀忠が家康抜きで対応するのは言経や縁戚関係にある浅野長政(長吉)などであった。ここで初めて、秀忠は国持ち大名に一人であたっている。長宗我部と徳川は小牧長久手の際に同盟関係にあった。しかし、浅野長政並に親しい関係とは言い難く、且つ羽柴(豊臣)側によって、長宗我部は徳川との「同心=同盟」を禁止されている。家康は秀吉と共に同年4月に元親の屋敷で接待を受けた。接待には接待で応じる必要があるから、この日、元親は家康に招かれたのだろう。が、恐らく、家康が急に秀吉に呼び出されたため、代わって秀忠が接待をした。家康の代理を秀忠が任されている。秀忠の成長と扱われ方の変化が分かる条である)
閏七月十一日
太閤(秀吉)江戸中納言(秀忠)殿へ渡御也云々、
ソレヘ内府(家康)モ御出也云々、
↓
意訳:「秀吉が秀忠の所に来たそうだ。そこへ家康も行ったそうだ」
(*注:秀吉の養女お江と結婚した秀忠は、秀吉にとって義理の息子となる。そのためか、今まで秀忠が秀吉の所に行く形であったのが、秀吉が秀忠の所に来るようになる。秀吉相手なので、家康も行ってフォローに入っているようだ)
九月五日【関連記事】
早朝ニ関東ヘ内府(家康)下向也云々、
十二月十三日
江戸中納言(秀忠)殿、隠居門跡眞浄院(本願寺光壽)へ茶湯ニ御出也、
↓
意訳:「秀忠が本願寺光寿(教如)の所ヘ茶湯に出掛けた」
十二月十五日
江戸中納言(秀忠)内石河隼人佑・安栖軒・小栗吉十郎等夜前京へ上了、
伏見ヨリ也、今日門跡ニテ能有之、見物事夜前申来之間、早朝ニ門跡ニ罷向、
理ヲ下間侍従(頼純)之申了、可来之由有之間、後刻予所へ三人衆来之間、
吸物ニテ勧酒了、次門跡へ同道罷向了、上面ワキニテ見物了、
↓
意訳:「秀忠の家来石川隼人佑・安栖軒(田村長頤)・小栗吉十郎が昨夜京へ来た。伏見からだ。今日本願寺で能がある。見物をしたいと昨夜言って来たため、早朝に本願寺ヘ行って、(坊官の)下間頼純に理由を言った。来てもいいと言われたので、後で私(言経)の所に来た三人に、吸物と酒を飲ませ、それから、一緒に本願寺へ行った。上面の脇で(能を)見物した」
同月同日【関連記事】
伏見へ米奉行へ人ヲ遣了、内府(家康)上洛可有之由取乱之間、
近日可来之由有之、使者帰了、
江戸内府(家康)自関東伏見へ御帰宅了、
(*注:本願寺光寿は、信長と対立した本願寺顕如の長男教如である。和睦後も強硬な姿勢を続けたため、本願寺内部に分裂が生じ、秀吉に隠居させられた人物である。光寿の弟に言経の妻の妹が嫁いでいる。が、言経が家康に取り次いだことがあるのは、秀吉に願い出て光寿を引退させた母如春尼である。その光寿がどうやって秀忠と接触を持ち、12月13日に茶に招いたのか、『言経卿記』では分からない。8月23日に秀吉が秀忠に茶壺をあげているが…、関係はないだろう。この13日に秀忠の共をして耳にしたのか、14日に秀忠の家来達が本願寺で催される「能」が見たいと夜に伏見から押し掛けている。言経は14日の早朝に了解を取ってやり、彼らと一緒に見物している。能の演者が名手と名高い下間仲康であったための京都遠征だろうが、【関連記事】にある通り、この日、家康が関東から伏見に戻って来ており、その上洛のために徳川は「取乱」状態になっていた。[そのせいで言経の使者は給料となる米を「また後で」と受け取り損ねている]能を見に出掛けたこの3人は後で怒られたのではないだろうか。それは置いておいて、ここで興味深いのは家康不在時に本願寺と秀忠の間の繋がりが確認できることである。[家康も翌年6月に本願寺を訪問している。どうやら、本願寺は徳川に何か「頼入」があったようだ。…まさかとは思うが、東本願寺の分立願いがこのときから既に始まっていたのか?]この本願寺と秀忠との関係は後で興味深い形でまた出てくるので、取り上げた。慶長元年も前年と同じく、親子で在京の年越しである)
◎秀忠18才の記事
慶長二(1597)年
五月十四日
江戸黄門(秀忠)息女(千姫)誕生(去十日也云々)、祝詞トテ冷同道罷向了、
安栖軒罷向了、安栖軒ニ対顔了、樽代可進歟由有之間、
無用之由有之間不及是非了、黄門ハ昨夕霍乱所労平臥之由有之、
不及対顔之間、大クホ治部(忠隣)・安栖軒へ申置了、
↓
意訳:「秀忠に娘が生まれた(先月の十日とのこと)。祝いを述べに冷泉為満と一緒に行った。安栖軒(田村長頤)の所に行って、会った。祝い金を出した方がいいかと聞くと、出さなくてもいいと言われたのでどうしようもない(=出さなかった)。秀忠は昨夕から腹痛と下痢で寝込んでいるとのことで、会えなかった。大久保忠隣と安栖軒に(言経と為満が来たことを伝えて欲しいと)言っておいた」
(*注:秀忠の家来が千姫誕生の祝い金を断っているが、この現金お断りは徳川の方針なのだろうか。後のことではあるが、家康の力で貴族に復帰できた言経が御礼のお金を渡そうとして、断られている。言経がどうしてもと粘ったため、形だけ受け取って後日返す、という手間までかけて徳川は金を受け取らないのだ。石川家成や板倉勝重が言経からの過度な贈答を断ってもいて、同じ例は『家忠日記』にも見える。他家の例を確認していないので、徳川独自の方針なのかどうかは不明。また、折角言経と為満が祝いを言いに来たのに、秀忠は「霍乱」で寝込んでいる。霍乱は日射病を指す言葉でもあるが、時期的にこちらだろうと思い、腹痛と下痢にしておいた。翌月の6月16日に秀忠は江戸に戻る。ようやく初めての子千姫に会えただろう。だが、半年後にまた上洛である)
十二月五日【参考記事】
冷伏見へ発足、江戸中納言(秀忠)殿昨日伏見へ御上也云々、
依所労不能対顔也云々、
十二月廿六日【参考記事】
江戸中納言(秀忠)殿へ冷同道罷向了、所労之間不能対顔了、
◎秀忠19才の記事
慶長三年
正月四日
江戸黄門(秀忠)へ罷向、予・冷・阿茶丸等各サケ・絹進了、
依所労不能対顔了、
↓
意訳:「秀忠の所へ言った。私(言経)と為満と阿茶丸(息子:言緒)は酒・絹を進呈した。(秀忠は)具合が悪くて会えなかった」
二月一日
江戸中納言(秀忠)殿へ冷・阿茶丸等同道罷向、対顔也云々、
↓
意訳:「秀忠の所に冷泉為満と阿茶丸(言緒)が一緒に行った。会えたそうだ」
(*注:慶長2年12月の上洛から翌年の正月まで、秀忠は「所労=具合が悪い」と言経達と面会をしていない。2月には回復して為満と会っているが、正月16日に本願寺門主の母如春尼が亡くなり、言経と為満が暫く秀忠に会いに行かなかったため、いつ回復したのかは分からない。京に上がる度に秀忠が何かと体調を崩すためか、前年から医師の安栖軒が秀忠の近くにいて、言経との取り次ぎをしている。北条氏に仕えていた田村氏の田村長頤である)
三月十七日【参考記事】
江戸内府(家康)一昨日伏見へ御上也云々、
六月廿一日
江戸内府(家康)へ冷・阿茶丸等同道罷向了、対顔也云々、
御登城之砌成云々、毛詩講尺今日ハ無之、
同黄門(秀忠)ニテ六韜講尺有之云々、三要被読了、
↓
意訳:「家康の所に為満と阿茶丸が一緒に行った。(家康と)会ったそうだ。(ちょうど伏見城へ)登城するときだったそうだ。秀忠の所で「六韜(=中国の兵法書)」の講釈があったそうだ。三要(=閑室元佶)が読んだ」
(*注:慶長2年から家康は「毛詩」勉強ブームだったらしく、足利学校庠主(しょうしゅ)の閑室元佶に継続して「講釈」をさせている。中風のせいで足が悪くなった言経は、為満や阿茶丸を伏見の徳川に行かせるようになっていて、徳川に関する記述も「云々」と2人からの伝聞が増える。伝聞のせいか記述も短くなり、秀忠の登場回数も減る。ただ、この6月21日の条により、家康の「毛詩」講釈には秀忠も付き合わされていたらしいのが分かる。家康がいないときは「毛詩」の講釈は休みとなり、代わりに秀忠が庠主から兵法書を教えてもらっている。足利学校庠主は、現代なら東大総長?あたりに相当すると思う。閑室元佶が家康の所にいるのは、足利学校が徳川領内にあるため。後には将軍となった家康のブレーンも勤める。個人家庭教師としては最高レベルの人物に秀忠は教えを受けている)
七月十五日
石川小隼人来了云々、門跡へ江戸黄門(秀忠)ヨリ使也云々、
↓
意訳:「石川小隼人が(不在中に)来たそうだ。本願寺門主に秀忠の使いとして来たらしい」
七月十七日【関連記事】
此比太閤(秀吉)御煩ニ付テ方々種々馳走了、
(*注:秀吉は5月あたりから具合が悪くなっていた。その病は隠されていたが、上記のように7月には巷にも知られるほど病状が悪化していた。家康は度々伏見城に上がっているが、秀忠の動きは7月15日に本願寺に使いを送っているのが分かるくらいである。秀吉は8月18日に死去。以後、慶長5年まで秀忠の動向は『言経卿記』から消える。いつの間にか、秀忠は江戸に戻っていて、関ケ原の戦いが終わるまで上洛しないからだ。秀忠の関東への下向が『言経卿記』に記載されないのは、この慶長3年のみである。『慶長見聞集』には8月19日に伏見出立とあるらしいので、秀吉没後の翌日には出ている。言経にその出立が分からなかったのは、秀忠が内密に伏見を離れたからだろう。徳川の当主と後継者が共に同じ場所にいては危ない、と家康が判断したと思われる。そして、自分は暗殺の危険にさらされながらも、関ケ原が終わるまで家康は秀忠を上洛させない)
ーー慶長四年は上洛がないため、20才の記事はなし
◎秀忠21才の記事
慶長五(1600)年
九月廿四日
江戸黄門(秀忠)伏見へ御出也云々、
↓
意訳:「秀忠が伏見へ来たそうだ」
九月廿七日【関連記事】
内府(家康)大坂へ御出也云々、
十一月十八日
江戸中納言(秀忠)殿・同下野守(忠吉)等参 内、
↓
意訳:「秀忠と弟の松平忠吉が(宮中に)参内した」
(*注:9月15日の1日で関ケ原の戦いは終わり、秀忠は24日に伏見に着いた。家康は大坂へ向かい、慶長6年の正月に家康が体調を崩すまで居場所を別々にしている。11月18日に秀忠と実弟忠吉が参内しているように、京都でも対応にあたる者が必要でもあったろう。勝利をおさめたが、警戒も続けていたのかもしれない)
◎秀忠22才の記事
慶長六(1601)年
四月十日
同大納言(秀忠)殿江戸へ御帰也云々、
↓
意訳:「秀忠が江戸に帰ったそうだ」
九月廿一日
内府(家康)へ無出座、去比亜相(秀忠)子息遠行也云々、
↓
意訳:「家康が(表へ)出て来なかった。先日、秀忠の子息が亡くなったらしい」
(*注:4月に江戸に戻った秀忠は慶長10年まで上洛しない。家康は毎年上洛する。秀吉の生前は2人揃っての在京が多かったのと比較すると、かなり「違う」のが分かる。ここで興味深いのは9月21日の「亜相子息遠行」である。この「子息」は秀忠にとって初めての男の子である。が、正室お江の子ではなかったらしい。それでも家康は秀忠に男子が生まれたのを喜んでいたのか、その子の死に「無興=不機嫌」になって、言経達の前に姿を現さなかった。秀忠の恐妻家ネタは面白おかしく使われることがあるが、お江との子供の数を考えると仲が良かったのは間違いないだろう。また、このように他の女性との子供が最低2人は確認できるので、言われるほどの恐妻家でもなかったのだろう)
ーー慶長七年は上洛がないため、23才の記事はなし
◎秀忠24才の記事
慶長八(1603)年
十月九日
本願寺御ウヘ御乳久敷イトマ也、江戸大納言(秀忠)殿女中へ奉公、
近々下向也云々、
↓
意訳:「本願寺如尊尼の乳母が長い暇乞いをした。秀忠の女中として奉公するため、近々(江戸に)向かうとのことである」
(*注:秀忠と本願寺の関係が伺われる条である。「御ウヘ=本願寺如尊尼」は、言経の妻の妹(=冷泉為満の妹)と興正寺顕尊の間に生まれた娘で、叔父の本願寺准如に嫁いだ。この乳母は「太田」と呼ばれており、「女中」として奉公に上がったとあるが、「御乳=乳母」であった経験を生かして秀忠の子女の養育にも関わったのではなかろうか。家光の乳母「春日局」も、本願寺との縁戚関係を持つ。明智光秀と縁戚関係のある春日局が家光の乳母に採用された理由はよく分からないとされているが、「太田」という先例あっての春日局の採用ならば、特に不自然な話ではない。先に秀忠と本願寺を上げたのはこのためである。秀忠の周りには山科言経、冷泉為満以外にも、家老の大久保忠隣が祖母を通して本願寺と縁戚関係があるなど、本願寺関係者が複数いる。本願寺から接触をはかれば、繋がりができやすい環境にはあったのだ。この後には、本願寺の子女と徳川家の子女の婚姻が何例か見られるようになる。余談だが、お江の妹お初の嫁ぎ先、京極家にも為満の妹御春が上臈として勤めている。当然、彼女も本願寺関係者だ)
◎秀忠25才の記事
慶長九(1604)年
十月五日
江戸大将(秀忠)殿御女中(於江与)へ愛洲薬三十服進了、内々御所望了、
同御御内京殿同二十服、同御内太田(門跡御ウエ御乳人)
アイス五服・茶調散・快気散二十服等遣了、
↓
意訳:「秀忠の室(=お江)に愛洲薬三十服を進呈した。内々に望まれたのだ。(お江に仕える)京にも同じ薬を二十服、太田にも愛洲薬五服と茶調散・快気散二十服を送った」
(*注:秀忠の正室お江が言経に「内々=こっそり」と薬を頼んでいる。文中に名前と肩書があるように、この頼みは先に秀忠の女中として本願寺から上がった「太田」あってのことだ。太田から山科家特製の「愛洲薬」のことをお江が聞いたのだろう。かつて、駕篭から落ちた家康も言経からこの薬を貰って服用した。『言経卿記』では、怪我人や出産前後の女性への処方が多く見られ、痛み止めや傷の治療薬としての効用が期待されていたようだ。また、この条から、太田が秀忠の奥でそれなりの信頼と地位を得ているのが推測できる。薬の御礼として、後日、太田は「佐竹紙一束」を言経に送ってくる)
◎秀忠26才の記事
慶長十(1605)年
正月七日【関連記事】
後藤源左衛門尉(忠正)大将(秀忠)殿御装束以下之事談合ニ来、
三月十三日
榮任ヨリ大樹(秀忠)御直垂フテキトテ改新調スヘキ由送了、
則小川宗久召寄了、申付了、
↓
意訳:「榮任から(六日に渡した)秀忠の直垂が「不出来」であるから、改めて新しく作り直すように送り返されてきた。直ぐに小川宗久を呼び、(作り直すよう)言った」
三月廿一日【関連記事】
右大将(秀忠)殿関東ヨリ伏見御城へ渡御、御供衆以下美麗也云々、
四月十五日
早朝ニ後藤源左衛門へ大将(秀忠)殿御装束モタセ罷向了、御ミ窮申之間、
板倉伊賀守(勝重)罷向了、取サル間、トリテ帰了、
倉部モタせ罷向、請取了、目六奥ニ記之、
↓
意訳:「早朝に後藤忠正が秀忠の装束を持って(秀忠の所に)行った。(秀忠が)窮屈だと言ったため、板倉勝重が行き、(秀忠の装束を)取って、持って帰って来た。(その装束を勝重の所に)言緒が取りに行き、受け取った。目録の奥に(窮屈であったことを)書いた」
(*注:秀忠ぽっちゃり疑惑の記事である。慶長10年に秀忠は将軍に就任する。様々な儀礼があるため、秀忠は言経に装束を新調させた。[・山科家の家業は装束]早くも正月7日には、秀忠の装束について学ぶために、後藤忠正が板倉勝重を通して、言経の所に派遣されて来る。ちなみに、家康の装束は榮任[・龜屋榮任のことで、徳川将軍家の京都在住の御用商人]と言経に任されていて、秀忠のように別の人物が「勉強のために」派遣されることはない。秀忠は自分の近くにも装束を任せることができる人物を用意しておこうと考えていたようだ。[・後藤忠正は徳川将軍の江戸在住の御用商人]しかし、3月6日に榮任に渡した直垂は13日に「不出来」であると直しを命じられた。それとは別に参内用の装束を4月15日に後藤忠正が秀忠に着せた所、「キツ」かった。ために、この装束も直しに回される。直垂の「不出来」も窮屈だったのかどうかは不明である。直垂は少しくらい太っても着られる形状であり、6日〜13日の間に上洛の途中の秀忠に届けて着させているのも不自然なので、単純に出来が悪かっただけだろう。言経は慶長9年の12月にも秀忠の冬用の装束を誂えている。だが、こちらは直していない。季節の関係で着る機会がなく発覚していない可能性もあるが、もし、冬の装束はOKで、夏用が「キツい」だったのなら、4ヶ月の間に秀忠が急激に太ったことになる。将軍就任が少しプレッシャーだったのか…などと思わせる「御ミ窮」である)
四月十六日
全阿弥所朝食過テ大将(秀忠)殿へ参了、御雑談種々有之、宣下様躰申入了、
御尋之事有之、
↓
意訳:「全阿弥(内田正次)の所で朝食を食べてから秀忠の所に行った。色々と話した。(将軍)宣下の様子を尋ねられたので、答えた」
(*注:言経は家康の将軍宣下のときも、事前の相談に加わり、その場に立ち会ってもいる。秀忠は江戸にいて、父の将軍宣下の様子は知らない。教えてもらおうと、秀忠は言経に色々と尋ねている。言経は12才の秀忠と「雑談」を何度かしたが、将軍となる彼との「雑談」には「御」が付いている。「罷向」も「参」となり、日記の文章には、徳川家の地位の上昇が反映されている。『言経卿記』は慶長13年までしか残っておらず、言経自身も慶長16年に死去する。秀忠に関する記述はこの後、秀忠の参内と江戸への下向で終わる。会話が確認できるのはこの条まで。父親の後を継いで天下人となる秀忠を言経がどう見ていたかは、分からない。彼は滅多にどう思ったかを記さないからだ。しかし、権力者として言経が秀忠をどう捉えていたかは、東寺に銀子30匁を添えて出した「願書」に少し見られるので、最後に載せておく)
慶長七年
十二月卅日
願書
一、内府(家康)様御意ニあひ申候て、知行かた加増御座之事、
慶長九年
正月五日
一、禁中并大樹(家康)・右大将(秀忠)殿御意ニ乍父子相叶申事、
(*注:上が家康が将軍に就任する前年のもので、下がその翌年。秀忠はまだ将軍ではないのに、慶長9年、「禁中=天皇」、家康に続ける形で、言経は秀忠の官職を記している。言経にとって、秀忠は既に天皇、将軍に続く、もしくは同等の力を持つ権力者なのだ。秀忠とは長い付き合いとなる言経だから、その方が都合が良いのもあろう。だが、家康の意のままに動くような後継者であったら、言経がここに「秀忠」を並べる必要はない。少なくとも言経にとっては、秀忠は独自の「権力」を備え、その意に叶うよう願うに相応しい政治家に成長していたのだろう)
ーーー秀忠特集、終わり
12才の人質時代から26才の将軍就任まで、『言経卿記』からの秀忠記事をまとめてみた。今回、秀忠のみに注目して条を取り出してみて「へー」と認識を改めたのは、思っていた以上に家康との密着度が高いこと、家康を抜きにしてかどうかは微妙ではあるが、秀忠と本願寺の間に独自の繋がりが「ある」ことだ。あと、家康が上洛するその日に本願寺に能を見に来ている家来達の存在に、家康の家来衆と比較して、規律の「ユルさ」を感じた。秀忠が若いのもあるだろうが、家康の「御内=家来」にはこのような振る舞いはない。(但し、『言経卿記』の記載に限られる)だから、後年、秀忠の傅役であった青山忠成・内藤清成が家康に〆られるのかと少し思った。
一次資料である『言経卿記』から秀忠の記事を取り出すことで、「印象が薄い+遅参」ばかり取り上げられる二代将軍のイメージに少しでも+αができただろうか。これに『家忠日記』を加えても良かったが、長くなり過ぎる上に受ける印象がさほど変わらないため、止めた。
『言経卿記』に残る秀忠は、12才から26才、ちょうど将軍就任で関連記述がなくなるあたり、出来過ぎ感がある。言経の記述は基本的に短く、後に必要な装束・儀式関係を除けば、ただ「あったこと」を列挙していくだけだ。そんな無愛想な日記の所々に、乳母や傅役に囲まれた子供時代から、結婚して妻と子を持ち、父の代理も勤め、後継者として成長していく秀忠の姿がある。言経が家康に仕え始めた天正19年から、秀忠の在京も始まる。これは偶然ではないだろう。在京が増える自分と秀忠のために、家康は山科言経を雇ったに違いない。
秀吉が没するまで、家康も秀忠もその命令に従い、上洛と下向を繰り返す。
秀吉は徳川だけでなく、多数の大名を在京させた。彼らは接待や茶湯などを通して、盛んに交流をしていた。家康とほぼ同居状態にある秀忠は父への客とも自然に接触ができる。在京中の彼は父親のコネクションを受け継ぎやすい環境に置かれていた。教育面においても、秀忠が足利学校庠主の講釈を受ける場面は一度しか確認できないが、家康が折角の機会に息子を同座させなかったとは思えない。秀吉没後、家康は直ぐに秀忠を京都から離している。
「遅参」を理由に秀忠の家康後継者の地位は危うくなったとの逸話もあるようだが、内容からして後世のでっち上げの可能性が高い。
確かに戦功がないのはマイナスだ。
しかし、秀吉側も家康も秀忠を早い段階から、家康の後継者として扱っている。家康も側近くに置いて必要なことを学ばせていたように見える。(そこに早く離れて死なせてしまった長男信康の影響を見るのは穿ち過ぎだろうか)秀吉による「在京」強制は、江戸に留まるだけより、秀忠にはプラスに働いただろう。
諸条件が異なるが、織田・羽柴の天下は続かなかったが、徳川は続いた。豊臣はその家も残らなかった。
武家にとって何よりも大事なのは、「家の存続」である。矛盾するが、家のために子を犠牲にすることもある。天下人となった徳川家康は、その地位を三男の秀忠に譲った。結果論ではあるが、その選択は誤っていなかった。それは間違いない。
2015年04月09日
2015年04月07日
秀忠特集その1ーfrom『言経卿記』
山科言経が残した日記『言経卿記』には、徳川家康だけでなく徳川秀忠の情報も豊富にある。天正十九年(実年齢12才)から、第二代将軍に就任する慶長十年(実年齢26才)までの約13年間のおよそ1/3を、秀忠は洛中や伏見で過ごしている。言経は家康がおらず、秀忠だけが在京しているときでも秀忠の所に出向いている。言経を雇っているのは「徳川家」であるため、秀忠も雇用主にあたるからだ。
徳川家康特集では、流布しているイメージが先にあるため家康にしては「意外」と思われそうな記事をまとめた。しかし、秀忠はそもそも「印象が薄い」という非常に捉え辛いイメージなので、父親と違って取り上げるべき記事自体がよく分からない。秀忠は一次資料由来の情報も少ない。ので、秀忠に関しては万遍なく『言経卿記』に見られる徳川秀忠を紹介することにした。「意訳」は、前回同様丁寧な言い回しは止めてある。(*注)の部分は解説及び個人的な見解である。
◎秀忠12才(実年齢)の記事
『言経卿記』における秀忠の初登場は次の条である。
天正十九(1591)年
三月五日
江戸大納言(家康)へ罷向了、種々雑談了、
拾芥抄・名目抄等御所望之間、可書進之由申之処ニ折帋一束給了、
夕食有之、又御子息侍従(秀忠)殿御礼申入了、
↓
意訳:「家康の所に行った。色々と話した。拾芥抄と名目抄が欲しいと言われたので、書き写して渡すと言うと(書き写すための)紙を一束くれた。夕食が出た。(そこで)息子の秀忠に挨拶をした」
(*注:天正19年の閏正月22日に家康は上洛した。『家忠日記』に特に記載はないが、家康は秀忠を伴って京に来たようで、この『言経卿記』の3月5日の条で秀忠の在京が確認できる。失業貴族である言経は、2月30日に大村由己に紹介してもらって、家康と初めて会った。会って直ぐに雇用が決まった訳ではなく、この5日に本の書写という初仕事を得て、ほぼ就職が内定し、8日に「扶持(ふち)=米で渡される給料」を与えると伝えられている。5日に秀忠に会わせているのも就職内定の証であろう。この日から、秀忠と言経の13年にわたる付き合いが始まる)
三月十四日
江戸侍従(秀忠)殿へ罷向了、唐墨二丁進了、由己同道也、
夕食有之、次同青山藤七(忠成)ニ扇子五本遣了、
↓
意訳:「秀忠の所に行った。唐墨二丁をあげた。大村由己も一緒だった。夕食が出た。その後、(秀忠家来の)青山忠成に扇子を五本あげた」
(*注:3月11日に家康は江戸に戻り、12才(実年齢)の秀忠は一人で洛中に残った。秀吉側への人質としての在京である。言経は上記のように秀忠に改めて挨拶代わりの墨を渡し、秀忠の守役の青山忠成にも扇子をあげた。雇用主への贈答は当然なので、言経は2月30日に家康にも本と書を渡している。言経は父親である家康と同年輩の40代後半。話相手としては年が離れ過ぎてはいるが、言経はこの後も、15日、19日、20日、21日、22日、24日、26日とこまめに秀忠の所に通い、暫し雑談をしている。天正19年の秀忠の在京は長く、11ヶ月にも及ぶ。家康は京に不慣れな秀忠に色々と教える指南役として言経を雇ったのかもしれない)
四月廿二日
江戸侍従(秀忠)殿へ罷向之処、久咳気云々、不及対顔了、
大和侍従(羽柴秀保)殿内藤堂与右衛門尉(高虎)同道罷向了、
キリムキ・酒有之、
↓
意訳:「秀忠の所に行ったところ、長く咳が続いているということで、会えなかった。羽柴秀保殿の家来の藤堂高虎と一緒に行った。切麦(=うどん?)と酒が出た」
十月十一日
江戸侍従(秀忠)殿へ罷向了、同御乳人へ罷向了、
茶子・茶有之、
↓
意訳:「秀忠の所に行った。(秀忠の)乳母の所に行った。茶菓子と茶が出た」
十月十四日
江戸侍従(秀忠)殿へ罷向、今川入道(氏真)同罷向ラルヽ、
則酒有之、後刻碁打・将棋サシ罷向了、二番将棋有之、
見物了、夕食有之、
↓
意訳:「秀忠の所に行った。今川氏真が一緒だった。酒が出た。その後で碁打ちと将棋指しが来た。二番将棋があった。見物した。夕食が出た」
(*注:4月22日に秀忠のところを今川氏真が訪ねている。今川氏真は今川義元の息子で、武田と徳川の攻撃により領地を失い、大名ではなくなった人物である。没落後は室の実家である北条家の世話になっていたが、1571年からは家康の庇護下に入り、この『言経卿記』で天正19年の在京が確認できる。氏真は9月24日に言経の義弟冷泉為満の所に挨拶に来て、言経と会った。10月11日に言経が会った秀忠の「乳母」は恐らく大姥局で、彼女の父は今川家の旧臣である。10月14日に氏真が秀忠を訪ねたのは、この乳母のことを言経から聞いたから?だろうか。氏真も言経と共に秀忠の所に行くのはこの1度きりである)
十一月廿五日
江戸宰相(秀忠)殿へ早暁ニ罷向了、連歌會可有之由内々有之間如此、
乍去俄ニ延引也、
↓
意訳:「秀忠の所に明け方に行った。連歌会があるからと内々に知らせがあったからだ。しかし、急に延期になった」
十一月廿九日
江戸宰相(秀忠)殿へ罷向之處早暁ニ関東へ下向也云々、
然間同内内藤弥三郎(清成)所へ罷向相尋之処ニ、隙入之由有之間罷帰了、
↓
意訳:「秀忠の所に行ったところ、明け方に関東に向かったとのことであった。ならばと(秀忠の)家来内藤清成の所ヘ行って尋ねようとしたが、(話を聞く)隙がなかったため、帰った」
(*注:閏正月から在京していた秀忠は、11月に慌ただしく江戸に戻った。言経が張り切って明け方に出掛けた連歌会が「俄に」延ばされたことからも、急な予定変更だったのが分かる。更に29日には言経に連絡なく、秀忠が江戸に戻っている。確認のために内藤清成の所に行ったのだが、清成が忙しくて何も聞けないまま言経は家に帰っている。この徳川方の慌てぶりは秀忠と入れ替わる形で家康が上洛し、その後、朝鮮出兵のために名護屋に向かうからである。秀吉の命令によるものだが、情報伝達があまり良くないのが分かる秀忠の下向である。秀忠がいなくなった京には「石川家成」が常駐し、言経への連絡その他を受け付けるようになり、このような伝達不首尾は改善されていく)
◎秀忠13才の記事
天正廿(文禄元)年
八月七日【関連記事】
太閤御母儀大政所去月廿二日ニ御他界也云々、
八月十八日
江戸宰相(秀忠)殿近日可有上洛由有之間、
石川日向守(家成)へ尋ニ人ヲ遣了、明後日大略可有上洛之由返事有之、
↓
意訳:「(秀吉の母である大政所が死去したため)秀忠が近いうちに上洛するとの話があったので、石川家成に聞くために使いを出した。明後日には多分上洛するだろうとの返事があった」
(*注:明後日には来るかも?との返事であったが、秀忠の上洛は24日、28日になってもあるのかどうか分からず、9月3日にようやく明後日には多分来るとの知らせが家成から届く。今回は大政所死去に伴う弔問のための上洛である。前回同様急な移動であったためか、秀忠は来るとの話が出た後もなかなか上洛しない。以前と違い、家成により上洛有無の事前確認はできている)
九月六日
江戸宰相(秀忠)殿昨夕上洛之由、即今日罷向対顔了、
明日大坂へ下向也云々、
↓
意訳:「秀忠が昨日の夕方に上洛したそうだ。今日行って、会った。明日大坂に行くとのことだ」
九月十二日
江戸宰相(秀忠)殿昨夕大坂ヨリ上洛了、中納言ニ拝任也云々、
従太閤ヨリ御執奏也云々、
↓
意訳:「秀忠が昨夕、大坂から京都に戻った。中納言に任じられたそうだ。太閤(羽柴秀吉)の奏上であるそうだ」
九月廿一日
江戸中納言(秀忠)殿御下向之間、早朝イトマコイニ罷向、対顔了、
↓
意訳:「秀忠が(江戸に)向かうため、早朝に暇乞いに行った。会った」
(*注:今回の上洛は弔問目的のため短い。その短い間に秀忠の官職が「宰相」から「中納言」に上がる。天正19年にも「侍従」から「宰相」になっていて、秀忠の官職上昇は非常に速いのが分かる。秀吉側が秀忠を家康の後継者として認めている証拠であるが、秀頼誕生後に官職上昇が止まるため、暫くこの江戸中納言(=黄門)が続く)
◎秀忠14才の記事
文禄二(1593)年
九月十九日
江戸黄門(秀忠)一昨日夕上洛也云々、今日罷向対顔了、
↓
意訳:「秀忠が一昨日の夕方に上洛したそうだ。今日行って、会った」
十月十日【関連記事】
江戸亜相(家康)へ罷向、碁見物了、夕食有之、
先刻一条(内基)殿渡御了、及乱酒了、同黄門(秀忠)へ御出、酒有之、
十月十一日
江戸黄門(秀忠)へ見舞ニ罷向了、亜相(家康)ハ 禁裏御能参了、
↓
意訳:「秀忠の所に見舞に行った。家康は宮中での能に参加した」
十月十四日
江戸亜相(家康)へ寅刻ニ罷向、下向之間、イトマコイニ如此、
柳原(淳光)・浅野弾正(長吉)・(大村)由己等同罷向了、卯刻ニ御下向也、
江戸黄門(秀忠)へ罷向、イマタ朝寝也、不及対顔了、
↓
意訳:「家康の所に寅刻(4時頃)に行った。(江戸に)下るため、暇乞いである。柳原淳光と浅野長吉、大村由己と一緒に行った。卯刻(6時頃)に(家康は)出立した。秀忠の所に行った。(秀忠は)まだ寝ていた。会えなかった」
(*注:家康の在京中に秀忠も上洛して親子同居期間中である。面白いのが、10月の10日から14日である。以前の家康特集に載せたが、10日に家康は「乱酒」して秀忠の所に押し掛け、また酒を飲む、という迷惑親父じみたことをした。翌11日に、言経が秀忠を「見舞」っている。当時はただ会いに行くことも「見舞」と書き、病気見舞いの方も「見舞」と記すため、この見舞が秀忠の具合が悪いことを意味しているかは不明である。しかし、前日の「乱酒」と「酒有之」と実年齢14才からして、飲酒による頭痛などに秀忠が悩まされている可能性は十分にある。父の家康は同じ日に宮中で能「雲林院」を待っている。信長没年を1つ越した50才で、乱酒した翌日なのに元気なことだ。そして、このときの意趣返しなのか、ただ単に起きられなかったのか、14日、秀忠は寝坊して江戸に戻る父親を見送っていない)
十二月十二日
石川日向守(家成)へ罷向、黄門(秀忠)へ御出也云々、則申置了、
江戸黄門へ罷向対顔了、茶有之、石川日向守へ対顔了、
次黄門之御モリ・御ウハハ、(小川)三益同道罷向対顔了、茶有之、
↓
意訳:「石川家成の所へ行った。(家成は)秀忠の所ヘ行ったとのことである。(言経が来たことを)言っておくように伝えた。秀忠の所に行き、会った。茶が出た。石川家成と会った。次に秀忠の守役と乳母、小川三益に会った。茶が出た」
(*注:12才のときも秀忠には乳母が付いていたが、14才のこの条でも京まで同行しているのが分かる。「御ウハハ=乳母」は大姥局だとして、「御モリ=守役」は誰だろう。傅(守)役は養育係及び後見として男性がなるが、言経は家康が付けた秀忠の傅役を今まで名前で記している。【例:青山忠成、内藤清成】乳母との並びと名前がないことからして、この「御モリ」は女性と見られる。秀忠の母である西郷局は秀忠が10才(天正17年)のときに死去。家康の側室阿茶局が母をなくした秀忠・忠吉兄弟の養育を任されているので、この御モリは彼女ではないだろうか。同月23日に秀忠は江戸に帰る)
ーー文禄三年は上洛しないため、15才の記事はなし
◎秀忠16才の記事
文禄四(1595)年
三月九日【参考記事】
江戸中納言(秀忠)昨日上洛也云々、罷向対顔了、
三月十七日
次江戸亜相(秀忠)へ罷向、一昨日ヨリ咳気之由有之間、
見舞ニ罷向了、内藤八右衛門尉へ申置了、見舞衆二三人有之、
↓
意訳:「(家康の所に行って夕食を食べた後)次に秀忠の所に行った。一昨日から咳がひどいと聞いたので、見舞に行った。内藤八右衛門尉に(見舞に来たことを)伝えてくれと言った。他にも見舞客が二、三人いた」
四月十日
江戸黄門(秀忠)へ腫物見舞ニ罷向了、不対顔了、少験気也云々、
↓
意訳:「秀忠の所に腫物の見舞に言った。会えなかった。少し良くなっているとのことだ」
四月十一日【関連記事】
江戸亜相(家康)子息黄門(秀忠)腫物見舞ニ伏見ヨリ御上洛也云々、
四月廿日【関連記事】
江戸黄門(秀忠)腫物見舞ニ罷向了、申置了、伏見ヨリ亜相(家康)御出也、
五月五日
江戸黄門(秀忠)へ礼ニ冷同道罷向了、依所労無対顔了、
↓
意訳:「秀忠の所に(端午の節句の)挨拶に行ったが、具合が悪くて会えなかった」
五月廿三日
江戸黄門(秀忠)へ罷向、太閤御内舟コシ(景直)同罷向了、黄門所労験気、
始而対顔了、未行歩不叶之由有之、
↓
意訳:「秀忠の所へ行った。秀吉の家来船越景直と一緒に行った。秀忠の病気は良くなっていた。(病気になってから)始めて会えた。まだ歩くことはできないとのことであった」
(*注:この文禄四年、秀忠は様々なことに見舞われる。先ず、三月から五月までずっと病に苦しんでいる。『言経卿記』には咳、腫物とあるが、これは疱瘡(天然痘)であったようだ。うつらないようにするためか、言経も回復するまで面会できていない。疱瘡は種痘(ワクチン)が広まる明治になるまで一般的な病であり、これで命を落とす者も多かった。大名では伊達政宗のエピソードが有名であろう。秀忠もこのとき危なかったようで、家康は伏見から何度か見舞に来ている。5月に回復したものの「歩けない」ほど衰弱しており、下手をしたら享年16才になりかけていた秀忠であった)
○関連の家康書状?
其以後煩如何、無心元候之處、従三人之者共具申越候、
彌平之由滿足候、節々注進尤候、恐々謹言
五月十三日 家康(花押)
中納言(秀忠)殿 ☆舊酒井家文書
(*注:『徳川家康文書の研究』では五月三日に家康が京都を離れているため、文禄四年の書状ではないとされている。しかし、秀忠が「煩」っていて、五月十三日に家康が多少の回復の知らせを受けているのなら、五月廿三日には歩けなくとも疱瘡から完全回復した文禄四年の書状ではないだろうか。三日に出立した途上でも書状は書けるのだから、秀忠が五月に「煩」っていて、十三日には家康と離れた場所にいる文禄四年に、この書状を比定しても良いと思う)
六月四日
江戸黄門(秀忠)屋敷へ昨日落雷也云々、見舞ニ罷向了、
三所へ落、以上四所少ツヽ損也、乍去人ニハ不當也云々、
↓
意訳:「秀忠の屋敷に昨日雷が落ちたそうだ。見舞に行った。三カ所に落ちて、(屋敷の)四カ所が少しずつ損壊した。しかし、人には当たらなかったそうだ」
七月八日【関連記事】
関白(秀次)殿ト 太閤(秀吉)ト去三日ヨリ御不和也、此間種々雑説有之、
今日殿下伏見へ御出也、則太閤ト御義絶、暮々関白殿御遁世、
高野へ御発可有有之由有之云々、不可説ゝゝゝ、
七月九日
石川日向守へ世上雑説之由書状遣了、伏見ニ江戸黄門(秀忠)御出、
其レヘ被行了、乗物ノ内ニテ被見也云々、次壽命院(秦宗巴)へ人ヲ遣了、
昨日ヨリ 殿下御供也云々、次鳥養道晰人ヲ遣了、他行云々、申置也云々、
↓
意訳:「石川家成へ(秀次事件について)世間の噂を書き付けた書状を送った。秀忠は伏見に行く途中であった。(家成は)そこへ(書状を)持参し、(秀忠に)駕篭の中で書状を見せたそうだ。次に秦宗巴へ使いを送った。(秦宗巴は)昨日から秀次の供をしているらしい。次に鵜飼道晰に使いを送った。(道晰は)どこかへ出掛けているとのことだった。(道晰へ)伝えるよう言っておいたそうだ」
(*注:5月に病が治った秀忠は、6月には「作事=普請、工事」に出られるほど元気になっている。(恐らく伏見の城か屋敷の普請であろう)そんな秀忠に、6月には雷、7月には秀次事件が降り掛かる。洛中にあった屋敷への落雷は大したことはなかった。が、秀吉が甥の関白秀次を謀叛の嫌疑で処分した秀次事件は、家康が在京していないため、秀忠が現地対応をすべき案件となった。秀次にも仕えていた言経は、事件発覚の翌9日に「世上雑説」を記した書状を家成経由で秀忠に提出している。言経に報告書を書くよう指示したのは家成だろうが、秀忠も移動中の駕篭の中でそれを読む対応を見せている。この秀次事件はさしたる前兆もなく唐突に起きた事件であったため、先ずもって情報が不足していた。ために、9日に言経は同じく秀次に仕えていた秦宗巴や鳥飼道晰に使いを送り、情報収集に努めている。その働きへの報酬としてか、後日、家成から言経に「ヒシクイ・鱧」が届けられる。この件で秀忠がどの程度指示を出したのかは不明だが、報告書に直ぐ目を通している点は評価できよう)
九月二日
江戸黄門(秀忠)二三日已前ニ有馬湯ヨリ上洛也云々、
冷被罷向了、対顔也云々、
↓
意訳:「秀忠が二、三日前に有馬温泉から京に戻ったそうだ。冷泉為満が行って、(秀忠と)会ったそうだ」
(*注:同月の17日に秀忠はお江と結婚する。この有馬温泉行きは疱瘡にかかった体を癒す目的もあったろうが、結婚前に身綺麗にしておくのも兼ねていたのかもしれない)
十月一日
次江戸亜相(家康)へ罷向、水無瀬黄門(兼成)伊勢物語講尺之内也、
則聴聞了、次夕食有之、相伴衆、水無瀬・予・冷・江戸黄門(秀忠)・
同参河守(結城秀康)・伊達侍従(政宗)等也、亥下刻帰宅了、
↓
意訳:「次に(冷泉為満と)家康の所に行った。水無瀬兼成が伊勢物語の講釈をしている最中だった。直ぐに聞きに入った。(講釈が終わった後)夕食が出た。(家康と夕食を)共にしたのは、水無瀬兼成、私(言経)、冷泉為満、秀忠、結城秀康、伊達政宗である。22時過ぎに家に帰った」
(*注:父家康、次男の秀康、新婚の三男秀忠に伊達政宗というメンツで「伊勢物語」の講釈を聞いている。各月の一日や節句(5月5日、7月7日、9月9日など)は上司の所に挨拶に行く慣習になっているので、この日に言経達や政宗は家康の所に顔を出したのだろう。政宗は昨年の同月同日にも家康を訪ねている。家康は客が来るのを承知の上で講釈をさせている。親子交流のためか、客の接待を兼ねているのかは分からないが、言経の帰宅時間からして、このメンツでそれなりに長い時間を過ごしていたようだ。何となくだが、新婚の秀忠にあれこれ言ったり、聞いたりしそうな人達が揃ってるような…)
十二月卅日
江戸中納言(秀忠)ヨリ侍ヽヽ使ニテ小袖二ツ、ヲリスチ・カタ色給了、
冷泉へ小袖二ヲリスチ、給了、予アツカリ置之由返答了、使者ニ勧酒了、
↓
意訳:「秀忠から使者が来て、小袖二つ(織筋・片色)を貰った。冷泉為満にも小袖二つ(織筋)が与えられた。(為満がいなかったので)私(言経)が預かると返事をした。使者には酒を飲ませた」
(*注:結婚により16才の秀忠も当主らしき動きをするようになる。この年の年末、12月30日に言経と為満に秀忠から、初めて「小袖」の年末ボーナスが届き、以後、恒例化する。秀忠の独自の給付開始は、独り立ちの第一歩とも言えるだろう。大病、秀次事件、結婚と慌ただしかった文禄四年を終え、徳川親子は在京したまま年越しをする)
ーーー続きは徳川秀忠特集その2へ
『言経卿記』の天正19年から文禄4年まで、12才から16才までの秀忠関連記事を並べてみた。私は小説や逸話を進んで読まないため、これら記事の中にどれだけ秀忠に関する新しい情報があるのか、よく分からない。
10代前半は乳母、守役が周りにいて自ら何かをする様子は寝坊くらいしか見られないが、文禄4年には諸事から、秀忠独自の動きが現れるようになる。個人的には秀次事件時の対応は良いと思う。徳川の跡取りとしては、やはり、お江との「結婚」が大きな区切りになっているようなので、文禄五(慶長元)年以降の記事は次に回すことにした。
→続:その2→http://ari-eru.sblo.jp/article/117906303.html?1428575387
徳川家康特集では、流布しているイメージが先にあるため家康にしては「意外」と思われそうな記事をまとめた。しかし、秀忠はそもそも「印象が薄い」という非常に捉え辛いイメージなので、父親と違って取り上げるべき記事自体がよく分からない。秀忠は一次資料由来の情報も少ない。ので、秀忠に関しては万遍なく『言経卿記』に見られる徳川秀忠を紹介することにした。「意訳」は、前回同様丁寧な言い回しは止めてある。(*注)の部分は解説及び個人的な見解である。
◎秀忠12才(実年齢)の記事
『言経卿記』における秀忠の初登場は次の条である。
天正十九(1591)年
三月五日
江戸大納言(家康)へ罷向了、種々雑談了、
拾芥抄・名目抄等御所望之間、可書進之由申之処ニ折帋一束給了、
夕食有之、又御子息侍従(秀忠)殿御礼申入了、
↓
意訳:「家康の所に行った。色々と話した。拾芥抄と名目抄が欲しいと言われたので、書き写して渡すと言うと(書き写すための)紙を一束くれた。夕食が出た。(そこで)息子の秀忠に挨拶をした」
(*注:天正19年の閏正月22日に家康は上洛した。『家忠日記』に特に記載はないが、家康は秀忠を伴って京に来たようで、この『言経卿記』の3月5日の条で秀忠の在京が確認できる。失業貴族である言経は、2月30日に大村由己に紹介してもらって、家康と初めて会った。会って直ぐに雇用が決まった訳ではなく、この5日に本の書写という初仕事を得て、ほぼ就職が内定し、8日に「扶持(ふち)=米で渡される給料」を与えると伝えられている。5日に秀忠に会わせているのも就職内定の証であろう。この日から、秀忠と言経の13年にわたる付き合いが始まる)
三月十四日
江戸侍従(秀忠)殿へ罷向了、唐墨二丁進了、由己同道也、
夕食有之、次同青山藤七(忠成)ニ扇子五本遣了、
↓
意訳:「秀忠の所に行った。唐墨二丁をあげた。大村由己も一緒だった。夕食が出た。その後、(秀忠家来の)青山忠成に扇子を五本あげた」
(*注:3月11日に家康は江戸に戻り、12才(実年齢)の秀忠は一人で洛中に残った。秀吉側への人質としての在京である。言経は上記のように秀忠に改めて挨拶代わりの墨を渡し、秀忠の守役の青山忠成にも扇子をあげた。雇用主への贈答は当然なので、言経は2月30日に家康にも本と書を渡している。言経は父親である家康と同年輩の40代後半。話相手としては年が離れ過ぎてはいるが、言経はこの後も、15日、19日、20日、21日、22日、24日、26日とこまめに秀忠の所に通い、暫し雑談をしている。天正19年の秀忠の在京は長く、11ヶ月にも及ぶ。家康は京に不慣れな秀忠に色々と教える指南役として言経を雇ったのかもしれない)
四月廿二日
江戸侍従(秀忠)殿へ罷向之処、久咳気云々、不及対顔了、
大和侍従(羽柴秀保)殿内藤堂与右衛門尉(高虎)同道罷向了、
キリムキ・酒有之、
↓
意訳:「秀忠の所に行ったところ、長く咳が続いているということで、会えなかった。羽柴秀保殿の家来の藤堂高虎と一緒に行った。切麦(=うどん?)と酒が出た」
十月十一日
江戸侍従(秀忠)殿へ罷向了、同御乳人へ罷向了、
茶子・茶有之、
↓
意訳:「秀忠の所に行った。(秀忠の)乳母の所に行った。茶菓子と茶が出た」
十月十四日
江戸侍従(秀忠)殿へ罷向、今川入道(氏真)同罷向ラルヽ、
則酒有之、後刻碁打・将棋サシ罷向了、二番将棋有之、
見物了、夕食有之、
↓
意訳:「秀忠の所に行った。今川氏真が一緒だった。酒が出た。その後で碁打ちと将棋指しが来た。二番将棋があった。見物した。夕食が出た」
(*注:4月22日に秀忠のところを今川氏真が訪ねている。今川氏真は今川義元の息子で、武田と徳川の攻撃により領地を失い、大名ではなくなった人物である。没落後は室の実家である北条家の世話になっていたが、1571年からは家康の庇護下に入り、この『言経卿記』で天正19年の在京が確認できる。氏真は9月24日に言経の義弟冷泉為満の所に挨拶に来て、言経と会った。10月11日に言経が会った秀忠の「乳母」は恐らく大姥局で、彼女の父は今川家の旧臣である。10月14日に氏真が秀忠を訪ねたのは、この乳母のことを言経から聞いたから?だろうか。氏真も言経と共に秀忠の所に行くのはこの1度きりである)
十一月廿五日
江戸宰相(秀忠)殿へ早暁ニ罷向了、連歌會可有之由内々有之間如此、
乍去俄ニ延引也、
↓
意訳:「秀忠の所に明け方に行った。連歌会があるからと内々に知らせがあったからだ。しかし、急に延期になった」
十一月廿九日
江戸宰相(秀忠)殿へ罷向之處早暁ニ関東へ下向也云々、
然間同内内藤弥三郎(清成)所へ罷向相尋之処ニ、隙入之由有之間罷帰了、
↓
意訳:「秀忠の所に行ったところ、明け方に関東に向かったとのことであった。ならばと(秀忠の)家来内藤清成の所ヘ行って尋ねようとしたが、(話を聞く)隙がなかったため、帰った」
(*注:閏正月から在京していた秀忠は、11月に慌ただしく江戸に戻った。言経が張り切って明け方に出掛けた連歌会が「俄に」延ばされたことからも、急な予定変更だったのが分かる。更に29日には言経に連絡なく、秀忠が江戸に戻っている。確認のために内藤清成の所に行ったのだが、清成が忙しくて何も聞けないまま言経は家に帰っている。この徳川方の慌てぶりは秀忠と入れ替わる形で家康が上洛し、その後、朝鮮出兵のために名護屋に向かうからである。秀吉の命令によるものだが、情報伝達があまり良くないのが分かる秀忠の下向である。秀忠がいなくなった京には「石川家成」が常駐し、言経への連絡その他を受け付けるようになり、このような伝達不首尾は改善されていく)
◎秀忠13才の記事
天正廿(文禄元)年
八月七日【関連記事】
太閤御母儀大政所去月廿二日ニ御他界也云々、
八月十八日
江戸宰相(秀忠)殿近日可有上洛由有之間、
石川日向守(家成)へ尋ニ人ヲ遣了、明後日大略可有上洛之由返事有之、
↓
意訳:「(秀吉の母である大政所が死去したため)秀忠が近いうちに上洛するとの話があったので、石川家成に聞くために使いを出した。明後日には多分上洛するだろうとの返事があった」
(*注:明後日には来るかも?との返事であったが、秀忠の上洛は24日、28日になってもあるのかどうか分からず、9月3日にようやく明後日には多分来るとの知らせが家成から届く。今回は大政所死去に伴う弔問のための上洛である。前回同様急な移動であったためか、秀忠は来るとの話が出た後もなかなか上洛しない。以前と違い、家成により上洛有無の事前確認はできている)
九月六日
江戸宰相(秀忠)殿昨夕上洛之由、即今日罷向対顔了、
明日大坂へ下向也云々、
↓
意訳:「秀忠が昨日の夕方に上洛したそうだ。今日行って、会った。明日大坂に行くとのことだ」
九月十二日
江戸宰相(秀忠)殿昨夕大坂ヨリ上洛了、中納言ニ拝任也云々、
従太閤ヨリ御執奏也云々、
↓
意訳:「秀忠が昨夕、大坂から京都に戻った。中納言に任じられたそうだ。太閤(羽柴秀吉)の奏上であるそうだ」
九月廿一日
江戸中納言(秀忠)殿御下向之間、早朝イトマコイニ罷向、対顔了、
↓
意訳:「秀忠が(江戸に)向かうため、早朝に暇乞いに行った。会った」
(*注:今回の上洛は弔問目的のため短い。その短い間に秀忠の官職が「宰相」から「中納言」に上がる。天正19年にも「侍従」から「宰相」になっていて、秀忠の官職上昇は非常に速いのが分かる。秀吉側が秀忠を家康の後継者として認めている証拠であるが、秀頼誕生後に官職上昇が止まるため、暫くこの江戸中納言(=黄門)が続く)
◎秀忠14才の記事
文禄二(1593)年
九月十九日
江戸黄門(秀忠)一昨日夕上洛也云々、今日罷向対顔了、
↓
意訳:「秀忠が一昨日の夕方に上洛したそうだ。今日行って、会った」
十月十日【関連記事】
江戸亜相(家康)へ罷向、碁見物了、夕食有之、
先刻一条(内基)殿渡御了、及乱酒了、同黄門(秀忠)へ御出、酒有之、
十月十一日
江戸黄門(秀忠)へ見舞ニ罷向了、亜相(家康)ハ 禁裏御能参了、
↓
意訳:「秀忠の所に見舞に行った。家康は宮中での能に参加した」
十月十四日
江戸亜相(家康)へ寅刻ニ罷向、下向之間、イトマコイニ如此、
柳原(淳光)・浅野弾正(長吉)・(大村)由己等同罷向了、卯刻ニ御下向也、
江戸黄門(秀忠)へ罷向、イマタ朝寝也、不及対顔了、
↓
意訳:「家康の所に寅刻(4時頃)に行った。(江戸に)下るため、暇乞いである。柳原淳光と浅野長吉、大村由己と一緒に行った。卯刻(6時頃)に(家康は)出立した。秀忠の所に行った。(秀忠は)まだ寝ていた。会えなかった」
(*注:家康の在京中に秀忠も上洛して親子同居期間中である。面白いのが、10月の10日から14日である。以前の家康特集に載せたが、10日に家康は「乱酒」して秀忠の所に押し掛け、また酒を飲む、という迷惑親父じみたことをした。翌11日に、言経が秀忠を「見舞」っている。当時はただ会いに行くことも「見舞」と書き、病気見舞いの方も「見舞」と記すため、この見舞が秀忠の具合が悪いことを意味しているかは不明である。しかし、前日の「乱酒」と「酒有之」と実年齢14才からして、飲酒による頭痛などに秀忠が悩まされている可能性は十分にある。父の家康は同じ日に宮中で能「雲林院」を待っている。信長没年を1つ越した50才で、乱酒した翌日なのに元気なことだ。そして、このときの意趣返しなのか、ただ単に起きられなかったのか、14日、秀忠は寝坊して江戸に戻る父親を見送っていない)
十二月十二日
石川日向守(家成)へ罷向、黄門(秀忠)へ御出也云々、則申置了、
江戸黄門へ罷向対顔了、茶有之、石川日向守へ対顔了、
次黄門之御モリ・御ウハハ、(小川)三益同道罷向対顔了、茶有之、
↓
意訳:「石川家成の所へ行った。(家成は)秀忠の所ヘ行ったとのことである。(言経が来たことを)言っておくように伝えた。秀忠の所に行き、会った。茶が出た。石川家成と会った。次に秀忠の守役と乳母、小川三益に会った。茶が出た」
(*注:12才のときも秀忠には乳母が付いていたが、14才のこの条でも京まで同行しているのが分かる。「御ウハハ=乳母」は大姥局だとして、「御モリ=守役」は誰だろう。傅(守)役は養育係及び後見として男性がなるが、言経は家康が付けた秀忠の傅役を今まで名前で記している。【例:青山忠成、内藤清成】乳母との並びと名前がないことからして、この「御モリ」は女性と見られる。秀忠の母である西郷局は秀忠が10才(天正17年)のときに死去。家康の側室阿茶局が母をなくした秀忠・忠吉兄弟の養育を任されているので、この御モリは彼女ではないだろうか。同月23日に秀忠は江戸に帰る)
ーー文禄三年は上洛しないため、15才の記事はなし
◎秀忠16才の記事
文禄四(1595)年
三月九日【参考記事】
江戸中納言(秀忠)昨日上洛也云々、罷向対顔了、
三月十七日
次江戸亜相(秀忠)へ罷向、一昨日ヨリ咳気之由有之間、
見舞ニ罷向了、内藤八右衛門尉へ申置了、見舞衆二三人有之、
↓
意訳:「(家康の所に行って夕食を食べた後)次に秀忠の所に行った。一昨日から咳がひどいと聞いたので、見舞に行った。内藤八右衛門尉に(見舞に来たことを)伝えてくれと言った。他にも見舞客が二、三人いた」
四月十日
江戸黄門(秀忠)へ腫物見舞ニ罷向了、不対顔了、少験気也云々、
↓
意訳:「秀忠の所に腫物の見舞に言った。会えなかった。少し良くなっているとのことだ」
四月十一日【関連記事】
江戸亜相(家康)子息黄門(秀忠)腫物見舞ニ伏見ヨリ御上洛也云々、
四月廿日【関連記事】
江戸黄門(秀忠)腫物見舞ニ罷向了、申置了、伏見ヨリ亜相(家康)御出也、
五月五日
江戸黄門(秀忠)へ礼ニ冷同道罷向了、依所労無対顔了、
↓
意訳:「秀忠の所に(端午の節句の)挨拶に行ったが、具合が悪くて会えなかった」
五月廿三日
江戸黄門(秀忠)へ罷向、太閤御内舟コシ(景直)同罷向了、黄門所労験気、
始而対顔了、未行歩不叶之由有之、
↓
意訳:「秀忠の所へ行った。秀吉の家来船越景直と一緒に行った。秀忠の病気は良くなっていた。(病気になってから)始めて会えた。まだ歩くことはできないとのことであった」
(*注:この文禄四年、秀忠は様々なことに見舞われる。先ず、三月から五月までずっと病に苦しんでいる。『言経卿記』には咳、腫物とあるが、これは疱瘡(天然痘)であったようだ。うつらないようにするためか、言経も回復するまで面会できていない。疱瘡は種痘(ワクチン)が広まる明治になるまで一般的な病であり、これで命を落とす者も多かった。大名では伊達政宗のエピソードが有名であろう。秀忠もこのとき危なかったようで、家康は伏見から何度か見舞に来ている。5月に回復したものの「歩けない」ほど衰弱しており、下手をしたら享年16才になりかけていた秀忠であった)
○関連の家康書状?
其以後煩如何、無心元候之處、従三人之者共具申越候、
彌平之由滿足候、節々注進尤候、恐々謹言
五月十三日 家康(花押)
中納言(秀忠)殿 ☆舊酒井家文書
(*注:『徳川家康文書の研究』では五月三日に家康が京都を離れているため、文禄四年の書状ではないとされている。しかし、秀忠が「煩」っていて、五月十三日に家康が多少の回復の知らせを受けているのなら、五月廿三日には歩けなくとも疱瘡から完全回復した文禄四年の書状ではないだろうか。三日に出立した途上でも書状は書けるのだから、秀忠が五月に「煩」っていて、十三日には家康と離れた場所にいる文禄四年に、この書状を比定しても良いと思う)
六月四日
江戸黄門(秀忠)屋敷へ昨日落雷也云々、見舞ニ罷向了、
三所へ落、以上四所少ツヽ損也、乍去人ニハ不當也云々、
↓
意訳:「秀忠の屋敷に昨日雷が落ちたそうだ。見舞に行った。三カ所に落ちて、(屋敷の)四カ所が少しずつ損壊した。しかし、人には当たらなかったそうだ」
七月八日【関連記事】
関白(秀次)殿ト 太閤(秀吉)ト去三日ヨリ御不和也、此間種々雑説有之、
今日殿下伏見へ御出也、則太閤ト御義絶、暮々関白殿御遁世、
高野へ御発可有有之由有之云々、不可説ゝゝゝ、
七月九日
石川日向守へ世上雑説之由書状遣了、伏見ニ江戸黄門(秀忠)御出、
其レヘ被行了、乗物ノ内ニテ被見也云々、次壽命院(秦宗巴)へ人ヲ遣了、
昨日ヨリ 殿下御供也云々、次鳥養道晰人ヲ遣了、他行云々、申置也云々、
↓
意訳:「石川家成へ(秀次事件について)世間の噂を書き付けた書状を送った。秀忠は伏見に行く途中であった。(家成は)そこへ(書状を)持参し、(秀忠に)駕篭の中で書状を見せたそうだ。次に秦宗巴へ使いを送った。(秦宗巴は)昨日から秀次の供をしているらしい。次に鵜飼道晰に使いを送った。(道晰は)どこかへ出掛けているとのことだった。(道晰へ)伝えるよう言っておいたそうだ」
(*注:5月に病が治った秀忠は、6月には「作事=普請、工事」に出られるほど元気になっている。(恐らく伏見の城か屋敷の普請であろう)そんな秀忠に、6月には雷、7月には秀次事件が降り掛かる。洛中にあった屋敷への落雷は大したことはなかった。が、秀吉が甥の関白秀次を謀叛の嫌疑で処分した秀次事件は、家康が在京していないため、秀忠が現地対応をすべき案件となった。秀次にも仕えていた言経は、事件発覚の翌9日に「世上雑説」を記した書状を家成経由で秀忠に提出している。言経に報告書を書くよう指示したのは家成だろうが、秀忠も移動中の駕篭の中でそれを読む対応を見せている。この秀次事件はさしたる前兆もなく唐突に起きた事件であったため、先ずもって情報が不足していた。ために、9日に言経は同じく秀次に仕えていた秦宗巴や鳥飼道晰に使いを送り、情報収集に努めている。その働きへの報酬としてか、後日、家成から言経に「ヒシクイ・鱧」が届けられる。この件で秀忠がどの程度指示を出したのかは不明だが、報告書に直ぐ目を通している点は評価できよう)
九月二日
江戸黄門(秀忠)二三日已前ニ有馬湯ヨリ上洛也云々、
冷被罷向了、対顔也云々、
↓
意訳:「秀忠が二、三日前に有馬温泉から京に戻ったそうだ。冷泉為満が行って、(秀忠と)会ったそうだ」
(*注:同月の17日に秀忠はお江と結婚する。この有馬温泉行きは疱瘡にかかった体を癒す目的もあったろうが、結婚前に身綺麗にしておくのも兼ねていたのかもしれない)
十月一日
次江戸亜相(家康)へ罷向、水無瀬黄門(兼成)伊勢物語講尺之内也、
則聴聞了、次夕食有之、相伴衆、水無瀬・予・冷・江戸黄門(秀忠)・
同参河守(結城秀康)・伊達侍従(政宗)等也、亥下刻帰宅了、
↓
意訳:「次に(冷泉為満と)家康の所に行った。水無瀬兼成が伊勢物語の講釈をしている最中だった。直ぐに聞きに入った。(講釈が終わった後)夕食が出た。(家康と夕食を)共にしたのは、水無瀬兼成、私(言経)、冷泉為満、秀忠、結城秀康、伊達政宗である。22時過ぎに家に帰った」
(*注:父家康、次男の秀康、新婚の三男秀忠に伊達政宗というメンツで「伊勢物語」の講釈を聞いている。各月の一日や節句(5月5日、7月7日、9月9日など)は上司の所に挨拶に行く慣習になっているので、この日に言経達や政宗は家康の所に顔を出したのだろう。政宗は昨年の同月同日にも家康を訪ねている。家康は客が来るのを承知の上で講釈をさせている。親子交流のためか、客の接待を兼ねているのかは分からないが、言経の帰宅時間からして、このメンツでそれなりに長い時間を過ごしていたようだ。何となくだが、新婚の秀忠にあれこれ言ったり、聞いたりしそうな人達が揃ってるような…)
十二月卅日
江戸中納言(秀忠)ヨリ侍ヽヽ使ニテ小袖二ツ、ヲリスチ・カタ色給了、
冷泉へ小袖二ヲリスチ、給了、予アツカリ置之由返答了、使者ニ勧酒了、
↓
意訳:「秀忠から使者が来て、小袖二つ(織筋・片色)を貰った。冷泉為満にも小袖二つ(織筋)が与えられた。(為満がいなかったので)私(言経)が預かると返事をした。使者には酒を飲ませた」
(*注:結婚により16才の秀忠も当主らしき動きをするようになる。この年の年末、12月30日に言経と為満に秀忠から、初めて「小袖」の年末ボーナスが届き、以後、恒例化する。秀忠の独自の給付開始は、独り立ちの第一歩とも言えるだろう。大病、秀次事件、結婚と慌ただしかった文禄四年を終え、徳川親子は在京したまま年越しをする)
ーーー続きは徳川秀忠特集その2へ
『言経卿記』の天正19年から文禄4年まで、12才から16才までの秀忠関連記事を並べてみた。私は小説や逸話を進んで読まないため、これら記事の中にどれだけ秀忠に関する新しい情報があるのか、よく分からない。
10代前半は乳母、守役が周りにいて自ら何かをする様子は寝坊くらいしか見られないが、文禄4年には諸事から、秀忠独自の動きが現れるようになる。個人的には秀次事件時の対応は良いと思う。徳川の跡取りとしては、やはり、お江との「結婚」が大きな区切りになっているようなので、文禄五(慶長元)年以降の記事は次に回すことにした。
→続:その2→http://ari-eru.sblo.jp/article/117906303.html?1428575387
2015年03月29日
徳川家康特集ーfrom『言経卿記(ときつねきょうき)』
貴族の山科言経(やましなときつね)が残した『言経卿記』には徳川家康のことが豊富に書かれている。勅勘(ちょっかん)されて朝廷での職を失った言経を、家康が天正十九年三月八日から「扶持(ふち)」を与えて雇ったためである。言経は時期によってはほぼ毎日、家康の所に通い、家康と「雑談」をした。そのため、『言経卿記』には政治や戦とは関係ない、徳川家康の日常の姿が度々垣間見える。
このブログで天正十九年から慶長十二年まで、『言経卿記』にある徳川家康関連の記事を取り上げてきたが、分量が多過ぎて読むのも大変であろうと思われる。なので、ここでは、へー、あの家康がこんなことを、と個人的にクスッと笑ったり、面白いなと思った記事を「特集」する形で載せてみた。ほぼ全て前の家康関連記事に載せ済みであるが、さて、ここからどのような「徳川家康像」が見えてくるか。
徳川史観云々言う人にも『言経卿記』は徳川史観に「毒されていない」との判断をもらっている(笑)ようなので、「偏ってない?日記」に残された「徳川家康」を、どうぞ。
(「意訳」では丁寧な言い回しを省いた。*注:の部分は+αの解説と個人的な解釈)
○家康は「昵懇」な人との「長話」が好き?
文禄二年
九月六日
江戸亜相(家康)へ罷向了、少間帰宅了、又罷向、夕食有之、
種々雑談、入魂之事也、
↓
意訳:「家康の所に行った。少ししてから帰宅し、また(家康の所に)行き、夕食を貰った。色々なことを話した。(家康とは)親しく付き合うことになった」
(*注:「入魂」は「昵懇」のことであり、親しく打ち解ける、という意味である。この時代の手紙にはよくある表現で、書状に書かれている場合は、「今後も宜しくお願いします」程度の軽い意味合いで受け取った方がいい言葉である。が、言経が日記中でこう表現している相手は「家康」のみであり、また、言経は滅多に自分の心中を記さない。恐らくこの日、話しているうちに家康と言経は文字通り「入魂」の間柄になったのだろう。この後の日記がそれを裏付けている)
九月八日
江戸亜相(家康)へ申下刻ニ罷向、寅下刻マテ種々雑談了、
柳原被行了、酒有之、
↓
意訳:「家康の所に16時過ぎに行き、(翌日の)4時過ぎまで色々なことを話した。柳原淳光も一緒に行った。酒が出た」
(*注:家康と言経は何度も長時間話している。「移刻」や「終日」など時間が分かり辛いものもあるが、2時間から5時間くらいと分かるものもある。最高記録がこの9月8日。家康と言経と、柳原淳光の3人は、夕方から翌朝までおよそ12時間も話をしている。当時の「刻」は今の時間とズレがあるので、16時過ぎなどの時間はだいたいである。淳光は勅勘前の言経の家のお隣さんだが、収入が不安定なため、この少し前まで所領がある因幡国にいた。年の近い50代前半の3人が酒を飲みながら何を話していたのかは不明だが、6日の「入魂」を実感できる内容である)
九月十日
江戸亜相(家康)へ晩ニ罷向了、酒有之、目カ子一ツ給了、
水無瀬黄門(兼成)同被行之了、
↓
意訳:「家康の所に晩に行った。酒が出た。眼鏡を一つ貰った。水無瀬兼成も同行した」
九月十四日
江戸亜相(家康)ヘ阿茶丸同道了、扇子五本持罷向了、
↓
意訳:「家康の所に息子の阿茶丸と共に行った。(手土産に)扇子五本を持って行った」
九月十五日
江戸亜相(家康)大坂ヘ下向之間、イトマコイニ罷向了、
石川日向守被申事ハ、三人相添之由有之、然者十人扶持方也云々、
亜相ヨリ被仰云々、祝着之由申了、
↓
意訳:家康が大坂に出掛けるというので、暇乞いに行った。石川家成が言うには、三人を養う必要があるから、十人扶持を与えよう、とのことであった。家康がそう言ったそうである。(私は)嬉しいと言った」
(*注:「入魂」の間柄を示すように、家康は言経に「眼鏡」と「十人扶持」を気前良く与えた。それまで五人扶持だったのが倍になっている。「三人相添」の「3人」はこの前日に息子を同行させていることから、家族3人の意味で、「言経(当人)、阿茶丸(息子)、北向(妻)」を指すのだろう。10日、言経は当人に頼まれて家康に水無瀬兼成(みなせかねなり)を紹介し、14日には息子の阿茶丸(言緒:ときお)を連れていく。更に26日には妻の兄弟で、同じく失職中の冷泉為満(れいぜいためみつ)を家康に会わせる。言経は同時期に羽柴秀次にも仕えているが、こちらには息子も為満も連れて行っていない。扶持を増やしてもらうためもあったろうが、言経は家康を息子や親族を託せる相手と見込んだようだ)
○家康が「乱酒」する。
十月十日
江戸亜相(家康)へ罷向、碁見物了、夕食有之、先刻一条(内基)殿渡御了、
及乱酒、同黄門(秀忠)へ御出、酒有之、
↓
意訳:「家康の所へ行った。囲碁を見物した。夕食が出た。先に一条内基が(家康の所に)来ていた。大いに酒を飲んで、(家康の息子)秀忠の所に行った。(ここでも)酒が出た」
(*注:徳川家康は健康に気を使って規則正しい生活をしていたようなイメージが広まっているが、在京中は秀吉が没するまで鷹狩りには行かず(行けず?)、夜明けまで話し込んでいたり、こんな風に「乱酒」して酔っぱらい、息子の所に押し掛けてまた飲む、などということをしている。家康は「乱酒」の記事が他にないので、このときだけ大いに興がのって乱れたようだ。「乱酒」した理由は、このときの客である一条内基か、ようやくの帰国許可、だろう。名護屋から1年半ぶりに江戸に戻る途中を、秀次不在により引き止められている最中である。この翌日、秀次は帰洛しているため、10日には戻るとの連絡が入っている筈だ。家康は14日に江戸に向かった)
○家康も駕篭から落ちる。
文禄三年
八月廿一日
江戸亜相(家康)へ罷向、所労也、少対顔了、帰路五条口ニテノリ物打落了、
少々打云々、二三ヶ所痛云々、愛洲薬用之、
↓
意訳:「家康の所に行った。(家康は)具合が悪かった。少しだけ会った。帰り道の五条口で駕篭から落ちて、少し体を打ったとのことである。二、三カ所痛いらしい。(山科家特製の)愛洲薬を服用した」
八月廿四日
江戸亜相(家康)ヘ罷向了、御所労験気也、夕食有之、
亜相子息三河守(秀康)殿相伴了、十人計有之、
↓
意訳:「家康の所に行った。具合が悪いのは良くなっていた。夕食が出た。家康の息子結城秀康が(夕食を)共にした。(夕食を共にしたのは)十人ばかりである」
(*注:8月21日に家康が駕篭から落ちて体を打っている。「ノリ物=引き戸付きの駕篭」なので、どうやって「落ちた」のか、状況が気になるところではある。言経も慶長年間に同じように「乗物」から落ちて体を痛めているし、江戸時代にも駕篭から落ちて、駕篭かきに置いていかれたお殿様がいるので、引き戸付きの駕篭から「落ちる」ことはままあるようだ。通行人として出くわしたらかなり笑える光景だが、地面に叩き付けられた方はたまらないだろう。家康は24日には「験気=元気、回復」したようである。この日は父親の見舞のためか、次男の結城秀康が来ていて、言経らと夕食を共にしている)
○家康が真田虫(=条虫)を飼ってた?
文禄四年
正月廿六日
江戸亜相(家康)ヘ冷(冷泉為満)同道罷向了、亜相者昨夜ヨリ寸白気ニテ腰痛云々、
常住之座敷ニテ対顔了、次別座ニテ夕食有之、次又先刻之座ヘ可来之由有之間、
罷向種々雑談了、酉下刻ニ立了、
↓
意訳:「家康の所に冷泉為満と共に行った。家康は昨夜から寸白(=条虫)による腰痛に悩まされているらしい。いつもの座敷で会った。次に別の座敷で夕食が出た。次にまた先程の座敷に来るように求められたので行って、(家康と)色々話した。18時過ぎにその場を後にした」
正月廿七日
梅庵ニテ朝食了、次亜相(家康)へ冷泉同道了、午刻ニ対顔了(奥座也)、
亜相腰痛験気也、針治療云々、次食有之、次奥座へ可来由有之間罷向了、
種々雑談了、
↓
意訳:「梅庵(=大村由之)の所で朝食を食べた。次に家康の所に為満と共に行った。12時くらいに奥座敷で会った。家康の腰痛は良くなっていた。針治療を受けたそうだ。次に食事が出された。次に奥座敷に行くよう言われたので行き、(家康と)色々話した」
(*注:文禄四年の家康は淋病と寸白に苦しめられている。上記のように1月に寸白、10月には淋病の記述が始まり、11月まで続く。そして、12月に再び寸白。山科言経は薬師であるため、家康と秀忠の病状はこまめに書き残している。徳川家康といえば、健康に気を使って長生きしたとよく言われるが、腫物、瘧(おこり)、淋病、寸白など、当時のメジャーな病には一通りかかっているし、病や具合の悪い状態を示す「所労」の文字が『言経卿記』に何度も出てくる。つまり、健康で長生きではなく、ごく普通に病気にかかりながらも寿命を保たせたのが徳川家康、と言えよう)
○家康も寝坊する。
三月廿九日
江戸亜相(家康)ヘ罷向、イマタ朝寝也云々、紹尊ニ申聞了、
↓
意訳:「家康の所に行った。まだ朝寝をしていると紹尊に聞いた」
(*注:この家康の寝坊のせいで、言経は家康に会えなかった)
○家康が高い人形を作らせる。
九月十五日
榮任来了、江戸亜相(家康)ヨリ冷泉ヘ言傅有之、人形被誂可給由有之、
↓
意訳:「龜屋榮任(かめやえいにん)が(言経の所に)来た。家康から冷泉為満への言伝があった。人形を作って欲しいとのことだ」
十月一日
江戸亜相(家康)ヘ罷向、水無瀬黄門(兼成)伊勢物語講釈之内也、
則聴聞了、次夕食有之、相伴衆、水無瀬・予・江戸黄門(秀忠)・
同三河守(秀康)・伊達侍従(政宗)等也、亥下刻ニ帰宅了、
↓
意訳:「家康の所に行った。水無瀬兼成が伊勢物語の講釈をしている最中であった。直ぐに聞きに行った。次に夕食が出た。(家康と)夕食を共にしたのは、水無瀬兼成、私(言経)、秀忠、秀康、伊達政宗である。22時過ぎに帰宅した」
十一月十九日
次亜相(家康)ヘ罷向対顔了、二三日淋病気也云々、夕食有之、
冷ヘアツラヘノ造リ猿アヤツリ、被参了、感之也、
直子刻マテ雑談了、マンチウ・蕨ノモチ・茶等有之、
碁見物了、常之間ニテ也、依所労オモテ無渡御了、
↓
意訳:「次に家康の所に行き、会った。ここ二、三日淋病らしい。夕食が出た。(一緒に来た)冷泉為満ができた猿の操り人形を持って来た。(よい出来映えに)感心した。直に0時まで雑談した。(その間)饅頭・蕨餅・茶が出た。囲碁を見物した。常之間においてである。(家康の)具合が悪いため、表に出なかったのだ」
(*注:9月に家康が「人形」の製作を冷泉為満に依頼し、11月にそれが家康の所に届けられている。家康が具体的にどんな人形の注文をつけたのかは分からないが、出来上がったのは「猿の操り人形」であった。値段は銀子9匁(もんめ)でかなりお高い。言経も感心する出来映えだったようだ。が、家康はこの「人形」をどうして作らせたのだろう?誰かへの贈り物であるとすれば、秀忠と結婚したばかりのお江か?また10月には家康・秀忠・秀康の親子3人で「伊勢物語」の講釈を聞き、夕食を共にしている。言経以外に伊達政宗も混ざっているのが気になるが、前のお見舞いといい、『言経卿記』に見える結城秀康と家康の関係は悪くない)
○家康も料理をする。
慶長二年
正月十五日
次黄門(秀忠)へ罷向了、内府(家康)へ御出也云々、次内府へ罷向了、
対顔了、カウ若舞有之、半ニ罷向、タイナイサカシ也、
次常ノ座敷ニテ暫雑談了、次薪ノ間ニテ鶴ノ料理、内府自身之拵也、
相伴衆、内府・同黄門・予・冷泉・冨田左近将監(知信)其外大勢有之、
↓
意訳:「次に秀忠の所に行った。家康の所に行ったと言われた。次に家康の所に行った。会った。幸若舞をしていた。半分進んだところだった。(舞は)タイナイサカシであった。次の常の間で暫く色々話した。次に薪の間で鶴の料理が出た。家康が自ら用意した。(鶴の料理を)共にしたのは、家康・秀忠・私(言経)・冷泉為満・冨田知信、その他大勢である」
(*注:かなり珍しい家康の料理記事である。鷹狩りと薬ネタはよくあるが、家康の料理はこれ以外に見た覚えがない。信長が家康と家臣らに「御てつから、ふちもミこかし御引候由候」(from『家忠日記』)と、臼を挽いて菓子を振る舞っているように、客人を主人自らが茶、菓子、料理で接待するのは「もてなし」としてあることなのだ。正月で客人も多く来ているから、家康が張り切って鶴を捌いたのだろうが、腕前はどうだったのだろう。言経は父親の山科言継と同じく、料理の美味しいマズいを一言も書かないため、家康の料理の出来の良し悪しは分からない。このときの客人にはいないが、家康・言経の両方と交流がある細川幽斎は料理が得手であり、言経達に鯉料理を振る舞ったことがある。あと、ここにもあるように家康は将軍に就任する前は「幸若舞」を何度も楽しんでいる。かなり好きだったようだ)
○家康は身内が死ぬと表に出て来ない。
慶長六年
九月廿一日
伏見城罷向了、内府(家康)ヘ無出座、去比亜相(秀忠)子息遠行也云々、
無興云々、乍去晝栗粉、夕食有之、廿余人相伴了、
↓
意訳:「伏見城へ行った。家康は表に出て来なかった。少し前に秀忠の息子が死去したとのことだ。(それで)機嫌が悪いそうだ。しかし、昼には栗粉餅?が出て、夕食も出た。二十人余りが一緒に食べた」
慶長八年
九月廿一日
大樹(家康)ヘ参、御振舞有之、無御出座了、
十日已前ニ御息民部大輔(武田信吉)殿御逝去也、不可説ゝゝゝ、
↓
意訳:「家康の所に行った。食事が出された。(家康は)表に出て来なかった。十日前に息子の武田信吉殿が死去した。言葉にできないことである」
(*注:たまたま上の2つはともに9月21日の記事である。上は孫、下は息子の死で、この日に連絡が届いたのだろう。慶長5年に関ケ原の戦いがあり、慶長6年には既に家康は天下人である。その家康が城の奥に引っ込んだまま出て来ず、言経をはじめとした客人達と会わなかった。腰痛で奥にいるとき、家康は奥座敷にまで言経を入らせて雑談していた。体調不良を理由に家康が人と会わない場合も確かにある。が、このときの「無出座」を身内の死を嘆いての引きこもりと言経は記している。恐らく、出て来ない理由を家来がそう説明したのだろう。特に理由が書かれていないときにも家康の「無出座」はあるため、家康が本当にショックを受けて出て来なかったのかどうかは、分からない。ただ、『言経卿記』が家康の不機嫌を記すのは2度のみで1度がこの「無興云々」。徳川家康はよく身内に冷たいと言われるので、その死を理由に人と会わないときがあったのを記しておく)
○家康が兄弟喧嘩の仲裁をする。
慶長八年
九月廿九日
去廿日仁和(覚深法親王)殿(一宮十六才)・
梶井(承快法親王)殿新宮(二宮十二才)御参 内
御中ナヲリ云々、大樹(家康)御執奏也云々、
↓
意訳:「二十日に(後陽成天皇の子息)覚深法親王(16才)と承快法親王(12才)が禁裏に上がって、仲直りされたそうだ。家康の取り次ぎだそうだ」
(*注:大樹とは「将軍」のことなので、家康は既に征夷大将軍である。その征夷大将軍が天皇の息子達の「仲直り」を仲介している。この2人の法親王は同母兄弟で、同じ仁和寺にいるので、年齢からして兄弟喧嘩は普通にありそうだ。だのに、将軍が「仲直り」をさせているのは、兄弟の対立がよほど深刻?だったか、天皇に頼まれたか、のどちらかだろう。将軍の家康が年齢的には孫みたいな2人の仲直りを取り持っているのが面白かったので、載せておく。というか、父親の後陽成天皇ではダメだったのだろうか)
ーー
●天下人となった家康の人となりはたまに特集されたりするが、たいがい元ネタは「逸話」や「小説」で、一次資料からの紹介や引用は少ない。『言経卿記』は、上記のように家康と親しく付き合った山科言経が残した一次資料である。であるのに、家康の人となりをあれこれ検討する際に使われることが、ない。そこで、読んでいて「へー」と思った家康の一面が少しでも紹介できればいいなと思い、ブログにまとめてみた。
言経は家康との関係を自ら「入魂」と記した。実際に馬が合ったらしいのは、12時間長話からも明らかだろう。家康は秀吉没後、天皇から勅許をもぎとり、言経に公卿の地位、所領を取り戻してやっている。上の記事にはないが、言経は家康の所に向かう途中で心臓が苦しくなって家に戻ったときがある。しかし、翌日、家康から呼び出されると、彼は即、応じて家を出た。言経は家康・秀忠のためによく働き、家康も彼の働きに応えた。
『言経卿記』は徳川史観の影響を受けていない資料とされる。だが、この日記は、家康と長話をし、共に酒を飲んだ同年輩の失業貴族が残した記録でもある。言経が家康のことをどう思っていたのか、書いていないので分からない。ただあるのは、「入魂」とその後の言経が書き残した2人の交流のみ。
余計な(*注)を入れたが、上の記事から家康のことをどう思うのかは、各人の自由である。
2015年03月13日
『言経卿記』に見る女性:朝日(旭)姫乳母御茶々2
ーーーその2
天正十九年
三月小
六日、壬申、天晴、
江戸大納言(家康)殿ヘ罷向、夕食有之、
又唐橋(在通)之御茶々(唐母)ヘ書状・愛洲薬廿服遣了、
江戸ニ住居也、大納言ヘ奉公也、戌刻ニ帰了、
天正十九年正月、大坂の本願寺に対し、秀吉から京都への移転命令が下される。本願寺の世話になっている山科言経たちも必然的に引っ越さなければならなくなり、言経は洛中に戻る。二月、彼は大村由己を通して徳川家康と会い、三月八日に家康から「扶持」を貰えることとなる。無職無給状態を脱し徳川に雇ってもらえたのだ。その前の三月六日に言経は上記のように御茶々に手紙と薬を送っている。
このとき御茶々は「江戸ニ住居」して、「大納言=家康」に「奉公」しているのが、続く文章から分かる。
朝日姫の乳母から、御茶々は家康に仕える立場に「転職」したのだ。
朝日姫は前年の天正十八年に死去。夫の四条隆昌も同年の十一月に新しい妻を迎えており、御茶々には四条家に戻る選択肢はない。
名目だけとはいえ、彼女は家康の正室であったのだから、その乳母であった御茶々を家康が雇用するのは…自然なことなのだろうか?形だけとはいえ「乳母」であった御茶々のその後は、羽柴側の責任ではないのか。扶持を与えて、乳母子である朝日姫の菩提を弔わせるのが通例だと思うのだが、主を失った彼女を何故か徳川が雇用している。
中流公卿の出身で豊臣にも一時的にいた彼女の知識や能力は、秀吉への臣従後、上洛の回数や期間が増える徳川にとっては必要であったのか。
そして、言経は家康に本の書写という仕事を頼まれた翌日に、徳川に彼女への手紙と薬を託している。家康は同月の十一日には京を離れて江戸に向かった。御茶々からの言伝があって薬を託したのか、それとも、もしかして徳川への就職を斡旋してくれた御礼か。表向きは大村由己が言経を家康に紹介したことになっているが、言経の方から徳川家康に雇って下さいと希望した気配がある。そこに御茶々がどの程度関わっているかは分からない。が、江戸に戻る徳川勢に彼女への手紙と薬を託せるのだから、御茶々の存在はそう小さなものではないことが伺える。
次に彼女の動向が分かるのは、翌年の文禄元年である。
文禄元年
四月小
七日、丁酉、天晴、
唐橋母(御茶々)、唐橋宿所ニテ相尋処、亜相(家康)家へ被行云々、
直ニ行了、但他行也、官女(御ナヘ)門内ニテ対顔了、
即愛洲薬二十服・快気散十服等、御局相渡之由申置了、
七月小
一日、己未、大夕立、
唐橋母御茶々へ罷向、キリムキ・酒有之、香薷散十服遣了、
次御姫三人見之、薬之事所望也、可遣了由申之、
二日、庚申、天晴、大夕立、
唐橋ア子姫(五才)、ヲト姫(二才)等童円二百粒ツヽ、
中姫へ快気散十服等遣了、御茶々へ書状遣了次也、
文禄元年三月、家康は朝鮮出兵のために上洛し、十七日に佐竹・伊達らを率いて九州名護屋へと向かった。御茶々は家康の上洛に付いて来ており、言経は四月に彼女を訪ねる。はじめ、息子の唐橋在通の「宿所」に行ったがおらず、言経は「亜相家」に向かう。彼女は不在で、言経は官女の御ナヘに御茶々への薬を託している。御茶々には「官女=侍女」がいて、「御局=部屋」を与えられており、それなりの厚遇で雇われているのが分かる。彼女は息子の唐橋家とも行き来があり、恐らく息子の家に泊まることもあったため、言経は先に唐橋家に行ったのだろう。
七月一日、言経は彼女に頼まれ、在通の三人の娘達、つまり御茶々の孫娘達を診断して、翌日、薬を与えている。今回の彼女の在京は長めで、九月にも下の条がある。
九月小
十六日、癸酉、晴陰、小雨、
唐橋母儀(御茶々)へ罷向了、民部大輔診脉了、
御茶々に頼まれて、言経は彼女の官女か同僚の民部大輔の診察をしている。ここからまた暫く彼女の名は見えなくなり、翌年文禄二年にこうある。
七月大
十五日、丁卯、天晴、夕立、晴晩、
唐橋母儀御茶々音信了、去月江戸へ下向也云々、
唐橋女中へ香薷散十服遣了、
彼女は文禄二年六月に江戸へ戻ったことを言経に手紙で伝えている。その手紙で頼まれたのか、言経は「唐橋女中=唐橋在通の妻」に香薷散をあげている。言経は特に返礼ももらわずに御茶々の頼みを聞いている。このときも唐橋家からの「お返し」はない。通常ならば、銀子、もしくは物品で薬の対価を言経は受け取るのに、御茶々の依頼では何も得ていないのだ。徳川家への斡旋が彼女なのでは、と思う一因である。
家康はまだ名護屋におり、九月になってから、言経と再会する。
この後、再び間が空き、次の御茶々の登場は文禄四年である。
文禄四年
二月大
廿七日、庚午、天晴、
唐橋母(御茶々)へ愛洲薬十五服遣了、先日於伏見約束也、
今日遣了處ニ、伏見へ被行也云々、
家康は文禄三年二月から上洛している。彼女が共に上洛してきたのかは分からないが、「先日於伏見約束也」とあるから、伏見にはこの文禄四年二月以前から滞在していていたようだ。また、薬を送っている。
慶長二年
正月小
廿六日、戊午、天晴、
江戸内府(家康)女房衆茶阿局ヨリ愛洲薬・快気散等所望、
十服ツヽ遣了、唐橋母局ヨリ書状有之、即遣了、
二月大
三日、甲子、晴陰、風、
江戸内府(家康)御内ヨリ唐橋母儀ヨリ、先日薬二包遣了、
御茶阿ヨリ杉原十帖・扇子五本等給了、
この条で御茶々が家康の側室「茶阿局」に仕えていることが分かる。茶阿局は松平忠輝の母として知られ、家康との間には二児をもうけている。御茶々は言経に手紙を出し、茶阿局が「愛洲薬・快気散等所望」していると伝える。言経は「即遣了」した。その返礼の紙と扇子が六日後には届いているため、茶阿局も御茶々もこのときは伏見にいたようだ。家康は文禄四年の秀次事件以後、江戸に帰れない状態が続いており、この年の十一月にようやく領国へと戻る。
御茶々は茶阿局とともに移動していると思われるので、彼女の所在について家康の動きは参考程度となる。
慶長七年
八月小
三日、壬辰、晴陰、霎、
唐橋母儀ヨリ愛洲薬所望之間、七服遣了、
慶長十二年
六月大
卅日、辛卯、天晴、
唐橋母儀ヨリ菅内侍殿(唐橋在通女)所労之間、
診脉之事承間、則罷向了、酒有之、煎薬二包遣了、
後刻桃實送給了、
慶長三年に秀吉が死去し、慶長五年(1600)に関ケ原の戦いがあった。その間、家康の動向は書かれ続けるものの、「唐橋母」の表記になった御茶々の名は、五年後の慶長七年まであらわれない。
慶長七年の八月、御茶々は言経から「愛洲薬」を「七服」貰っている。が、どこで何をしているのかの情報は全くない。書き方から京に居るのではと推測できるくらいだ。次に彼女が登場するのは、また五年後の慶長十二年である。この条が『言経卿記』で分かる彼女の最後の消息である。
六月三十日、「唐橋母=御茶々」は宮中に仕える「菅内侍=唐橋在通の女」が「所労=具合が悪い」から「診脉=診察」を言経に頼んでいる。菅内侍は在通の娘なので、御茶々の孫にある。
この菅内侍は慶長十(1605)年三月に掌侍として宮中に入った。「唐橋娘十六才、被参了、菅内侍ト号也云々、」と『言経卿記』にあり、先の文禄元(1593)年の条にあった「ア子姫(五才)、中姫(?才)、ヲト姫(二才)」から、年齢の不明であった「中姫」のことと思われる。
文禄元年と同じように、御茶々は孫娘のために言経に診断を頼み、言経も変わらず応じている。ただ、今回は「後刻桃實」とあり、御礼の品が言経に送られている。この後にも二回薬を貰い、自ら「音信=手紙」を言経に届けていることから、このとき「桃の実」を送ったのは菅内侍であろう。成長した孫娘は祖母を介さず、自分で言経と遣り取りをするまでになったのだ。
禁裏に仕える孫娘の「所労」が分かるのだから、このとき、御茶々は在京しているに違いない。天正十四年に四十代前後であった彼女は、慶長十二年には六十歳に手が届くくらいになっている筈だ。恐らく、彼女は茶阿局から扶持を貰って引退し、息子である唐橋在通の家で暮らしているのだろう。
『系図簒要』によれば、在通は子が多く、御茶々の孫は男四人、女四人の計八人もいる。孫娘たちの健康に気を使うおばあちゃんであったから、この大勢の孫達の面倒をみる余生だったろうか。息子の在通は五十二才まで、孫の在村は八十三才まで生きている。老後の不安は、そう覚えずに済んだろう。
二度の結婚に二度の離縁、朝日姫の乳母に、茶阿局に近侍と、彼女の人生は天正十四年から、ときの権力者と関わるものになった。秀吉の正室北政所や茶々に比べて、妹の朝日姫に焦点が当たることはほとんどない。彼女という「人質」だけでは家康は秀吉に臣従せず、家康の正室という立場も短かった。その朝日姫を御茶々が乳母としてどう支えたのか、知る術はない。ただ、彼女が無能であったのなら、徳川は彼女に「局」を与えてまで雇用はしなかったろうし、秀吉も彼女に「使い」を任せたりはしなかった筈だ。
御茶々は、離縁した後も息子の在通や孫娘の面倒をよくみていた。
朝日姫と茶阿局のもとでもその面倒見の良さは発揮されたに違いない。
また、彼女が山科言経と徳川家康を繋ぐきっかけとなったのなら、御茶々は山科、冷泉、四条の勅免にも貢献したことになる。現代でもそうであるが、中世、近世は社会における女性の働きはもっと見え辛い。が、幸いなことに御茶々は『言経卿記』に当時としては希有なほどに豊富な情報が残された。このまま埋もれさせておくにはもったいないと思い、今回、2つに分けてまとめてみた。
四条妻「御茶々」、朝日姫乳母「三河御局」、唐橋母。
安土桃山から江戸初期に確かに存在した一人の女性の生涯に、追加できる情報が得られましたら、記事を追加・更新します。
その1→http://ari-eru.sblo.jp/article/114817669.html?1426244361
天正十九年
三月小
六日、壬申、天晴、
江戸大納言(家康)殿ヘ罷向、夕食有之、
又唐橋(在通)之御茶々(唐母)ヘ書状・愛洲薬廿服遣了、
江戸ニ住居也、大納言ヘ奉公也、戌刻ニ帰了、
天正十九年正月、大坂の本願寺に対し、秀吉から京都への移転命令が下される。本願寺の世話になっている山科言経たちも必然的に引っ越さなければならなくなり、言経は洛中に戻る。二月、彼は大村由己を通して徳川家康と会い、三月八日に家康から「扶持」を貰えることとなる。無職無給状態を脱し徳川に雇ってもらえたのだ。その前の三月六日に言経は上記のように御茶々に手紙と薬を送っている。
このとき御茶々は「江戸ニ住居」して、「大納言=家康」に「奉公」しているのが、続く文章から分かる。
朝日姫の乳母から、御茶々は家康に仕える立場に「転職」したのだ。
朝日姫は前年の天正十八年に死去。夫の四条隆昌も同年の十一月に新しい妻を迎えており、御茶々には四条家に戻る選択肢はない。
名目だけとはいえ、彼女は家康の正室であったのだから、その乳母であった御茶々を家康が雇用するのは…自然なことなのだろうか?形だけとはいえ「乳母」であった御茶々のその後は、羽柴側の責任ではないのか。扶持を与えて、乳母子である朝日姫の菩提を弔わせるのが通例だと思うのだが、主を失った彼女を何故か徳川が雇用している。
中流公卿の出身で豊臣にも一時的にいた彼女の知識や能力は、秀吉への臣従後、上洛の回数や期間が増える徳川にとっては必要であったのか。
そして、言経は家康に本の書写という仕事を頼まれた翌日に、徳川に彼女への手紙と薬を託している。家康は同月の十一日には京を離れて江戸に向かった。御茶々からの言伝があって薬を託したのか、それとも、もしかして徳川への就職を斡旋してくれた御礼か。表向きは大村由己が言経を家康に紹介したことになっているが、言経の方から徳川家康に雇って下さいと希望した気配がある。そこに御茶々がどの程度関わっているかは分からない。が、江戸に戻る徳川勢に彼女への手紙と薬を託せるのだから、御茶々の存在はそう小さなものではないことが伺える。
次に彼女の動向が分かるのは、翌年の文禄元年である。
文禄元年
四月小
七日、丁酉、天晴、
唐橋母(御茶々)、唐橋宿所ニテ相尋処、亜相(家康)家へ被行云々、
直ニ行了、但他行也、官女(御ナヘ)門内ニテ対顔了、
即愛洲薬二十服・快気散十服等、御局相渡之由申置了、
七月小
一日、己未、大夕立、
唐橋母御茶々へ罷向、キリムキ・酒有之、香薷散十服遣了、
次御姫三人見之、薬之事所望也、可遣了由申之、
二日、庚申、天晴、大夕立、
唐橋ア子姫(五才)、ヲト姫(二才)等童円二百粒ツヽ、
中姫へ快気散十服等遣了、御茶々へ書状遣了次也、
文禄元年三月、家康は朝鮮出兵のために上洛し、十七日に佐竹・伊達らを率いて九州名護屋へと向かった。御茶々は家康の上洛に付いて来ており、言経は四月に彼女を訪ねる。はじめ、息子の唐橋在通の「宿所」に行ったがおらず、言経は「亜相家」に向かう。彼女は不在で、言経は官女の御ナヘに御茶々への薬を託している。御茶々には「官女=侍女」がいて、「御局=部屋」を与えられており、それなりの厚遇で雇われているのが分かる。彼女は息子の唐橋家とも行き来があり、恐らく息子の家に泊まることもあったため、言経は先に唐橋家に行ったのだろう。
七月一日、言経は彼女に頼まれ、在通の三人の娘達、つまり御茶々の孫娘達を診断して、翌日、薬を与えている。今回の彼女の在京は長めで、九月にも下の条がある。
九月小
十六日、癸酉、晴陰、小雨、
唐橋母儀(御茶々)へ罷向了、民部大輔診脉了、
御茶々に頼まれて、言経は彼女の官女か同僚の民部大輔の診察をしている。ここからまた暫く彼女の名は見えなくなり、翌年文禄二年にこうある。
七月大
十五日、丁卯、天晴、夕立、晴晩、
唐橋母儀御茶々音信了、去月江戸へ下向也云々、
唐橋女中へ香薷散十服遣了、
彼女は文禄二年六月に江戸へ戻ったことを言経に手紙で伝えている。その手紙で頼まれたのか、言経は「唐橋女中=唐橋在通の妻」に香薷散をあげている。言経は特に返礼ももらわずに御茶々の頼みを聞いている。このときも唐橋家からの「お返し」はない。通常ならば、銀子、もしくは物品で薬の対価を言経は受け取るのに、御茶々の依頼では何も得ていないのだ。徳川家への斡旋が彼女なのでは、と思う一因である。
家康はまだ名護屋におり、九月になってから、言経と再会する。
この後、再び間が空き、次の御茶々の登場は文禄四年である。
文禄四年
二月大
廿七日、庚午、天晴、
唐橋母(御茶々)へ愛洲薬十五服遣了、先日於伏見約束也、
今日遣了處ニ、伏見へ被行也云々、
家康は文禄三年二月から上洛している。彼女が共に上洛してきたのかは分からないが、「先日於伏見約束也」とあるから、伏見にはこの文禄四年二月以前から滞在していていたようだ。また、薬を送っている。
慶長二年
正月小
廿六日、戊午、天晴、
江戸内府(家康)女房衆茶阿局ヨリ愛洲薬・快気散等所望、
十服ツヽ遣了、唐橋母局ヨリ書状有之、即遣了、
二月大
三日、甲子、晴陰、風、
江戸内府(家康)御内ヨリ唐橋母儀ヨリ、先日薬二包遣了、
御茶阿ヨリ杉原十帖・扇子五本等給了、
この条で御茶々が家康の側室「茶阿局」に仕えていることが分かる。茶阿局は松平忠輝の母として知られ、家康との間には二児をもうけている。御茶々は言経に手紙を出し、茶阿局が「愛洲薬・快気散等所望」していると伝える。言経は「即遣了」した。その返礼の紙と扇子が六日後には届いているため、茶阿局も御茶々もこのときは伏見にいたようだ。家康は文禄四年の秀次事件以後、江戸に帰れない状態が続いており、この年の十一月にようやく領国へと戻る。
御茶々は茶阿局とともに移動していると思われるので、彼女の所在について家康の動きは参考程度となる。
慶長七年
八月小
三日、壬辰、晴陰、霎、
唐橋母儀ヨリ愛洲薬所望之間、七服遣了、
慶長十二年
六月大
卅日、辛卯、天晴、
唐橋母儀ヨリ菅内侍殿(唐橋在通女)所労之間、
診脉之事承間、則罷向了、酒有之、煎薬二包遣了、
後刻桃實送給了、
慶長三年に秀吉が死去し、慶長五年(1600)に関ケ原の戦いがあった。その間、家康の動向は書かれ続けるものの、「唐橋母」の表記になった御茶々の名は、五年後の慶長七年まであらわれない。
慶長七年の八月、御茶々は言経から「愛洲薬」を「七服」貰っている。が、どこで何をしているのかの情報は全くない。書き方から京に居るのではと推測できるくらいだ。次に彼女が登場するのは、また五年後の慶長十二年である。この条が『言経卿記』で分かる彼女の最後の消息である。
六月三十日、「唐橋母=御茶々」は宮中に仕える「菅内侍=唐橋在通の女」が「所労=具合が悪い」から「診脉=診察」を言経に頼んでいる。菅内侍は在通の娘なので、御茶々の孫にある。
この菅内侍は慶長十(1605)年三月に掌侍として宮中に入った。「唐橋娘十六才、被参了、菅内侍ト号也云々、」と『言経卿記』にあり、先の文禄元(1593)年の条にあった「ア子姫(五才)、中姫(?才)、ヲト姫(二才)」から、年齢の不明であった「中姫」のことと思われる。
文禄元年と同じように、御茶々は孫娘のために言経に診断を頼み、言経も変わらず応じている。ただ、今回は「後刻桃實」とあり、御礼の品が言経に送られている。この後にも二回薬を貰い、自ら「音信=手紙」を言経に届けていることから、このとき「桃の実」を送ったのは菅内侍であろう。成長した孫娘は祖母を介さず、自分で言経と遣り取りをするまでになったのだ。
禁裏に仕える孫娘の「所労」が分かるのだから、このとき、御茶々は在京しているに違いない。天正十四年に四十代前後であった彼女は、慶長十二年には六十歳に手が届くくらいになっている筈だ。恐らく、彼女は茶阿局から扶持を貰って引退し、息子である唐橋在通の家で暮らしているのだろう。
『系図簒要』によれば、在通は子が多く、御茶々の孫は男四人、女四人の計八人もいる。孫娘たちの健康に気を使うおばあちゃんであったから、この大勢の孫達の面倒をみる余生だったろうか。息子の在通は五十二才まで、孫の在村は八十三才まで生きている。老後の不安は、そう覚えずに済んだろう。
二度の結婚に二度の離縁、朝日姫の乳母に、茶阿局に近侍と、彼女の人生は天正十四年から、ときの権力者と関わるものになった。秀吉の正室北政所や茶々に比べて、妹の朝日姫に焦点が当たることはほとんどない。彼女という「人質」だけでは家康は秀吉に臣従せず、家康の正室という立場も短かった。その朝日姫を御茶々が乳母としてどう支えたのか、知る術はない。ただ、彼女が無能であったのなら、徳川は彼女に「局」を与えてまで雇用はしなかったろうし、秀吉も彼女に「使い」を任せたりはしなかった筈だ。
御茶々は、離縁した後も息子の在通や孫娘の面倒をよくみていた。
朝日姫と茶阿局のもとでもその面倒見の良さは発揮されたに違いない。
また、彼女が山科言経と徳川家康を繋ぐきっかけとなったのなら、御茶々は山科、冷泉、四条の勅免にも貢献したことになる。現代でもそうであるが、中世、近世は社会における女性の働きはもっと見え辛い。が、幸いなことに御茶々は『言経卿記』に当時としては希有なほどに豊富な情報が残された。このまま埋もれさせておくにはもったいないと思い、今回、2つに分けてまとめてみた。
四条妻「御茶々」、朝日姫乳母「三河御局」、唐橋母。
安土桃山から江戸初期に確かに存在した一人の女性の生涯に、追加できる情報が得られましたら、記事を追加・更新します。
その1→http://ari-eru.sblo.jp/article/114817669.html?1426244361
2015年03月08日
『言経卿記』に見る女性:朝日(旭)姫乳母御茶々1
山科言経の日記である『言経卿記』には一人の興味深い女性が登場する。
その女性の名は「御茶々(おちゃちゃ?)」。浅井長政とお市の娘で、秀吉に嫁いだ「茶々」と同じ名であるが、当時は「茶阿」「阿茶」「伊茶」など、「ちゃ」の付く女性名は混同しないようにするのが大変なほどありふれていた。大名の娘であっても「茶々」はごく平凡な名なのだ。そのため、同じ名の女性が別の人物であると立証するためには、その女性の周辺の情報(=父、夫、兄弟姉妹、子など)を集める必要がある。幸い、『言経卿記』に頻出する「御茶々」は言経が継続して情報提供をしてくれるため、呼び方や立場が変わってもどれが「御茶々」であるか、確かめることができる。
天正十年
四月小
一日、己丑、天晴、
四条妻(御茶々、冷泉氏)入夜産所見舞ニ被来了、
錫(イリコ、コフ)等被携之、則勧酒了、
初め、彼女は日記に「四条妻」として『言経卿記』に現れる。四条妻とは「四条隆昌の妻」の意味で、言経の妻の兄弟である隆昌の妻、つまり、言経にとっては義理の兄弟の妻である。言経自身と近しい血縁関係はない。この天正十年四月、御茶々は「入夜産所見舞=夜に言経の妻の死産見舞」に手土産を持って来ている。ここに「冷泉氏」とあるから、彼女は言経室の血縁であるのが分かる。そのため、後に四条隆昌と別れた後も彼女と山科言経との関係は切れずに続いていき、言経は『言経卿記』に彼女のことを書き続けていく。
天正十二年
十二月大
十八日、庚申、天晴、
四条女房衆唐橋(在通)母被来了、 明日一条(内基)殿関白拝賀有之、
然者唐橋被出、其談合有之、勧酒了、
この天正十二年十二月十八日の記事で、御茶々が「四条隆昌」と結婚する以前に、別の男性に嫁いで子を生していたのが、分かる。彼女は隆昌とは二度目の結婚だった。「四条女房衆唐橋母」の「四条女房衆」は「四条妻」と同じ意味であるため、御茶々のことである。続く「唐橋母」は、彼女が「唐橋在通」という人物の「母親」であることを示す。(『系図簒要』には唐橋在通の父は一色昭孝、母は長谷玄孝法眼女とある。この長谷玄孝法眼の「女(むすめ)」が御茶々のことであろう)
彼女は息子である唐橋在通のために、山科言経の所に来て、明日息子が関白である一条内基に「拝賀」するから、色々と教えてやって欲しいと頼む。子の在通が母の御茶々と一緒に来たのかどうかは分からない。しかし、彼女が先に来ていたのは確実で、「然者=だから」息子の在通は言経の所に来て、「談合=相談」をしている。唐橋在通は、これ以後も度々『言経卿記』に登場し、彼の娘たち、つまり、御茶々の孫の代まで言経との関係を維持している。
この記事で興味深いのは、彼女が四条隆昌と再婚したにも関わらず、先夫の子の面倒をみている点だ。
日本では高度成長期を迎えるまで、夫婦が離別した後、子はだいたい妻ではなく夫側に引き取られていた。(*夫が武家、妻or妾の実家が公家で子供が女の子の場合は、母方が女の子を引き取り、養育している例もある)
御茶々も子の在通を先夫の所に残して、隆昌と再婚している。しかし、離縁した後も「母と子の関係」は分断されず、在通は母の世話になっている。これは在通が幼いからではない。在通が成人し、孫ができた後も、御茶々は孫娘のために言経に薬を頼んでいる。また、この「離別後の母子関係の継続」は御茶々だけの特別な例でもない。言経の妻の妹「御春」も楠長譜(正虎)の息子(正辰)と別れた後、残して来た子供達ばかりではなく、姑や舅との接触を続けている。
この時期の離縁によってなくなるのは夫婦関係だけであり、婚家との関係は継続するようなのだ。両親の離縁後も接触を続ける母子の在り方は、今の日本より、寧ろ欧米の状況に近いのではないだろうか。
夫婦関係の解消はあっても、親子関係の解消がないのは、四条隆昌と別れた後の御茶々を言経が「唐橋母」と書くことからも分かる。
天正十四年になると、彼女の呼称は「四条妻or女中」から「御茶々」「三河御局」へと変わっていく。四条女中の肩書が消えるのは、彼女が隆昌から離れたからだ。
天正十三年六月に隆昌は言経らとともに正親町天皇に勅勘され、公卿としての地位を失った上に、収入、家もなくした。本願寺顕如の子息に嫁いでいた姉妹が彼らの生活を助けてくれたが、経済状態は苦しくなった。この経済的な事情からか、それとも単に仲が悪くなったからか、は分からないが、彼女の呼称から「四条女中or妻」が消える。彼女は隆昌の元を離れて、秀吉の妹朝日(旭)姫の「御乳=乳母」となったのだ。彼女が朝日姫の乳母となったと分かるのが次の条である。
天正十四年
十一月小
廿七日、戊午、天晴、
又御茶々(四妾、徳川妻、御乳)近々下國云々、
愛洲薬所望、一包遣了、
言経は御茶々の名に「四妾、徳川妻、御父」の注を付けている。「四妾」は「四条妻」とほぼ同義で、「徳川妻、御乳」は繋げて読み、「徳川妻=朝日姫」の「御乳=乳母」となる。言経は「近々下國=近く、京以外の地域に行く」彼女に、山科家特製の愛洲薬を頼まれて、一包みを渡している。
朝日姫の乳母となった御茶々の動向も興味深い。
四月小
二日、丁卯、下米、
殿下(秀吉)大坂御下向了、
七日、壬申、天晴、
四条女中御茶々、大坂ヘ先日下向了、暮々入来了、
十一日、丙子、晴陰、
御茶々御方薄暮ニ被来了、
十四日、戊寅、下米、
御茶々御方大坂ヘ被行了、
十九日、甲申、天晴、
御茶々御方ヨリ向ヨリ暮々入来了、
同十三年の四月、御茶々は何度も言経の家を訪れる。二日に秀吉が大坂に行き、七日にその大坂から御茶々が戻って来る。彼女は十四日にも大坂に行く。そして、何故か「薄暮」「入夜」「暮々」に言経の家にやって来る。この四月上旬には朝日姫の乳母になることが決まったのだろう。
廿八日、癸巳、
殿下(秀吉)イモト徳川家康ヘ嫁娶也云々、美麗驚目了、
同月廿八日に朝日姫は家康の所へ出立する。御茶々はこの「美麗驚目」な行列に同行し、遠江の浜松城へと向かったに違いない。(この行列は五月十四日に浜松に到着した。(『家忠日記』より))
朝日姫は四十代で家康に嫁いだ。乳母として雇われた御茶々は、子の在通が(『系図簒要』によれば)永禄八(1565)年生まれなので、天正十四(1586)年には三十代後半から四十代前半と思われる。朝日姫と同じ年くらいか、年下の可能性が高い。乳母でありながら、乳母子と同年輩、もしくは年下というのは有り得ないのだが、「関白」である秀吉の実妹に「乳人」がいないのでは体裁が整わないからだろう。形だけの「乳母」として御茶々は朝日姫に付き添った。
御茶々が朝日姫の乳母となった経緯は不明である。が、上に書いたように夫四条隆昌の姉妹が秀吉の右筆である楠長譜(正虎)の息子に嫁いでいる。この筋から「乳人」の話が来た可能性は高いだろう。
御茶々は同年の九月に京へと戻って来る。
九月小
廿七日、己未、天晴、
入夜茶々被来、殿下御妹御局(朝日姫)代ト之徳川家康嫁娶ニ付テ被行了、
殿下ヘ御使云々、入来了、被宿了、三十疋為宮笥送給了、
十月大
一日、壬戌、天晴、
茶々御方大政所(秀吉母)ヘ被行了、
七日、戊辰、天晴、
夜半ニ御茶々大坂ヨリ来了、
八日、己巳、天晴、
早朝ニ御茶々大坂ヘ被行了、則上洛了、
九月、御茶々は「殿下=秀吉」への使いとして戻り、言経の所に「三十疋」の「宮笥=土産」を渡して言経の家に泊まる。彼女は十月一日に秀吉の母大政所の所に行き、七日夜半に言経の所に来て、翌早朝にはまた大坂へ、そして京都へ上がっている。この慌ただしい動きは大政所が「人質として家康の所に行く」件と関係している。朝日姫が嫁いだ後も家康は上洛せず、秀吉への臣従を拒んでいた。家康を臣従させたい秀吉が、妹に続いて母親も人質として送り出したのはよく知られた話だが、御茶々はこの件に連絡役?として関わったようだ。彼女は嫁いだ朝日姫の様子を秀吉、次いで大政所に知らせる役目があったのだろう。女の様子を彼女から聞いてから、大政所は三河へと向かった。その出立は恐らく八日で、御茶々はそのために早朝から大坂に行き、京へも上った。そして、そのまま大政所とともに再び下向し、同月中に再度上洛する。
廿六日、丁亥、天晴、
三河國徳川左京大夫大坂ヘ下向了、殿下(秀吉)御妹聟也、
嫁娶已後始而上洛間下向云々、
晦日、辛卯、時雨、晩晴、
御茶々入来、入夜也、家康上洛ニ付而上洛了、
大政所とともに岡崎に行った御茶々は、今度はそこで京都へ向かう家康の行列に入り、また上洛するのだ。家康の上洛に付いて来た彼女は、十月三十日の夜に言経の家に来て泊まる。
十一月小
一日、壬辰、天晴、
晩景食ニ梅庵女中衆呼之、北向・御茶々等相伴了、
二日、癸巳、天晴、
御茶々上洛了、愛洲薬所望間、一包遣了、
翌日、御茶々は「梅庵=大村由己」の妻及び言経の室と夕食を共にしているので、もう一泊したのだろう。二日に彼女は洛中へ向かい、次に来るのは家康が浜松へ帰った後である。
廿七日、戊午、天晴、
又御茶々(四妾、徳川妻、御乳)近々下國云々、
愛洲薬所望、一包遣了、
家康は同月の十一日には三河に着いている。御茶々がそれに同行していないのは、前に引用したこの条から分かる。言経に愛洲薬を一包み貰った彼女はこの十一月か十二月に「乳母」として朝日姫の元に戻ったのだろう。彼女の消息は暫く『言経卿記』から消える。
彼女が再び『言経卿記』にあらわれるのは、翌年の天正十五年である。
八月小
十八日、乙亥、天晴、
三河御局御茶々、入夜被来了、此間在大坂云々、関東紙一束賜了、
廿五日、壬午、天晴、百四十五、
三川御局来入了、被宿了、
八月十八日に「此間在大坂」とある。暫く大坂に滞在してから、言経の家に来たのだ。同年の七月下旬に家康が上洛をしているので、その行列と一緒に御茶々は来たのだろう。この二つの条のみであるが、言経は彼女のことを「三河御局」と記している。この呼称は朝日姫の乳人としてのものだろう。「御局」とあったため、家康の手がついたのかと思ったが、彼女はこの時点で四十歳前後、当時としてはそろそろ「年寄り」扱いされる年齢で妊娠がもはや難しい上に、言経の所に気楽に?出入りしている。(夕暮れや夜間に出入りしているのが気になるが…)また、この呼称はこれきりで以後、二度と使われないため、お手付きの可能性はかなり低い。
天正十六年に朝日姫は大政所の病気を理由に上洛し、家康のもとには戻らず、天正十八年に死去している。
恐らく、天正十六年、もしくは天正十八年まで御茶々は「乳母」の勤めを続けていたと思われる。
以下続
その2→http://ari-eru.sblo.jp/article/115073604.html?1426244301
2014年11月30日
『言経卿記』に見る羽柴秀吉その3
36、天正十六(1588)〜十七(1589)年
・言経(46〜47歳) *実年齢
○天正十六年の主な出来事
四月 後陽成天皇が聚楽第へ行幸
七月 刀狩令を発布
天正十五年に秀吉家中とのツテを頼りに、勅許を得ようとしたが叶わなかった。山科言経は一時的に「もうダメだ」と思ったらしく、天正十六年には出家も考えている。父親の言継も一度、唐突に寺に駆け込んで仕事も地位も家族も捨てようとしたことがあった。経済的な苦しさが背景にあるのだろうが、言経の場合は自分の切実な思いを伝える手段として「出家」の覚悟を大村由己と細川幽斎に伝えたようだ。
二月廿一日、乙亥、晴陰、小雨、
梅庵ヨリ源氏詞借給了、内々一覧望事申了、又明日上洛之由有之間、
一書遣了、如此、
内々申入候、各進上之儀、此度之 行幸ニ相漏候ヘハ、
弥以断絶之事候、実ニ事難成候ハゝ、愚息御赦免候様ニと所希候、
老拙事者出家可仕覚悟候、右之通、幽斎ヘ急度御馳走候様ニ、
御入魂奉頼候、猶期拝顔之時候也、
廿一日 小韵
梅庵凡下
二月廿一日、言経は明日上洛予定である大村由己に書状を書く。「小韵」とあるのは、言経の連歌用の号である。「此度之 行幸」は四月にある後陽成天皇の聚楽第への行幸を指し、それに参加できないのなら、山科家はいよいよ絶えてしまう。せめて、息子だけでも「御赦免=勅許」されたい、自分はもう出家する覚悟だ、と細川幽斎に伝えて欲しいと言経は由己に頼んでいる。
山科言経の望みはあくまでも公卿に戻ることであり、秀吉に仕えることではなかった。しかし、言経の願いは叶わない。このときの出家の覚悟も父親同様に思いとどまったらしい。それとも、由己と幽斎にアピールするためだけに出家を匂わせたのか。言経は行幸への参加はできなかったが、その手伝いには関わることができた。
四月小
二日、乙卯、天晴、
羽柴中納言(秀次)ヨリ、一木三大郎(庭田末子)ヨリ一札有之、
来十四日可有 行幸、然者令上洛衣文可攪之由有之間、
則同心了、返報遣了、
四月二日、言経は秀次の家臣一木三大郎(一木大郎?)から書状を受け取り、十四日の行幸の際に上洛して「衣文」のことを世話するよう依頼される。言経は直ぐに承知して返事を出し、十日に息子を伴って上洛する。
十三日、丙寅、天晴、
唐橋(在通)被来之間対顔了、後刻被来了、
則(ヌキ)衣文攪之、双瓶被持了、
梅庵ヨリ使者有之間罷向、衣文事共被申了、
木下侍従(勝俊)(大蔵殿)ヨリ衣文之事申間同心、
暮々乗物来之間、則罷向了、食有之、梅庵ヨリ被申之間如此、
上洛した言経の所に御茶々の息子唐橋在通が訪ねて来る。装束について質問があったらしく、後刻に酒を持って再び来ている。大村由己、木下勝俊らからも「衣文之事」で呼び出されている。
十四日、丁卯、天晴、
聚落亭ヘ行幸有之、先殿下(秀吉)御迎ニ被参了、前駈、次随身、
次雑色、次牛引替二疋、次殿下車、次烏帽子キ等也、後刻前ヘ
准宮(新上東門院)以下女中、次伏見殿、次前官衆也、
後刻六位、次四五位雲客、次々将、次両大将、次御輿(後陽成天皇)、
次公卿、伶人衆奏楽、次殿下車等也、貴賤蟻集、言語美麗驚耳目者也、
追而委可記之、
十四日、後陽成天皇が聚楽第に行幸する。言経はその行列について日記に記す。装束のことに関われただけでも良かったのだろうか。以後、言経の日記に「身上之事」はいっさい書かれない。冷泉為満を通して家康の力により勅許されたと知るまで、彼は
「勅勘」について何も記さないのだ。秀吉家中に渡したような嘆願を徳川家康や徳川家中に出した形跡はない。家康とは自分で「入魂」と記す間柄であったから、直に頼んでいたのかもしれないが、一度も書面に認めていないのは何故だろう。
十七日、庚午、晴陰、
羽柴中納言(秀次)殿ヘ可来之由一木大郎ヨリ申来之間、
早朝ニ罷向着之、罷帰了、衣冠也、又晩景ニ又罷向、
一宿了、門ヤクラニ住居了、
十八日、辛未、天晴、午刻下米、
早朝ニ羽柴中納言殿束帯衣文攪之、帰了、
廿日、癸酉、下米、
梅庵ヨリ再三使有之間、則罷向了、今度
行幸之儀ニ付而記六被書之、談合共有之、
聚楽第行幸の後も、言経の所には秀次の装束に関する依頼が続く。十七日、早朝に秀次の所に行き、装束を着付けた言経は晩に再び行く。一晩、泊まっているが、宿泊場所が「門ヤクラ」である。他に空いている場所がなかったのだろうか。翌日早朝に再び、装束のことをして、帰っている。
廿日には、大村由己から再三使いが来ている。この「記六」は秀吉が由己に書かせている『天正記』の六巻目にあたる「聚落行幸記」のことだろう。後で言経はこの『天正記』の「清書」を担当するようになる。
廿五日、戊寅、天晴、
殿下(秀吉)大坂ヘ御下向也云々、
廿六日、己卯、天晴、陰、八時分雨、入夜大風雨、
楠(長脱)左衛門尉ニテ朝食有之、
次東寺内伽藍共並庭共見物ニ北向被行、楠長左衛門尉妻同道、
法厳院之内上の・出雲(長左衛門尉親類也云々)等案内者也、
次食有之、次発足、長左衛門尉被送、則馬二疋、乗物等被申付了、
下鳥羽マテ也、則雨降之間、苫フキテ舟ニノル、風雨之間、
サタノ宮邊ニテ舟カヽリ了、夜明テ舟ヲ出了、
廿五日に秀吉が大坂へと帰る。言経も廿六日に楠長譜の接待を受けてから、京を離れ、風雨の中、堺へと戻った。
六月小
十五日、乙(丁)酉、天晴、
殿下(秀吉)大政所此中御所労云々、存命不定之由有之間、
早暁ニ新門跡・興門、未刻ニ門跡・北御方・御兒等御上洛了、
十六日、戊戌、天晴、
大政所少験気之間、興門早朝ニ御下向也云々、
六月十五日、秀吉の母大政所の具合が悪く、「存命不定」となったため、本願寺の顕如らが上洛している。十六日には良くなったらしく、興正寺顕尊が帰って来る。この年に、家康の所から旭姫が戻って来る口実にもなった件である。
ーーー
○天正十七年の主な出来事
二〜三月 聚楽第落首事件
五月 鶴松、誕生
天正十七年は聚楽第落首事件があるため、本願寺の世話になっている山科言経達は再び秀吉勢力の「恐怖」にさらされる。幸い、言経の家族や親族に害は及ばなかったが、弟薄諸光のことといい、所領のことといい、何故か言経は秀吉勢力の被害者になりやすい。
天正十七年
二月小
廿九日、丁未、天晴、
西御方(冷泉為益女、顕尊室)ヘ罷向了、武士牢人衆之儀付而、
殿下(秀吉)ヨリ門跡(本願寺顕如)ヘ被仰事有云々、
種々雑説不斜、恐怖了、
二月廿九日、言経は西御方の所ヘ行く。この西御方は、言経の妻の姉妹で、本願寺顕如の息子興正寺顕尊に嫁いだ女性である。彼女は後陽成天皇の父誠仁親王との間にも一子をもうけている。言経は彼女から「武士牢人衆之儀」について、秀吉から本願寺顕如に「被仰事有」と聞く。巷には「種々雑説=様々な噂」「不斜=ひとかたならない」があり、本願寺に庇護してもらっている言経は、このときの状況を「恐怖」と記している。滅多に己の感情を記さない言経が「恐怖」と書くのは珍しい。余程、恐かったのだろう。
この廿九日以降の本願寺周囲の緊迫した情勢は、聚楽第の落書が発端である。聚楽第の白壁に秀吉への落書が書かれ、その件に怒った秀吉が警備の者達を処刑した。本願寺に飛び火したのは、本願寺が匿っていた「牢人衆」のためだ。
三月大
一日、戊申、天霽、
牢人衆之儀ニ付而、種々雑説不斜、従う 殿下益田右衣文尉(長盛)・
石田治部少輔(三成)等御使也、(牢人衆)尾藤次郎右衛門尉入道道休、
門跡ヨリ生害、則首被遣了、
二日、己酉、天晴、
牢人衆武衛家(前出ケンユウ)・道休家同町相破放火了、大方相濟了、
門跡御一門之内、願得寺・同(武衛兄弟)女房衆等、
其外道休町人等一昨日ヨリ被免(召カ)籠了、生死不決也、雑説未休了、
三月一日、本願寺にいる牢人衆のことについて、引き続き「種々雑説不斜」と記されている。本願寺の顕如は秀吉の使いである増田長盛と石田三成に牢人の尾藤道休を「生害=殺害」してその首を引き渡す。
ここで殺害された「牢人」については、落書の犯人とも聚楽第の警備の者ともされている。『言経卿記』にはあくまでも「牢人=勤め先のない武士」と書いてあるだけで、落書事件との関わりには全く触れていない。
『多聞院日記』には同月の十八日に「大坂ノ天満本願寺ヲ憑ミ関白殿ノ勘當人被入置事以外御腹立、種々及申事、地下ヲ探ニテ〜」とある。「関白殿ノ勘當人」が牢人衆尾藤道休のことだろう。聚楽第の番衆は大名家の職務であるから、番衆が秀吉の「勘当=主従関係を断たれた」人とはいえまい。出典を確認していないが、本願寺には九州征伐で失態を犯して、秀吉に改易&追放された尾藤知宣も匿われており、一時捕縛されたらしい。尾藤道休は名前からして、この尾藤知宣の親族ではないだろうか?この尾藤関係者なら「関白殿ノ勘當人」に該当する。
ただ、そうなると、問題なのが石田三成である。尾藤知宣は石田三成の室の叔父。尾藤道休が尾藤知宣の一族なら、石田三成は室の親族の首を引き渡されたことになる。「勘當人」である尾藤道休なら落書事件の犯人になる動機もあり、後に小田原の戦の後に秀吉に許しを乞いに現れた知宣が殺された件にも繋がる。
室の親族が犯人なら、石田三成の立場に影響は出なかったのだろうか?
この落書に関しての秀吉の怒りは大きく、二日には道休の家があった町に火が放たれた上に町人達が召し捕られている。武衛家も同じく本願寺にいた牢人で、本願寺顕如の「御一門=親族」の家来であった彼とその兄弟、女房、それに願得寺の門主も連れて行かれて、生死不明になった。
八日、乙卯、天晴、
寺内今度雑説付而、願得寺夜前自害、去一日生害道休、
尾藤内ー同日生害等死骸、道休妻子、其外町人男女、
以上六十六人京都ヘ被上了、明日都相渡、東寺南ニ八付ニ被懸云々、
八日、連れて行かれた町人らのその後が分かる。彼らは京都の東寺南において、明日「八付=磔」となるらしいと言経は記す。願得寺の門主はこの前夜自害している。道休の妻子も磔にされた。
『多聞院日記』にも「六十三人召取也、東寺而ニハタ物ニ被上了、男女幵女童子クシニ出タレハ運次第也、サテゝゝ不便事也、一向無罪仁共也、アサマシゝゝ」とある。『言経卿記』とは人数が多少違うが、大きな差はないので六十人以上が連れて行かれたことに間違いはないだろう。東寺で場所も一致し、「ハタ物=磔」も同じである。「クシニ出タレハ運次第」との部分が『言経卿記』にはない。連れて行く、つまり、磔にする町人は男女子供に関係なく「クジ」で決めたようだ。
『多聞院日記』の筆者は、秀吉のこの処断を「アサマシ」と記す。
四日、辛亥、天晴、
今度成敗人之預物ニ付而、悉一筆共門跡之家中ヨリ町人借家衆マテ書之之間、
予・冷へも書之可然之由有之間、則相調了、如此、
今度御成敗人之内より預ヶ物之事、且而無之候、
此由御地奉行ヘ御傅達奉頼候、恐々謹言、
三月四日 為満判
周親判
下間美作(頼亮)殿
如此相調興門ヘ進了、奉行衆者、下間侍従(頼純)・同宮内卿(頼藝)等也、
殿下(秀吉)ヨリ今度奉行ハ益田右衛門尉(長盛)・石田治部少輔(三成)等也、
門跡御別儀ナキ之由誓紙有之、并諸侍・町人・家主等同前ニ血ヲ出シ起請書之云々、
重而文言可記之、此分ニテ大略相濟了、
四日、本願寺顕如の家中、町人、借家衆から一筆が集められる。山科言経と冷泉為満も書かされて、提出している。本願寺の庇護下にある者達は血判を押した起請文で済んだようだが、道休とその家族、同じ町内の者達はそうはいかなかったのだ。
十九日、丙寅、天晴、
寺内此間中地検有之、爰元今日也、明日者冷近所町等也云々、
増田右衛門尉・石田治部少輔等下代、又下間刑部卿法印・
同少進法印等下代等也、
十九日には本願寺寺内町の検地が行われる。言経の住居あたりは「今日也」で、明日は為満の「近所」らしいとある。増田長盛と石田三成の「下代=下役人」と本願寺の坊官下間らの下代が担当している。秀吉は落書事件を機会に本願寺への圧力をより強めたようだが、それが目的で多数の町人を殺害したのだろうか。いずれにしても、この当時の本願寺に信長と対抗したときの力はない。
五月大
廿七日、癸酉、天晴、
殿下(秀吉)淀ノ御女房衆ニ若公(鶴松)御誕生也云々、珎重ゝゝ、
九月小
十三日、戊午、天晴、小雨、
梅庵ヨリ朝食可来之由有之、則罷向了、
天正記之内西国征伐之巻清書之儀被申之間同心了、
本取帰了、
十四日、己未、天晴、
梅庵ヨリ再三使有之間、晩日罷向了、
天正記之内今度若公(鶴松)御誕生之記談合有之、一盞有之、
入夜帰宅了、
五月廿七日に鶴松誕生の記事がある。九月十四日には、大村由己からの使いに呼び出され、言経はその鶴松誕生を「天正記」に書くことについて相談された。大村由己は秀吉の一代記である『天正記』の執筆をしている。十三日の条にあるように、言経はその『天正記』の「清書」を受け合っているのだ。由己には色々と世話になったのもあろうが、要は清書のバイトだ。先にあるように言経は聚楽第への行幸からこの件に関わっている。
山科言経は秀吉に仕えなかったが、大村由己から「清書」や「衣文」のことなどの仕事を融通してもらっていた。聚楽第行幸などの行事に関しては、公卿である言経の知識が必要でもあったからだろう。天正十八年には特に大きな事件もなく、秀吉・秀次の拠点が大坂から京都・伏見の方へ動いてしまうため、言経は由己との交流が続くだけで、秀吉との関わりはほとんどなくなる。
信長に続いて秀吉と山科言経の関わりを見て来たが、最初に記したように、秀吉時代の言経は概して「不遇」である。信長のときにはなかった諸問題が降り掛かり、そのせいで弟も所領も公卿としての地位も失う。これは山科言経だけのことではなく、聚楽第落書事件の「無罪仁」の町人たちのように秀吉政権下では同じ憂き目にあった者が多数いた。
この後、徳川家康に仕えるという選択をしなければ、彼の日記も残らなかったかもしれない。
言経は秀吉のときに失ったものを、家康のときに取り戻す。
天正19年から家康に仕えて、その働きを認められたからだ。
山科言経の日記からは、「禍福は糾える縄の如し」を体現しているかのような人生が読み取れる。
家康との関わりが始める天正19年以降は、もっと分量が多いので、以下から分けて載せてある。
http://ari-eru.sblo.jp/article/102479858.html?1570342870
家康と直に接した貴族は多数いるが、話し相手として長く付き合ったのは言経と冷泉為満くらいである。
彼らと家康の関わりを信長・秀吉と比較することで、三英傑の違いも見えてくるかもしれない。
ただ、分量がどうしても多いため、家康の個性がうかがえる部分を以下に抜粋した。
http://ari-eru.sblo.jp/article/115887367.html?1570343288
お暇でしたら、一読してみてください。
・言経(46〜47歳) *実年齢
○天正十六年の主な出来事
四月 後陽成天皇が聚楽第へ行幸
七月 刀狩令を発布
天正十五年に秀吉家中とのツテを頼りに、勅許を得ようとしたが叶わなかった。山科言経は一時的に「もうダメだ」と思ったらしく、天正十六年には出家も考えている。父親の言継も一度、唐突に寺に駆け込んで仕事も地位も家族も捨てようとしたことがあった。経済的な苦しさが背景にあるのだろうが、言経の場合は自分の切実な思いを伝える手段として「出家」の覚悟を大村由己と細川幽斎に伝えたようだ。
二月廿一日、乙亥、晴陰、小雨、
梅庵ヨリ源氏詞借給了、内々一覧望事申了、又明日上洛之由有之間、
一書遣了、如此、
内々申入候、各進上之儀、此度之 行幸ニ相漏候ヘハ、
弥以断絶之事候、実ニ事難成候ハゝ、愚息御赦免候様ニと所希候、
老拙事者出家可仕覚悟候、右之通、幽斎ヘ急度御馳走候様ニ、
御入魂奉頼候、猶期拝顔之時候也、
廿一日 小韵
梅庵凡下
二月廿一日、言経は明日上洛予定である大村由己に書状を書く。「小韵」とあるのは、言経の連歌用の号である。「此度之 行幸」は四月にある後陽成天皇の聚楽第への行幸を指し、それに参加できないのなら、山科家はいよいよ絶えてしまう。せめて、息子だけでも「御赦免=勅許」されたい、自分はもう出家する覚悟だ、と細川幽斎に伝えて欲しいと言経は由己に頼んでいる。
山科言経の望みはあくまでも公卿に戻ることであり、秀吉に仕えることではなかった。しかし、言経の願いは叶わない。このときの出家の覚悟も父親同様に思いとどまったらしい。それとも、由己と幽斎にアピールするためだけに出家を匂わせたのか。言経は行幸への参加はできなかったが、その手伝いには関わることができた。
四月小
二日、乙卯、天晴、
羽柴中納言(秀次)ヨリ、一木三大郎(庭田末子)ヨリ一札有之、
来十四日可有 行幸、然者令上洛衣文可攪之由有之間、
則同心了、返報遣了、
四月二日、言経は秀次の家臣一木三大郎(一木大郎?)から書状を受け取り、十四日の行幸の際に上洛して「衣文」のことを世話するよう依頼される。言経は直ぐに承知して返事を出し、十日に息子を伴って上洛する。
十三日、丙寅、天晴、
唐橋(在通)被来之間対顔了、後刻被来了、
則(ヌキ)衣文攪之、双瓶被持了、
梅庵ヨリ使者有之間罷向、衣文事共被申了、
木下侍従(勝俊)(大蔵殿)ヨリ衣文之事申間同心、
暮々乗物来之間、則罷向了、食有之、梅庵ヨリ被申之間如此、
上洛した言経の所に御茶々の息子唐橋在通が訪ねて来る。装束について質問があったらしく、後刻に酒を持って再び来ている。大村由己、木下勝俊らからも「衣文之事」で呼び出されている。
十四日、丁卯、天晴、
聚落亭ヘ行幸有之、先殿下(秀吉)御迎ニ被参了、前駈、次随身、
次雑色、次牛引替二疋、次殿下車、次烏帽子キ等也、後刻前ヘ
准宮(新上東門院)以下女中、次伏見殿、次前官衆也、
後刻六位、次四五位雲客、次々将、次両大将、次御輿(後陽成天皇)、
次公卿、伶人衆奏楽、次殿下車等也、貴賤蟻集、言語美麗驚耳目者也、
追而委可記之、
十四日、後陽成天皇が聚楽第に行幸する。言経はその行列について日記に記す。装束のことに関われただけでも良かったのだろうか。以後、言経の日記に「身上之事」はいっさい書かれない。冷泉為満を通して家康の力により勅許されたと知るまで、彼は
「勅勘」について何も記さないのだ。秀吉家中に渡したような嘆願を徳川家康や徳川家中に出した形跡はない。家康とは自分で「入魂」と記す間柄であったから、直に頼んでいたのかもしれないが、一度も書面に認めていないのは何故だろう。
十七日、庚午、晴陰、
羽柴中納言(秀次)殿ヘ可来之由一木大郎ヨリ申来之間、
早朝ニ罷向着之、罷帰了、衣冠也、又晩景ニ又罷向、
一宿了、門ヤクラニ住居了、
十八日、辛未、天晴、午刻下米、
早朝ニ羽柴中納言殿束帯衣文攪之、帰了、
廿日、癸酉、下米、
梅庵ヨリ再三使有之間、則罷向了、今度
行幸之儀ニ付而記六被書之、談合共有之、
聚楽第行幸の後も、言経の所には秀次の装束に関する依頼が続く。十七日、早朝に秀次の所に行き、装束を着付けた言経は晩に再び行く。一晩、泊まっているが、宿泊場所が「門ヤクラ」である。他に空いている場所がなかったのだろうか。翌日早朝に再び、装束のことをして、帰っている。
廿日には、大村由己から再三使いが来ている。この「記六」は秀吉が由己に書かせている『天正記』の六巻目にあたる「聚落行幸記」のことだろう。後で言経はこの『天正記』の「清書」を担当するようになる。
廿五日、戊寅、天晴、
殿下(秀吉)大坂ヘ御下向也云々、
廿六日、己卯、天晴、陰、八時分雨、入夜大風雨、
楠(長脱)左衛門尉ニテ朝食有之、
次東寺内伽藍共並庭共見物ニ北向被行、楠長左衛門尉妻同道、
法厳院之内上の・出雲(長左衛門尉親類也云々)等案内者也、
次食有之、次発足、長左衛門尉被送、則馬二疋、乗物等被申付了、
下鳥羽マテ也、則雨降之間、苫フキテ舟ニノル、風雨之間、
サタノ宮邊ニテ舟カヽリ了、夜明テ舟ヲ出了、
廿五日に秀吉が大坂へと帰る。言経も廿六日に楠長譜の接待を受けてから、京を離れ、風雨の中、堺へと戻った。
六月小
十五日、乙(丁)酉、天晴、
殿下(秀吉)大政所此中御所労云々、存命不定之由有之間、
早暁ニ新門跡・興門、未刻ニ門跡・北御方・御兒等御上洛了、
十六日、戊戌、天晴、
大政所少験気之間、興門早朝ニ御下向也云々、
六月十五日、秀吉の母大政所の具合が悪く、「存命不定」となったため、本願寺の顕如らが上洛している。十六日には良くなったらしく、興正寺顕尊が帰って来る。この年に、家康の所から旭姫が戻って来る口実にもなった件である。
ーーー
○天正十七年の主な出来事
二〜三月 聚楽第落首事件
五月 鶴松、誕生
天正十七年は聚楽第落首事件があるため、本願寺の世話になっている山科言経達は再び秀吉勢力の「恐怖」にさらされる。幸い、言経の家族や親族に害は及ばなかったが、弟薄諸光のことといい、所領のことといい、何故か言経は秀吉勢力の被害者になりやすい。
天正十七年
二月小
廿九日、丁未、天晴、
西御方(冷泉為益女、顕尊室)ヘ罷向了、武士牢人衆之儀付而、
殿下(秀吉)ヨリ門跡(本願寺顕如)ヘ被仰事有云々、
種々雑説不斜、恐怖了、
二月廿九日、言経は西御方の所ヘ行く。この西御方は、言経の妻の姉妹で、本願寺顕如の息子興正寺顕尊に嫁いだ女性である。彼女は後陽成天皇の父誠仁親王との間にも一子をもうけている。言経は彼女から「武士牢人衆之儀」について、秀吉から本願寺顕如に「被仰事有」と聞く。巷には「種々雑説=様々な噂」「不斜=ひとかたならない」があり、本願寺に庇護してもらっている言経は、このときの状況を「恐怖」と記している。滅多に己の感情を記さない言経が「恐怖」と書くのは珍しい。余程、恐かったのだろう。
この廿九日以降の本願寺周囲の緊迫した情勢は、聚楽第の落書が発端である。聚楽第の白壁に秀吉への落書が書かれ、その件に怒った秀吉が警備の者達を処刑した。本願寺に飛び火したのは、本願寺が匿っていた「牢人衆」のためだ。
三月大
一日、戊申、天霽、
牢人衆之儀ニ付而、種々雑説不斜、従う 殿下益田右衣文尉(長盛)・
石田治部少輔(三成)等御使也、(牢人衆)尾藤次郎右衛門尉入道道休、
門跡ヨリ生害、則首被遣了、
二日、己酉、天晴、
牢人衆武衛家(前出ケンユウ)・道休家同町相破放火了、大方相濟了、
門跡御一門之内、願得寺・同(武衛兄弟)女房衆等、
其外道休町人等一昨日ヨリ被免(召カ)籠了、生死不決也、雑説未休了、
三月一日、本願寺にいる牢人衆のことについて、引き続き「種々雑説不斜」と記されている。本願寺の顕如は秀吉の使いである増田長盛と石田三成に牢人の尾藤道休を「生害=殺害」してその首を引き渡す。
ここで殺害された「牢人」については、落書の犯人とも聚楽第の警備の者ともされている。『言経卿記』にはあくまでも「牢人=勤め先のない武士」と書いてあるだけで、落書事件との関わりには全く触れていない。
『多聞院日記』には同月の十八日に「大坂ノ天満本願寺ヲ憑ミ関白殿ノ勘當人被入置事以外御腹立、種々及申事、地下ヲ探ニテ〜」とある。「関白殿ノ勘當人」が牢人衆尾藤道休のことだろう。聚楽第の番衆は大名家の職務であるから、番衆が秀吉の「勘当=主従関係を断たれた」人とはいえまい。出典を確認していないが、本願寺には九州征伐で失態を犯して、秀吉に改易&追放された尾藤知宣も匿われており、一時捕縛されたらしい。尾藤道休は名前からして、この尾藤知宣の親族ではないだろうか?この尾藤関係者なら「関白殿ノ勘當人」に該当する。
ただ、そうなると、問題なのが石田三成である。尾藤知宣は石田三成の室の叔父。尾藤道休が尾藤知宣の一族なら、石田三成は室の親族の首を引き渡されたことになる。「勘當人」である尾藤道休なら落書事件の犯人になる動機もあり、後に小田原の戦の後に秀吉に許しを乞いに現れた知宣が殺された件にも繋がる。
室の親族が犯人なら、石田三成の立場に影響は出なかったのだろうか?
この落書に関しての秀吉の怒りは大きく、二日には道休の家があった町に火が放たれた上に町人達が召し捕られている。武衛家も同じく本願寺にいた牢人で、本願寺顕如の「御一門=親族」の家来であった彼とその兄弟、女房、それに願得寺の門主も連れて行かれて、生死不明になった。
八日、乙卯、天晴、
寺内今度雑説付而、願得寺夜前自害、去一日生害道休、
尾藤内ー同日生害等死骸、道休妻子、其外町人男女、
以上六十六人京都ヘ被上了、明日都相渡、東寺南ニ八付ニ被懸云々、
八日、連れて行かれた町人らのその後が分かる。彼らは京都の東寺南において、明日「八付=磔」となるらしいと言経は記す。願得寺の門主はこの前夜自害している。道休の妻子も磔にされた。
『多聞院日記』にも「六十三人召取也、東寺而ニハタ物ニ被上了、男女幵女童子クシニ出タレハ運次第也、サテゝゝ不便事也、一向無罪仁共也、アサマシゝゝ」とある。『言経卿記』とは人数が多少違うが、大きな差はないので六十人以上が連れて行かれたことに間違いはないだろう。東寺で場所も一致し、「ハタ物=磔」も同じである。「クシニ出タレハ運次第」との部分が『言経卿記』にはない。連れて行く、つまり、磔にする町人は男女子供に関係なく「クジ」で決めたようだ。
『多聞院日記』の筆者は、秀吉のこの処断を「アサマシ」と記す。
四日、辛亥、天晴、
今度成敗人之預物ニ付而、悉一筆共門跡之家中ヨリ町人借家衆マテ書之之間、
予・冷へも書之可然之由有之間、則相調了、如此、
今度御成敗人之内より預ヶ物之事、且而無之候、
此由御地奉行ヘ御傅達奉頼候、恐々謹言、
三月四日 為満判
周親判
下間美作(頼亮)殿
如此相調興門ヘ進了、奉行衆者、下間侍従(頼純)・同宮内卿(頼藝)等也、
殿下(秀吉)ヨリ今度奉行ハ益田右衛門尉(長盛)・石田治部少輔(三成)等也、
門跡御別儀ナキ之由誓紙有之、并諸侍・町人・家主等同前ニ血ヲ出シ起請書之云々、
重而文言可記之、此分ニテ大略相濟了、
四日、本願寺顕如の家中、町人、借家衆から一筆が集められる。山科言経と冷泉為満も書かされて、提出している。本願寺の庇護下にある者達は血判を押した起請文で済んだようだが、道休とその家族、同じ町内の者達はそうはいかなかったのだ。
十九日、丙寅、天晴、
寺内此間中地検有之、爰元今日也、明日者冷近所町等也云々、
増田右衛門尉・石田治部少輔等下代、又下間刑部卿法印・
同少進法印等下代等也、
十九日には本願寺寺内町の検地が行われる。言経の住居あたりは「今日也」で、明日は為満の「近所」らしいとある。増田長盛と石田三成の「下代=下役人」と本願寺の坊官下間らの下代が担当している。秀吉は落書事件を機会に本願寺への圧力をより強めたようだが、それが目的で多数の町人を殺害したのだろうか。いずれにしても、この当時の本願寺に信長と対抗したときの力はない。
五月大
廿七日、癸酉、天晴、
殿下(秀吉)淀ノ御女房衆ニ若公(鶴松)御誕生也云々、珎重ゝゝ、
九月小
十三日、戊午、天晴、小雨、
梅庵ヨリ朝食可来之由有之、則罷向了、
天正記之内西国征伐之巻清書之儀被申之間同心了、
本取帰了、
十四日、己未、天晴、
梅庵ヨリ再三使有之間、晩日罷向了、
天正記之内今度若公(鶴松)御誕生之記談合有之、一盞有之、
入夜帰宅了、
五月廿七日に鶴松誕生の記事がある。九月十四日には、大村由己からの使いに呼び出され、言経はその鶴松誕生を「天正記」に書くことについて相談された。大村由己は秀吉の一代記である『天正記』の執筆をしている。十三日の条にあるように、言経はその『天正記』の「清書」を受け合っているのだ。由己には色々と世話になったのもあろうが、要は清書のバイトだ。先にあるように言経は聚楽第への行幸からこの件に関わっている。
山科言経は秀吉に仕えなかったが、大村由己から「清書」や「衣文」のことなどの仕事を融通してもらっていた。聚楽第行幸などの行事に関しては、公卿である言経の知識が必要でもあったからだろう。天正十八年には特に大きな事件もなく、秀吉・秀次の拠点が大坂から京都・伏見の方へ動いてしまうため、言経は由己との交流が続くだけで、秀吉との関わりはほとんどなくなる。
信長に続いて秀吉と山科言経の関わりを見て来たが、最初に記したように、秀吉時代の言経は概して「不遇」である。信長のときにはなかった諸問題が降り掛かり、そのせいで弟も所領も公卿としての地位も失う。これは山科言経だけのことではなく、聚楽第落書事件の「無罪仁」の町人たちのように秀吉政権下では同じ憂き目にあった者が多数いた。
この後、徳川家康に仕えるという選択をしなければ、彼の日記も残らなかったかもしれない。
言経は秀吉のときに失ったものを、家康のときに取り戻す。
天正19年から家康に仕えて、その働きを認められたからだ。
山科言経の日記からは、「禍福は糾える縄の如し」を体現しているかのような人生が読み取れる。
家康との関わりが始める天正19年以降は、もっと分量が多いので、以下から分けて載せてある。
http://ari-eru.sblo.jp/article/102479858.html?1570342870
家康と直に接した貴族は多数いるが、話し相手として長く付き合ったのは言経と冷泉為満くらいである。
彼らと家康の関わりを信長・秀吉と比較することで、三英傑の違いも見えてくるかもしれない。
ただ、分量がどうしても多いため、家康の個性がうかがえる部分を以下に抜粋した。
http://ari-eru.sblo.jp/article/115887367.html?1570343288
お暇でしたら、一読してみてください。
2014年11月23日
『言経卿記』に見る羽柴秀吉その2
35、天正十三(1585)年〜天正十五(1587)年
・言経(42〜45歳) *実年齢
○天正十三年の主な出来事
七月 秀吉が関白に就任
十一月 天正の大地震
天正十三年、山科言経は冷泉為満・四条隆昌とともに正親町天皇に勅勘され、公卿としての地位、収入、家、全てを失う。勅勘の理由はよく分からないが、という前置きをした上で『戦国時代の貴族』では、西梅津の所領問題が原因ではないか、とされている。ここに洛中の関所問題も絡むのではないか?と個人的には思うのだが、いずれにせよ、山科言経の没落には新たに洛中の権力者となった「羽柴秀吉」勢力が、大きく関わっていたのは確かだろう。ただ、直接的か間接的かは『言経卿記』からは分からない。
六月十九日
身上不相濟、住宅ヲ出了、則小家令沽却、冷泉ヘ罷向了、同廿三日夜、
大澤右兵衛大夫(重延)館ヘ罷向、四条・北向・阿茶丸・弥々御料已下也、
同廿四日、早朝(寅刻)ニ各同道、冷泉已下也、淀マテ下向、
則淀城衆秀吉内大野弥三郎所ヘ相呼之間、罷向之処ニ、重畳振舞有之、
本願寺殿内河野越中守法橋馳走ニヨリテ也、未刻ニ淀ヨリ舟二艘、
大野申付了、乗之、暮々大坂旅宿ヘ罷向、同廿六日大坂ヨリ□泉堺マテ下向、
路次之間、 住吉社ヘ参了、次堺大寺明王院ニ居住了、
天正十三年の記事は少ない。正月から三月にかけて、四条隆昌・冷泉為満と何度も話をしている。日記は短く途切れがちで、六月十九日の条に唐突に上記のことが書いてある。
十九日と記してあるが、中には廿三日から廿六日のこともあり、後日にまとめて記したのが分かる。これによると、「身上不相濟」によって勅勘された言経は妻と子、そして冷泉為満・四条隆昌らの家族とともに京を出奔し、堺へと落ちていく。途中で秀吉の家来である大野弥三郎という人物が彼らに食事を振る舞ってくれるが、これは本願寺の方で手配してくれてた厚意である。地位、職、所領、家を全て失った彼らを助けてくれたのは、本願寺である。為満の姉妹が本願寺顕如の息子興正寺顕尊に嫁いでいるためだ。
本願寺は彼らが勅勘される前から「河野越中守」を言経の所に派遣していたが、以後の住居や生活なども全面的に支援してくれる。
○天正十四年の主な出来事
五月 秀吉の妹旭姫が家康に嫁ぐ
十月 秀吉の母なかが家康の所に赴く
家康が秀吉に臣従
十一月 後陽成天皇が即位
天正十三年には日記がほとんど書けなかった言経も、翌年には腹を括ったのか、日記を復活させ、父から受け継いだもう一つの家業薬師を本格的に始める。勅勘される以前にも薬を人にあげることはあったが、相手は縁やツテのある者に限られていた。今度は町人衆も顧客とした薬屋となるのだ。天正十四年の三月、落ち着いたらしい言経は堺の町を見学しつつ、材料を仕入れるべく薬屋へと向かう。
三月大
四日、己亥、天晴、
町々見物ニ罷出了、硯屋宗五郎(薬屋)、立寄了、
四月小
二日、丁卯、下米、
殿下(秀吉)大坂御下向了、梅庵(大村由己)伴帰寺之間、
可来之由有之、則罷向了、數刻雑談了、
(里村)紹巴独吟千句令借用了、
堺で言経は秀吉の家来である大村由己と親しくなる。由己は言経の父言継とも親しかったようで、以後、日記には「梅庵=大村由己」の出番が増え、彼を介して言経は秀吉家中との付き合うようになる。
七日、壬申、天晴、
四条女中御茶々、大坂ヘ先日下向了、暮々入来了、
十一日、丙子、晴陰、
御茶々御方薄暮ニ被来了、
十四日、戊寅、下米、
御茶々御方大坂ヘ被行了、
十九日、甲申、天晴、
御茶々御方ヨリ向ヨリ暮々入来了、
四月に入ると、急に四条隆昌の「女中=妻」である「御茶々」の名が日記によく出るようになる。彼女は『言経卿記』の中で呼称がよく変わる。四条女中、御茶々、三河御局、唐橋在通母。全て同一の女性「御茶々」である。彼女は四条隆昌と結婚する前に、一色昭孝(もしくは唐橋在名)との間に「唐橋在通」をもうけており、この在通は母親の縁を頼って言経の所に装束を借りに来たり、後には家康への斡旋を頼んだりしている。どうやら、彼女も冷泉家の出身だったらしく、言経の所に前から出入りをしていた。
四月小
廿八日、癸巳、
殿下(秀吉)イモト徳川家康ヘ嫁娶也云々、美麗驚目了、
九月小
廿七日、己未、天晴、
入夜茶々被来、殿下御妹御局(朝日姫)代トシテ徳川家康嫁娶ニ付テ被行了、
殿下ヘ御使云々、入来了、被宿了、三十疋為宮笥送給了、
その御茶々は、秀吉の妹旭姫の「御乳=乳母」となって、旭姫とともに徳川家康の居城へと向かう。四月廿八日の記事には記してはないが、九月廿七日に「嫁娶ニ付テ被行」とあるので、同行したのは間違いない。彼女は「殿下(=秀吉)へ御使」として戻って来たようだ。土産代わりに三十疋を言経に渡している。
十月大
一日、壬戌、天晴、
茶々御方大政所(秀吉母)ヘ被行了、
七日、戊辰、天晴、
夜半ニ御茶々大坂ヨリ来了、
八日、己巳、天晴、
早朝ニ御茶々大坂ヘ被行了、則上洛了、
十月一日に御茶々は大政所の所に向かう。大政所に会って何を話したのか、彼女は七日に堺に戻って来て、恐らく言経の家に泊まる。翌朝、早くに再び大坂に行き、そして更に上洛もしている。日付からして、彼女はこの後、大政所と共に家康の所に向かったと推測される。
廿六日、丁亥、天晴、
三河國徳川左京大夫大坂ヘ下向了、殿下(秀吉)御妹聟也、
嫁娶已後始而上洛間下向云々、
晦日、辛卯、時雨、晩晴、
御茶々入来、入夜也、家康上洛ニ付而上洛了、
十一月小
廿七日、戊午、天晴、
市若上之間、冷泉ヘ返事、愛洲薬一紙袋遣了、
又御茶々(四妾、徳川妻、御乳)近々下國云々、
愛洲薬所望、一包遣了、
そして、十月廿六日、家康が大坂へと来る。御茶々はこれに同行していて、晦日に言経の所に来ている。彼女は旭姫の乳母という名目なのだが、ここで家康と行動を共にしているのは、秀吉に旭姫・大政所のことを報告する役目があったから、だろうか?
彼女は十一月廿七日、「近々下國」するからと言経に愛洲薬を所望している。既に家康は領国に戻っている。旭姫はまだ浜松城にいるから、御乳として御茶々も行かねばならないのだろう。ここの条に「四条妾、徳川妻、御乳」とあるため、彼女が四条隆昌の女中御茶々と同一人物で、家康に嫁いだ旭姫の(名だけの)乳母となっていることが分かる。以前は「四条女中」であったのが「四条妾」となったのは、隆昌が他の女性を迎えたからか?四条隆昌の妻は『言経卿記』だけで三人確認できる。
御茶々が旭姫の乳母となったのは、隆昌が勅勘されたことと無関係ではないだろう。恐らく、彼女は経済的に苦しくなったこともあり、「乳母」の仕事を引き受けたのだ。既に秀吉は関白に就任している。関白の妹として体裁を整えるためには、嫁ぎ先に付き添う「乳母」が必要であった。御茶々の正確な年齢は分からない。ただ、最初の子供である在通が1563年生まれらしいので、この当時は四十歳前後と見られる。嫁いだときに四十三歳?である旭姫とほとんど変わらないか、年下であった可能性が高い。それで旭姫の「乳母」は無理があるが、御茶々は「御乳」として旭姫に同行し、そして、秀吉に旭姫の嫁入り後の徳川の反応・対応や旭姫の状況などを伝える役割を果たしたのだろう。
九月小
一日、癸巳、天晴、
梅庵ニテ夜連歌有之、人數、予・(殿下御内)山名伊与入道(禅高)・
(同)楠式部法印(正虎)・(同)師法印・(同)益田仁右衛門尉(長盛)
・(同)石田弥三(正澄)・由己・(殿下御内)太一坊・(同)ナフヤ新三郎・
(同)ヽヽ□□・(同)中江左近兵衛門尉(榮継)・(同)光珎・
正善(善五郎執筆)等也、食有之、
十二月大
廿九日、己丑、小雨、
羽柴宰相(秀次)殿ヘ御礼申入之(扇五本)、先梅庵(大村由己)ヘ罷向、
梅庵馳走、次小寺休夢(高友)所ヘ罷向、二十疋遣了、飯有之、
次宰相殿罷向了、休夢云(申)次也、帰路ニ下村小少将ヘ罷向、笠借用了、
一方、言経の方は、梅庵(=大村由己)を通して、秀吉家中との付き合いを増やしていく。九月一日の連歌會では、「殿下御内=秀吉家来」たちと同席している。山名禅高とは後に家康の所でも度々一緒になる。楠正虎には妻の妹が嫁いでいるのだが、堺に移ってからは以前ほどの接触が見られない。増田長盛、石田正澄(石田三成兄)の名もあり、彼らとの交流を通して、言経は秀吉家中に繋がりをつくり、十二月には、秀次に接触をはかっている。
十二月廿九日、言経は、大村由己の紹介で小寺休夢(黒田高友=黒田如水の伯父)の所ヘ行き、二十疋を渡し、秀次に紹介してもらう。wikiなどには小寺休夢は秀吉の御伽衆であった、という情報しか載ってないが、『言経卿記』では秀次の「取次」としての出番が多い。
晦日、庚寅、晴、
小寺休夢齋ヘ罷向、暮々なり、次羽柴宰相殿ヘ罷向、宿了、飯有之、
秀次に取り次いでもらった言経は、早速、翌日の晦日から秀次の所に侍って、年越しをする。
ーーー
○天正十五年の主な出来事
三月〜 秀吉、九州攻めへ
九月 聚楽第が完成
天正十五年
正月小
一日、辛卯、晴陰、小雨
羽柴宰相(秀次)殿ニ夜前ヨリ滞留了、
丑刻ニ宗久(及)(天王寺屋、津田)所ヘ罷向了、
夕食有之、宰相殿衣冠・衣文着之云々、次殿下(秀吉)ヘ御参也、
各堂上衆(殿下衆)衣冠、諸大夫衆同前云々、未下刻ニ予帰宅了、
年始の装束の世話を言経がするのかと思ったが、このときはまだ侍っているだけで、特に何もしていない。が、秀次と繋がりを得た言経は、勅許を得るべく行動に移っていた。
二月大
十六日、乙亥、天霽、
梅庵ヨリ使者有之、則罷向、身上之儀ニ付而、細川兵部大輔入道幽斎ヘ梅庵書状、
又殿下(秀次)身内木下半介(吉種)ヨリ京都民部卿法印(前田玄以)ヘ書状共、
京都ヘ可遣了由有之間取帰了、半介ヨリ書状如此、
態令啓候、仍去月被仰出候山科殿之事、被達 上聞候哉、
禁中ヘ被召直候事成不申候ハヽ、関白(秀吉)様ヘ可被出候条、
内々其心持有之間、先御帰参事、逐而可被仰上之由候き、
其後何共 禁中より被仰出事無之哉、被入御精御申上奉頼存候、
御返事様子承度候、恐々謹言
二月十六日 木下半介吉種判
民部卿法印御房人 御中
二月十六日、大村由己からの使者が来たため、言経は直ぐに彼の家に行く。「身上之儀」は、以前と意味が異なり、天皇の「勅勘」を許してもらう「勅許」を得ることを意味している。言経は大村由己を通して細川幽斎と、秀次の家来木下吉種を通して前田玄以に書状を出してもらっていた。
ここにあるのは木下吉種からの返事である。
天皇からの勅許は得られず、(代わりに)秀吉様が「内々」に雇う心積りがあると伝えている。秀吉家中のコネを使っても「勅許」は得られなかったのだ。
ここで疑問なのは、このとき、秀吉には「勅許」が得られなかったのに、後で家康が「勅許」を得ている点である。この時点で秀吉は関白であり、家康は(勅許を得たとき)内大臣である。しかも、家康の場合は関ケ原以前で、秀吉の死の直後。肩書、立場、ともに秀吉の方が上であるのに、秀吉にはできず、家康にはできた事情は何だろうか。
また、秀吉に「雇おう」と伝えられたにも関わらず、言経はこの話を受けないのだ。それでいて、天正十九年には家康、次いで秀次から扶持を貰うようになる。四年が経過して、勅許は得られないと諦めたのか、それとも本願寺の移転に伴う上洛を機に気持ちを切り替えたのか。
困窮していながら、言経が秀吉の話を断った理由はよく分からない。が、弟薄諸光の死も、所領の押領も秀吉勢力に原因がある。大村由己や楠家などの知己はいても、言経は秀吉には仕える気にはならなかったのかもしれない。
八月小
十八日、乙亥、天晴、
三河御局御茶々、入夜被来了、此間在大坂云々、関東紙一束賜了、
廿五日、壬午、天晴、百四十五、
三川御局来入了、被宿了、
八月に旭姫の乳母となった御茶々が戻って来る。何故か彼女は夜に来ることが多く、この十八日も夜になってから言経の家を訪ねている。彼女は少し前から大坂にいたらしく、関東紙一束を土産として渡している。
彼女は廿五日にも言経の所に来て、泊まっている。肩書が「三河御局」となっているのは、恐らく、この呼称を「御乳」として与えられたからだろう。旭姫が大政所の見舞を理由に戻って来るのは、翌天正十六年である。三河御局こと御茶々は、九州から戻った秀吉に旭姫の状況を報告するために大坂に行ったのだろうか。
いずれにせよ、彼女は次に登場するときには、徳川家康に仕える身となっている。
以下、次に。
・言経(42〜45歳) *実年齢
○天正十三年の主な出来事
七月 秀吉が関白に就任
十一月 天正の大地震
天正十三年、山科言経は冷泉為満・四条隆昌とともに正親町天皇に勅勘され、公卿としての地位、収入、家、全てを失う。勅勘の理由はよく分からないが、という前置きをした上で『戦国時代の貴族』では、西梅津の所領問題が原因ではないか、とされている。ここに洛中の関所問題も絡むのではないか?と個人的には思うのだが、いずれにせよ、山科言経の没落には新たに洛中の権力者となった「羽柴秀吉」勢力が、大きく関わっていたのは確かだろう。ただ、直接的か間接的かは『言経卿記』からは分からない。
六月十九日
身上不相濟、住宅ヲ出了、則小家令沽却、冷泉ヘ罷向了、同廿三日夜、
大澤右兵衛大夫(重延)館ヘ罷向、四条・北向・阿茶丸・弥々御料已下也、
同廿四日、早朝(寅刻)ニ各同道、冷泉已下也、淀マテ下向、
則淀城衆秀吉内大野弥三郎所ヘ相呼之間、罷向之処ニ、重畳振舞有之、
本願寺殿内河野越中守法橋馳走ニヨリテ也、未刻ニ淀ヨリ舟二艘、
大野申付了、乗之、暮々大坂旅宿ヘ罷向、同廿六日大坂ヨリ□泉堺マテ下向、
路次之間、 住吉社ヘ参了、次堺大寺明王院ニ居住了、
天正十三年の記事は少ない。正月から三月にかけて、四条隆昌・冷泉為満と何度も話をしている。日記は短く途切れがちで、六月十九日の条に唐突に上記のことが書いてある。
十九日と記してあるが、中には廿三日から廿六日のこともあり、後日にまとめて記したのが分かる。これによると、「身上不相濟」によって勅勘された言経は妻と子、そして冷泉為満・四条隆昌らの家族とともに京を出奔し、堺へと落ちていく。途中で秀吉の家来である大野弥三郎という人物が彼らに食事を振る舞ってくれるが、これは本願寺の方で手配してくれてた厚意である。地位、職、所領、家を全て失った彼らを助けてくれたのは、本願寺である。為満の姉妹が本願寺顕如の息子興正寺顕尊に嫁いでいるためだ。
本願寺は彼らが勅勘される前から「河野越中守」を言経の所に派遣していたが、以後の住居や生活なども全面的に支援してくれる。
○天正十四年の主な出来事
五月 秀吉の妹旭姫が家康に嫁ぐ
十月 秀吉の母なかが家康の所に赴く
家康が秀吉に臣従
十一月 後陽成天皇が即位
天正十三年には日記がほとんど書けなかった言経も、翌年には腹を括ったのか、日記を復活させ、父から受け継いだもう一つの家業薬師を本格的に始める。勅勘される以前にも薬を人にあげることはあったが、相手は縁やツテのある者に限られていた。今度は町人衆も顧客とした薬屋となるのだ。天正十四年の三月、落ち着いたらしい言経は堺の町を見学しつつ、材料を仕入れるべく薬屋へと向かう。
三月大
四日、己亥、天晴、
町々見物ニ罷出了、硯屋宗五郎(薬屋)、立寄了、
四月小
二日、丁卯、下米、
殿下(秀吉)大坂御下向了、梅庵(大村由己)伴帰寺之間、
可来之由有之、則罷向了、數刻雑談了、
(里村)紹巴独吟千句令借用了、
堺で言経は秀吉の家来である大村由己と親しくなる。由己は言経の父言継とも親しかったようで、以後、日記には「梅庵=大村由己」の出番が増え、彼を介して言経は秀吉家中との付き合うようになる。
七日、壬申、天晴、
四条女中御茶々、大坂ヘ先日下向了、暮々入来了、
十一日、丙子、晴陰、
御茶々御方薄暮ニ被来了、
十四日、戊寅、下米、
御茶々御方大坂ヘ被行了、
十九日、甲申、天晴、
御茶々御方ヨリ向ヨリ暮々入来了、
四月に入ると、急に四条隆昌の「女中=妻」である「御茶々」の名が日記によく出るようになる。彼女は『言経卿記』の中で呼称がよく変わる。四条女中、御茶々、三河御局、唐橋在通母。全て同一の女性「御茶々」である。彼女は四条隆昌と結婚する前に、一色昭孝(もしくは唐橋在名)との間に「唐橋在通」をもうけており、この在通は母親の縁を頼って言経の所に装束を借りに来たり、後には家康への斡旋を頼んだりしている。どうやら、彼女も冷泉家の出身だったらしく、言経の所に前から出入りをしていた。
四月小
廿八日、癸巳、
殿下(秀吉)イモト徳川家康ヘ嫁娶也云々、美麗驚目了、
九月小
廿七日、己未、天晴、
入夜茶々被来、殿下御妹御局(朝日姫)代トシテ徳川家康嫁娶ニ付テ被行了、
殿下ヘ御使云々、入来了、被宿了、三十疋為宮笥送給了、
その御茶々は、秀吉の妹旭姫の「御乳=乳母」となって、旭姫とともに徳川家康の居城へと向かう。四月廿八日の記事には記してはないが、九月廿七日に「嫁娶ニ付テ被行」とあるので、同行したのは間違いない。彼女は「殿下(=秀吉)へ御使」として戻って来たようだ。土産代わりに三十疋を言経に渡している。
十月大
一日、壬戌、天晴、
茶々御方大政所(秀吉母)ヘ被行了、
七日、戊辰、天晴、
夜半ニ御茶々大坂ヨリ来了、
八日、己巳、天晴、
早朝ニ御茶々大坂ヘ被行了、則上洛了、
十月一日に御茶々は大政所の所に向かう。大政所に会って何を話したのか、彼女は七日に堺に戻って来て、恐らく言経の家に泊まる。翌朝、早くに再び大坂に行き、そして更に上洛もしている。日付からして、彼女はこの後、大政所と共に家康の所に向かったと推測される。
廿六日、丁亥、天晴、
三河國徳川左京大夫大坂ヘ下向了、殿下(秀吉)御妹聟也、
嫁娶已後始而上洛間下向云々、
晦日、辛卯、時雨、晩晴、
御茶々入来、入夜也、家康上洛ニ付而上洛了、
十一月小
廿七日、戊午、天晴、
市若上之間、冷泉ヘ返事、愛洲薬一紙袋遣了、
又御茶々(四妾、徳川妻、御乳)近々下國云々、
愛洲薬所望、一包遣了、
そして、十月廿六日、家康が大坂へと来る。御茶々はこれに同行していて、晦日に言経の所に来ている。彼女は旭姫の乳母という名目なのだが、ここで家康と行動を共にしているのは、秀吉に旭姫・大政所のことを報告する役目があったから、だろうか?
彼女は十一月廿七日、「近々下國」するからと言経に愛洲薬を所望している。既に家康は領国に戻っている。旭姫はまだ浜松城にいるから、御乳として御茶々も行かねばならないのだろう。ここの条に「四条妾、徳川妻、御乳」とあるため、彼女が四条隆昌の女中御茶々と同一人物で、家康に嫁いだ旭姫の(名だけの)乳母となっていることが分かる。以前は「四条女中」であったのが「四条妾」となったのは、隆昌が他の女性を迎えたからか?四条隆昌の妻は『言経卿記』だけで三人確認できる。
御茶々が旭姫の乳母となったのは、隆昌が勅勘されたことと無関係ではないだろう。恐らく、彼女は経済的に苦しくなったこともあり、「乳母」の仕事を引き受けたのだ。既に秀吉は関白に就任している。関白の妹として体裁を整えるためには、嫁ぎ先に付き添う「乳母」が必要であった。御茶々の正確な年齢は分からない。ただ、最初の子供である在通が1563年生まれらしいので、この当時は四十歳前後と見られる。嫁いだときに四十三歳?である旭姫とほとんど変わらないか、年下であった可能性が高い。それで旭姫の「乳母」は無理があるが、御茶々は「御乳」として旭姫に同行し、そして、秀吉に旭姫の嫁入り後の徳川の反応・対応や旭姫の状況などを伝える役割を果たしたのだろう。
九月小
一日、癸巳、天晴、
梅庵ニテ夜連歌有之、人數、予・(殿下御内)山名伊与入道(禅高)・
(同)楠式部法印(正虎)・(同)師法印・(同)益田仁右衛門尉(長盛)
・(同)石田弥三(正澄)・由己・(殿下御内)太一坊・(同)ナフヤ新三郎・
(同)ヽヽ□□・(同)中江左近兵衛門尉(榮継)・(同)光珎・
正善(善五郎執筆)等也、食有之、
十二月大
廿九日、己丑、小雨、
羽柴宰相(秀次)殿ヘ御礼申入之(扇五本)、先梅庵(大村由己)ヘ罷向、
梅庵馳走、次小寺休夢(高友)所ヘ罷向、二十疋遣了、飯有之、
次宰相殿罷向了、休夢云(申)次也、帰路ニ下村小少将ヘ罷向、笠借用了、
一方、言経の方は、梅庵(=大村由己)を通して、秀吉家中との付き合いを増やしていく。九月一日の連歌會では、「殿下御内=秀吉家来」たちと同席している。山名禅高とは後に家康の所でも度々一緒になる。楠正虎には妻の妹が嫁いでいるのだが、堺に移ってからは以前ほどの接触が見られない。増田長盛、石田正澄(石田三成兄)の名もあり、彼らとの交流を通して、言経は秀吉家中に繋がりをつくり、十二月には、秀次に接触をはかっている。
十二月廿九日、言経は、大村由己の紹介で小寺休夢(黒田高友=黒田如水の伯父)の所ヘ行き、二十疋を渡し、秀次に紹介してもらう。wikiなどには小寺休夢は秀吉の御伽衆であった、という情報しか載ってないが、『言経卿記』では秀次の「取次」としての出番が多い。
晦日、庚寅、晴、
小寺休夢齋ヘ罷向、暮々なり、次羽柴宰相殿ヘ罷向、宿了、飯有之、
秀次に取り次いでもらった言経は、早速、翌日の晦日から秀次の所に侍って、年越しをする。
ーーー
○天正十五年の主な出来事
三月〜 秀吉、九州攻めへ
九月 聚楽第が完成
天正十五年
正月小
一日、辛卯、晴陰、小雨
羽柴宰相(秀次)殿ニ夜前ヨリ滞留了、
丑刻ニ宗久(及)(天王寺屋、津田)所ヘ罷向了、
夕食有之、宰相殿衣冠・衣文着之云々、次殿下(秀吉)ヘ御参也、
各堂上衆(殿下衆)衣冠、諸大夫衆同前云々、未下刻ニ予帰宅了、
年始の装束の世話を言経がするのかと思ったが、このときはまだ侍っているだけで、特に何もしていない。が、秀次と繋がりを得た言経は、勅許を得るべく行動に移っていた。
二月大
十六日、乙亥、天霽、
梅庵ヨリ使者有之、則罷向、身上之儀ニ付而、細川兵部大輔入道幽斎ヘ梅庵書状、
又殿下(秀次)身内木下半介(吉種)ヨリ京都民部卿法印(前田玄以)ヘ書状共、
京都ヘ可遣了由有之間取帰了、半介ヨリ書状如此、
態令啓候、仍去月被仰出候山科殿之事、被達 上聞候哉、
禁中ヘ被召直候事成不申候ハヽ、関白(秀吉)様ヘ可被出候条、
内々其心持有之間、先御帰参事、逐而可被仰上之由候き、
其後何共 禁中より被仰出事無之哉、被入御精御申上奉頼存候、
御返事様子承度候、恐々謹言
二月十六日 木下半介吉種判
民部卿法印御房人 御中
二月十六日、大村由己からの使者が来たため、言経は直ぐに彼の家に行く。「身上之儀」は、以前と意味が異なり、天皇の「勅勘」を許してもらう「勅許」を得ることを意味している。言経は大村由己を通して細川幽斎と、秀次の家来木下吉種を通して前田玄以に書状を出してもらっていた。
ここにあるのは木下吉種からの返事である。
天皇からの勅許は得られず、(代わりに)秀吉様が「内々」に雇う心積りがあると伝えている。秀吉家中のコネを使っても「勅許」は得られなかったのだ。
ここで疑問なのは、このとき、秀吉には「勅許」が得られなかったのに、後で家康が「勅許」を得ている点である。この時点で秀吉は関白であり、家康は(勅許を得たとき)内大臣である。しかも、家康の場合は関ケ原以前で、秀吉の死の直後。肩書、立場、ともに秀吉の方が上であるのに、秀吉にはできず、家康にはできた事情は何だろうか。
また、秀吉に「雇おう」と伝えられたにも関わらず、言経はこの話を受けないのだ。それでいて、天正十九年には家康、次いで秀次から扶持を貰うようになる。四年が経過して、勅許は得られないと諦めたのか、それとも本願寺の移転に伴う上洛を機に気持ちを切り替えたのか。
困窮していながら、言経が秀吉の話を断った理由はよく分からない。が、弟薄諸光の死も、所領の押領も秀吉勢力に原因がある。大村由己や楠家などの知己はいても、言経は秀吉には仕える気にはならなかったのかもしれない。
八月小
十八日、乙亥、天晴、
三河御局御茶々、入夜被来了、此間在大坂云々、関東紙一束賜了、
廿五日、壬午、天晴、百四十五、
三川御局来入了、被宿了、
八月に旭姫の乳母となった御茶々が戻って来る。何故か彼女は夜に来ることが多く、この十八日も夜になってから言経の家を訪ねている。彼女は少し前から大坂にいたらしく、関東紙一束を土産として渡している。
彼女は廿五日にも言経の所に来て、泊まっている。肩書が「三河御局」となっているのは、恐らく、この呼称を「御乳」として与えられたからだろう。旭姫が大政所の見舞を理由に戻って来るのは、翌天正十六年である。三河御局こと御茶々は、九州から戻った秀吉に旭姫の状況を報告するために大坂に行ったのだろうか。
いずれにせよ、彼女は次に登場するときには、徳川家康に仕える身となっている。
以下、次に。
2014年11月17日
『言経卿記』に見る羽柴秀吉その1
34、天正十(1582)年〜天正十二(1584)年
・言経(39〜41歳) *実年齢
○天正十年の出来事
三月 武田氏、滅亡
六月 本能寺の変
山崎の戦い
本能寺の変により織田信長・信忠が死去し、洛中の権力者がまたしても不在となる。混乱する情勢の中で台頭して来たのは羽柴秀吉であった。山科言経は秀吉政権下で所領を失い、勅勘される。彼の苦渋の時代は秀吉の台頭とともに始まり、その退場によって終わる。ただ、秀吉が直接言経に実害を及ぼした訳ではない。(少々、微妙な部分はあるが)彼は様々な人物を通して間接的に洛中の権力者となった羽柴秀吉と関わり続ける。その中で多少の「利」もあったが、大半が「害」であったため、恐らく言経は秀吉ではなく徳川家康を選んだ。
六月大
四日、庚寅、
洛中騒動不斜、
十三日、
惟任日向守(光秀)於山崎ニテ合戦、即時敗北、
伊勢守(伊勢貞興)已来(下)三十余人打死了、
織田三七(信孝)殿・羽柴筑前守(秀吉)已下従南方上了、合戦也、
二条屋敷(日向守)放火了、首共本能寺ニ被曝了、
十五日、
惟任日向守(光秀)醍醐邊ニ牢籠、則郷人一揆ト為打之、
首本能寺ヘ上了、
本能寺の変以降、洛中は「騒動不斜」が続く。そんな中、十三日に山崎の戦いが起きて明智光秀が「即時敗北」したと言経は記す。光秀の二条屋敷が放火され、首が本能寺で曝されたとある。この首は先に「打死」とある伊勢貞興のものだろう。光秀については次の十五日の条に「郷人」に打たれ、首が本能寺に上げられたとある。
十七日、
日向守齋藤(内脱)蔵助(利三)、今度謀叛随一也、
堅田ニ牢籠、則尋出、京洛中車ニテ被渡、於六条川原ニテ被誅了、
十七日には堅田に隠れていた齋藤利三が捕まり、六条河原で処刑される。(斎藤利三は春日局の実父)言経は利三のことを「今度謀叛随一」と記す。本能寺の変以降の記事に関しては、何故か一貫して伝聞を示す「云々」が使われていない。自分で見聞きしていないのだから、言経は誰かにこの情報を教えてもらった筈だ。その誰かが斎藤利三が「謀叛随一」であると断定したのだろう。実際、明智光秀の謀叛については、この斎藤利三の関わりを指摘するのが近年の傾向でもある。言経への情報提供者としては信長&秀吉の右筆であった楠長譜が思い浮かぶが、さて。
十八日、甲辰、天晴、晩雨、
此間中庭後薗ニ木屋有之、町人共也、
音信錫已下種々持来了、此間中也、
十九日、乙巳、天晴、
遣迎院ヘ村井内衆追籠(人質取之)下京米屋宗綢下女也云々、
村井内トン齋已下追懸了、近所之間物忩了、
冷泉・四条見舞被来了、
廿日、戊(丙)午、天晴、
遣迎院昨日人質已下相調出了、後刻遣迎院礼ニ門前マテ被来了、
山崎の戦いが終わった後も明智側の勢力が残っていたためか、洛中は騒然としたままである。十八日には、言経の屋敷の中庭に町人達が「木屋」を作って逃げ込んでいる。彼らは言経に「錫以下種々」を持って来て、避難させて欲しいと頼む。承知したとは書いてないが、十九日、廿日の記事を読む限り、彼らの避難を認めてあげたのだろう。
十九日、村井内衆が人質(米屋の下女)を取って遣迎院立てこもる。この村井内衆は恐らく京都所司代であった村井家の家来たちであろう。ただ、それを追いかけているのも「村井内」なので、織田信忠と共に二条屋敷で主の村井貞勝らを失った家中でトラブルがあったようだ。言経は頼まれたのか、人質解放などの交渉をしたようだ。廿日に遣迎院が言経の所にお礼に来ている。
廿八日、甲寅、天霽、
役所之儀付而此間中三条口安(案)主所ニテ談合、小川善大夫遣了、
當番ニ参了、
廿八日の「役所」は関料を徴集する関所のことである。信長は関所を廃止したとよく言われるが、洛中に入る道に設けられた関所は廃止していない。その関料は山科家にとって大事な収入源である。関所に関することで何かあり、言経は家人の小川善大夫を「談合」に遣わしている。「同日の「當番」は宮中への出仕。貴族としての勤めである。
七月
二日、戊午、天晴、
粟田口ニ去 日ニ、明智日向守首・ムクロ等相續、張付ニ懸了、
齋藤(内脱)蔵助(利三)同前也、其外首三千余、同所ニ首塚ヲ被築了、
今日又明智弥兵次(秀満)父(六十三才)召取、生張付ニ同所ニ被懸了、
七月二日に明智光秀と斎藤利三の首と胴体が「相續」て粟田口で「張付」になった、とある。「去 日」と日付が抜けているので、いつ首と胴が繋げられて磔になったのかは分からない。同じ場所に三千余りの首も埋められて首塚が作られ、この二日に明智秀満の父親(63歳)も「召捕」られて「生張付=生きた状態で磔」となっている。この七月の初め頃には明智側の残党探しが一段落したのだろう。
十一日、丁卯、天晴、
羽柴筑前守(本國寺)ヘ礼ニ、冷泉令同道罷向了、帯三筋遣了、
冷泉ヨリ房鞦等遣了、則対顔、諸家大略礼ニ被罷向了云々、
十三日、己巳、天晴、
桑原次衛門(貞也)ヘ罷向了、留守了、
羽柴筑前守内京都公事可聞之由有之、
羽柴筑前守播磨國ヘ下向也云々、
十一日、公卿らは羽柴秀吉が新たな洛中の支配者になったと認識したようで、言経は冷泉為満とともに手土産の品を持って挨拶に行き、彼と対面する。「諸家大略」とあり、信長のときと同様に本國寺には公卿らの大半が向かったようだ。
十三日には桑原貞也の所に出向いたが、留守であった。先月の廿八日にも「役所之儀」があり、今回も「京都公事」の文字が見える。秀吉は信長が残した洛中の関所を廃止する方針であり、公卿らはそれを警戒している。
同日、秀吉は領国の播磨へと戻ったようだ。
十四日、庚午、天晴、
桑原ヘ罷向了、留守了、
役所ヘ人ヲ遣了、諸役免許之沙汰此間中有之、
雖然先人ヲ遣了処ニ、三条口分百疋出了、
桑原次衛門ヘ罷向了、冷泉同道了、見参了、サケ緒(一筋)遣了、
其次楠是兵衛ニ扇子三本遣了、
十四日も言経は京都奉行を任された桑原貞也の所に行く。が、再び留守であった。言経が気にしていた通り、秀吉の命令で「諸役免除」は実行されたらしく、「沙汰」が出されている。言経は先に人をやって、三条口の分「百疋」を手に入れた。同日、もう一度、言経は為満と一緒に貞也を訪ねる。今度は会えて、「サケ緒=下げ緒」を一筋渡している。「諸役免除」を止めて欲しいと頼んだのだろう。次に楠是兵衛に扇子三本を贈っているが、この人物は為満の妹が嫁いだ楠甚兵衛のことだろうか。父長譜が信長の右筆から秀吉の右筆へとスライドしたから、楠家も秀吉に仕える。彼にも関所の廃止を止めて欲しいと頼んだに違いない。
十九日、乙亥、晴、大夕立、
當知行地子銭之指出■冷泉ヘ罷向談合了、
次六条羽柴筑前守ヘ小川善大夫持遣了、
九月大
一日、丙辰、天晴、時正、
早朝ニ楠長譜ヘ罷向了、談合仔細有之、茶有之、
四日、己未、天晴、時正、
西梅津政所橋下孫介来、地(知)行分羽柴筑前守指出之由先日有之、
又申之由也、然者指出之帳此方有之間、取ニ来之間、二度ニ遣了、
其次ニ東梅津眼蔵院ヘ一轄返之、言傅了、
十九日、知行地の「地子銭」を差し出すよう、秀吉からの命令が出る。言経は持ち合わせがなかったのか、為満の所に「談合=相談」しに行く。そして、次に秀吉の所に小川善大夫を「持遣了」しているので、お金を工面して払ったようだ。
一日に言経は楠長譜の所に行き、「談合=相談」している。どうも後の記事からして、関料の復活を公卿らは画策していたようだ。実は以前、信長が関所を全廃しようとしたとき、公卿らの反対で洛中の関所は廃止されなかったのだ。
秀吉は畿内の知行確認にも乗り出したのか、四日に西梅津の橋下孫介が言経の所に来る。秀吉が調べるというので、帳面を取りに来たのだ。信長のときにはこういう記述はなかった。秀吉の方が細かくチェックを入れている感じだ。
七日、壬戌、天晴、
冷泉ヘ朝食有之云々、楠長安(譜)父子(正辰)・女房衆等被行了云々、
北向・阿茶丸等相伴ニ被行了、予度々使有之、然共所労平臥之間不罷向了、
食被持送了、濟々儀也、
興正院官女(小少将)方ヨリ、小川善大夫ヘ書状ニ、懐妊三ヶ月也、
然者ヲロシ薬之事申由有之、種々斟酌ナガラ七包遣了、
言経・為満は、為満の姉妹を通して楠家とは家族ぐるみの付き合いとなる。七日、為満の所で朝食の馳走があり、楠家の父子・女房衆・言経の妻と子が食べに出掛ける。言経は「所労」で寝込んでおり、度々使いが呼びに来たものの、行けず、食事を持って来てもらって食べている。
同日、言経の所に「ヲロシ薬」が欲しいという依頼が来る。「ヲロシ」は子を流産させることで、この記事が初見だが、言経はそういう薬も作れたようだ。欲しいと小川善大夫を通じて頼んで来たのは小少将という名の「興正院官女」である。八月に興正寺顕尊の所に為満の姉が(仕えていた誠仁親王の許可を得て)嫁いだばかりである。「種々斟酌ナガラ」も言経は「七包」を与えている。子の父親について邪推したくなる一件だ。
十二日、丁卯、天霽、
役所之儀付而談合ニ善大夫遣了、
十四日、己巳、天晴、
當番ニ参了、
廿八日、癸未、晴陰、
楠長譜ヨリ使有之、則罷向了、夕食有之、予・冷泉・四条・楠長譜・
同甚四郎等也、累刻令雑談了、
関所のことをまだ「談合」している。十四日には禁中に出仕して、公卿としての勤めも真面目にしているが、この「當番」がこの後、彼の日記から消えていく。
廿八日にまた楠長譜と話をしている。言経だけでなく、為満・四条隆昌も一緒である。どうも関所のことだけを話し合っていたようではなさそうなのだ。
十月大
二日、丁亥、天晴、
冷泉ニテ今暁甚四郎妻(冷イモト)女子誕生了、早朝ニ北向・
阿茶丸等罷向了、愛洲薬・甘草遣了、後刻モチ・錫被送給了、
後刻罷向了、又入夜罷向了、御酒有之、
薄所ヨリ草子カラヒツ取寄了、内々被申間如此、
十月二日、冷泉為満の屋敷で妹の御春(楠正辰の妻)が、女子を出産した。早速、言経の妻と息子が出向いて、言経特製の薬を渡している。遅れて祝いの品も届けたこの目出度い日に、薄家に養子に出た弟のところから唐櫃を預かっている。薄諸以はこの年に勅勘を受けているので、その関係だろうか。
十三日、戊戌、天霽、
諸口見入公事々、去九日歟ヨリ羽柴筑已下ニテ五人奉行トシテ停止了、
迷惑至極也、就其今日菊亭(今出川晴季)・予下代衆各参會談合也、
小川善大夫遣了、
羽柴筑前守従播磨國上洛了、本國寺ニ被居了、
同日に羽柴秀吉が上洛するのに合わせての集まりだろう。十三日、関所のことについて、言経は小川善大夫を派遣して今出川晴季と「談合」をしている。当人達ではなく、下代が各々集まっての話し合いである。関料の収入がなくなったことを言経は「迷惑至極」と記す。これは彼らの死活問題でもあるのだ。
信長のときと同じように復活できる可能性にかけて、公卿らはしつこく粘るつもりだったようだ。
しかし、ここからまた『言経卿記』は欠けており、次は天正十一年八月からとなる。山科家の事態はより悪化している。
ーーー
○天正十一年の主な出来事
三月 賤ヶ岳の戦い
八月 大坂城の築城開始
八月大
十九日、戊辰、天晴、
織田玄二(前田玄以)ヘ地(知)行分事可申間、先家中磯邊李斎ニ罷向、
申談了、本能寺向、村井春長(貞勝)軒旧宅也、
八月十九日、言経は前田玄以に知行のことを申し立てするために、先に前田家中の磯邊李斎の所に行く。磯邊李斎は本能寺の向かいにある元村井貞勝の屋敷に住むようだ。
廿一日、庚午、晴、
織田玄以ヘ西梅津地行分事ニ付而罷向、鯛五、被持了、則対顔了、
文書如此、磯邊ト談合了、
山科家雑掌申
西梅津新地行参十石分之事、去天正七年三月二日、故大納言(言継)死去候、
則 上様(織田信長)ヘ女房(言経室冷泉氏)参、御朱印返状申候処、
御上洛候て可被仰付之由御座候つる条、御上洛ニ重而申上候ヘハ、
則故大納言ニ被下候御朱印之旨、此方ヘ被下候而ヨリ以来、
當知行無紛之処ニ、 禁裏様御下代衆、 上様御倉入ト筑前守(秀吉)殿ヘ申掠、
去年十月廿六日被相押候、所詮當知行否之儀、以請取茂可相見候歟、
此旨可然様ニ御取合奉頼存候、
天正十一年八月廿一日 大澤右兵衛大夫重延 判
半夢斎(前田玄以)
廿一日、言経は前田玄以に上記の文書を提出する。山科家が代々引き継いできた「西梅津」の所領三十石について、禁裏(=天皇)の下代に掠め取られたと申し立てている。信長の所で取り上げたように、『言経卿記』天正七年五月二日の条に「前右府ヘ北向・阿茶丸等被罷向了、老父御逝去、然者家領無別儀之由申之、@l躰也、且祝着了、」とあり、確かに信長は言経に西梅津の所領を安堵してくれている。
言経は信長が朱印をもって認めてくれたのに、天皇の下代(=皇室領の下役人)が、この地は信長の蔵入地(=直轄領)であると秀吉に申告して押領し、自分のものにしてしまったと訴えている。去年の十月廿六日とあるので、押領されたのは、ちょうど弟の薄諸光が自害させられ、関所の復活のために言経が動き回っていたのと同月である。(もしかしたら、関銭のことでしつこく動いていたのが、秀吉側から不評を買い、所領が意図的に押領されたのかもしれない)
この件は既に秀吉が下代の所有を認める折紙も出してしまっており、山科家にとってはかなり不利な状勢である。
天正十年の活動も空しく、既に関料の収入も途絶えている。言経は必死に前田玄以に訴え続ける。
十六日、乙未、天晴、
西梅津(山城國葛野郡)舟頭愛洲薬所望由申葉室ヘ来之間、
則遣了、又マヽコ(茶々)、同薬所望、遣了、
十九日、戊戌、天晴、
西梅津ヨリ、去年未進五斗持来了、
廿三日、壬寅、天晴、
就身上之儀、冷泉・四条・河野越中入道等同道、玄以ヘ罷向、
本國寺ニ普請之由有之間、則罷向了、先河野之案内、
筑州(秀吉)内浅野弥兵衛尉(長吉)折帋相渡了、
次対顔、一盞有之、折帋如此、
吉田来、参 内之儀ニ付而、進退之事談合、
指南頼入之由有之間、存分申了、
西梅津が自分のものであることを強調するためか、言経は急に西梅津との遣り取りを日記に記し始める。十六日には西梅津から来た舟頭に愛洲薬をあげ、十九日には去年未進であった米五斗が届いたと書く。
廿三日には「身上之儀」とあるが、これは西梅津のことだろう。言経は為満・隆昌、それに本願寺(妻の姉妹が本願寺顕如の息子に嫁いでいる)から派遣された河野越中入道とまた前田玄以の所に行っている。
既に秀吉側が裁定を下した所領について何度も訴えたせいか、それとも、天皇の下代と揉めたからか。ついには言経の「進退之事」にまで話が及んでいる。同日の吉田は吉田兼見だろう。参内する兼見に言経は「進退之事」を相談して、「指南」を頼んでいる。
この年の八月から十一月に言経が内裏へ出仕した記事はない。正親町天皇に出仕を止められたのか、それとも当人が出仕をしなかったのか。どちらか分からないが、天皇の下代と揉めるのは問題だったのだろう。
ーーー
次の記事は天正十二年の十月〜十二月のみ残る。
天正十二年
十月小
八日、辛亥、天晴、
西梅津知行分ニ免之事申之間、後藤下代中畠(彌介)召寄了、
可然之様ニ免ヲ可遣否之事申談了、与九郎同道了、勧一盞了、
天正十二年も言経は西梅津の知行を手放していない。天候不順か、もしかしたら禁中下代への納付のためか、西梅津から「免之事」の申し出があった。言経は下代の中畠彌介を呼び寄せ、知行分を免除するかどうかの相談をしている。
所領についての問題が解決したのかどうかは記事が少な過ぎて分からない。ただ、昨年より言経は立場を悪くしていたようだ。
それは、翌年の「雑記」で分かる。翌天正十三年、冷泉為満・四条隆昌らとともに山科言経は正親町天皇から勅勘され、公卿の地位も、西梅津の所領も、唯一安堵されていた粟津供御人の供御料も失い、堺へと出奔する羽目になるのだ。
この出奔後については次で。
・言経(39〜41歳) *実年齢
○天正十年の出来事
三月 武田氏、滅亡
六月 本能寺の変
山崎の戦い
本能寺の変により織田信長・信忠が死去し、洛中の権力者がまたしても不在となる。混乱する情勢の中で台頭して来たのは羽柴秀吉であった。山科言経は秀吉政権下で所領を失い、勅勘される。彼の苦渋の時代は秀吉の台頭とともに始まり、その退場によって終わる。ただ、秀吉が直接言経に実害を及ぼした訳ではない。(少々、微妙な部分はあるが)彼は様々な人物を通して間接的に洛中の権力者となった羽柴秀吉と関わり続ける。その中で多少の「利」もあったが、大半が「害」であったため、恐らく言経は秀吉ではなく徳川家康を選んだ。
六月大
四日、庚寅、
洛中騒動不斜、
十三日、
惟任日向守(光秀)於山崎ニテ合戦、即時敗北、
伊勢守(伊勢貞興)已来(下)三十余人打死了、
織田三七(信孝)殿・羽柴筑前守(秀吉)已下従南方上了、合戦也、
二条屋敷(日向守)放火了、首共本能寺ニ被曝了、
十五日、
惟任日向守(光秀)醍醐邊ニ牢籠、則郷人一揆ト為打之、
首本能寺ヘ上了、
本能寺の変以降、洛中は「騒動不斜」が続く。そんな中、十三日に山崎の戦いが起きて明智光秀が「即時敗北」したと言経は記す。光秀の二条屋敷が放火され、首が本能寺で曝されたとある。この首は先に「打死」とある伊勢貞興のものだろう。光秀については次の十五日の条に「郷人」に打たれ、首が本能寺に上げられたとある。
十七日、
日向守齋藤(内脱)蔵助(利三)、今度謀叛随一也、
堅田ニ牢籠、則尋出、京洛中車ニテ被渡、於六条川原ニテ被誅了、
十七日には堅田に隠れていた齋藤利三が捕まり、六条河原で処刑される。(斎藤利三は春日局の実父)言経は利三のことを「今度謀叛随一」と記す。本能寺の変以降の記事に関しては、何故か一貫して伝聞を示す「云々」が使われていない。自分で見聞きしていないのだから、言経は誰かにこの情報を教えてもらった筈だ。その誰かが斎藤利三が「謀叛随一」であると断定したのだろう。実際、明智光秀の謀叛については、この斎藤利三の関わりを指摘するのが近年の傾向でもある。言経への情報提供者としては信長&秀吉の右筆であった楠長譜が思い浮かぶが、さて。
十八日、甲辰、天晴、晩雨、
此間中庭後薗ニ木屋有之、町人共也、
音信錫已下種々持来了、此間中也、
十九日、乙巳、天晴、
遣迎院ヘ村井内衆追籠(人質取之)下京米屋宗綢下女也云々、
村井内トン齋已下追懸了、近所之間物忩了、
冷泉・四条見舞被来了、
廿日、戊(丙)午、天晴、
遣迎院昨日人質已下相調出了、後刻遣迎院礼ニ門前マテ被来了、
山崎の戦いが終わった後も明智側の勢力が残っていたためか、洛中は騒然としたままである。十八日には、言経の屋敷の中庭に町人達が「木屋」を作って逃げ込んでいる。彼らは言経に「錫以下種々」を持って来て、避難させて欲しいと頼む。承知したとは書いてないが、十九日、廿日の記事を読む限り、彼らの避難を認めてあげたのだろう。
十九日、村井内衆が人質(米屋の下女)を取って遣迎院立てこもる。この村井内衆は恐らく京都所司代であった村井家の家来たちであろう。ただ、それを追いかけているのも「村井内」なので、織田信忠と共に二条屋敷で主の村井貞勝らを失った家中でトラブルがあったようだ。言経は頼まれたのか、人質解放などの交渉をしたようだ。廿日に遣迎院が言経の所にお礼に来ている。
廿八日、甲寅、天霽、
役所之儀付而此間中三条口安(案)主所ニテ談合、小川善大夫遣了、
當番ニ参了、
廿八日の「役所」は関料を徴集する関所のことである。信長は関所を廃止したとよく言われるが、洛中に入る道に設けられた関所は廃止していない。その関料は山科家にとって大事な収入源である。関所に関することで何かあり、言経は家人の小川善大夫を「談合」に遣わしている。「同日の「當番」は宮中への出仕。貴族としての勤めである。
七月
二日、戊午、天晴、
粟田口ニ去 日ニ、明智日向守首・ムクロ等相續、張付ニ懸了、
齋藤(内脱)蔵助(利三)同前也、其外首三千余、同所ニ首塚ヲ被築了、
今日又明智弥兵次(秀満)父(六十三才)召取、生張付ニ同所ニ被懸了、
七月二日に明智光秀と斎藤利三の首と胴体が「相續」て粟田口で「張付」になった、とある。「去 日」と日付が抜けているので、いつ首と胴が繋げられて磔になったのかは分からない。同じ場所に三千余りの首も埋められて首塚が作られ、この二日に明智秀満の父親(63歳)も「召捕」られて「生張付=生きた状態で磔」となっている。この七月の初め頃には明智側の残党探しが一段落したのだろう。
十一日、丁卯、天晴、
羽柴筑前守(本國寺)ヘ礼ニ、冷泉令同道罷向了、帯三筋遣了、
冷泉ヨリ房鞦等遣了、則対顔、諸家大略礼ニ被罷向了云々、
十三日、己巳、天晴、
桑原次衛門(貞也)ヘ罷向了、留守了、
羽柴筑前守内京都公事可聞之由有之、
羽柴筑前守播磨國ヘ下向也云々、
十一日、公卿らは羽柴秀吉が新たな洛中の支配者になったと認識したようで、言経は冷泉為満とともに手土産の品を持って挨拶に行き、彼と対面する。「諸家大略」とあり、信長のときと同様に本國寺には公卿らの大半が向かったようだ。
十三日には桑原貞也の所に出向いたが、留守であった。先月の廿八日にも「役所之儀」があり、今回も「京都公事」の文字が見える。秀吉は信長が残した洛中の関所を廃止する方針であり、公卿らはそれを警戒している。
同日、秀吉は領国の播磨へと戻ったようだ。
十四日、庚午、天晴、
桑原ヘ罷向了、留守了、
役所ヘ人ヲ遣了、諸役免許之沙汰此間中有之、
雖然先人ヲ遣了処ニ、三条口分百疋出了、
桑原次衛門ヘ罷向了、冷泉同道了、見参了、サケ緒(一筋)遣了、
其次楠是兵衛ニ扇子三本遣了、
十四日も言経は京都奉行を任された桑原貞也の所に行く。が、再び留守であった。言経が気にしていた通り、秀吉の命令で「諸役免除」は実行されたらしく、「沙汰」が出されている。言経は先に人をやって、三条口の分「百疋」を手に入れた。同日、もう一度、言経は為満と一緒に貞也を訪ねる。今度は会えて、「サケ緒=下げ緒」を一筋渡している。「諸役免除」を止めて欲しいと頼んだのだろう。次に楠是兵衛に扇子三本を贈っているが、この人物は為満の妹が嫁いだ楠甚兵衛のことだろうか。父長譜が信長の右筆から秀吉の右筆へとスライドしたから、楠家も秀吉に仕える。彼にも関所の廃止を止めて欲しいと頼んだに違いない。
十九日、乙亥、晴、大夕立、
當知行地子銭之指出■冷泉ヘ罷向談合了、
次六条羽柴筑前守ヘ小川善大夫持遣了、
九月大
一日、丙辰、天晴、時正、
早朝ニ楠長譜ヘ罷向了、談合仔細有之、茶有之、
四日、己未、天晴、時正、
西梅津政所橋下孫介来、地(知)行分羽柴筑前守指出之由先日有之、
又申之由也、然者指出之帳此方有之間、取ニ来之間、二度ニ遣了、
其次ニ東梅津眼蔵院ヘ一轄返之、言傅了、
十九日、知行地の「地子銭」を差し出すよう、秀吉からの命令が出る。言経は持ち合わせがなかったのか、為満の所に「談合=相談」しに行く。そして、次に秀吉の所に小川善大夫を「持遣了」しているので、お金を工面して払ったようだ。
一日に言経は楠長譜の所に行き、「談合=相談」している。どうも後の記事からして、関料の復活を公卿らは画策していたようだ。実は以前、信長が関所を全廃しようとしたとき、公卿らの反対で洛中の関所は廃止されなかったのだ。
秀吉は畿内の知行確認にも乗り出したのか、四日に西梅津の橋下孫介が言経の所に来る。秀吉が調べるというので、帳面を取りに来たのだ。信長のときにはこういう記述はなかった。秀吉の方が細かくチェックを入れている感じだ。
七日、壬戌、天晴、
冷泉ヘ朝食有之云々、楠長安(譜)父子(正辰)・女房衆等被行了云々、
北向・阿茶丸等相伴ニ被行了、予度々使有之、然共所労平臥之間不罷向了、
食被持送了、濟々儀也、
興正院官女(小少将)方ヨリ、小川善大夫ヘ書状ニ、懐妊三ヶ月也、
然者ヲロシ薬之事申由有之、種々斟酌ナガラ七包遣了、
言経・為満は、為満の姉妹を通して楠家とは家族ぐるみの付き合いとなる。七日、為満の所で朝食の馳走があり、楠家の父子・女房衆・言経の妻と子が食べに出掛ける。言経は「所労」で寝込んでおり、度々使いが呼びに来たものの、行けず、食事を持って来てもらって食べている。
同日、言経の所に「ヲロシ薬」が欲しいという依頼が来る。「ヲロシ」は子を流産させることで、この記事が初見だが、言経はそういう薬も作れたようだ。欲しいと小川善大夫を通じて頼んで来たのは小少将という名の「興正院官女」である。八月に興正寺顕尊の所に為満の姉が(仕えていた誠仁親王の許可を得て)嫁いだばかりである。「種々斟酌ナガラ」も言経は「七包」を与えている。子の父親について邪推したくなる一件だ。
十二日、丁卯、天霽、
役所之儀付而談合ニ善大夫遣了、
十四日、己巳、天晴、
當番ニ参了、
廿八日、癸未、晴陰、
楠長譜ヨリ使有之、則罷向了、夕食有之、予・冷泉・四条・楠長譜・
同甚四郎等也、累刻令雑談了、
関所のことをまだ「談合」している。十四日には禁中に出仕して、公卿としての勤めも真面目にしているが、この「當番」がこの後、彼の日記から消えていく。
廿八日にまた楠長譜と話をしている。言経だけでなく、為満・四条隆昌も一緒である。どうも関所のことだけを話し合っていたようではなさそうなのだ。
十月大
二日、丁亥、天晴、
冷泉ニテ今暁甚四郎妻(冷イモト)女子誕生了、早朝ニ北向・
阿茶丸等罷向了、愛洲薬・甘草遣了、後刻モチ・錫被送給了、
後刻罷向了、又入夜罷向了、御酒有之、
薄所ヨリ草子カラヒツ取寄了、内々被申間如此、
十月二日、冷泉為満の屋敷で妹の御春(楠正辰の妻)が、女子を出産した。早速、言経の妻と息子が出向いて、言経特製の薬を渡している。遅れて祝いの品も届けたこの目出度い日に、薄家に養子に出た弟のところから唐櫃を預かっている。薄諸以はこの年に勅勘を受けているので、その関係だろうか。
十三日、戊戌、天霽、
諸口見入公事々、去九日歟ヨリ羽柴筑已下ニテ五人奉行トシテ停止了、
迷惑至極也、就其今日菊亭(今出川晴季)・予下代衆各参會談合也、
小川善大夫遣了、
羽柴筑前守従播磨國上洛了、本國寺ニ被居了、
同日に羽柴秀吉が上洛するのに合わせての集まりだろう。十三日、関所のことについて、言経は小川善大夫を派遣して今出川晴季と「談合」をしている。当人達ではなく、下代が各々集まっての話し合いである。関料の収入がなくなったことを言経は「迷惑至極」と記す。これは彼らの死活問題でもあるのだ。
信長のときと同じように復活できる可能性にかけて、公卿らはしつこく粘るつもりだったようだ。
しかし、ここからまた『言経卿記』は欠けており、次は天正十一年八月からとなる。山科家の事態はより悪化している。
ーーー
○天正十一年の主な出来事
三月 賤ヶ岳の戦い
八月 大坂城の築城開始
八月大
十九日、戊辰、天晴、
織田玄二(前田玄以)ヘ地(知)行分事可申間、先家中磯邊李斎ニ罷向、
申談了、本能寺向、村井春長(貞勝)軒旧宅也、
八月十九日、言経は前田玄以に知行のことを申し立てするために、先に前田家中の磯邊李斎の所に行く。磯邊李斎は本能寺の向かいにある元村井貞勝の屋敷に住むようだ。
廿一日、庚午、晴、
織田玄以ヘ西梅津地行分事ニ付而罷向、鯛五、被持了、則対顔了、
文書如此、磯邊ト談合了、
山科家雑掌申
西梅津新地行参十石分之事、去天正七年三月二日、故大納言(言継)死去候、
則 上様(織田信長)ヘ女房(言経室冷泉氏)参、御朱印返状申候処、
御上洛候て可被仰付之由御座候つる条、御上洛ニ重而申上候ヘハ、
則故大納言ニ被下候御朱印之旨、此方ヘ被下候而ヨリ以来、
當知行無紛之処ニ、 禁裏様御下代衆、 上様御倉入ト筑前守(秀吉)殿ヘ申掠、
去年十月廿六日被相押候、所詮當知行否之儀、以請取茂可相見候歟、
此旨可然様ニ御取合奉頼存候、
天正十一年八月廿一日 大澤右兵衛大夫重延 判
半夢斎(前田玄以)
廿一日、言経は前田玄以に上記の文書を提出する。山科家が代々引き継いできた「西梅津」の所領三十石について、禁裏(=天皇)の下代に掠め取られたと申し立てている。信長の所で取り上げたように、『言経卿記』天正七年五月二日の条に「前右府ヘ北向・阿茶丸等被罷向了、老父御逝去、然者家領無別儀之由申之、@l躰也、且祝着了、」とあり、確かに信長は言経に西梅津の所領を安堵してくれている。
言経は信長が朱印をもって認めてくれたのに、天皇の下代(=皇室領の下役人)が、この地は信長の蔵入地(=直轄領)であると秀吉に申告して押領し、自分のものにしてしまったと訴えている。去年の十月廿六日とあるので、押領されたのは、ちょうど弟の薄諸光が自害させられ、関所の復活のために言経が動き回っていたのと同月である。(もしかしたら、関銭のことでしつこく動いていたのが、秀吉側から不評を買い、所領が意図的に押領されたのかもしれない)
この件は既に秀吉が下代の所有を認める折紙も出してしまっており、山科家にとってはかなり不利な状勢である。
天正十年の活動も空しく、既に関料の収入も途絶えている。言経は必死に前田玄以に訴え続ける。
十六日、乙未、天晴、
西梅津(山城國葛野郡)舟頭愛洲薬所望由申葉室ヘ来之間、
則遣了、又マヽコ(茶々)、同薬所望、遣了、
十九日、戊戌、天晴、
西梅津ヨリ、去年未進五斗持来了、
廿三日、壬寅、天晴、
就身上之儀、冷泉・四条・河野越中入道等同道、玄以ヘ罷向、
本國寺ニ普請之由有之間、則罷向了、先河野之案内、
筑州(秀吉)内浅野弥兵衛尉(長吉)折帋相渡了、
次対顔、一盞有之、折帋如此、
吉田来、参 内之儀ニ付而、進退之事談合、
指南頼入之由有之間、存分申了、
西梅津が自分のものであることを強調するためか、言経は急に西梅津との遣り取りを日記に記し始める。十六日には西梅津から来た舟頭に愛洲薬をあげ、十九日には去年未進であった米五斗が届いたと書く。
廿三日には「身上之儀」とあるが、これは西梅津のことだろう。言経は為満・隆昌、それに本願寺(妻の姉妹が本願寺顕如の息子に嫁いでいる)から派遣された河野越中入道とまた前田玄以の所に行っている。
既に秀吉側が裁定を下した所領について何度も訴えたせいか、それとも、天皇の下代と揉めたからか。ついには言経の「進退之事」にまで話が及んでいる。同日の吉田は吉田兼見だろう。参内する兼見に言経は「進退之事」を相談して、「指南」を頼んでいる。
この年の八月から十一月に言経が内裏へ出仕した記事はない。正親町天皇に出仕を止められたのか、それとも当人が出仕をしなかったのか。どちらか分からないが、天皇の下代と揉めるのは問題だったのだろう。
ーーー
次の記事は天正十二年の十月〜十二月のみ残る。
天正十二年
十月小
八日、辛亥、天晴、
西梅津知行分ニ免之事申之間、後藤下代中畠(彌介)召寄了、
可然之様ニ免ヲ可遣否之事申談了、与九郎同道了、勧一盞了、
天正十二年も言経は西梅津の知行を手放していない。天候不順か、もしかしたら禁中下代への納付のためか、西梅津から「免之事」の申し出があった。言経は下代の中畠彌介を呼び寄せ、知行分を免除するかどうかの相談をしている。
所領についての問題が解決したのかどうかは記事が少な過ぎて分からない。ただ、昨年より言経は立場を悪くしていたようだ。
それは、翌年の「雑記」で分かる。翌天正十三年、冷泉為満・四条隆昌らとともに山科言経は正親町天皇から勅勘され、公卿の地位も、西梅津の所領も、唯一安堵されていた粟津供御人の供御料も失い、堺へと出奔する羽目になるのだ。
この出奔後については次で。
2014年11月06日
『言経卿記』に見る織田信長
34、天正四年(1576)年〜天正十(1582)年
・言経(33〜39歳) *実年齢
○天正四の主な出来事
一月 織田信長、安土城の築城を開始
天正四年、将軍足利義昭を追い出した織田信長が既に洛中を支配下に置いている。天正十年に本能寺の変が起きるまで、この状況が続く。その間の『言経卿記』から、山科言経と信長・秀吉・家康について見ていきたいと思う。先ずは織田信長から。
正月大
二日、丙申、天晴、
薄(以継)(十疋)・同女房衆(筆一對)等礼ニ来了、
老父ヘ樽、予扇子持来了、
四日、戊戌、天晴、
薄ヘ朝飯ニ老父母・予等罷向了、濟々之儀也、
鞠始少有之、予・薄等両人也、
天正四年正月二日、薄以継(諸光)とその妻が、言経と父言継の所に新年の挨拶にやって来る。この以継は薄家に養子に入った言経の実の弟である。そのため、以継と言経の交流は頻繁で、四日には言経達が薄家に朝食を食べに行っているし、同日には兄弟一緒に蹴鞠をしている。
二月小
一日、乙丑、天晴、
村井長門守(貞勝)ヘ礼ニ老父ト罷向了、
烏丸弁(光宣)・日野(輝資)・廣橋(兼勝)等同罷向了、
茶・吸物・御酒有之、次予近衛(信基)殿ヘ参、
吸物・御酒有之、
二月一日、言経は父言継や他の公卿らと京都所司代の村井貞勝の所に新年の挨拶に出掛けている。茶・吸物・酒を貰った後、言経は近衛信基(信尹)の所ヘ行っている。
三月大
廿日、癸丑、下米、
竹内左兵衛督(長治)被呼之間、午刻ニ罷向了、
先ウトン有之、次夕食有之、少々諷有之、少(小)将棋等有之、
人數、勧修寺入道(尹豊)・中山(孝親)・勧修寺亜相・
老父(言継)・庭田・持明院・甘露寺・予・亭主・源相公・
亭主息・馿庵・安三位(土御門有脩)(早出)等也、
廿八日、辛酉、天晴、
報恩寺普請ヲ見物ニ罷向了、老父・予・葉室弁等也、
二条(晴良)殿近々御移徒云々、右大将(信長)殿ヨリ申付ラレ、
明智十兵衛尉申付云々、次梨門(入道應胤親王)ヘ参了、
御留守了、
三月廿日、竹内長治に招かれて、言経らはうどんと夕食を振る舞われ、諷と将棋を楽しんでいる。この竹内家にいた新庄直定の娘を、慶長九年に言経の息子言緒が嫁に迎える。
廿八日、言経は父と葉室定藤(長教、母の甥)とともに報恩寺の普請見物に出かける。そのとき定藤から聞いたのだろう。信長の命令で二条晴良が「移徒=引越」を明智光秀に「申付」られたとある。
四月小
十日、癸酉、天晴、
二条御父子(晴良・昭實)殿・九条御方(兼孝、實父二条晴良)等、
報恩寺ヘ未刻ニ御徒移(移徒カ)云々、ヨシ七張有之云々、
彼等、右大将(信長)殿ヨリ造作事被申付云々、
先の三月廿八日の記事の通りに、二条家が報恩寺へと移っている。信長が命じている「造作事」は二条御所ではなく、報恩寺の造営の続きだろうか。この後、二条家は改修されて二条御所となり、信長の在京時の宿泊場所となるが、後に皇太子誠仁親王に献上されている。
五月大
一日、癸巳、晴陰、晩小雨、
右大将(信長、宿所妙覚寺)殿ヘ、今日礼ニ各被罷向了、
但無対面(草臥云々)、近衛殿計ニ対面云々、次各帰宅了、
少々後被残了、今日衆者、二条殿・[中略]・老父・庭田・
[中略]・五条(為名)等也、其外門跡衆者、青蓮院殿・
[中略]・三宝院・実相院等也、其外地下、(中原)師廉朝臣・
[中略]・(丹波)頼慶、其外不及記了、次茶子被出了、
二日、甲午、天晴、
右大将(信長)ヘ礼ニ罷向了、各対面也、チマキ有之。
上下群集也、今日衆者、二条殿・[中略]・老父・
庭田・[中略]・予・[中略]五条等也、其外門跡衆者、
仁和寺殿新門主・[中略]・実相院等也、
次老父・予・葉室父子(頼房・長教)・冷泉・薄等令同道、
二条殿御跡、大将殿屋敷ニナルヲ令見物了、
五月一日、二日と連続して、言経は信長の宿泊場所である妙覚寺に出向いている。草臥れていたらしい信長が、近衛信基にしか会わなかったため、他の公卿たちは翌日も出向いたようだ。二日には信長も皆と面会している。言経は信長に会った後、父・葉室頼房(母の弟)・長教(頼房子、定藤)・冷泉為満らと建設中の二条御所を見物している。
五日、丁酉、天晴、
右大将大坂ヘ出陣、未明ニ被立云々、
十二日、甲辰、雨降、
禁中従今夜右大将出陣御祈祷ニ、不動明王護摩有之、
五日に信長は石山本願寺との戦のために大坂へ出陣した。信長の戦勝を祈るため、十二日に宮中で護摩が焚かれている。
六月小
六日、戊辰、天晴、
右大将(信長)従南方上洛之間、妙覚寺門内ニ迎ニ罷向了、
人數、二条殿・[中略]・薄・新蔵人等也、其外地下、
(壬生)朝芳朝臣・[中略]・(賀茂)在綱等也、
其外上下貴賤群集也、
六月六日に信長が戻ってきて妙覚寺に入ると、それを公卿らだけでなく上下貴賤の者達が出迎えている。信長が京都に来る度に同じことが繰り返されるためか、天正七年の二月十八日に「前右大将(信長)御上洛之間、二条屋敷マテ各罷向了、乍去迎衆堂上・地下・町人マテ無用之由有之間帰宅了、」と迎えは無用と言われ、言経は家に帰っている。
八日、信長は公家衆・僧侶らと面会する。家康も関ケ原以後は上洛する度に同じことをしていたが、これは洛中を支配している者の義務だったようだ。
八月大
一日、辛酉、天晴、
村井長門守ヘ礼ニ罷向了、樽代(三十疋)遣了、
八月一日、言経は八朔の贈答を村井貞勝に渡している。信長には贈らないように、言経は家康にもこの八朔の贈答はしていない。しかし、石川家成と板倉勝重には渡していたので、贈答先の範囲は洛中の業務担当者に限っていたようだ。
九月大
廿四日、甲寅、
今日ヨリ発病之間、久不記之、
十一月廿一日、右大将(信長)任内大臣、上卿源大納言(庭田重保)、
奉行(烏丸)光宣朝臣、
十一月廿三日、内府(信長)ヘ冬御袍御直衣(小葵)拝領也、
十二月大
三日、辛酉、陰晴、
去々月ヨリ所労之薬之礼ニ翠竹斎道三(曲直瀬正盛)・
啓迪庵玄朔(曲直瀬正紹)等罷向了、翠ーヘ杉原十帖・
綿一把送之、但留守了、次啓ーヘ板物一端送了、
門前ニテ出合了、
九月に言経は発病し、十二月まで回復しない。廿四日に「久不記」とあり、この廿四日から快癒するまで日記の記述はかなり少なくなる。十一月に信長の内大臣就任と、信長から直衣を貰ったことが記してあるが、これらは治ってから書いたものだ。
十二月三日には出歩けるようになっており、薬をくれた曲直瀬正盛と正紹の所ヘ行き、お礼の品を渡している。
次の天正五年と天正六年の日記は欠けていて、残っているのは天正七年正月からである。
ーーー
○天正七年の主な出来事
三月 山科言継、死去
五月 安土城の天守が完成
六月 竹中半兵衛、死去
八月 築山殿、死去
九月 松平信康、死去
正月大
一日、丁未、天晴、節分、
御祝可参内之處、産穢之間不参了、
三日、己酉、
村井長門守礼ニ被来了、老父・予等ヘ五十疋ツヽ被送了、
七日、癸丑、
村井長門守ヘ礼ニ五十疋持罷向了、即見参了、
同名将監(光晴)二十疋遣了、
天正四年の正月に言経は冷泉為満の姉と結婚し、天正五年二月に言緒(阿茶丸)が生まれている。この天正七年正月の「産穢」は言緒は勿論、天正十年に生まれて同日に没した女子でもない。誰の産穢なのだろう?言経はこの産穢を理由に宮中での御祝に参内していない。
三日には村井貞勝の方から正月の挨拶に来て五十疋を言経と言継に渡している。そのため、七日には貞勝の所ヘ出向き、貞勝に五十疋、同族?の光晴に二十疋を贈っている。
二月十八日に信長が上洛し、先に載せたように迎えを不用と断っている。
三月大
一日、丙午、
前右府(信長)ヘ老父・予等罷向了、無見参了、
各同前也、
前右府ヨリ次ニ、村井長門守ヘ罷向了、腫物平臥云々、
老父御番代ニ参了、
二日、丁未、
老父薄(諸光)ヘ夕飯ニ御出也、(七時分)御膳ニ御向候て中半ニ、
俄心痛之由有之間、即罷向、少験之間、安堵之處ニ、
其儘薨給之間、兎角カンヒヤウモ不相叶之間、予宅ヘ御出也、
夜半計ニ松林院宗順向之間、其マヽ松林院ヘ奉遷也、
哀傷無量云々、傍輩衆・女中衆等各御尋等之御出也、
三月一日、父と信長の所に行くが会えなかった。他の者達も同様であり、言経は次に村井貞勝の所ヘ向かうが、貞勝は腫物で寝込んでいて会えなかった。父言継は既に実年齢で70歳を超えているのだが、この日も当番で参内している。しかし、翌日、弟の薄諸光の所に行った言継は、俄に心臓の痛みを訴え、没する。言継の遺体はその日のうちに松林院に移され、「榜輩衆・女中衆」の弔問を受けた。
五月小
一日、丙午、天晴、
前右府(信長)摂州ヨリ上洛之間、屋敷門外マテ各罷向了、
但無用之由村井長門守被申之間、各帰宅了、三月五日ニ御出陣也、
信長が摂津から戻って来ると、前に「不用」とされたのに言経ら公卿らが二条御所の門外で出迎えをしていた。村井貞勝に再び「無用」と言われて、皆帰っている。信長は三月五日に出陣して、この日帰って来たようだ。
二日、丁未、天晴、
前右府(信長)ヘ罷向了、無対面、粽被出了、次各被帰宅了、
今日衆者、菊亭・[中略]・五辻左馬助等也、
前右府ヘ北向・阿茶丸等被罷向了、老父御逝去、
然者家領無別儀之由申之、@l躰也、且祝着了、
但面顔ニ腫物出来之間、惣別無見参了、
進物帯(生衣、三スチ)進之、其外近所女房衆ツマキ・
小比丘尼・御ヤヽ等ニ、帯(二筋)ツヽ遣了、
其外カヽ 遣了、又末物共・彼侍共遣了、薄女房衆同道了、
二日、言経は再び二条御所へ出向くが、信長とは会えず、粽を貰って皆帰宅した。同日、言経の妻と子の阿茶丸も信長の所へと行く。父言継が亡くなったが、「家領」を変わりなく保証するということであり、言経は「祝着」と書いている。但し、言経らに会わなかったように、妻と阿茶丸も信長には会えていない。「顔面ニ腫物」とあるが、体調には問題がなかったらしく、信長は翌日には「前右府(信長)早朝ニ江州ヘ御下向云々」と近江へ出立している。
廿八日、癸酉、
安土城前右府(信長)ニテ浄土衆、日蓮衆ト宗論、
卯刻有之、然者日蓮衆當座相負了、即普傅・
塩屋傅介等生涯生害了、其外日蓮衆千人計、
久遠院ト(申脱カ)所ヘ被追入了、
其外京都地下人同前ニ被追入了、就其京都騒動不斜也、
澤地(路)隼人・(小川)善大夫・(同)与六、
新サイ家衆速水・江村・大藤・黒川・其外大勢来、
道具已下女房衆少々来了、
廿八日に安土城で浄土衆と日蓮衆の「宗論」があり、日蓮宗が負けた。その敗北により、普傅・塩屋傅介らが「生害=殺害」され、日蓮衆千人が久遠寺に追放された。京都は商人を中心に法華宗が多いため、「京都騒動」となり、言経の家にも大勢が保護を求めに来ている。
六月大
九日、癸未、
村井長門守ヘ罷向之處ニ、烏丸町木屋薬師寺堂向ニ(之カ)
等相坊ニ遊山之由有之間、即罷向了、香薷散二両半遣了、
平臥之間、乍自由不対顔之由申了、
十四日、戌(戊)子、陰、入夜風雨、
薄被来了、梅津ヘ被帰了、
六月九日、村井貞勝が具合を悪くしていたため、言経が香薷散をあげている。わざわざ届けているが、貞勝が寝ていたため、会えてはいない。
十四日、弟の薄諸光が言経の所に来て、その後「梅津」に帰っている。梅津は山科家の所領であるが、こちらに帰るということは、収入を安定させるために居住する必要があったのか、薄家がかなり困窮して洛中で生活できなくなってしまったか、のどちらかであろう。
十八日、壬辰、
伏見(邦房親王)殿御直衣(夏)、色付之儀承之間、
今日相調進了、
山科家は衣文・装束が家業である。家康・秀忠の参内に多いに貢献していたが、もともとはこの十八日のように直衣の色などがよく分からないときにその質問に答えたり、宮中で必要な装束を誂えるのが職務であった。
天正七年は春、夏までしか日記が残っていない。天正八・九年も欠けていて、次は天正十年から、となる。
ーーー
○天正十年の主な出来事
三月 武田氏、滅亡
六月 本能寺の変
天正十年の正月、山科言経は村井貞勝の所に新年の挨拶に出掛けている。冷泉為満と四条隆昌も同行しており、この三人が勅勘前から行動を共にしているのが分かる。天正十年は上にあるように本能寺の変が起きる。足利義昭追放以来、洛中の権力者であった信長がいなくなる。そして、信長の退場は山科家の状況を悪化させる。次の洛中の支配者となった羽柴秀吉は、山科家にとって良い権力者ではないのだ。
正月大
六日、乙丑、天霽、
前右府(信長)ヨリハツ鯨被賜了、祝着了、
春長軒ヨリ立入(隆佐)持来了、後刻春長軒ヨリ、
禁中・御方(誠仁親王)御所様已下、摂家・堂上中ヘ
被進(遣)之由、目六申間書之遣了、
正月六日、信長が宮中に「ハツ鯨=初鯨」を献上している。村井貞勝が持って来て、天皇、親王、摂家、堂上衆へと配ったようだ。言経は目録を書くよう頼まれたようで、書いてあげている。信長は前(永禄十二年)にも宮中に「鯨」を献上していて、父言継がお裾分けに預かっている。が、貰って帰る途中で一切れを鵄(とび)にさらわれてしまっている。外に見える状態で持ち帰っていたようだ。
廿二日、辛巳、天晴、
大津衆粟津屋来、公事論之事談合了、後刻村井又兵衛・
同将監ヘ使者遣了、公事論事申了、
大津衆粟津屋というのは、粟津供御人のことである。彼らは山科家の庇護下にあって、公家役免除・関料免除の特権を持っていた。この廿二日の公事にある「公事論之事談合」はその特権に関する相談であろう。粟津供御人はこの特権で洛中で勢力を伸ばしてた経緯がある。言経は京都所司代にその問題を持ち込んでいる。
三月大
一日、己未、霽、小雨、
安土城ヘ當年音信ニ御局ヨリ官女、北向方ヨリ官女(小少将)、
音信共相遣了、
四日、壬戌、天晴、
安土城ヨリ御局官女・予官女等上洛了、仕合吉之由申了、
三月一日、「音信」のために御局(冷泉為満の妹で誠仁親王との間に一子あり)と言経の妻が「官女」を安土城に派遣している。三月一日の話なので、新年の挨拶だろう。この女官達は四日に戻ってきて、「仕合吉」、つまり、無事に挨拶は済んだと報告している。ただ、後に言経が安土城に行くので分かるが、彼が行く際には「祈祷」を頼んでから出立している。それほど道中や対応に不安があるような所に女性を派遣していいのだろうか。
九日、丁卯、天晴、
村井又兵衛・同将監ヘ人ヲ遣了、大津塩之事也、
此間毎日将監ヘ遣之トイヘ共、無一途了、
十一日、己巳、天晴、
大津者鮒(五)、持来了、
村井又兵衛ヘ大津者鮒(廿)・同内冬木軒(五)遣了間、
此方ヨリ両使相添遣了由申了、
廿一日、己卯、下米、
粟津座人(ツホ)商買之処、先日従一条(内基)、
関白領トテ相留了、昨日来申間、即一条殿ヘ申処ニ、
御客来之由有之、今日又使者ヲ進之申了、座人共来了、
種々談合了、
四月小
七日、乙未、天晴、入夜下米、
村井将監ヨリ使者有之、去々年巳来大津者塩ヲ東坊城支置之、
然間此中切々将監ニ申処ニ、来十日ニ塩竈可返之由被申越也、
後刻将監ヘ使者遣了、先刻之塩之儀祝着之由申、留守之由了、
九日、言経はまた京都所司代に人をやっている。前の公事の続きかと思いきや、今度は「大津塩之事」とある。この「塩之事」とは、廿一日と四月七日の条にあるように、粟津供御人である大津者の商売用の塩が「去々年=一昨年」から東坊城に留め置かれている件についてだ。この件は京都所司代の介入で解決し、十日に「塩竃」は返されることとなった。言経は十一日に京都所司代に大津者が持って来た鮒を送っている。手間をかけますが、ヨロシクということだろう。
三月大
廿日、戊寅、天晴、
去十一日甲斐國戦有之、去月以来之由、三位中将(信忠)殿御発向、
武田一党悉生打死了、前右府(信忠)信濃國ニ御在陣也云々、
珎重々々、
廿九日、丁亥、天晴、
去夜ヨリ腹ヲ被痛、少々ツヽ、卯刻ニ北向産女子、但軈而卒、
不可説々々々、各見舞ニ入来了、冷泉・四条・中殿・御局、
其外冷泉家中衆悉入来了、祝儀申付了、小川善大夫味噌カマス等持来了、
四月小
一日、己丑、天晴、
四条妻(御茶々、冷泉氏)入夜産所見舞ニ被来了、
錫(イリコ、コフ)等被携之、則勧酒了、
三月に戻って廿八日、言経は武田一族が滅亡したと記し、織田家の勝利を「珎重」と喜ぶ。洛中を支配している織田方の味方をするのは当然なのだが、山科家の場合はもう一つ事情がある。それは、今川家にいた言継の養母が武田氏に攻め込まれたせいで、相模に落ち延び、そこで亡くなった件だ。武田への遺恨もこの「珎重」に込められているのかもしれない。
廿九日、言経の妻が女子を産むが、その子は直ぐに亡くなってしまう。言経は「不可説」と嘆く。見舞のために為満らや妻の実家の者達が全員駆け付けている。四月一日には四条の妻御茶々が来ている。ここに冷泉氏とあるから、彼女も言経の妻とは何らかの血縁関係があるようだ。言経は御茶々に酒を勧めている。
八日、丙申、天晴、
陰陽頭(土御門)久脩、前右府(信長)ヨリ御執 奏ニテ加堂上、
(久脩)、二月二十二日、六位ニ郤退サル)
去月由也、則 勅許由云々、今日諸家礼ニ罷出云々、
予所へも来了、諸事頼入之由申了、
八日に信長の取り成しで、勅許された土御門久脩が言経の所に挨拶に来ている。この久脩は、後に秀次事件?に巻き込まれて再び宮中から追放され、今度は家康によって京都に戻され復帰する。つまり、信長と家康には助けられているが、秀吉には追い出されているのだ。この久脩の浮沈は言経と似てもいる。
廿四日、壬子、天晴、八專、
仁和寺(入道任助親王)殿ヘ書状進了、小川善大夫也、
明日安土城ヘ発足、然者御祈念之儀申入了、軈而御護(一)、
被下了、
廿五日、癸丑、天晴、
近江安土城(前右府亭)早朝発足、冷泉同道了、
四条・阿茶丸等三町計送ニ来了、次大津浦ヨリ乗舟了、
堅田ニテ相休了、小食有之、次戌刻ニ下着了、
御ノホリサシ宮若所也、次夕食已後相臥了、出行之文三書之、
宿所ヘ三町計出了草歟枝結付、マホリ(一)也、
然者善悪(日)不撰出行不苦之文也、如此、
廿四日、言経は明日安土城に行くからと入道任助親王に「祈念=祈祷」を頼んでお札を貰っている。恐らく、それだけ道中や相手方の対応に不安があったのだろう。なのに、三月一日には官女達を安土城に行かせている。使用人のことはどうでもいいのだろうか。翌日早朝に為満と一緒に出立して、その日のうちに到着している。宿に着いてからも枝に守り紙を結んでいる。何がそんなに不安だったのか。
廿六日、甲寅、天晴、
御城(安土城)ヘ為御礼、先楠長安(譜)ヘ案内了、
次冷泉同道参了、御門マテ参之処、長安出合了、
只今御晝寝之間、進物計先請取了、進物者予方ヨリ帯帯(五筋)
冷ゆかけ(二)等也、先々長安宿所ニテ可相待之由申之間、
其邊見物已後罷向了、冷泉・予等也、女房衆ヨリトテ茶子出了、
次ムキ・吸物等有之、長安ハ御前之由也、次ニ冷泉ヨリ長安ヘ樽代、
同女房ヘ白粉、予方ヨリ一荷両種等遣了、次長安ヨリノ書状有之、
進物皆々進上、御祝着之由有之由有之間、則長安ヨリ罷帰了、
次楠長安子息甚四郎(正辰)ヘ罷向了、冷泉ヨリ樽代、
予一荷両種、同女房衆(北向イモト)盃(各二)等遣了、
則一盞有之、次帰了、次亭主一盞振舞、蛤其外肴有之、
次町々見物、次町屋ニテムキ有之、次高野山本願光政上人ヘ罷向了、
冷泉ヨリ樽代、予ヨリ扇子三本遣了、次帰了、
入夜クワイライ見物了、御城見事言語道断、先代未聞結構々々、
不及筆舌了、
安土城に行くため、先に楠長譜の所ヘ向かっている。長譜はかつて言継の家の近くに住んでいた。彼の息子正辰には為満の妹(言経の妻の妹)「御春」が嫁いでいる。言経は長譜を介して「進物=帯、弓懸」を信長に進上する。辺りを見物してから、長譜の「宿所」で結果を待っていると、「御祝着」との書状が長譜から届く。進物の贈呈は上手くいったようだ。言経は安土城のことを「見事言語道断」「先代未聞」「不及筆舌」と長〜い日記の中でも一番の驚きをもって記している。
翌日、言経と為満は御春の夫正辰が貸してくれた馬に乗って草津まで行き、そこからは恐らく歩いて帰っている。
五月小
一日、戊午、天晴、入夜下米、
楠長安(譜)ヘ書状遣了、先日礼也、冷泉ヘ好便之条遣了、
十二日、己巳、天晴、
白川(雅朝)妻ヨリ平家九巻被誂了、前右府(信長)妾御ナヘ本也云々、
先日一册書之、又来了、
五月一日、言経は楠長譜に礼の手紙を出す。十二日には白川雅朝の妻に平家物語九巻を誂えるよう頼まれる。信長の妾「御ナヘ=お鍋の方」に渡す本であるらしい。
十四日、辛未、天霽、
冷泉ヨリ皮籠借用、遣了、明日安土城ヘ発足也云々、
十五日、壬申、雨、
早朝ニ冷泉安土城ヘ下向也、暇乞ニ被来了、
十四日、為満が安土城に持って行くため、「皮籠」を言経の所に借りに来る。この「皮籠」は家康のときに言経が用意を任されたのと同じ物だろう。参内したときに装束を入れる籠だ。
慶長九年五月の条に「十三日、大和三位入道宗恕ヘ予・内蔵頭等罷向了、武家御装束入テ参 内之時シヽカハコノ事談合了、」「内府(家康)ヘ暮々罷向了、長櫃・シヽカハコ之事談合了、シヽカハコ可見之由有間、長橋殿参了、古キシヽカハコ有間、令借用了、内府ヘ懸御目了、」とあり、今後、参内が増えるであろう家康のために、相談を受けた言経が参考用にと長橋殿に古い皮籠を借りて来て家康に見せている。
言経から「皮籠」を借りた為満は十五日に安土城に向けて出立している。言経が参考用の皮籠を長橋殿から借りていることからして、安土城に為満が持って行った皮籠は城と共に焼けるか、本能寺後の混乱のさなか、盗まれるかしたのだろう。
信長が「皮籠」を作るつもりであったのなら、家康のときと同様、宮中への参内が増える予定があったということだ。「何」の用件で参内するつもりだったのだろう。
本能寺の変はこの半月後である。
廿一日、戊寅、天晴、
冷泉従江州上洛了、直ニ被来了、行水申付了、
三位中将(信忠)殿・参川徳川等上洛了、
廿一日、為満が戻って来ている。安土城からは一日もあれば帰って来られる。六日もかかっているのは、今回の用件にそれなりに時間がかかったからか。為満が汚れていたのか、言経は帰って来た彼に行水をさせている。同日、信忠と家康が上洛している。
廿九日、丙戌、下米、
前右府(信長)御上洛了、
六月大
一日、丁亥、晴陰、雨、天霽、
前右府ヘ礼ニ罷向了、見参也、進物者被返了、参會衆者、
近衛(前久)殿・[中略]・予・[中略]・唐橋(在通)等也、
其外僧中・地下少々有之、不及記ー、數刻御雑談、茶子・
茶有之、大慶々々、
二日、戊子、晴陰、
卯刻前右府(本能寺)ヘ明智日向守依謀叛押寄了、則時ニ前右府打死、
同三位中将(妙覚寺ヲ)出テ、下御所(誠仁親王御所)ヘ取籠之處ニ、
同押寄、後刻打死、村井春長軒已下悉打死了、
下御所ハ辰刻ニ上御所(内裏)ヘ御渡御了、言語道断之躰也、
京洛中騒動、不及是非了、
五月廿九日に信長が上洛し、本能寺に入る。六月一日には公卿らがいつものように信長と面会して、茶と茶菓子を貰っている。「無用」がようやく行き届いたのか、今回は宿泊場所での出迎えは見られない。
翌日が本能寺の変である。情報の正確さからして、毎度のように言経は当日にこれを書いていない。後日に清書をしている。信長は「打死」とある。実はドラマのように炎の中で自害というのは全くの未確認情報であり、信長がどうやって死んだのかは分かっていないのだ。言経は戦って死んだと記している。三位中将は信長の息子信忠のことである。こちらも「下御所=二条御所」で「打死」とあり、京都所司代の村井貞勝らも同所でことごとく「打死」となっている。付き合いがそれなりにあった貞勝の死も言経は特に感想もなく記している。
二条御所にいた誠仁親王は内裏へと逃げ込んでいる。この後、三日、四日と「洛中騒動不斜、」と洛中の混乱振りが簡潔に書かれている。
『言経卿記』に見られる織田信長関係の記事は以上である。家康ほど近しくはないが、洛中の支配者である信長に公卿らがどう接していたのかがよく分かる内容だ。応仁の乱以後、洛中を治める権力者は頻繁に入れ替わり、零落した公卿らは彼らに所領の安堵や洛中の安全を委ねた。しかし、信長と信忠が死んだことで、またしても頼みにすべき大名が誰だか分からなくなった。本能寺の変後の混乱はその不安を背景としてもいるのだろう。
明智光秀を倒して台頭し、次の畿内の権力者となったのは羽柴秀吉である。
言経と秀吉の関係については、次の記事とする。
・言経(33〜39歳) *実年齢
○天正四の主な出来事
一月 織田信長、安土城の築城を開始
天正四年、将軍足利義昭を追い出した織田信長が既に洛中を支配下に置いている。天正十年に本能寺の変が起きるまで、この状況が続く。その間の『言経卿記』から、山科言経と信長・秀吉・家康について見ていきたいと思う。先ずは織田信長から。
正月大
二日、丙申、天晴、
薄(以継)(十疋)・同女房衆(筆一對)等礼ニ来了、
老父ヘ樽、予扇子持来了、
四日、戊戌、天晴、
薄ヘ朝飯ニ老父母・予等罷向了、濟々之儀也、
鞠始少有之、予・薄等両人也、
天正四年正月二日、薄以継(諸光)とその妻が、言経と父言継の所に新年の挨拶にやって来る。この以継は薄家に養子に入った言経の実の弟である。そのため、以継と言経の交流は頻繁で、四日には言経達が薄家に朝食を食べに行っているし、同日には兄弟一緒に蹴鞠をしている。
二月小
一日、乙丑、天晴、
村井長門守(貞勝)ヘ礼ニ老父ト罷向了、
烏丸弁(光宣)・日野(輝資)・廣橋(兼勝)等同罷向了、
茶・吸物・御酒有之、次予近衛(信基)殿ヘ参、
吸物・御酒有之、
二月一日、言経は父言継や他の公卿らと京都所司代の村井貞勝の所に新年の挨拶に出掛けている。茶・吸物・酒を貰った後、言経は近衛信基(信尹)の所ヘ行っている。
三月大
廿日、癸丑、下米、
竹内左兵衛督(長治)被呼之間、午刻ニ罷向了、
先ウトン有之、次夕食有之、少々諷有之、少(小)将棋等有之、
人數、勧修寺入道(尹豊)・中山(孝親)・勧修寺亜相・
老父(言継)・庭田・持明院・甘露寺・予・亭主・源相公・
亭主息・馿庵・安三位(土御門有脩)(早出)等也、
廿八日、辛酉、天晴、
報恩寺普請ヲ見物ニ罷向了、老父・予・葉室弁等也、
二条(晴良)殿近々御移徒云々、右大将(信長)殿ヨリ申付ラレ、
明智十兵衛尉申付云々、次梨門(入道應胤親王)ヘ参了、
御留守了、
三月廿日、竹内長治に招かれて、言経らはうどんと夕食を振る舞われ、諷と将棋を楽しんでいる。この竹内家にいた新庄直定の娘を、慶長九年に言経の息子言緒が嫁に迎える。
廿八日、言経は父と葉室定藤(長教、母の甥)とともに報恩寺の普請見物に出かける。そのとき定藤から聞いたのだろう。信長の命令で二条晴良が「移徒=引越」を明智光秀に「申付」られたとある。
四月小
十日、癸酉、天晴、
二条御父子(晴良・昭實)殿・九条御方(兼孝、實父二条晴良)等、
報恩寺ヘ未刻ニ御徒移(移徒カ)云々、ヨシ七張有之云々、
彼等、右大将(信長)殿ヨリ造作事被申付云々、
先の三月廿八日の記事の通りに、二条家が報恩寺へと移っている。信長が命じている「造作事」は二条御所ではなく、報恩寺の造営の続きだろうか。この後、二条家は改修されて二条御所となり、信長の在京時の宿泊場所となるが、後に皇太子誠仁親王に献上されている。
五月大
一日、癸巳、晴陰、晩小雨、
右大将(信長、宿所妙覚寺)殿ヘ、今日礼ニ各被罷向了、
但無対面(草臥云々)、近衛殿計ニ対面云々、次各帰宅了、
少々後被残了、今日衆者、二条殿・[中略]・老父・庭田・
[中略]・五条(為名)等也、其外門跡衆者、青蓮院殿・
[中略]・三宝院・実相院等也、其外地下、(中原)師廉朝臣・
[中略]・(丹波)頼慶、其外不及記了、次茶子被出了、
二日、甲午、天晴、
右大将(信長)ヘ礼ニ罷向了、各対面也、チマキ有之。
上下群集也、今日衆者、二条殿・[中略]・老父・
庭田・[中略]・予・[中略]五条等也、其外門跡衆者、
仁和寺殿新門主・[中略]・実相院等也、
次老父・予・葉室父子(頼房・長教)・冷泉・薄等令同道、
二条殿御跡、大将殿屋敷ニナルヲ令見物了、
五月一日、二日と連続して、言経は信長の宿泊場所である妙覚寺に出向いている。草臥れていたらしい信長が、近衛信基にしか会わなかったため、他の公卿たちは翌日も出向いたようだ。二日には信長も皆と面会している。言経は信長に会った後、父・葉室頼房(母の弟)・長教(頼房子、定藤)・冷泉為満らと建設中の二条御所を見物している。
五日、丁酉、天晴、
右大将大坂ヘ出陣、未明ニ被立云々、
十二日、甲辰、雨降、
禁中従今夜右大将出陣御祈祷ニ、不動明王護摩有之、
五日に信長は石山本願寺との戦のために大坂へ出陣した。信長の戦勝を祈るため、十二日に宮中で護摩が焚かれている。
六月小
六日、戊辰、天晴、
右大将(信長)従南方上洛之間、妙覚寺門内ニ迎ニ罷向了、
人數、二条殿・[中略]・薄・新蔵人等也、其外地下、
(壬生)朝芳朝臣・[中略]・(賀茂)在綱等也、
其外上下貴賤群集也、
六月六日に信長が戻ってきて妙覚寺に入ると、それを公卿らだけでなく上下貴賤の者達が出迎えている。信長が京都に来る度に同じことが繰り返されるためか、天正七年の二月十八日に「前右大将(信長)御上洛之間、二条屋敷マテ各罷向了、乍去迎衆堂上・地下・町人マテ無用之由有之間帰宅了、」と迎えは無用と言われ、言経は家に帰っている。
八日、信長は公家衆・僧侶らと面会する。家康も関ケ原以後は上洛する度に同じことをしていたが、これは洛中を支配している者の義務だったようだ。
八月大
一日、辛酉、天晴、
村井長門守ヘ礼ニ罷向了、樽代(三十疋)遣了、
八月一日、言経は八朔の贈答を村井貞勝に渡している。信長には贈らないように、言経は家康にもこの八朔の贈答はしていない。しかし、石川家成と板倉勝重には渡していたので、贈答先の範囲は洛中の業務担当者に限っていたようだ。
九月大
廿四日、甲寅、
今日ヨリ発病之間、久不記之、
十一月廿一日、右大将(信長)任内大臣、上卿源大納言(庭田重保)、
奉行(烏丸)光宣朝臣、
十一月廿三日、内府(信長)ヘ冬御袍御直衣(小葵)拝領也、
十二月大
三日、辛酉、陰晴、
去々月ヨリ所労之薬之礼ニ翠竹斎道三(曲直瀬正盛)・
啓迪庵玄朔(曲直瀬正紹)等罷向了、翠ーヘ杉原十帖・
綿一把送之、但留守了、次啓ーヘ板物一端送了、
門前ニテ出合了、
九月に言経は発病し、十二月まで回復しない。廿四日に「久不記」とあり、この廿四日から快癒するまで日記の記述はかなり少なくなる。十一月に信長の内大臣就任と、信長から直衣を貰ったことが記してあるが、これらは治ってから書いたものだ。
十二月三日には出歩けるようになっており、薬をくれた曲直瀬正盛と正紹の所ヘ行き、お礼の品を渡している。
次の天正五年と天正六年の日記は欠けていて、残っているのは天正七年正月からである。
ーーー
○天正七年の主な出来事
三月 山科言継、死去
五月 安土城の天守が完成
六月 竹中半兵衛、死去
八月 築山殿、死去
九月 松平信康、死去
正月大
一日、丁未、天晴、節分、
御祝可参内之處、産穢之間不参了、
三日、己酉、
村井長門守礼ニ被来了、老父・予等ヘ五十疋ツヽ被送了、
七日、癸丑、
村井長門守ヘ礼ニ五十疋持罷向了、即見参了、
同名将監(光晴)二十疋遣了、
天正四年の正月に言経は冷泉為満の姉と結婚し、天正五年二月に言緒(阿茶丸)が生まれている。この天正七年正月の「産穢」は言緒は勿論、天正十年に生まれて同日に没した女子でもない。誰の産穢なのだろう?言経はこの産穢を理由に宮中での御祝に参内していない。
三日には村井貞勝の方から正月の挨拶に来て五十疋を言経と言継に渡している。そのため、七日には貞勝の所ヘ出向き、貞勝に五十疋、同族?の光晴に二十疋を贈っている。
二月十八日に信長が上洛し、先に載せたように迎えを不用と断っている。
三月大
一日、丙午、
前右府(信長)ヘ老父・予等罷向了、無見参了、
各同前也、
前右府ヨリ次ニ、村井長門守ヘ罷向了、腫物平臥云々、
老父御番代ニ参了、
二日、丁未、
老父薄(諸光)ヘ夕飯ニ御出也、(七時分)御膳ニ御向候て中半ニ、
俄心痛之由有之間、即罷向、少験之間、安堵之處ニ、
其儘薨給之間、兎角カンヒヤウモ不相叶之間、予宅ヘ御出也、
夜半計ニ松林院宗順向之間、其マヽ松林院ヘ奉遷也、
哀傷無量云々、傍輩衆・女中衆等各御尋等之御出也、
三月一日、父と信長の所に行くが会えなかった。他の者達も同様であり、言経は次に村井貞勝の所ヘ向かうが、貞勝は腫物で寝込んでいて会えなかった。父言継は既に実年齢で70歳を超えているのだが、この日も当番で参内している。しかし、翌日、弟の薄諸光の所に行った言継は、俄に心臓の痛みを訴え、没する。言継の遺体はその日のうちに松林院に移され、「榜輩衆・女中衆」の弔問を受けた。
五月小
一日、丙午、天晴、
前右府(信長)摂州ヨリ上洛之間、屋敷門外マテ各罷向了、
但無用之由村井長門守被申之間、各帰宅了、三月五日ニ御出陣也、
信長が摂津から戻って来ると、前に「不用」とされたのに言経ら公卿らが二条御所の門外で出迎えをしていた。村井貞勝に再び「無用」と言われて、皆帰っている。信長は三月五日に出陣して、この日帰って来たようだ。
二日、丁未、天晴、
前右府(信長)ヘ罷向了、無対面、粽被出了、次各被帰宅了、
今日衆者、菊亭・[中略]・五辻左馬助等也、
前右府ヘ北向・阿茶丸等被罷向了、老父御逝去、
然者家領無別儀之由申之、@l躰也、且祝着了、
但面顔ニ腫物出来之間、惣別無見参了、
進物帯(生衣、三スチ)進之、其外近所女房衆ツマキ・
小比丘尼・御ヤヽ等ニ、帯(二筋)ツヽ遣了、
其外カヽ 遣了、又末物共・彼侍共遣了、薄女房衆同道了、
二日、言経は再び二条御所へ出向くが、信長とは会えず、粽を貰って皆帰宅した。同日、言経の妻と子の阿茶丸も信長の所へと行く。父言継が亡くなったが、「家領」を変わりなく保証するということであり、言経は「祝着」と書いている。但し、言経らに会わなかったように、妻と阿茶丸も信長には会えていない。「顔面ニ腫物」とあるが、体調には問題がなかったらしく、信長は翌日には「前右府(信長)早朝ニ江州ヘ御下向云々」と近江へ出立している。
廿八日、癸酉、
安土城前右府(信長)ニテ浄土衆、日蓮衆ト宗論、
卯刻有之、然者日蓮衆當座相負了、即普傅・
塩屋傅介等生涯生害了、其外日蓮衆千人計、
久遠院ト(申脱カ)所ヘ被追入了、
其外京都地下人同前ニ被追入了、就其京都騒動不斜也、
澤地(路)隼人・(小川)善大夫・(同)与六、
新サイ家衆速水・江村・大藤・黒川・其外大勢来、
道具已下女房衆少々来了、
廿八日に安土城で浄土衆と日蓮衆の「宗論」があり、日蓮宗が負けた。その敗北により、普傅・塩屋傅介らが「生害=殺害」され、日蓮衆千人が久遠寺に追放された。京都は商人を中心に法華宗が多いため、「京都騒動」となり、言経の家にも大勢が保護を求めに来ている。
六月大
九日、癸未、
村井長門守ヘ罷向之處ニ、烏丸町木屋薬師寺堂向ニ(之カ)
等相坊ニ遊山之由有之間、即罷向了、香薷散二両半遣了、
平臥之間、乍自由不対顔之由申了、
十四日、戌(戊)子、陰、入夜風雨、
薄被来了、梅津ヘ被帰了、
六月九日、村井貞勝が具合を悪くしていたため、言経が香薷散をあげている。わざわざ届けているが、貞勝が寝ていたため、会えてはいない。
十四日、弟の薄諸光が言経の所に来て、その後「梅津」に帰っている。梅津は山科家の所領であるが、こちらに帰るということは、収入を安定させるために居住する必要があったのか、薄家がかなり困窮して洛中で生活できなくなってしまったか、のどちらかであろう。
十八日、壬辰、
伏見(邦房親王)殿御直衣(夏)、色付之儀承之間、
今日相調進了、
山科家は衣文・装束が家業である。家康・秀忠の参内に多いに貢献していたが、もともとはこの十八日のように直衣の色などがよく分からないときにその質問に答えたり、宮中で必要な装束を誂えるのが職務であった。
天正七年は春、夏までしか日記が残っていない。天正八・九年も欠けていて、次は天正十年から、となる。
ーーー
○天正十年の主な出来事
三月 武田氏、滅亡
六月 本能寺の変
天正十年の正月、山科言経は村井貞勝の所に新年の挨拶に出掛けている。冷泉為満と四条隆昌も同行しており、この三人が勅勘前から行動を共にしているのが分かる。天正十年は上にあるように本能寺の変が起きる。足利義昭追放以来、洛中の権力者であった信長がいなくなる。そして、信長の退場は山科家の状況を悪化させる。次の洛中の支配者となった羽柴秀吉は、山科家にとって良い権力者ではないのだ。
正月大
六日、乙丑、天霽、
前右府(信長)ヨリハツ鯨被賜了、祝着了、
春長軒ヨリ立入(隆佐)持来了、後刻春長軒ヨリ、
禁中・御方(誠仁親王)御所様已下、摂家・堂上中ヘ
被進(遣)之由、目六申間書之遣了、
正月六日、信長が宮中に「ハツ鯨=初鯨」を献上している。村井貞勝が持って来て、天皇、親王、摂家、堂上衆へと配ったようだ。言経は目録を書くよう頼まれたようで、書いてあげている。信長は前(永禄十二年)にも宮中に「鯨」を献上していて、父言継がお裾分けに預かっている。が、貰って帰る途中で一切れを鵄(とび)にさらわれてしまっている。外に見える状態で持ち帰っていたようだ。
廿二日、辛巳、天晴、
大津衆粟津屋来、公事論之事談合了、後刻村井又兵衛・
同将監ヘ使者遣了、公事論事申了、
大津衆粟津屋というのは、粟津供御人のことである。彼らは山科家の庇護下にあって、公家役免除・関料免除の特権を持っていた。この廿二日の公事にある「公事論之事談合」はその特権に関する相談であろう。粟津供御人はこの特権で洛中で勢力を伸ばしてた経緯がある。言経は京都所司代にその問題を持ち込んでいる。
三月大
一日、己未、霽、小雨、
安土城ヘ當年音信ニ御局ヨリ官女、北向方ヨリ官女(小少将)、
音信共相遣了、
四日、壬戌、天晴、
安土城ヨリ御局官女・予官女等上洛了、仕合吉之由申了、
三月一日、「音信」のために御局(冷泉為満の妹で誠仁親王との間に一子あり)と言経の妻が「官女」を安土城に派遣している。三月一日の話なので、新年の挨拶だろう。この女官達は四日に戻ってきて、「仕合吉」、つまり、無事に挨拶は済んだと報告している。ただ、後に言経が安土城に行くので分かるが、彼が行く際には「祈祷」を頼んでから出立している。それほど道中や対応に不安があるような所に女性を派遣していいのだろうか。
九日、丁卯、天晴、
村井又兵衛・同将監ヘ人ヲ遣了、大津塩之事也、
此間毎日将監ヘ遣之トイヘ共、無一途了、
十一日、己巳、天晴、
大津者鮒(五)、持来了、
村井又兵衛ヘ大津者鮒(廿)・同内冬木軒(五)遣了間、
此方ヨリ両使相添遣了由申了、
廿一日、己卯、下米、
粟津座人(ツホ)商買之処、先日従一条(内基)、
関白領トテ相留了、昨日来申間、即一条殿ヘ申処ニ、
御客来之由有之、今日又使者ヲ進之申了、座人共来了、
種々談合了、
四月小
七日、乙未、天晴、入夜下米、
村井将監ヨリ使者有之、去々年巳来大津者塩ヲ東坊城支置之、
然間此中切々将監ニ申処ニ、来十日ニ塩竈可返之由被申越也、
後刻将監ヘ使者遣了、先刻之塩之儀祝着之由申、留守之由了、
九日、言経はまた京都所司代に人をやっている。前の公事の続きかと思いきや、今度は「大津塩之事」とある。この「塩之事」とは、廿一日と四月七日の条にあるように、粟津供御人である大津者の商売用の塩が「去々年=一昨年」から東坊城に留め置かれている件についてだ。この件は京都所司代の介入で解決し、十日に「塩竃」は返されることとなった。言経は十一日に京都所司代に大津者が持って来た鮒を送っている。手間をかけますが、ヨロシクということだろう。
三月大
廿日、戊寅、天晴、
去十一日甲斐國戦有之、去月以来之由、三位中将(信忠)殿御発向、
武田一党悉生打死了、前右府(信忠)信濃國ニ御在陣也云々、
珎重々々、
廿九日、丁亥、天晴、
去夜ヨリ腹ヲ被痛、少々ツヽ、卯刻ニ北向産女子、但軈而卒、
不可説々々々、各見舞ニ入来了、冷泉・四条・中殿・御局、
其外冷泉家中衆悉入来了、祝儀申付了、小川善大夫味噌カマス等持来了、
四月小
一日、己丑、天晴、
四条妻(御茶々、冷泉氏)入夜産所見舞ニ被来了、
錫(イリコ、コフ)等被携之、則勧酒了、
三月に戻って廿八日、言経は武田一族が滅亡したと記し、織田家の勝利を「珎重」と喜ぶ。洛中を支配している織田方の味方をするのは当然なのだが、山科家の場合はもう一つ事情がある。それは、今川家にいた言継の養母が武田氏に攻め込まれたせいで、相模に落ち延び、そこで亡くなった件だ。武田への遺恨もこの「珎重」に込められているのかもしれない。
廿九日、言経の妻が女子を産むが、その子は直ぐに亡くなってしまう。言経は「不可説」と嘆く。見舞のために為満らや妻の実家の者達が全員駆け付けている。四月一日には四条の妻御茶々が来ている。ここに冷泉氏とあるから、彼女も言経の妻とは何らかの血縁関係があるようだ。言経は御茶々に酒を勧めている。
八日、丙申、天晴、
陰陽頭(土御門)久脩、前右府(信長)ヨリ御執 奏ニテ加堂上、
(久脩)、二月二十二日、六位ニ郤退サル)
去月由也、則 勅許由云々、今日諸家礼ニ罷出云々、
予所へも来了、諸事頼入之由申了、
八日に信長の取り成しで、勅許された土御門久脩が言経の所に挨拶に来ている。この久脩は、後に秀次事件?に巻き込まれて再び宮中から追放され、今度は家康によって京都に戻され復帰する。つまり、信長と家康には助けられているが、秀吉には追い出されているのだ。この久脩の浮沈は言経と似てもいる。
廿四日、壬子、天晴、八專、
仁和寺(入道任助親王)殿ヘ書状進了、小川善大夫也、
明日安土城ヘ発足、然者御祈念之儀申入了、軈而御護(一)、
被下了、
廿五日、癸丑、天晴、
近江安土城(前右府亭)早朝発足、冷泉同道了、
四条・阿茶丸等三町計送ニ来了、次大津浦ヨリ乗舟了、
堅田ニテ相休了、小食有之、次戌刻ニ下着了、
御ノホリサシ宮若所也、次夕食已後相臥了、出行之文三書之、
宿所ヘ三町計出了草歟枝結付、マホリ(一)也、
然者善悪(日)不撰出行不苦之文也、如此、
廿四日、言経は明日安土城に行くからと入道任助親王に「祈念=祈祷」を頼んでお札を貰っている。恐らく、それだけ道中や相手方の対応に不安があったのだろう。なのに、三月一日には官女達を安土城に行かせている。使用人のことはどうでもいいのだろうか。翌日早朝に為満と一緒に出立して、その日のうちに到着している。宿に着いてからも枝に守り紙を結んでいる。何がそんなに不安だったのか。
廿六日、甲寅、天晴、
御城(安土城)ヘ為御礼、先楠長安(譜)ヘ案内了、
次冷泉同道参了、御門マテ参之処、長安出合了、
只今御晝寝之間、進物計先請取了、進物者予方ヨリ帯帯(五筋)
冷ゆかけ(二)等也、先々長安宿所ニテ可相待之由申之間、
其邊見物已後罷向了、冷泉・予等也、女房衆ヨリトテ茶子出了、
次ムキ・吸物等有之、長安ハ御前之由也、次ニ冷泉ヨリ長安ヘ樽代、
同女房ヘ白粉、予方ヨリ一荷両種等遣了、次長安ヨリノ書状有之、
進物皆々進上、御祝着之由有之由有之間、則長安ヨリ罷帰了、
次楠長安子息甚四郎(正辰)ヘ罷向了、冷泉ヨリ樽代、
予一荷両種、同女房衆(北向イモト)盃(各二)等遣了、
則一盞有之、次帰了、次亭主一盞振舞、蛤其外肴有之、
次町々見物、次町屋ニテムキ有之、次高野山本願光政上人ヘ罷向了、
冷泉ヨリ樽代、予ヨリ扇子三本遣了、次帰了、
入夜クワイライ見物了、御城見事言語道断、先代未聞結構々々、
不及筆舌了、
安土城に行くため、先に楠長譜の所ヘ向かっている。長譜はかつて言継の家の近くに住んでいた。彼の息子正辰には為満の妹(言経の妻の妹)「御春」が嫁いでいる。言経は長譜を介して「進物=帯、弓懸」を信長に進上する。辺りを見物してから、長譜の「宿所」で結果を待っていると、「御祝着」との書状が長譜から届く。進物の贈呈は上手くいったようだ。言経は安土城のことを「見事言語道断」「先代未聞」「不及筆舌」と長〜い日記の中でも一番の驚きをもって記している。
翌日、言経と為満は御春の夫正辰が貸してくれた馬に乗って草津まで行き、そこからは恐らく歩いて帰っている。
五月小
一日、戊午、天晴、入夜下米、
楠長安(譜)ヘ書状遣了、先日礼也、冷泉ヘ好便之条遣了、
十二日、己巳、天晴、
白川(雅朝)妻ヨリ平家九巻被誂了、前右府(信長)妾御ナヘ本也云々、
先日一册書之、又来了、
五月一日、言経は楠長譜に礼の手紙を出す。十二日には白川雅朝の妻に平家物語九巻を誂えるよう頼まれる。信長の妾「御ナヘ=お鍋の方」に渡す本であるらしい。
十四日、辛未、天霽、
冷泉ヨリ皮籠借用、遣了、明日安土城ヘ発足也云々、
十五日、壬申、雨、
早朝ニ冷泉安土城ヘ下向也、暇乞ニ被来了、
十四日、為満が安土城に持って行くため、「皮籠」を言経の所に借りに来る。この「皮籠」は家康のときに言経が用意を任されたのと同じ物だろう。参内したときに装束を入れる籠だ。
慶長九年五月の条に「十三日、大和三位入道宗恕ヘ予・内蔵頭等罷向了、武家御装束入テ参 内之時シヽカハコノ事談合了、」「内府(家康)ヘ暮々罷向了、長櫃・シヽカハコ之事談合了、シヽカハコ可見之由有間、長橋殿参了、古キシヽカハコ有間、令借用了、内府ヘ懸御目了、」とあり、今後、参内が増えるであろう家康のために、相談を受けた言経が参考用にと長橋殿に古い皮籠を借りて来て家康に見せている。
言経から「皮籠」を借りた為満は十五日に安土城に向けて出立している。言経が参考用の皮籠を長橋殿から借りていることからして、安土城に為満が持って行った皮籠は城と共に焼けるか、本能寺後の混乱のさなか、盗まれるかしたのだろう。
信長が「皮籠」を作るつもりであったのなら、家康のときと同様、宮中への参内が増える予定があったということだ。「何」の用件で参内するつもりだったのだろう。
本能寺の変はこの半月後である。
廿一日、戊寅、天晴、
冷泉従江州上洛了、直ニ被来了、行水申付了、
三位中将(信忠)殿・参川徳川等上洛了、
廿一日、為満が戻って来ている。安土城からは一日もあれば帰って来られる。六日もかかっているのは、今回の用件にそれなりに時間がかかったからか。為満が汚れていたのか、言経は帰って来た彼に行水をさせている。同日、信忠と家康が上洛している。
廿九日、丙戌、下米、
前右府(信長)御上洛了、
六月大
一日、丁亥、晴陰、雨、天霽、
前右府ヘ礼ニ罷向了、見参也、進物者被返了、参會衆者、
近衛(前久)殿・[中略]・予・[中略]・唐橋(在通)等也、
其外僧中・地下少々有之、不及記ー、數刻御雑談、茶子・
茶有之、大慶々々、
二日、戊子、晴陰、
卯刻前右府(本能寺)ヘ明智日向守依謀叛押寄了、則時ニ前右府打死、
同三位中将(妙覚寺ヲ)出テ、下御所(誠仁親王御所)ヘ取籠之處ニ、
同押寄、後刻打死、村井春長軒已下悉打死了、
下御所ハ辰刻ニ上御所(内裏)ヘ御渡御了、言語道断之躰也、
京洛中騒動、不及是非了、
五月廿九日に信長が上洛し、本能寺に入る。六月一日には公卿らがいつものように信長と面会して、茶と茶菓子を貰っている。「無用」がようやく行き届いたのか、今回は宿泊場所での出迎えは見られない。
翌日が本能寺の変である。情報の正確さからして、毎度のように言経は当日にこれを書いていない。後日に清書をしている。信長は「打死」とある。実はドラマのように炎の中で自害というのは全くの未確認情報であり、信長がどうやって死んだのかは分かっていないのだ。言経は戦って死んだと記している。三位中将は信長の息子信忠のことである。こちらも「下御所=二条御所」で「打死」とあり、京都所司代の村井貞勝らも同所でことごとく「打死」となっている。付き合いがそれなりにあった貞勝の死も言経は特に感想もなく記している。
二条御所にいた誠仁親王は内裏へと逃げ込んでいる。この後、三日、四日と「洛中騒動不斜、」と洛中の混乱振りが簡潔に書かれている。
『言経卿記』に見られる織田信長関係の記事は以上である。家康ほど近しくはないが、洛中の支配者である信長に公卿らがどう接していたのかがよく分かる内容だ。応仁の乱以後、洛中を治める権力者は頻繁に入れ替わり、零落した公卿らは彼らに所領の安堵や洛中の安全を委ねた。しかし、信長と信忠が死んだことで、またしても頼みにすべき大名が誰だか分からなくなった。本能寺の変後の混乱はその不安を背景としてもいるのだろう。
明智光秀を倒して台頭し、次の畿内の権力者となったのは羽柴秀吉である。
言経と秀吉の関係については、次の記事とする。
2014年11月02日
『言経卿記』に見る徳川政権と京都:慶長十二年
33、慶長十二年(1606)年
・家康(65歳) 言経(64歳) 秀忠(28歳) *実年齢
○慶長十二年の主な出来事
三月 松平忠吉、死去
閏四月 結城秀康、死去
十月 徳川和子、誕生
徳川家康の上洛がないため、慶長十二年と十三年の『言経卿記』では家康の動向は追えない。ただ、京都の公卿らが関東へ向かう記事が散見でき、京都所司代である板倉勝重との交流や交渉は続くので、そのあたりを取り上げていく。
正月小
三日、丁卯、陰、
近衛(信尹)殿関東御下向、近江せヽマテ冷・内蔵頭送了、
四日、戊辰、晴、
冷女中(為満室、加藤貞泰姉)来入、予百疋持来了、
北向樽・中折二十帖、内衆米被遣了、勧酒了、
五日、己巳、陰、
竹内母儀礼ニ双瓶持来、北向対顔了、勧酒了、
正月三日、新年の挨拶のためか、近衛信尹が江戸へと向かう。冷泉為満と山科言緒が近江まで見送りに出掛けている。四日に為満の室が言経の家に来て、言経に百疋、言経の妻に酒と紙、「内衆=家来」にも米をあげている。大層な振舞である。為満と言経の間での贈答の遣り取りは頻繁だが、この年の三月に彼女が為満と離縁するのを前提にすれば、今までお世話になった山科家へ感謝の贈り物と見えなくもない。
五日には言緒の室がいた竹内家の母親がお酒を持って来る。彼女は新庄直定の娘が嫁いで以降、こまめに山科家に出入りをしている。
八日、壬申、晴、
板倉伊賀守(勝重)ヘ予・内蔵頭・冷・四令同道、
礼ニ百疋ツヽ各被持罷向了、対顔了、
十一日、癸(乙)亥、晴、立春、
板倉禮ニ、去八日ニ書之、今日罷向了、
十六日、庚辰、天晴、
舟橋(秀賢)・土御門(久脩)等関東下向、
ヲイワケマテ冷・倉部等送了、
板倉伊賀守當年之礼ニ百疋被持来也云々、
八日に言経・言緒・為満・隆昌が新年の挨拶のために板倉勝重の所ヘ揃って行く。各人、百疋ずつを渡しているが、十六日に同額が勝重から「當年之礼」として返されている。ただ、この八日に勝重の所に行ったという記事は十一日に言経自らが訂正しているように、実は十一日のことであった。『言経卿記』は日記ではあるが、その出来事を起きた当日に記してはいない。記憶やメモ、書状などを頼りに、後日清書をしているのだ。故に、日記だから日付や内容が正確だとは言えない。が、書いた当人が間違いを訂正してくれてもいる場合もあり、且つ、言経は直接権力者(織田信長・豊臣秀吉・徳川家康)に関われる立場であった。また、関ケ原の前後は積極的に情報収集をしていた。そのため、比較的、彼の日記の情報は正確だといえる。
十六日、舟橋秀賢・土御門久脩が関東へ出立した。追分まで為満と言緒が送っている。昨年、為満と言緒が果たした役目(=徳川幕府への新年の挨拶)を、今年はこの二人が受け合ったのではないだろうか。二人とも昵近衆である。
廿四日、晴、
大坂ヘ礼、来廿八日之間、
廿七日ヨリ可下之由觸有之、相番衆此□申遣了、
廿七日、雨、戌刻雷鳴、
内蔵頭・四条・冷侍従等同道大坂ヘ発足了、
明日秀頼公御礼也、百
大澤一覺・同ヨメ来了、ムコ彦左衛門尉籠者之由申来了、
板倉伊賀守ヘコトハリノ状頼入之由候、遣了、
廿九日、癸巳、晴、
大澤一覺来、同ヨメ折(マンチウ)持来、
彦左衛門之事頼入之由也、
廿四日、「大坂=秀頼」への新年の挨拶についての連絡が来る。廿八日にあるから、廿七日には大坂に向かうようにとの知らせを言経が相番衆に伝えている。その連絡の通りに、廿七日、言緒・隆昌・為満が大坂へ出立する。
同日、大澤一覺と妻が来て、婿の彦左衛門尉が板倉勝重に捕らえられたので、解放してくれるよう書状を書いて欲しいと言経に頼む。言経は書状を書いてやっているが、直ぐに解放されなかったようで、廿九日に再び大澤夫婦が饅頭持参で来て言経に婿のことを頼んでいる。
二月大
十二日、乙丑(巳)、晴、
猪熊少将教利、出奔也云々(大坂ヘ也云々)、昨夕勅勘也云々、
女院御末密通也云々、
二月十二日、猪熊教利が大坂へ出奔する。昨夕、十一日に「勅勘」をされてのことで、理由は女院の女官らとの密通である。言経は「云々」と伝聞で記しているが、この密通事件に対する時の後陽成天皇の怒りは大きく、関係して処断された公卿らは多い。猪熊教利は山科言経の勅勘により断絶しかけた山科家を、父が天皇の命令で継承した。そのため、家康の力で言経が勅免されたときに教利は父から継承した山科家の「家名」を失い、新たに「猪熊家」をおこすことになった。慶長十一年の記事に教利の妻が何度も言経の所に薬を貰いに来ていた。夫の密通を知っているが故の薬頼みだったのだろうか。教利は、この事件により、処刑されている。彼女は事件の後、どうなったのだろう。
十六日、己巳(酉)、天晴、蝕、
新庄越前守(直定)ヨリ蠟燭廿丁、北向ヘ紅花五袋音信了、
廿一日、丙(甲)寅、天晴、
倉部誕生日之間、朝食倉部・同女中等相伴了、
近衛殿関東ヨリ御上洛之由被仰之間、倉部参了、
廿四日、己(丁)巳、雨、
関東ヘ便宜有之、新庄越前守ヘ銀子十匁、
北向ヨリ同十匁目遣了、
十六日に息子の妻の父新庄直定から蠟燭と紅花が届く。この時代、夫婦でも家計は別々なようで、贈答品は双方ともに送る事が多い。そのため、廿四日の記事のように、返礼も別々にお金を出す形になる。先の為満の妻の贈答品も同じで、夫とは別に渡していると見た方がいい。
廿一日は言緒の誕生祝いがあり、言経は言緒とその妻と朝食を共にしている。同日、一月に関東へ行った近衛信尹が上洛するというので、言緒が出迎えに行っている。
四月大
五日、丁酉、天晴、
内蔵頭女中快気散、田舎(十)・チョホ(十)・クマ(六)遣了、
冷ヘ北向被行了、冷ト女中ト■(不)會、則離別云々、出了、
十二日、丙辰、陰、雨、
高麗人淀ヨリ上洛、大徳寺ヘ寄宿也云々、貴賤群集也云々、
北向見物ニ久河説會後室(妙祐)ヘ被行、綿子一把被遣了、
茶子ニテ酒有之云々、内蔵頭大徳寺ヘ見物ヘ罷向也云々、
四月五日、言経は言緒の妻とその使用人の女性達に快気散をあげている。「田舎=いなか?」という名はあまり見掛けない名だが、「チョホ=ちょぼ」や「クマ」、特にちょぼは当時よくある名である。同日に為満の所に言経の妻が行っている。為満とその妻(加藤光泰の娘)が仲が悪くなって、「則離別」して妻が出て行ったからだ。この冷泉為満は四回結婚していて、最初の妻は死別か離別か不明だが、二人目は離縁、三人目は伏見地震で倒れた柱の下敷きとなり死別、四人目のこの妻とこれで離縁、と結婚相手と悉く別れている。出て行った妻は弟の所領がある美濃まで帰ったのだろうか。
十二日、朝鮮から慶長の役の後始末のための使者が来日する。この使者の到来でようやく講和が成立した。言経の妻は見物に出かけている。彼女は秀吉や家康の行列などもよく見物していたが、貴賤群集とあるように、こういうちょっと変わったものを見に行くのは当時の人々の楽しみであったのだ。
五月大
廿日、辛亥、陰、
日野前亜相(輝資)出家也云々、娘大典侍殿輝子廿七才遠行也云々、
虚労也云々、
六月大
卅日、辛卯、天晴、
唐橋母儀ヨリ菅内侍(唐橋在通女)殿所労之間、診脉之事承間、
則罷向了、酒有之、煎薬二包遣了、後刻桃實送給了、
七月小
一日、壬辰、天晴、
伏見ヘ板倉伊賀守被行間、一乗寺田中■公事有之、一齋・冷・
・内蔵頭等同心ニテ罷向了、不相済了、後刻各参、
談合ニ中院入道(通勝)・鷲尾(隆尚)・一齋・冷泉・
富小路(秀直)・滋野井(冬隆)等也、■夕食相振舞了、
五月廿日、娘の死去により、日野輝資が出家した。言経は「虚労=気力の衰え」と出家の理由を伝聞調で記す。出家した輝資は以前より家康に近しく、昵近衆でもあった。wikiによると、この後は家康・秀忠に仕え、天海に次ぐ地位を得て、禁中並公家諸法度の編纂にも携わったとされる。
六月三十日、唐橋在通の母御茶々の伝手で菅内侍(在通の娘、御茶々の孫)が言経に診断と薬を頼んできた。彼女は宮中に勤めている。言経は禁中に行き、薬をあげた。後でお礼として桃の実が届いている。唐橋在通の母で、四条隆昌の元妻の御茶々は、長谷玄孝法眼の娘とあるが、どうやら冷泉家とも関係があった女性らしく、それが隆昌と別れた後も言経に薬をもらったり、唐橋在通が言経から装束を借りたりする理由となっているようだ。
七月一日、公卿達に対し家康が分配した一乗寺の公事を巡って何かあったようで、伏見に行った板倉勝重の所ヘ水無瀬親具・為満・言緒が「同心」して向かっている。ただ、それでは解決しなかったらしく、「不相済」「後刻各参」「談合」と続いている。「不相済」とあることから、米の上納が遅れるか減るかの問題があったのだろう。「談合=相談」のために集まった公卿らに夕食が振る舞われている。
この問題は間もなく解決されたらしく、日記には特に続きがない。言緒が書いた『言緒卿記』に、より詳しい事情が載っているかもしれない。
十月小
七日、丁卯、天晴、
無殊了、
慶長十二年から日記は欠け気味となり、この十月七日のような「何事もなし」という記事も増える。実際、関ケ原以降、京都だけでなく日本全土で戦はなくなり、言経ら公卿の生活も家康が所領を与えたことで安定した。上の七月一日のように公事で揉めることはあっても、京都所司代が問題を解決しているようで、そのような生活の安定が十月七日の「無殊了」に繋がるのだろう。
慶長十三年はより記事の欠けが多く、五〜八月分までしかない上にその間も所々欠け、八月二日をもって最後となる。
言経自身が没するのは慶長十六(1611)年二月二十七日。家康の上洛は同年の五月。天正十九年に始まった両者の関係は息子の言緒に引き継がれ、家康が没する際には為満と言緒は駿河まで行き、家康の遺体が久能山東照宮に葬られるまで特に逗留を依頼された。
言緒は父と同じく慶長六年から元和六年までの日記『言緒卿記』を残している。
機会があれば、そちらも読んでみたいが、『言経卿記』ほどの分量はなく、大日本古記録でも上下二巻で納まっている。(『言経卿記』は全十四巻)
戦国時代の史料としては言経父の『言継卿記』が使用されることが多い。言継(ときつぐ)が織田信長、今川義元をはじめ、多くの時の権力者ばかりか市井の人々に関する情報を残しているからだ。また、移動範囲が大坂、京都、近江に限られる言経と違って、言継は駿河、尾張、伊勢とあちこちに出掛けている。その情報量の多さから、『言継卿記』はよく取り上げられるのだ。
しかし、『言継卿記』より『言経卿記』の方が情報量が多いものもある。それが、「徳川家康とその周囲」についてだ。山科言経は、あくまでも朝廷に仕える公卿であった言継と違い、直に家康に仕えている。
言経は十年以上にわたり、公卿としての地位と収入を失い、只人となった時期がある。勅勘され、市井に放り出された彼を最初に雇い、扶持を与えたのは家康だ。言経は自分の「感想」をほとんど日記に記さない。そのため、彼が家康のことをどう思っていたのかはよく分からない。
ただ、彼は家康に仕えることで、扶持を手に入れたばかりか、公卿としての地位を取り戻し、所領と屋敷も安堵される。言経は家康の参内時には、装束から儀式次第の質問までよく世話をして、一通り終わった後は草臥たと記している。既に六十歳を過ぎ、中風で足を悪くしている身であったが、恩人とも言うべき家康のために頑張ったのではなかろうか。
実は、言経には秀吉から「雇ってやろう」という話があった。言経は時の権力者からのその話を受けなかった。結果的にはその選択は正解であったのだが、家康に雇用された天正十九年の段階ではそこまでは分からない。彼はどうして秀吉の話を断ったのか。次は家康に雇われる以前の言経について、まとめたいと思う。
・家康(65歳) 言経(64歳) 秀忠(28歳) *実年齢
○慶長十二年の主な出来事
三月 松平忠吉、死去
閏四月 結城秀康、死去
十月 徳川和子、誕生
徳川家康の上洛がないため、慶長十二年と十三年の『言経卿記』では家康の動向は追えない。ただ、京都の公卿らが関東へ向かう記事が散見でき、京都所司代である板倉勝重との交流や交渉は続くので、そのあたりを取り上げていく。
正月小
三日、丁卯、陰、
近衛(信尹)殿関東御下向、近江せヽマテ冷・内蔵頭送了、
四日、戊辰、晴、
冷女中(為満室、加藤貞泰姉)来入、予百疋持来了、
北向樽・中折二十帖、内衆米被遣了、勧酒了、
五日、己巳、陰、
竹内母儀礼ニ双瓶持来、北向対顔了、勧酒了、
正月三日、新年の挨拶のためか、近衛信尹が江戸へと向かう。冷泉為満と山科言緒が近江まで見送りに出掛けている。四日に為満の室が言経の家に来て、言経に百疋、言経の妻に酒と紙、「内衆=家来」にも米をあげている。大層な振舞である。為満と言経の間での贈答の遣り取りは頻繁だが、この年の三月に彼女が為満と離縁するのを前提にすれば、今までお世話になった山科家へ感謝の贈り物と見えなくもない。
五日には言緒の室がいた竹内家の母親がお酒を持って来る。彼女は新庄直定の娘が嫁いで以降、こまめに山科家に出入りをしている。
八日、壬申、晴、
板倉伊賀守(勝重)ヘ予・内蔵頭・冷・四令同道、
礼ニ百疋ツヽ各被持罷向了、対顔了、
十一日、癸(乙)亥、晴、立春、
板倉禮ニ、去八日ニ書之、今日罷向了、
十六日、庚辰、天晴、
舟橋(秀賢)・土御門(久脩)等関東下向、
ヲイワケマテ冷・倉部等送了、
板倉伊賀守當年之礼ニ百疋被持来也云々、
八日に言経・言緒・為満・隆昌が新年の挨拶のために板倉勝重の所ヘ揃って行く。各人、百疋ずつを渡しているが、十六日に同額が勝重から「當年之礼」として返されている。ただ、この八日に勝重の所に行ったという記事は十一日に言経自らが訂正しているように、実は十一日のことであった。『言経卿記』は日記ではあるが、その出来事を起きた当日に記してはいない。記憶やメモ、書状などを頼りに、後日清書をしているのだ。故に、日記だから日付や内容が正確だとは言えない。が、書いた当人が間違いを訂正してくれてもいる場合もあり、且つ、言経は直接権力者(織田信長・豊臣秀吉・徳川家康)に関われる立場であった。また、関ケ原の前後は積極的に情報収集をしていた。そのため、比較的、彼の日記の情報は正確だといえる。
十六日、舟橋秀賢・土御門久脩が関東へ出立した。追分まで為満と言緒が送っている。昨年、為満と言緒が果たした役目(=徳川幕府への新年の挨拶)を、今年はこの二人が受け合ったのではないだろうか。二人とも昵近衆である。
廿四日、晴、
大坂ヘ礼、来廿八日之間、
廿七日ヨリ可下之由觸有之、相番衆此□申遣了、
廿七日、雨、戌刻雷鳴、
内蔵頭・四条・冷侍従等同道大坂ヘ発足了、
明日秀頼公御礼也、百
大澤一覺・同ヨメ来了、ムコ彦左衛門尉籠者之由申来了、
板倉伊賀守ヘコトハリノ状頼入之由候、遣了、
廿九日、癸巳、晴、
大澤一覺来、同ヨメ折(マンチウ)持来、
彦左衛門之事頼入之由也、
廿四日、「大坂=秀頼」への新年の挨拶についての連絡が来る。廿八日にあるから、廿七日には大坂に向かうようにとの知らせを言経が相番衆に伝えている。その連絡の通りに、廿七日、言緒・隆昌・為満が大坂へ出立する。
同日、大澤一覺と妻が来て、婿の彦左衛門尉が板倉勝重に捕らえられたので、解放してくれるよう書状を書いて欲しいと言経に頼む。言経は書状を書いてやっているが、直ぐに解放されなかったようで、廿九日に再び大澤夫婦が饅頭持参で来て言経に婿のことを頼んでいる。
二月大
十二日、乙丑(巳)、晴、
猪熊少将教利、出奔也云々(大坂ヘ也云々)、昨夕勅勘也云々、
女院御末密通也云々、
二月十二日、猪熊教利が大坂へ出奔する。昨夕、十一日に「勅勘」をされてのことで、理由は女院の女官らとの密通である。言経は「云々」と伝聞で記しているが、この密通事件に対する時の後陽成天皇の怒りは大きく、関係して処断された公卿らは多い。猪熊教利は山科言経の勅勘により断絶しかけた山科家を、父が天皇の命令で継承した。そのため、家康の力で言経が勅免されたときに教利は父から継承した山科家の「家名」を失い、新たに「猪熊家」をおこすことになった。慶長十一年の記事に教利の妻が何度も言経の所に薬を貰いに来ていた。夫の密通を知っているが故の薬頼みだったのだろうか。教利は、この事件により、処刑されている。彼女は事件の後、どうなったのだろう。
十六日、己巳(酉)、天晴、蝕、
新庄越前守(直定)ヨリ蠟燭廿丁、北向ヘ紅花五袋音信了、
廿一日、丙(甲)寅、天晴、
倉部誕生日之間、朝食倉部・同女中等相伴了、
近衛殿関東ヨリ御上洛之由被仰之間、倉部参了、
廿四日、己(丁)巳、雨、
関東ヘ便宜有之、新庄越前守ヘ銀子十匁、
北向ヨリ同十匁目遣了、
十六日に息子の妻の父新庄直定から蠟燭と紅花が届く。この時代、夫婦でも家計は別々なようで、贈答品は双方ともに送る事が多い。そのため、廿四日の記事のように、返礼も別々にお金を出す形になる。先の為満の妻の贈答品も同じで、夫とは別に渡していると見た方がいい。
廿一日は言緒の誕生祝いがあり、言経は言緒とその妻と朝食を共にしている。同日、一月に関東へ行った近衛信尹が上洛するというので、言緒が出迎えに行っている。
四月大
五日、丁酉、天晴、
内蔵頭女中快気散、田舎(十)・チョホ(十)・クマ(六)遣了、
冷ヘ北向被行了、冷ト女中ト■(不)會、則離別云々、出了、
十二日、丙辰、陰、雨、
高麗人淀ヨリ上洛、大徳寺ヘ寄宿也云々、貴賤群集也云々、
北向見物ニ久河説會後室(妙祐)ヘ被行、綿子一把被遣了、
茶子ニテ酒有之云々、内蔵頭大徳寺ヘ見物ヘ罷向也云々、
四月五日、言経は言緒の妻とその使用人の女性達に快気散をあげている。「田舎=いなか?」という名はあまり見掛けない名だが、「チョホ=ちょぼ」や「クマ」、特にちょぼは当時よくある名である。同日に為満の所に言経の妻が行っている。為満とその妻(加藤光泰の娘)が仲が悪くなって、「則離別」して妻が出て行ったからだ。この冷泉為満は四回結婚していて、最初の妻は死別か離別か不明だが、二人目は離縁、三人目は伏見地震で倒れた柱の下敷きとなり死別、四人目のこの妻とこれで離縁、と結婚相手と悉く別れている。出て行った妻は弟の所領がある美濃まで帰ったのだろうか。
十二日、朝鮮から慶長の役の後始末のための使者が来日する。この使者の到来でようやく講和が成立した。言経の妻は見物に出かけている。彼女は秀吉や家康の行列などもよく見物していたが、貴賤群集とあるように、こういうちょっと変わったものを見に行くのは当時の人々の楽しみであったのだ。
五月大
廿日、辛亥、陰、
日野前亜相(輝資)出家也云々、娘大典侍殿輝子廿七才遠行也云々、
虚労也云々、
六月大
卅日、辛卯、天晴、
唐橋母儀ヨリ菅内侍(唐橋在通女)殿所労之間、診脉之事承間、
則罷向了、酒有之、煎薬二包遣了、後刻桃實送給了、
七月小
一日、壬辰、天晴、
伏見ヘ板倉伊賀守被行間、一乗寺田中■公事有之、一齋・冷・
・内蔵頭等同心ニテ罷向了、不相済了、後刻各参、
談合ニ中院入道(通勝)・鷲尾(隆尚)・一齋・冷泉・
富小路(秀直)・滋野井(冬隆)等也、■夕食相振舞了、
五月廿日、娘の死去により、日野輝資が出家した。言経は「虚労=気力の衰え」と出家の理由を伝聞調で記す。出家した輝資は以前より家康に近しく、昵近衆でもあった。wikiによると、この後は家康・秀忠に仕え、天海に次ぐ地位を得て、禁中並公家諸法度の編纂にも携わったとされる。
六月三十日、唐橋在通の母御茶々の伝手で菅内侍(在通の娘、御茶々の孫)が言経に診断と薬を頼んできた。彼女は宮中に勤めている。言経は禁中に行き、薬をあげた。後でお礼として桃の実が届いている。唐橋在通の母で、四条隆昌の元妻の御茶々は、長谷玄孝法眼の娘とあるが、どうやら冷泉家とも関係があった女性らしく、それが隆昌と別れた後も言経に薬をもらったり、唐橋在通が言経から装束を借りたりする理由となっているようだ。
七月一日、公卿達に対し家康が分配した一乗寺の公事を巡って何かあったようで、伏見に行った板倉勝重の所ヘ水無瀬親具・為満・言緒が「同心」して向かっている。ただ、それでは解決しなかったらしく、「不相済」「後刻各参」「談合」と続いている。「不相済」とあることから、米の上納が遅れるか減るかの問題があったのだろう。「談合=相談」のために集まった公卿らに夕食が振る舞われている。
この問題は間もなく解決されたらしく、日記には特に続きがない。言緒が書いた『言緒卿記』に、より詳しい事情が載っているかもしれない。
十月小
七日、丁卯、天晴、
無殊了、
慶長十二年から日記は欠け気味となり、この十月七日のような「何事もなし」という記事も増える。実際、関ケ原以降、京都だけでなく日本全土で戦はなくなり、言経ら公卿の生活も家康が所領を与えたことで安定した。上の七月一日のように公事で揉めることはあっても、京都所司代が問題を解決しているようで、そのような生活の安定が十月七日の「無殊了」に繋がるのだろう。
慶長十三年はより記事の欠けが多く、五〜八月分までしかない上にその間も所々欠け、八月二日をもって最後となる。
言経自身が没するのは慶長十六(1611)年二月二十七日。家康の上洛は同年の五月。天正十九年に始まった両者の関係は息子の言緒に引き継がれ、家康が没する際には為満と言緒は駿河まで行き、家康の遺体が久能山東照宮に葬られるまで特に逗留を依頼された。
言緒は父と同じく慶長六年から元和六年までの日記『言緒卿記』を残している。
機会があれば、そちらも読んでみたいが、『言経卿記』ほどの分量はなく、大日本古記録でも上下二巻で納まっている。(『言経卿記』は全十四巻)
戦国時代の史料としては言経父の『言継卿記』が使用されることが多い。言継(ときつぐ)が織田信長、今川義元をはじめ、多くの時の権力者ばかりか市井の人々に関する情報を残しているからだ。また、移動範囲が大坂、京都、近江に限られる言経と違って、言継は駿河、尾張、伊勢とあちこちに出掛けている。その情報量の多さから、『言継卿記』はよく取り上げられるのだ。
しかし、『言継卿記』より『言経卿記』の方が情報量が多いものもある。それが、「徳川家康とその周囲」についてだ。山科言経は、あくまでも朝廷に仕える公卿であった言継と違い、直に家康に仕えている。
言経は十年以上にわたり、公卿としての地位と収入を失い、只人となった時期がある。勅勘され、市井に放り出された彼を最初に雇い、扶持を与えたのは家康だ。言経は自分の「感想」をほとんど日記に記さない。そのため、彼が家康のことをどう思っていたのかはよく分からない。
ただ、彼は家康に仕えることで、扶持を手に入れたばかりか、公卿としての地位を取り戻し、所領と屋敷も安堵される。言経は家康の参内時には、装束から儀式次第の質問までよく世話をして、一通り終わった後は草臥たと記している。既に六十歳を過ぎ、中風で足を悪くしている身であったが、恩人とも言うべき家康のために頑張ったのではなかろうか。
実は、言経には秀吉から「雇ってやろう」という話があった。言経は時の権力者からのその話を受けなかった。結果的にはその選択は正解であったのだが、家康に雇用された天正十九年の段階ではそこまでは分からない。彼はどうして秀吉の話を断ったのか。次は家康に雇われる以前の言経について、まとめたいと思う。