2023年10月21日

阿茶局について

阿茶局は、徳川家康の妻(側室)の一人である。
NHK大河ドラマ「真田丸」「どうする家康」に登場したため、そこそこ知名度がある女性であろう。
彼女については、史料集が2015年に発行されている。

白嵜顕成、田中祥雄、小川雄『阿茶局』(文芸社)
https://honto.jp/netstore/pd-book_27445431.html

阿茶局の子孫の方が専門家に依頼して作成された本である。
子孫の方の本にありがちな「贔屓」がなく、信頼がおけるものだと個人的に評価している。
一次史料をほぼ網羅しており、阿茶局を知るにはこれで十分である。
しかし、史料本であるが故に、慣れない人間には、やや難しいという難点がある。

「どうする家康」に阿茶局が登場して以降、ネット上に彼女に関する情報が載せられるようになっているが、編纂物由来の情報ばかりで、当時の手紙や日記をほとんど参考にしていなかった。
中には不正確な情報を史実のように断定しているものまであるので、ここに史料を使った阿茶局の情報を書いた。

以下に、阿茶局について、生年から順に年表形式で載せた。
阿茶局に関しては、慶長5年まで一次史料がないため、それ以前は全て信頼性を欠く情報となる。
そのため、以下に記す、慶長5年前の情報は、全て「かもしれない」情報なのはご承知おき願う。


<阿茶局年表> ( )内は阿茶局の推定年齢

1555年 誕生(1歳)『幕府祚胤(そいん)伝』
 武田氏家臣飯田氏の娘としてこの年に生まれる、とされるが、『幕府祚胤伝』情報なので正確性の保証はない。よって、( )内の年齢は推定年齢となる。数え年表記のため、1歳から始まる。

1574年 長男守世誕生(20歳)『寛政重修諸家譜』 
 これ以前に神尾忠重に嫁ぎ、守世を生む。『寛政重修諸家譜』情報なので、これも正確性はあまり保証されない。

1577年 夫神尾忠重死亡(23歳)『幕府祚胤伝』
 神尾忠重死去の史料はもう1つあり、どちらが正しいのかは不明。

1579,1583年 守世がお長(秀忠)の小姓となる『譜牒餘録』『寛永諸家系図伝』
 史料が2つあり、どちらが正しいか不明。

1579年 家康が阿茶局を召し出し、以後、戦いに供奉させる(25歳)『幕府祚胤伝』
 家康が阿茶局をそば近くに置くようになった時期は不明で、編纂物の史料上でもこの1579年と1582年の2つがある。

1582年 阿茶局が家康に近侍(28歳)『柳営婦女伝系』
 家康が信州に打ち入ったときに息子を連れて庇護を申し出たとする。家康が駿府にいた頃に彼女を好いていたため、母子ともに仕えるようになったと続く。勿論、信憑性はない。

1584年 阿茶局が小牧の陣で流産(30歳)『幕府祚胤伝』
 『幕府祚胤伝』では、陣中で懐胎(妊娠)して戦場で流産とある。これも信憑性は不明。

1588年 夫神尾忠重死去(34歳)『寛政重修諸家譜』 
 この年に神尾忠重が死亡していた場合、これ以前に阿茶局が家康に仕えていた可能性はあったとしても、陣中で妊娠&流産は否定される。

1589年 西郷局、死去(35歳)『家忠日記』
 お長(秀忠)と福松(忠吉)の母である西郷局が亡くなる。後に阿茶局は秀忠の「母代」と記される。見ず知らずの女性に後継の息子を託すとは考えられないので、この時点以前から阿茶局が家康に仕えていた可能性はかなり高い。

1590年 家康から伝達役を任されるようになる『幕府祚胤伝』
 「御隠密之御用向、従奧執政江伝達蒙」とあり、家康が奥にいる(=表にいない)ときには、「隠密之御用向」の伝達役を任されたとある。事実かどうか不明。

1591年 お長が元服して「秀忠」となる(37歳)『光豊卿記』
 秀吉の一字をもらい、お長は「秀忠」を名乗る。秀忠は1590年に上洛して秀吉と会っており、秀吉は秀忠を「一段利発」と書状で誉めている。秀忠の移動に阿茶局がついていたかどうかは不明。

1598年 羽柴秀吉、死去(44歳)

1599年 家康養女蓮姫の婚姻で介添をつとめる(45歳)『譜牒餘録』
 蓮姫は徳川家康の異母妹の娘(父は松平康直)で、家康の養女として有馬豊氏に嫁いだ。蓮姫の介添役は阿茶局と本多正信とされる。『譜牒餘録』も一次史料ではないため参考程度となるが、阿茶局は後に秀忠養女の婚姻にも関わっている。

ーーここから史料の確実性が上がる
 
1600年 関ヶ原の戦いの際、大坂城にいた(46歳)『徳川美術館所蔵文書』『木村宗右衛門先祖書』
 7月、大坂城にいた阿茶局は反徳川勢力に大阪城から退去させられ、淀の木村勝正に匿われた。そのため、後に木村家から相続面で頼まれごとをされた。阿茶局はこの時のお礼か、木村家に書状を出しているので、木村勝正に保護されたのは確かなようだ。その後、関ヶ原から戻った家康に上京を指示され、家康のいる京へと向かったらしい。

1601年 北野社の裁定に関わる(47歳)『北尾社家日記』
 北野社で起きた殺人事件に関する家康の裁定を北政所に通知する役目を果たす。阿茶局が政治的な事柄に関わっていたと分かる最初の史料。

1604年 義演が品物を贈る(50歳)『義演准后日記』

1605年 同上(51歳)『義演准后日記』

1608年 秀忠養女喜佐姫(秀康の娘)の婚姻に関わる(54歳)『毛利家文書』
 秀忠養女が毛利秀就に嫁ぐ際に、本多正信とともに随伴する者の書立を作成している。

1610年 梵舜が品物を贈る(56歳)『舜旧記』

1611年 家康が阿茶・お亀に書状を出す(57歳)『徳川美術館所蔵文書』
 9男義直(母はお亀)が疱瘡にかかった際、家康が「おかめ あちゃ」と宛名に二人の名を書いて義直の病を案じる書状を出している。義直の母ではない阿茶局の名があるのは、彼女が家康の奥を預かる正室格の立場だったからだろう。

1612年 崇伝が品物を贈る(58歳)『本光國師日記』

1613年 崇伝が家康への取次を依頼(59歳)『本光國師日記』

1614年 大坂冬の陣(60歳)『駿府記』『当代記』
 阿茶局が京都から家康のいる茶臼山に移動し、京極忠高の陣中で本多正純と豊臣方との交渉にあたる。『駿府記』『当代記』ともに後世の編纂史料であるが、家譜などに比べると信憑性がやや高いとされる。

1615年 大坂夏の陣(61歳)『本光國師日記』『駿府記』
 『本光國師日記』によれば、大坂夏の陣が終わった後、阿茶局は千姫とともに京都の寺院巡りをしている。その後、『駿府記』に千姫とともに江戸に下向したとある。千姫は秀忠の娘なので、秀忠の「母代」である阿茶局にとっては、孫と言える。

1616年 家康が病没(62歳)『本光國師日記』
 家康が正月に病に倒れる。阿茶局は江戸にいたようで、すぐに江戸から駿府へと戻った。駿府にいる阿茶局に対し、貴族や蜂須賀家から品物が贈られる。

1617年 義直が品物を贈る(63歳)『源敬様御代御記録』
 義直が阿茶局に3回にわたって着物を贈っている。この贈答はこの後もずっと続く。

1620年 秀忠娘和子入内(66歳)『幸家公記』
 和子の入内に付き従った阿茶局が朝廷から従一位に叙される。貴族の日記に阿茶局の記録があり、大坂の陣の際に城から脱出した「るり」という女房が彼女に仕えていることが分かる。

1626年 和子が皇子を出産(72歳)『中村通村日記』
 息子神尾守世が和子の皇子出産を知らせるため下向する(=江戸に向かう)という記事に、「一位=阿茶局」が秀忠の「母代」であると記されている。 

1632年 秀忠、死去(78歳)『寛政重修諸家譜』
 阿茶局が剃髪(=出家)。

1635年 毛利家が銀子などを贈る(81歳)『公義所日乗』
 毛利家が家臣の帰参問題でたびたび阿茶局に贈答を行っている。

1637年 阿茶局、死去(83歳)


阿茶局の書状は『本光國師日記』などに多数残されているが、大雑把に動向が分かる情報に絞った。
贈答を記してあるのは、贈答が重要な人物に対して行われるものだからだ。
阿茶局が有能な女性として紹介されるのは一連の活動を見れば分かると思う。
彼女は大名家の娘ではなく、大名に仕える立場の武家の娘である。
勿論、家康や秀忠の後ろ盾があってこそではあるが、その出自で大名や朝廷とのやりとり、戦の交渉などに関わっている。
相手の大きさを考えて欲しい。
並の女性にできることではない。
しかも、阿茶局は家康との間に子をなしていないし、出身家も大身ではない。
それなのに重用されたのは、単純に「有能」だから、であろう。
もしかしたら他の理由があったのかもしれないが、残る史料からはそう結論づけるしかない。
それが、阿茶局という女性だ。


参考:『幕府祚胤伝』『柳営婦女伝系』https://dl.ndl.go.jp/pid/945825/1/1
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2023年03月19日

飯尾連龍後室(お田鶴の方?)は討死したのか?

飯尾連龍後室(お田鶴の方?)は討死したのか?

飯尾連龍後室(お田鶴の方?)には、徳川勢と戦って討死したという話が残る。
城の女主が侍女たちとともに果敢に戦って戦場で討死する。
戦国時代らしい悲劇であるが、実際には、ほぼない出来事である。

引間(ひくま)城の「お田鶴(たづ)の方」の話も、「事実」とは断定できない。
引間城は浜松城の前身で、お田鶴の方は城主飯尾(いのお)連龍(つらたつ)の妻とされる。
連龍については書状他の史料があり、存在が確かめられる。
しかし、その妻(室)については、実在を保証する史料が後世の二次史料に限られる。
女性は系図でしか存在が確かめられない事例も多いため、そこは大きな問題ではない。
問題なのは、⑴彼女の存在が認められない二次史料と、⑵彼女の存在が認められる二次史料の2つがある、ことだ。
どちらも家康が遠江に進出した永禄十一年(1568)十二月十八日の出来事を記す。
この出来事で、家康は引間城を手に入れるのだが、⑴と⑵で入手方法が異なる。
17世紀後半(1673〜84年)に編纂されたとされる『浜松御在城記』が両方の説を併記するので、下にそれぞれの概要を書いておく。
(参照ー国立公文書館『浜松御在城記』:https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/result?DEF_XSL=default&IS_KIND=summary_normal&IS_STYLE=default&DB_ID=G9100001EXTERNAL&GRP_ID=G9100001&IS_START=1&IS_TAG_S1=all&IS_NUMBER=100&LIST_TYPE=default&IS_LIST_ON_OF=off&LIST_VIEW=&ON_LYD=on&IS_SORT_KND=asc&IS_SORT_FLD=sort.tror%2Csort.refc&IS_KEY_S1=%E6%B5%9C%E6%9D%BE%E5%BE%A1%E5%9C%A8%E5%9F%8E

⑴飯尾連龍室が不在
 家康が遠江の安間村に陣を張っているとき、引間城の江間安芸守が江間加賀守を殺害したと、加賀守の家来が知らせてきた。その家来小野田彦右衛門が江間安芸守を切り殺したと急いで伝えに来たので、家康は早速引間城に乗り込んで、事態を収束させた。
安芸守は甲斐の武田に通じ、加賀守は家康に通じていたため、喧嘩となったのだ。加賀守の子孫は紀州の頼宣に仕えた。

⑵飯尾連龍室が存在
 一説に、飯尾豊前守の後室(未亡人)が浜松を任されていた。家康は後藤太郎左衛門と松下與右衛門を使わして、城を開け渡せば扶持や家来については保証しようと伝えたが、後室は承知しなかった。徳川勢が攻めると、味方の手勢三百人が手負死人となり、城の兵も二百余人討たれた。後室も侍女を左右に引き連れて出て、十八人がひとつ所で討死したと、板倉家の記はある。しかし、ある人の記には、これは大河内兵庫助の合戦のことで時代も違うとある。手負死人が三百もいれば、名のある人も十や二十あまりが討死しているべきだ。ことに乗龍(連龍?)の北の方は、今川家の人なので人質として駿河にいるべきだ。もしくは、(江間)安芸守の妻などのことだろうか。


⑴は引間城を任されていた飯尾連龍の家臣が内部分裂を起こし、それに乗じて家康が城を接収したとなっており、⑵では、下ることをよしとしない飯尾連龍後室が徳川勢と戦って討死した、という内容である。
⑵については、文章中に疑問が提示されており、江戸時代から説として疑問視されていたのが分かる。
「板倉家の記」には、この後室討死の話があると記してあるが、自分が確認ができた板倉家の家譜の類いにはなかったので、この「板倉家の記」がどの板倉家の記なのかは不明。
また、続く「ある人の記」は、ある人が特定できないため、確認ができない。
同じ「家康による引間城の接収」でありながら、⑴は家臣しか出てこず、⑵では後室にしか出番がないなど、話の展開が全く違う。
これを他の史料で見てみると、次のようになる。

⑴と似た展開を載せる史料
新城市誌資料10『菅沼家譜』ーhttps://dl.ndl.go.jp/ja/pid/3010611/1/1(国会図書館)
菅沼主水の「貞享書上」
江間加賀守の子孫の「貞享書上」他ー朝野旧聞裒藁46https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000048536&ID=M2018042315173125538&TYPE=(国立公文書館)

⑵とほぼ同じ展開を載る史料
「曳馬拾遺」ーhttps://trc-adeac.trc.co.jp/Html/ImageView/2213005100/2213005100200010/m002/
「官本三河記」
「三河記大全」ー朝野旧聞裒藁46https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000048536&ID=M2018042315173125538&TYPE=(国立公文書館)

それぞれの史料について簡単に説明すると、以下の通りになる。

「朝野旧聞裒藁(ちょうやきゅうぶんほうこう)」は、江戸幕府が1819〜1841年に編纂した徳川氏の事績を集めた史料集。
「貞享(ていきょう)書上」は、江戸幕府が徳川家と縁のある諸大名や庶民に1683〜1684年の間に提出させた古文書・家伝類。
『菅沼家譜』は、家康の遠江侵攻に従った菅沼家(菅沼定盈の系統)の家譜。
貞享書上を提出した菅沼主水はその子孫。

菅沼家の記録では、江間安芸守と江間加賀守は互いに陣を構えて戦っていて、加賀守が戦で殺害されている。
定盈(さだみつ)の功に触れるなど菅沼家よりの部分があり、小野田彦右衛門が家康に知らせる場面がない、などのオリジナリティがある。
対して、紀州徳川家に仕える江間加賀守の子孫は、「浜松御在城記」の「⑴」とほぼ同じ内容の貞享書上を提出している。
つまり、先祖が関わった家の史料では、⑴の系統を採用しているのだ。

対して、「⑵」を記す史料は『浜松御在城記』か、共通する史料を参照しているらしく、内容が類似する。
『三河記大全』という書物では脚色が増える差分はあるが、展開は同じ。
山鹿素行の『武家事紀』(1673年の序文あり)は、⑵を採用して、後室と十八人の女性の討死の部分のみを載せる。

⑴は内部分裂で、⑵は徳川との戦いである。
⑴と⑵の妥協をはかったのが、『浜松御在城記』の「もしくは、安芸守の妻などのこと」という部分だ。

では、どうして、同じ出来事に全く別の話が残ったのか。
原因は、浜松城の丑寅の西の方角に「御台塚」という場所があったためではないだろうか。
「御台=御台所=妻」+「塚=墓」=そこそこ身分の高い女性(妻)の墓があるのだから、そういう女性がここでなくなったのだろう、とたやすく連想が働く。
現在、この「御台塚」は存在せず、正確な場所は分からない。
そのあたりは、椿屋敷とも呼ばれていたらしく、江戸時代の浜松城図にも「ツバキ」と記されている部分がある。
「御台塚」「椿屋敷」という地名から、⑵のような「物語」ができた可能性はある。
2022年に地元の徳川家康関連の伝承を調べたとき、かなり多かったのが「地名や名字を説明するための家康伝承」であった。

「この地名は家康が○○したので、こういう地名になりました」
「この名字は家康に○○してあげたのでいただきました」

というパターンである。

御台塚がある。
椿屋敷という地名だ。
もともと引間城は飯尾家の城であった。
家康が遠江に来たときに現地勢力と争いがあった。

この複数の条件から、飯尾後室討死の話が作られても不思議はない。

また、『浜松御在城記』が指摘するように、実際に引間(曳馬)城は「大河内兵庫助=大河内貞綱(さだつな)」により占拠された歴史がある。
これは1512年の話で、今川氏と斯波氏の争いが背景にある。
今川と斯波は遠江をめぐって対立しており、今川氏に引間荘代官(曳馬城)を任されていたのが飯尾賢連(かたつら,連龍の祖父)であった。
大河内貞綱は1516年にも飯尾を追い出して引間城を占拠&籠城をするが、翌年、今川氏親(うじちか,義元の父)により城は落とされ、貞綱は自害した。
「御台塚」がこちらの関連からできた可能性はあるだろう。

⑴と⑵を比較すると、⑵の方が伝承性が高いと思う。
引間城は、⑴内部分裂して家康の所有となったのか、それとも、⑵徳川が飯尾連龍の後室と戦って手に入れたのか。
どちらも確たる資料はない。
ただ、⑴と⑵の2つを示す「史料」があり、これにより2つの説ができる。
そして、全く別の展開を示す史料が2つある以上、飯尾連龍後室の討死は「事実」とは断言できない。
飯尾連龍後室の討死はあくまでも説の一つに過ぎない。
これだけは確かなことだ。
posted by アリノリ at 20:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 徳川家康関連

2022年12月25日

家康の誕生日について

徳川家康の誕生日は、通説では旧暦の天文11年12月26日である。
この日付は、西暦では1543年1月31日となる。
ネットで検索したところ、この誕生日を寅年寅の月寅の日寅の刻生まれと紹介する例がいくつもあった。
朝野旧聞裒藁(国立公文書館:https://www.digital.archives.go.jp/file/2549777.html)などを確認したところ、生年と日付を壬寅(みずのととら)と記す史料はあったが、寅の月、寅の刻は見当たらなかった。
寅の刻は現在の午前4時前後。(前後の幅はかなり大きい)
寅の月とされるのは一月。
月と刻限の根拠は何かも気になるとことではあるが、今回の記事の本題は「寅」ではない。

この記事の本題は、<家康の誕生日を「天文11年12月26日」としたのは、後世の神君史観or徳川史観であり、実際の誕生日は違う>とする説への反証である。

家康の誕生日は「天文11年12月26日ではない」とする説の根拠は、家康が記したとされる「都状」である。
写しではあるが、ネット上でも同じ史料が見られる。
(宮内庁書陵部図書寮文庫:https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Detail/1000307090000
都状とは、陰陽道で行われる祭りの際に読み上げられる祭文である。
家康の都状は、慶長8年2月12日に家康が将軍に就任する際に書かれたものとされる。
(参照ー大日本史料:https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/1201/0001?m=all&s=0001

そこに家康の年齢が「61歳」とあるのが、上の後世の創作説根拠である。

慶長8年に61歳であると、生年は天文12年となる。
当時は、生まれたときに1歳となり、その後は毎年正月に年をとる数え方になる。
分かりづらいので、下に天文11年に生まれた場合の数え方を用意した。

天文11年12月26日(1543年1月31日) 誕生1歳
天文12年正月(1543年2月) 2歳
天文13年正月(1544) 3歳
<中略>
慶長6年正月(1601) 60歳
慶長7年正月(1602) 61歳
慶長8年正月(1603) 62歳
<中略>
慶長19年正月(1614) 73歳
慶長20年正月(1615) 74歳
元和元年7月(1615) 74歳(7月に改元)
元和2年正月(1616) 75歳
元和2年4月17日(1616年6月) 死去

見ての通り、天文11年に生まれると、慶長8年2月には62歳になるので、都状の年齢が正しい場合は天文12年の生まれとなる。
この都状は家康が書いたものだから、慶長8年に61歳が正しい。
よって、「天文11年12月26日」生まれは、家康の誕生日を寅年寅の日にするための後世の創作だ、という主張がある。
しかし、家康の年齢を示す史料はもう一つある。
家康の晩年の側近金地院崇伝が記した『本光国師日記』である。
(参照ー大日本史料:https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/1224/0325?m=all&s=0325&n=20

崇伝は家康の没年齢を「75歳」と記す。

家康が駿府(静岡)で病没したのは、元和2年4月17日である。
この日付については、その場(駿府)にいた崇伝や山科言緒らが日記に記しているほか、複数の寺社や貴族の日記で確認できる。
没したときの年と日付は動かない。
そのため、崇伝の記述に従えば、75歳から逆算した天文11年が家康の生年となる。
家康の生年は、家康の都状では天文12年、崇伝の日記では天文11年となり、同時代史料で矛盾が生じている。
どちらかが誤っているのは確かだとしても、どちらが正しいのかの判断は難しい。
現代なら家康本人の記述を信用するのだろうが、当時の事情から崇伝の記録も正しい可能性があるのだ。

現代人にとって誕生日が特別なように、昔の人々にとっても誕生日は重要であった。
(参照ー論文「近世における誕生日」https://cir.nii.ac.jp/crid/1390009224089587968?lang=ja
天皇や貴族は誕生日に祈祷や祝いを行っており、江戸幕府将軍も誕生日の行事があった。
この論文にあるように、『鹿苑日録』慶長8年12月26日に家康の「将軍正誕生御祈祷」が行われている。
(参照ー『鹿苑日録』82コマ:https://dl.ndl.go.jp/pid/1921072/1/82
『鹿苑日録』をさかのぼって読んでいくと、室町幕府将軍も誕生日の祈祷をさせているのが分かる。
鹿苑寺での誕生日祈祷は、室町位幕府将軍から続く将軍の伝統であった。
秀忠が将軍に就任すると、家康の祈祷はなくなり、秀忠の誕生祈祷が始まる。
『本光国師日記』慶長17年4月7日の書状案から、鹿苑寺だけでなく、崇伝も秀忠の「誕生日之祈祷」を行っていたのが分かる。
(参照ー本光国師日記:https://www.digital.archives.go.jp/file/3143638.html
崇伝の日記を読んでいくと、占いや吉凶判断の依頼が目につく。
相手や内容によるが、その際に崇伝が相手の生まれ年・干支・誕生日を確認する例がある。
寺社での祈祷には生まれ年や誕生日が必要で、『義演准后日記』には家康の娘督姫と子供たちの生年月日が記録されている。
『本光国師日記』は慶長15年からの記述であり、崇伝が家康の誕生日祈祷をした記述はない。
しかし、家康の没年齢を「75歳」と記すからには、崇伝が家康の生年を「天文11年」と認識していたのは間違いないだろう。
先に書いた通り、崇伝は祈祷や占いのために対象者の生年月日を知らなければならない立場にあった。
寛永8年1月4日には、徳川和子(秀忠娘。後水尾天皇皇后)の「徳日(=衰日)」の問い合わせに答えるため、養珠院(家康側室お万)に和子の年齢と干支を尋ねて、正確な年齢と干支を記録している。
そんな崇伝が家康の生年を誤るだろうか。
誤る可能性は低いと思われる。

では、生年を間違えたのは、当人(家康)か、側近の僧侶崇伝か。
双方とも信用がおけてしまうため、自分にはどちらとも言いかねる。

また、将軍の「誕生日の祈祷」は、当人の「誕生日」に行わなければ意味がない。
室町幕府将軍から続く「誕生日の祈祷」に偽りの誕生日を使用する理由はないので、日付の「12月26日」はほぼ確定で良いだろう。
生年については、上記の2つの史料から「天文11年と天文12年」が候補となる。
崇伝の日記は、江戸幕府が編纂した『朝野旧聞裒藁』と『徳川実紀』に使用されているので、家康が「天文11年12月26日」に生まれた、という通説は、崇伝が記した没年齢から逆算して出てきたのかもしれない。
他の(失われた)記録からの可能性も当然ある。

つまるところ、家康の生年月日は、
崇伝を信用するなら、天文11年12月26日で、家康を信用するなら、天文12年12月26日、となる。

当時の人の生年月日の1年違いは誤差の範囲内である。
これは「神君史観」や「徳川史観」なのだろうか?

徳川家康の関連史料は膨大なので、全てを把握することは誰にもできない。
よって、1つだけの史料で「断定」できる事柄は数少ないと言える。
今後、どちらかに確定できる史料が出てくれば良いのだが、「よりによってこの二人で、一次史料に書き残したことが違う」という案件なので、なかなか難しいのではないだろうか。

追加史料:徳川義直編纂の「御年譜」
http://e-library2.gprime.jp/lib_city_nagoya/da/detail?qf=&q=%E5%BE%A1%E5%B9%B4%E8%AD%9C&start=1&sort=%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%AB_STRING+asc%2C+METADATA_ID+asc&dispStyle=&fifq=&tilcod=0000000005-00001088&mode=result&category=
家康の息子義直の編纂史料である。
「御年譜」は家康の生涯を簡潔に記したもので、これにも家康の没年齢があり、「75歳」となっていた。
義直は家康が病没する際に駿府城にいた。
崇伝と同じ場にいた息子も家康の生年を「天文11年」と認識していたため、追加史料としてリンクを貼っておく。
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2017年05月27日

井伊家伝記(抜粋)+中井家日記(部分)

『おんな城主直虎』だけではなく、井伊直虎を女性として描写するフィクションの元ネタとして使われるのが、この『井伊家伝記』である。江戸時代中期の成立で、龍潭寺住職祖山が書いたとされる。
直虎を女性として記す唯一の史料である。後世に編纂されたもので、内容には誤りもあり、信憑性は高くないとされる。
元ネタを知っておくとドラマや小説がより楽しめる場合もある。『井伊家伝記』はここで読めるが、くずし字なので難易度が高い。→https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/Home/2213005100/topg/naotora.html
翻刻されたものは『引佐町史料』にある。地元でないと読むのも難しいので、大河ドラマの内容と関係する部分をメインに抜き書きをしてみた。

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長文を書き出している関係で、誤字脱字などもあると思います。お気づきの方は、ご指摘下さい。訳は載せていません。よく出て来る「扨」は「さて」と読みます。この伝記は時系列順になっていません。○が付いている「タイトル」に関係する事柄について記す形になっていて、内容の重複や時系列の前後があります。

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○橘の御紋并井字旗幕の御紋の事。

 井伊備中間織る共保公御誕生の節、御手洗井の傍に橘の木有之、右の橘を産衣に御付初て御着用被成候より御家定紋橘なり、是又井中出誕の御家瑞なり。扨又、幕の御紋井中より出誕の因縁にて井字御付被成候事なり。井伊侍従直政公、天正拾二年権現様尾州長久手え遠州浜松より御出陣の節、直政公え駿遠両国並甲州の武士を御吟味の上御付、先手初て被成 仰付候節、御家門の古老は諸方にて戦死、龍潭寺南渓和尚より古老無之故、御先祖累代の御旗御尋被遊候所に、井字御紋吹流は正八幡大菩薩の文字被遊候様に申上、左の通に被仰付御出陣の旨申伝候なり。

○井伊保居城の事並井伊御家名始の事。

 井伊元祖備中守共保公出生の郷故、井伊保城山を見立城をきつき居城、共保公出生の在名居城の縁に依て井伊と言うを以、初て御家名となるなり。(或は言う往古 井と言う一字名字か諸軍記井早田、井の八郎、井弾正左衛門と云如く、井一字と云共、元来井伊と二字名字なり。)
依之共保公を井伊氏の元祖申奉るなり。共保公十六代井伊肥後守直親公討死、以後は井伊信濃守直盛公の息女の次郎法師直政公御幼少故、後見被成候て地頭職被成、永禄十一年迄は城有之候、居城の山今以城山と名、追手の石垣、書院、仮山の旧跡干今有之。

○井伊彦次郎直満、同平次郎直義傷害の事。

 天文十年の頃より、甲州武田信玄差図を以、甲州家人漸々東北遠江境井伊家の領地段々押領申候、依之彦次郎直満、平次郎直義両人則信濃守直平公の下辞にて、信玄の家頼と相挑候内支度被成致候を、直盛公の家老小野和泉守亀之丞(井伊彦次郎直満の実施、井伊肥後守直親公、童名井伊侍従直政公実父なり)養子の儀に付遺恨故、密に駿府え下向候て今川義元え両人私の軍謀相企の旨讒言す。因之早々召状到来、則、直満、直義、両人共に駿府え下向、終には天文十三年十二月廿三日に傷害、傷害の後彦次郎や子規并山林不残龍潭寺末寺円通寺に寄附、則、東西南北の境相立寄進状に載り申候。就夫井伊平次郎直義、同形部直元右両人は直平公の四男五男に候えとも岡本古半助所編御系図には右両人落申候、然共右両人寄進状に法名相載り祠堂田も有之、南渓和尚過去帳に俗名法名共に有之相違無之候。平次郎直義法名即休成心、彦次郎直満と同時天文十年十二月廿三日於駿府傷害、形部直元法名賢翁道哲、天文十年五月十四日於井伊谷病死。

○井伊彦次郎実子亀之丞信州落の事并今村藤七郎忠節の事。

 井伊彦次郎直満、同平次郎直義傷害の後、小野和泉守駿州より帰国。直満実子亀之丞を失可申旨今川義元より下辞の旨申候故、今村藤七郎(彦次郎家老)かますに入候て隠し負て井伊谷山中黒田の郷に忍居申候所に、小野和泉守相尋申候故、近所にかくし申事難成南渓和尚(彦次郎肉兄)密に相談にて、今村藤七郎に亀之丞を負せて信州伊奈郡市田郷松源寺え落行申候。右松源寺と申す寺を南渓和尚師匠黙宗和尚伝法の寺故、南渓和尚より書状遣して、右の寺を便として亀之丞並当七郎信州に十二年隠れ居被申候。其間藤七郎付添居申候、拾弐年の中年々南渓和尚より使僧遣、金子等為持被遣、扨又今村藤七郎は元来当国城東郡の武士なり、勝間田を名乗系図勝間田なり舞鶴の紋勝間多の元祖遠州三か野にて鶴舞し申候より以来舞鶴の紋なり。当国にて横地勝間田八幡太郎義家の子孫にて源氏なり、城東郡に横地勝間多の在名有之(横地勝間多、西郷、戸塚、石谷、海老郷六家は元来一家にて遠州城東郡出生の武士なり今以不残在名有之)信州落の節、勝間多を相改て今村と名乗せ申候。扨又、信州落の節元日と中にて御吸物を祝申候を吉例と成り、今以来末代迄も正月元朝の御給仕は今村家相勤申旨伝候。又直政公御落の節も正月元朝故、藤七郎御給仕致候とも申伝候。右藤七郎は天正拾年迄は在命故、直政公御落行の節成程藤七郎御伴可致事に候。相考申候に藤七郎信州十二年の中只壱人付添御奉公申候故、年々正月の給仕とても他に致申候者無之、藤七郎相務申候えは、弘治元年信州より御帰国祝田村に住居被成候ても外に正月の御給仕致候者も無之、藤七郎相勤申候えは、其吉例自然と直政公御代に相伝、夫より御吉例に成、遠忌の節、藤七郎児孫の今村家相努申事と相見申候。右の由緒故、正徳二年の八月井伊肥後守直親公百五十年遠忌の節、藤七郎児孫今村忠右衛門、御代参に長寿院様被仰付なり。

○井伊信濃守直盛公息女次郎法師遁世の事、並に次郎法師と申す名の事。

 井伊信濃守直盛公息女壱人有之、両親御心入には時節を以、亀之丞を養子に被成、次郎法師と夫婦に可被成御約束にし所に亀之丞信州え落行候故、御菩提の心深く思召、南渓和尚の弟子に御成被成剃髪被成候、両親御なげきにて一度は亀之丞と夫婦に可被成に様を替候とて、尼の名をば付申間敷、南渓和尚え被仰渡候故、次郎法師は最早出家に成申候上は、是非に尼の名付申度と親子の間難黙止備中法師と申名は、井伊家惣領の名、次郎法師は女にこそあれ井伊家惣領に生候間、僧俗の名を兼て次郎法師とは無是非、南渓和尚御付被成候名なり。右次郎法師は井伊肥後守直親傷害の後、直政公未幼年故、井伊家領地地頭職御勤被成候。(井伊保近所瀬戸村保久に被下候。権現様判物に地頭次郎法師並主水之助一筆明鏡の上と申御文言有之。)永禄八年直政公五歳の節、寄進状御認南渓和尚え御渡被成候。その節、地頭御勤故寄進状に次郎法師名判有之、次郎法師は直政公実の叔母にて養母故、直政公御幼年の中より御世話被成候。殊更天正三年権現様え御出勤の節、御衣裳等迄御仕立被遣候。龍潭寺中松岳院と申庵に御老母祐春尼公一所被成御座候、天正十年の八月廿六日に御遠行、法名 妙雲院殿月船祐円大姉

○井伊信濃守直盛公討死の事付、家来同枕討死人数の事。

 永禄三年の五月今川義元、織田信長戦の為に出陣、此説引馬の城主井伊兵部少輔直平公は老人故に直盛公え井伊并引馬の人数を相催し出陣可致旨、義元より申来候故、直盛公直平公の家老飯尾豊前守を初、其外家頼不残召連出陣、尾州桶狭間にて五月十九日に今川義元と同時同枕に討死なり。小野玄蕃(右玄蕃妻奥山因幡守娘なり。直政公為に叔母なり。玄蕃嫡子小野亥之助直政公権現様え御出勤の節、御伴致罷出申候、万福と申名を被下置候、兵部少輔様家老小野七郎左衛門先祖なり。)田中善三郎、奥山彦市郎、奥山六郎次郎(奥山因幡守嫡子直政公為に叔父なり。奥山六左衛門先祖なり。)小野源五、上野惣右衛門、同源右衛門、同彦市郎、多久郷右衛門、気賀庄右衛門、御厨又兵衛、市村信慶、牧野市右衛門、上野孫四郎、奥山彦五郎、袴田甚八以上拾六人討死、右の通、南渓和尚自筆にて過去帳に付置、法名も逐一有之候。直盛公法名は龍潭寺殿当山開基前信州大守天運道鑑大居士。

○井伊信濃守直盛公奥山孫市郎に遺言の事、并に中野越後守井伊保を預事。

 今川義元駿遠三の大軍勢を催、出張、五月十九日所々の軍に打勝て少々休息油断の所え信長謀計を以、急に攻掛、軍兵を二手に分、一手は先手に掛、一手は義元の本陣え急攻掛、織田造酒丞、林佐渡守攻入、毛利新助終には義元を討取申候。依之近習六拾餘人不残或戦死、或切腹皆々傷害なり。直盛公右の人数の中なり。軍勢の中立退恙帰国申候者も有之候え共、義元近習の分不残傷害なり。直盛公切腹に臨て、奥山孫市郎に此遺言被仰渡候は、今度不慮の切腹不及是非候、其方介錯仕候て死骸を国え持参仕、南渓和尚焼香被成候様に可申候。扨又、井伊谷は小野但馬の心入無心元候故、中野越後守を留守に頼置候。此以後猶以小野但馬と肥後守主従の間無心元候間、中野越後守に井伊谷を預け候て、時節を以、肥後守引間え移替申候様に、直平公に委細可申旨被仰渡無是非、奥山孫市郎直盛公の御死骸を御介抱仕井伊谷え帰国申候。

○中野信濃守井伊谷預る事付、今川氏真と肥後守と不和の事。

 永禄三年井伊氏なの守討死の後、引馬城主井伊直平極老の身にて直盛討死の事、殊外御心細思召、直盛公御遺言の通小野但馬が心底見届無之故、直盛公遺言に任せて則、中野越後守を信濃守に被成井伊谷を御預け被成候事は、肥後守後見の為に右の通に被仰渡候。扨又、義元討死の後は、氏真の政道不宜酒宴遊興計心掛有之故、自然と幕下の武士疎遠の折柄肥後守直親、新野左馬助(今川家の親類井伊家縁者末に委細記之)を以、今川氏真に願立申候は引馬城主直平極老の身に候間、何卒井伊保え移、直親引馬え移度旨申候えども、此節氏真の近習三浦右衛門兼て引馬の城今川家幕下の中にて一番の城地故所望申候故、直親願を氏真得心不被致、此意趣に依て、自然と氏真と直親公と不和に成間柄不宜なり。

○井伊肥後守直親三州岡崎へ折々参上仕候て、権現様遠州御発向御内通被成候事。

 肥後守直親、引馬と井伊谷と入替の願氏真承引不致候を本にて不和に成申候其節、
権現様も氏真に不足有之、織田信長え御内通被成、元康(駿州今川義元にて、元字を以御名乗被成候なり。)を改て家康と御名乗、其上三郎信康公(家康公惣領)と信長の息女未弱年に候えども、一味同心御約束の固に御縁組相済申候故、三州所々の武士大方は、権現様え一味致申候事、其蔵れ無之依之直親公 権現様え一味被成候て折々三州え御越被成候事。
井伊谷山中え鹿狩に御人数可被遣由、折々三州岡崎え御越被成候。直親公 権現様え御内通被成候は、直政公を御取立の根本なり。後代に成申候ては此事をば委細に相考申事無之、能々吟味可致其証拠 権現様遠州御手に入申候初、小野但馬か井伊谷を押領可致陰謀相企候故、近藤、菅沼、鈴木三人衆被遣候て小野但馬を追払、永禄十二年四月五日小野但馬を井伊谷にをいて御仕置に被仰付、同五月五日但馬男子両人迄打首に被仰付、皆是直親の怨敵故 権現様右の通に被仰付事なり。直親忠節の事を無御失念被思召出候て、直政公を格別に御引立被遊候事なり。但馬を御仕置に被仰付候事は、南渓和尚過去牒に年月委細に有之、扨又、直親公 権現様え御内通被成候事、三河記には誤て信長え内通と書なり。其節、 権現様と信長と一味同心なれは三河記に左の通に書も尤もなり。三河記とても当前には記録不致、後日に聞伝斗を以て記録する故なり。

○井伊直親公立願の事、並、直政公誕生の事。

 永禄三年元朝直親龍潭寺え参詣南渓和尚え御立願御頼候は直親縁組み以後六年に罷成候えども男子無之候。直親信州に十二年の間流浪仕候事、父直盛公に実子無之故なり。只今井伊家僧俗の事直親壱人の身の上に有之、何卒一国一城を持申候て国器の男子をもふけ、井伊家相続武光を万代に伝度存候。直親申の年今年は庚申にて廿五の厄年なり、観音え立願頼入候旨被仰候。依之、南渓和尚も御祷祈被成直親公夫婦共御祈願不懈御勤被成候。同年五月御懐胎被成候故、猶又御立願不懈候。翌年永禄四年二月丙の日に御誕生被遊候。則、御名は虎松様と直平公御付被成候。(此段立願誕生の委細は、直政公氏神祝田村羽鳥明神の神主萩原新之丞と申八十余の老人、祖山へ二十年巳前に委細に物語、右新之丞は曾祖父に承置申候由、曾祖父は信濃守直盛公家人にて感状等今以所持申候。新之丞縁祖父直孝公御代に江戸え罷下、先祖の書付等掛御目申候。右の旨、直孝公より近藤小十郎へ被遣候手紙を、小十郎方より新之丞に遣候由にて今以所持申候。)

○小野但馬讒言委細の事付、井伊肥後守傷害の事。

 小野但馬守父小野和泉守、肥後守直親公父彦次郎、直満を傷害為致候宿意にて、主従共父と父との遺恨相残り平日君臣の間不宜、因茲、直盛傷害の後、井伊谷を押領可致陰謀兼て巧み申候えども、中野信濃守井伊谷を預り居被申候故見合申候。折柄、直親折々三州岡崎 権現様え往来内通被成、其上井伊谷山中え鹿狩にかこつけ御人数被遣候。直親領分の中、山中村々共鹿狩の案内被成候故、永禄五年の極月、小野但馬急に駿府え罷り下り今川氏真え讒言申候は、肥後守直親は 家康公信長両人え内通一味同心仕候、近日遠州発向の為に先勢の人数被遣候、追々大勢参候風説夥敷候。遠州は信長、家康公両人の手に入り可申と委細に訴申付候。依之、直親陣附の為に新野左馬助を駿府え被遣候、跡より直親公御越被成候所、掛川御通りの節、朝比奈備中守取囲一戦に及、直親主従共雖画粉骨無勢故、終に傷害被成候。直親公死骸一刻の中故、南渓和尚僧衆被遣引取、於龍潭寺焼香被成候。永禄五年十二月十四日なり。法名大藤寺殿前肥州大守剣峰宗慧大居士、右大藤寺と申候は、龍潭寺末寺にて御朱印四石五斗御朱印一本なり。

○虎松様、新野左馬助宅え御入候事。左馬助井伊家え重縁有之故忠節の事。

 直親傷害の上、虎松様母子共に新野左馬助宅に御入被遊候。小野但馬讒訴故、氏真、虎松様を可奉失旨、巳命危き所に新野左馬助身命に替、虎松様御命を申宥左馬助宅にて、我か女子と同養育するなり。扨、新野左馬助事は遠州城東郡新野村三千石の地頭、今川義元の親族。左馬之助、妻は奥山因幡守妹、又左馬助、妹井伊信濃守直盛公の妻なり。右の重縁故、城東郡新野郷を隠居、井伊谷え引越居住。居住の屋敷今以新野と申有之、直親公傷害の節は井伊家の御一門方々にて戦死被成。新野左馬助と中野信濃守斗井伊保に住宅、依之、新野左馬助今川家え縁戚有之故、直政公御命を申宥、左馬助夫婦并息女共無二に御介抱申所に、永禄七年に引馬城主飯尾豊前守今川氏真に反逆の節、氏真より二千人の加勢を蒙、井伊谷人枚相催、中野信濃守、新野左馬助両将にて飯尾豊前を相攻、不運にして敗軍、終には遠州引馬の東南天間橋にて両将共傷害す。永禄七年の九月十八日なり。法名大成院殿巧岳宗烈居士、直政公天正十年後、段々御立身大名に御昇進の上にて新野左馬助娘を不残家中え縁組被仰付なり。

○井伊兵部少輔直平、遠州白須賀出陣の事。

 永禄六年九月上旬今川氏真、織田信長え義元の弔軍被相催候故、直平人数相催、出陣可有之旨申来候。直平公此時七十五の老体其上直宗、直親迄も不残皆々討死被成、最早直平公実子は南渓和尚斗り故、則、被仰談候は、只今極老の身、直平壱人在命の所に今度出陣自然の事も有之候はは、虎松をもり立候て井伊家相続の子細、南渓に被仰置候。此節直平実子御親族とても在家には無之故、御出家南渓え、右の委細被仰置候て、直平公手勢引馬井伊保の人数を相催し、氏真一万八千人の押を被成、氏真は三州吉田迄出陣、直平公は遠州白須賀迄出陣被成候なり。

○直平公白須賀出火の事、並びに氏真吉田より引返事。

 氏真一万八千の人数三州吉田え相支直平公手勢遠州白須賀え張陣の所に不慮の南風激しき節、直平公軍中出火町中在々迄焼払い申候故、氏真陣中にて悪評申候は井伊直平は、肥後守直親を傷害被仰付候を鬱憤に存候て、今度白須賀より焼立尻打仕候、先は信長勢追付相支申候、後は井伊直平尻打候上は前後に大敵を引受けては無覚束候。此軍は一と先御引、直平方を糺明を被遂御尤に候。軍中にて一同評定申候故、氏真同心にて遠州本坂越より掛川城主朝比奈備中守方迄引退被申候。

○井伊直平公最後の事并八城山出陣の事。

 氏真掛川の城にて直平尻打の段吟味被成候所に直平公、則、新野左馬助を以、白須賀不慮の出火の旨被申候、因茲、氏真より右の過役に遠州八城山城主天野左衛門尉(氏真に不隨候)直平に可相攻旨被申候故、不遁請負被申候間出陣の支度被成候所に直平公の家老飯尾豊前守妻天野左衛門と縁者、豊前え相すゝめ夫婦同心にて直平公へ逆心、直平公出陣の節、豊前が妻直平公え茶を進申候所に、其毒茶にて直平公先勢は遠州国領蔵中瀬迄参候所に、直平公有玉旗屋の宿にて惣身すくみ落馬毒死被成候。惣人数引馬え引退候所に、飯尾豊前守一味同心の輩を相催大手を固み籠城仕候。此節は井伊家直平公斗故、直平公家頼も毒死の上多くは皆々豊前に一味同心申候なり。

○新野左馬助、中野信濃守最後の事。

 直平公の家老飯尾豊前守、直平公毒死の後押領引馬城主に罷成申候故、今川氏真にも不随却て反逆の支度陰謀相巧申候。因茲氏真より新野左馬助、中野信濃守両人にて可相攻事候えども、只今威勢強く両人の無勢にて難攻候間、加勢被下候様に願被申候故、氏真より二千人の加勢、手勢井伊谷の人数相催、引馬の城え取掛一戦に及候えども、豊前は引馬の城相固申候故、終には新野左馬助、中野信濃守引馬の城東天間橋にて敗軍両人共に討死、右両人討死の後は井伊家の御一門と申候は、新野左馬助法名大成院功岳宗烈居士、中野信濃守法名正澄院頓宝元機居士両人同時なり。永禄七年九月十五日なり。

○次郎法師地頭職の事。

 中野信濃守井伊谷を預り仕置被成候。跡に討死の後地頭も無之、依之直盛公後室と南渓和尚相談にて次郎法師を地頭と相定、直政公後見被成御家を相続可被成旨御相談にて次郎法師を地頭と相定申候。(瀬戸保久に被下候家康公御判物に地頭次郎法師と有之候。)其節井伊家御一族御家門方々にて戦死、直政公御壱人殊に御幼年故、井伊家御相続音大切に被思召候なり。因茲直政公五歳の節、次郎法師地頭故、井伊家相続子孫繁栄の懇祈の御文言にて、龍潭寺南渓和尚え寄進状御認被遣候事は永禄八年九月十五日なり。

○小野但馬井伊保を押領の陰謀の事並直政公鳳来寺え御忍被成候事。

 新野左馬助、中野信濃守討死の後、次郎法師持地頭職御勤、祐椿尼公(直盛公の内室なり)実母御揃、直政公御養育申候えども、皆々女中斗故、但馬所持事取斗我儘斗致、何とぞ井伊谷を押領可仕旨相巧み申候折節、永禄十一年の秋甲州武田信玄、駿府今川氏真を相攻、依之右軍用故、但馬駿府え罷下、帰国の上則申候は、氏真下辞にて直政公を奉失、井伊保人数召連、駿府発向可致旨、押領の支度殊更女中揃にて進退難叶、直政公早々龍潭寺え御忍被成、南渓和尚出家に可被成候由にて衣を御きせ奉り、其場を御のがれ御忍被遊候事は、直政公八歳の節なり。龍潭寺に御忍被成候えども、南渓和尚出家には被成間敷、御心入にて三州鳳来寺え奥山六左衛門相添被遣候て、剃髪は不被成候。

○小野但馬井伊保を押領并権現様より井伊保三人衆を被遣候事。

 小野但馬井伊保押領仕候訳は、永禄十一年、今川氏真より信玄防戦の為井伊谷の人数召連参向可致旨、其上直政公可奉失旨、小野但馬承之旨、於井伊谷、申触心儘に相斗、押領仕候。祐椿尼公(直盛公後室)次郎法師(直盛公息女直政公養母)なり。井伊谷城内に被成御座候事難成故、龍潭寺中松岳院と申小庵に御引越
住庵被成候。右松岳院は祐椿院尼公の菩提所なり。天正六年七月十五日に御遠行、御法名松岳院寿窓祐椿大姉。次郎法師天正十年八月廿六日御遠行、法名妙雲院殿月船祐円大姉。扨又 権現様於三州岡崎、小野但馬井伊保を押領致候て直政公御立退被成候段、御聞及、則、近藤平右衛門、鈴木三郎太夫、菅沼次郎右衛門(是を井伊谷三人衆と云)右三人衆を被遣候て、井伊谷を御乗取被成候。右三人衆宇利より進発、山越に遠州頓幕山奥山の郷え入候て、三人衆人数鬨の声を揚に防き戦者一人も無之故、直に井伊保の城を取巻所に小野但馬防戦難成、井伊谷を立退き、近辺に忍び居申候所、永禄十二年四月七日に 権現様堀川城責の節御仕置に被仰付候。其罪科は権現様え御内通仕候、井伊直親傷害は但馬讒言、其後、段々直政公を可奉失相巧申候故、陰謀重科にて、則井伊保に獄門に御掛被成候。但馬子二人有之、同年五月七日に御吟味被遊候て、弐人共に又々御仕置に被仰付候。

○直政公実母松下源太郎方え被嫁候事。

 直盛公内室并次郎法師御相談にて直政公御実母御年若故、松下源太郎方え御縁付被成候、是又直政公御養育の為に右の通被成候故、松下源太郎養子に御成り被成候。 権現様え御出勤の節も、源太郎宅より御出被為遊候故、松下を御名乗御出被為遊候。実父直親公の事御聞届の上被驚御聞、向後井伊と相改、直親名跡相続可致旨被仰出候て、井伊万千代と相改、因茲、松下源太郎方に男子無之故、中野越後守妻は奥山因幡守息女にて直政公為伯母なり。直政公実母の為には甥故、越後守次男を源太郎又養子に致、松下の家相続申候。松下志摩守と申候。直政公実母、源太郎宅にて遠行、井伊谷龍潭寺にて取置、南渓和尚焼香被成候。法名永護院蘭庭宗徳大姉。天正十三年八月六日なり。右松下家は松下源太郎と南渓和尚、直政公浜松にて、 権現様え御出勤の節御世話仕候由緒相互に失念不致候様にとの約束にて、縦え遠国にて相果候とても、井伊谷龍潭寺え骨を相送葬申候。夫故上州江州遠州掛川は猶以、松下家は代々相替不申候て井伊谷龍潭寺檀那に候。右の由緒故、龍潭寺釣鐘は松下志摩守寄進にて、則、鐘の銘に大檀那松下志摩守一定と有之候故、今以松下源左衛門井伊谷龍潭寺と師檀断絶不致候事なり。

○松下常慶 権現様え早追に参候事。

 松下定慶と申候は、松下家の武士にて候えども、其節は国の物見の為に遠州秋葉山の札杯くばり浜松に住宅仕候。三州へも数度参候て案内存候故、江間、加賀、定慶を密に招き相談申候は、兄常陸此城を信玄え可渡との内通は無思案なり。其子細は信玄只今駿府を攻取可申支度最中なり、然上は駿府を差置候て当城え人数を遣申道理なし、家康公は近年氏真えも不随候て尾州信長と一味同心被成候故、氏真の領分三河をば大方手に入、遠州発向の心掛承及家康公さへ当城に御入候えば、三州は勿論尾州信長迄も後詰に持申候故、駿府氏真と挑合に勢強し、若氏真より今にも城請取に人数を遣申候ては後悔無益なり、兎角に案内手引きは加賀可致候、片時も早く家康公より人数被遣、当城を御乗取可被成旨、常慶に申含候所に常慶得心仕候て三州岡崎え早追に参候。右常慶は夫より 権現様格別御内意を被仰聞、態と山伏の様に方々え物見に被遣候。依之浜松有之秋葉 権現様常慶に被仰付勧請なり。扨、常慶は右の御奉公故引佐郡の御代官を被仰付、手代松下勘衛門、角岡仁左衛門、山内新左衛門三人に一郡を割、支配を申付、其身は物見杯相勤方々え参候。当国は勿論駿府え権現様御引越の節罷越住宅申候故、則、常慶屋敷と申今以相残有之なり。

○権現様三州岡崎より遠州浜松え御出馬の事。

 永禄十一年松下常慶を早追にて三州岡崎え参、江間、加賀内通の委細逐一言上申候所に家康公不斜御悦にて御支度被仰付、御人数二千人、先勢本坂越被遣候所に遠州引佐郡、気賀の郷人尾藤主膳、山村修理両人大将にて一揆相企、権現様御入国を相拒、先勢え鉄砲を打掛申候故、是より本坂引廻し、家康公え注進す。依之三州豊川とり井之瀬を渡、加茂下宇利通、冨賀寺本陣奥山通、井伊谷え御出被為遊候。今泉四郎兵衛、菅沼新八郎(只今菅沼織部先祖なり)牧野馬之丞(只今牧の駿河守先祖なり)戸田丹波(二連木松平丹波守殿先祖なり)牧野半右衛門、稲垣平右衛門、山下帯刀等御人数二千人、松下常慶を案内として山路を踏分、昼夜もみ立遠州井伊谷迄御出発被成候事。

○直政公鳳来寺御出の事并龍潭寺にて御出勤御相談の事。

 天正二年の極月十四日、井伊肥後守直親十三年忌にて直政公鳳来寺より龍潭寺え御越被成候。則、祐椿尼公(直盛公後室)次郎法師并実母、南渓和尚御相談有之候は、井伊家は元祖以来武家の棟梁たるに只今虎松壱人の事、何卒 家康公は三州、遠州、駿州御手に入候上は 権現様え出勤可然と御相談相究、夫より鳳来寺えは御帰無之、松下源太郎方に深く忍ひ被成候。鳳来寺より色々難題申候て相尋申候えども、南渓和尚挨拶被成候て、事相済申候て鳳来寺え御帰無之候。右、直政公十四歳にて天正二年に龍潭寺え御越の節、松岩と申候出家態々御目に掛り、器量利発諸人に御勝れ候旨物語申候事、右岩松八十六迄在命、先住徹叟二十頃迄在命にて直政公の物語仕候旨、先住咄被申候。

○直政公 権現様え御出勤の事。

 直政公 権現様え御出勤の為に浜松松下源太郎の宅え御越被成候。御小袖二つ祐椿次郎法師より御仕立被遣候なり。天正三年二月初鷹野にて御目見被為遊候、早速可被召抱の御上意にて御伴御城え御入被遊候、則、於御前御尋の上父祖の由来具に令言上の所に被驚 台聴被仰出候は、実父直親は家康か遠州発向の陰謀露見故氏真傷害為致、家康の為に命を失ひ、直親の実子取立不叶の旨、則、松下を相改、直親の家名井伊氏可成旨、又、権現様御童名竹千代様の千代を被下、千代万代と御祝、虎松を改て万千代と御名被下、直政公御供仕候小野亥之助に万福と申名被下、万千代万福と御祝被為遊被下千秋万歳目出度御祝ひ御上下御拝領即座に三百石被下候事は、天正三年直政公拾五歳の節なり。

○小野玄蕃子亥之助事。

 小野玄蕃は、井伊氏なの守直盛公と一所に、尾州桶狭間にて討死仕候。玄蕃子亥之助、直政公と従弟故、(玄蕃妻は奥山因幡守娘にて直政公伯母なり依之亥之助従弟なり。)直政公御伴仕、浜松え罷出申候所に、 権現様より万福と申名被下候故、直政公と一所に御城内に罷在候故、水戸頼房郷御幼年の節、御つれに罷成申候。立身の後、右の由緒故次男壱人水戸え被召出候て、於水戸小野角右衛門と申候、今以児孫水戸に有之候。右万福は小野源蔵後七郎左衛門、直政公より中野越後守娘縁組被仰付候、只今井伊兵部少輔様家老小野七郎左衛門先祖なり。

○直政公初陣高名御加増の事。

 天正四年の春、甲州勝頼、遠州高天神近所柴原にをいて御合戦の時 権現様陣小屋の中に御休息被遊候所に夜中忍びの敵近藤武助と申者を直政公御次の間にて御討取被成候故、権現様殊の外御悦にて御感不斜、則、十倍の御加増にて三千石に被仰付なり。

○直政公御立身の事。

 直政公御奉公日夜御勤労忠節異代故、拾八の御年に壱万石御加増被成候。又、廿歳の節弐万石に被仰付候。因茲中野越後守、奥山六左衛門を初、其外井伊谷譜代の家頼山中に引込居申候皆々罷出御奉公申候、就中、奥山六左衛門弟祖閑と申候て出家仕候所に、直政公還俗被仰付、知行千石被下候。天正十年の秋、 権現様甲州御入国、直政公御伴にて一倍の御加増四万石の大名に御取立、一方の大将に被仰付候て 権現様近仕の侍、木俣清左衛門守勝、椋原次右衛門、西郷藤左衛門三人を家老にられ仰付候。其上信玄幕下に飯冨兵部と申侍大将は数度の軍功一時に其隠れ無之故、井伊兵部(此節、直政公御元服被成、兵部少輔様と申候えども万千代と申候御名、権現様被下置候故御元服の後も多くは万千代と申候なり。)と飯冨兵部と実名仮名共に響近く似より申候故、則直政公武具其外不残赤備に被仰付候故、尾州長久手御出陣の節、軍中にて井伊赤鬼と申候て殊外恐れ申候由なり。

○直政公尾州長久手先手被 仰付候事。

 天正十二年三月、太閤秀吉公と織田信雄争戦の事に付 権現様信長の旧好故、御出馬の思召の所に、信雄より援兵の旨申来候故、於浜松軍勢御催の節、直政公於甲州大名一方の大将に御取立、一条、山県、土屋、原四人の武士、其外甲州勢御付被成候。甲州衆え神誓にて直政公え信玄の軍配不揃相伝可致旨被仰付なり。因茲甲州衆正陣記(或天正記とも云、井伊家に相伝有之軍書なり。右の軍書には出陣の帰立委細に記之者なり。)と申軍記を記録して今言上候故、 権現様御安堵にて、則、長くての先手の大将を直政公え初て被仰付候。猶又、御大切に思召候故、井伊谷三人衆近藤石見守、鈴木兵衛、菅沼次郎右衛門を与力に被仰付、又外に甲州衆七拾人、遠州浜松秋葉山にて血判被仰付、御付被為遊候。右血判の書付今に浜松秋葉叶坊方に有之、血判の所はくさり申候由。右の人数の覚、井伊兵部少輔、同心前土屋衆、梶原肥後守、向山又兵衛、飯島宮内助、関主水助、早川半兵衛、渡邊靱負、三沢美濃守、脇又十郎、細野豊後守、土屋次郎右衛門、代継式部助、早川弥三右衛門、中村与兵衛、横屋市右衛門、向山佐渡守、後藤弥三右衛門、落合将監、矢田儀左衛門、丸山半右衛門、小池水右門、渡辺右馬之助、小倉源兵衛、田中源左衛門、同名弥九郎、後藤文左衛門、荒川吉之丞、高塚七郎太夫、青柳源三、河村作右衛門、井戸権兵衛、四宮彦右衛門、浅井無右衛門、水口平太、大塚新之丞、原田又右衛門、関新兵衛、田村助三、横田甚八、根津小兵衛、伴加右衛門、鶴田内匠助、川口殿右衛門、細野藤右衛門、武藤長助、中村平右衛門、渡辺太夫、土屋与兵衛、篠弥三左衛門、飯嶋半右衛門、岩下円書助、一瀬平三、千野牛之助、小金久五郎、柳沢市右衛門、相良左近助、土橋介太夫、岡吉丹後守、平井十右衛門、矢嶋又右衛門、飯塚次右衛門、秋山宗右衛門、神尾甚兵衛、清水惣七郎、金丸四郎兵衛、神戸忠右衛門、古屋新十郎、野田助八郎、薬袋主計、渡辺新七郎、渡辺清七郎、以上七拾人血判にて御付被為遊候。惣人数甲州流の軍配にて初て御先手被仰付候。直政公廿四歳の御時なり。(太閤記に直政公十八歳と有之は誤なり。井早田末葉と有之はなお以って誤なり。)其の節は、祐椿次郎法師は御遠行、実母ばかり御在命故、俄に太名大将の御威勢御満足に被思召候えども、大軍の先手殊の外、気づかいに思召し種々御立願有之候。右御立願の訳にて 天照大神より 黙宗和尚え御授被為遊候、日月松有之、金銀の扇子を直政公先手大将の陣扇に被遣候。右の扇子は宝物故、龍潭寺に相伝、即扇子に記録有之、於井伊谷南渓和尚弟子衆両人被遣候。出家といへども武芸達者に御座候。壱人は傑山と申候て強弓なり、壱人は彦根龍潭寺開山昊天なり長刀上手にて今以一宗にて長刀昊天と申候。於長久手池田勝入、森武蔵守両備を追崩、敵数多討取、直政公御自身功名勝利を得なり。合戦の次第諸軍記有之。

○直政公親類え女中を御家中に縁組被仰付事。

 直政公於浜松、官禄共高く御座候故、井伊谷譜代は勿論、引佐郡武家を心掛申候者皆々出勤相願申候。就中新野左馬助、直政公え忠節深重の事に御座候えども、男子無之女子斗三人有之、右三人の女中、直政公御幼年の節御念頃被成候事、其上新野左馬助妻奥山因幡姉妹なれば、直政公為に叔母なり。左馬助息女は直政公為従妹なり。御一の息女を木俣土佐守え婚礼被仰付候。第二の息女を庵原助右衛門、第三の息女を三浦与右衛門に縁組被仰付なり。右両人(庵原と三浦と)の縁組は前方とも申伝候なり。右三人の息女え直孝公より左馬助忠節故扶持方御合力被成候。又、奥山因幡守息女大勢有之、先壱人は西郷伊豫守、又壱人は菅沼淡路守え縁組被仰付なり。右女中は直政公為に皆伯母なり。又、中野越後守息女も直政公為に従妹なり、小野源蔵重縁にて縁組被仰付候。源蔵事は先達て婚礼相済申候旨申上候えば、直政公被仰候は、親類の重縁を以申付候縁組の事に候間、只今迄の妻は早々離別仕候て中野越後守息女を相迎可申旨直々被仰渡候故、小野源蔵主命不及異儀御請仕候て只今迄の今を離別仕、中野越後守息女を相迎申事なり。

ーーー

この伝記の作成には小野玄蕃の子孫も関わったとwikiにありました。ここに掲載していない分を読むと、この伝記は、1龍潭寺。2井伊家。3小野玄蕃の系統。の3つの「都合」に合わせて書かれているように見受けられます。後世の編纂物にありがちなことですが、主君となる徳川家康の動き(遠州進出)なども、井伊家に都合のよい描写になっています。

ーー追加ー

小野家に関する冊子でこの史料が紹介されていたので、引佐町史の「中井家日記」から抜き出してみた。現在、井伊谷にある二宮神社には「但馬社」があり、小野但馬守が祀られている。では、どうして祀られるようになったのか、について二宮神社の神主であった中井家が記録したものである。下に気になった点を載せた。

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「中井家日記」

但馬明神のイハレいにしへ井殿御代に小野但馬守と申候て井伊殿家老人と云々。井殿打死被成御跡犯略の砌あやまりの子細有之候に付て、井殿一紋衆より但馬守に切腹被仰付候由に候。其の後、悪りようと成、与惣左衛門子孫にタタリをなされ候に付て、則若宮と説、社を立先年の但馬屋敷に祭申候処に後地近藤石見殿御知行に成、内屋敷に成申候に付て、但馬殿右社をば二の宮の敷地へ引申間、然処に二の宮御建立の次でを以、但馬殿社をも弥右衛門建立申候。正保四年丁亥三月五日に二の宮御遷宮の上にて御タクを上げ申候へば此次でに但馬殿タクセンに向後我をば但馬明神と説候へ由、望に存候。其上二の宮の末社と号、鳥居より内に社立候へ由、タクセンにて候。則二の宮の御タクをうかがい候へば右但馬殿タクセンに少しも替事無之候付て、同三月七日につちのへ申日、鳥居より内に社を立、但馬明神と説申候。但馬明神領下畑弐畝歩以前より与惣左衛門申請置候キ。正保弐年酉年彦九郎殿自分の御検地の時も先例の断申、右通本田の内にて下畑弐畝歩御供領に附申候事。

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上の『井伊家家伝』とは小野但馬守の死に方が異なっている。家伝では徳川の命令で打首→獄門であるが、こちらでは井伊一門の命令で切腹である。また、切腹の理由も「井殿打死被成御跡犯略の砌あやまりの子細有之候に付て、」である。井殿打死の「井殿」は直盛か直親であろう。但馬守の切腹理由は井殿が討死した「御跡」の「犯略の砌あやまり」になっている。ということは、今川氏に直親を讒言したのが理由になっていない。この「犯略の砌あやまり」を蜂先神社に残る徳政令の書状としたらどうだろう?
但馬守が関口氏経らに加担して、井伊直虎(=井伊次郎?)から井伊谷支配権を奪ったのが切腹の理由なら、話が通じる気がする。
但馬守が中井家に祟ったのは、場所からして二宮神社が井伊家と関わりが深く、井伊の関係者の大半が既に彦根に移った跡に祟りが置きたから、だろう。
祟られたら祀るのはよくあるパターンだ。もとは小野但馬の屋敷に社があったが、そこが近藤石見守の屋敷内になったため、「タクセン=占い」で「但馬」と「宮=二宮神社」の神に聞いた上で、二宮神社の鳥居の内側に社を建てたとある。が、ネット上の画像で見たところ、現在の位置は鳥居の外になっている?ように見える。また、二宮神社における但馬社の説明も上の中井家日記と違う。文中の正保4年は小野但馬守の死から88年が経過している。88年だとだいたい3世代分となる。どの程度、但馬社に関する情報が正確に伝わっていたのだろうか。
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2016年06月26日

『徳川家康ーその政治と文化・芸能』 笠谷和比古編

★★★☆☆

帯「趣味は鷹狩、能、香道、薬作りに囲碁・将棋ーー。家康は知勇兼備の名将であると同時に、多方面に造詣の深い文化人でもあった。内政・軍事は勿論、東南アジアとの交易・西洋貿易の奨励、出版活動等の外交・文かにおける功績・好事家としての一面など、新たな家康像を提示する。」
以下、各論ごとに簡潔に述べる。

目次
序章総論
徳川家康の政治と文化 笠谷和比古
・この本は新たな家康像に迫るものであるハズなのだが、冒頭から自論(別に家康が将軍になったからって、そんなに強い権力はなかったんだよ〜)に頁数を割き、他の論者が論には最後にちろっと触れるだけという序論でも総論でもないものを冒頭から読むハメになり、編者の仕事とは?という疑問だけが残る序章且つ総論であった。

第一章 政治史
「三河大名としての徳川氏」小宮山敏和
・三河時代の松平氏でお馴染みの平野明夫氏、新行紀一氏と本多隆成氏の研究成果を紹介している…だけ。対象に対する自論も検討もほぼなし。

「関ヶ原合戦と大坂の陣」笠谷和比古
・相変わらずの二重公儀主張が継続しており、尚且つ、その自論が評価されて当然という書き方に読んでいて目が点になった。笠谷氏と同様に秀忠に不安があるから家康は豊臣を滅ぼしたという説は度々目にするが、それが「確定」できるほど「徳川秀忠」の研究はされていないと思う。

「徳川家康と朝廷」野村玄
・主に後陽成天皇の譲位時における天皇と家康の意見の対立について論じている。家康が半ばは主張を通し、半ばは天皇に妥協した対応を徳川の権力の弱さとしているが、「妥協するのも知恵」という考えはないのだろうか。ごねる後陽成天皇に、それ以上の無理を通すのを避けたとの見方もできる。大坂の陣の後なので説得力は落ちるが、「院(後陽成上皇)ヨリ可参之由、御物語今日武家御所(家康)御入魂之由被仰聞了」と『言緒卿記』にあり、後陽成上皇と家康の関係は修復されている。

「『御三家』の成立と家康の戦略」白根孝胤
・家康が義直・頼宣・頼房について。御三家の基本的な部分の確認。特に目新しい視点はない。

「徳川家康の兄弟姉妹とその血縁関係ー家康の姉妹を中心に」門脇朋裕
・これまでの研究成果をもとに検討を加えながら、家康の兄弟姉妹の、特に姉妹と家康の血縁関係について、その実在不在も含めて検討する内容である。新出史料が出ない限り、この結論が妥当であると思われる。

第二章 文化・外交史
「徳川家康の外交ー外国の史料に見る家康像」フレデリック・クレインス
・朝鮮、東南アジア、西欧など、徳川家康の積極的な外交姿勢が確認できる。秀吉の強圧的なやり方(書状、朝鮮出兵)との比較はないが、対キリスト教の姿勢を除けば、家康の外交はあくまでも友好・交易がメインとなる。

「徳川家康の学問・儒学と紅葉山文庫」揖斐高
・林羅山に触れつつ、家康の学問・儒学、そして「本」にかけた情熱について述べられている。家康が羅山を「重用していなかった」という指摘には同意。後に羅山が記したほど、家康に対する影響力を彼は持ち得ていない。家康は大坂の陣のときにも本の書写をやらせていたし、鷹狩で出掛けた田中城で発病する二日前にも本の出版を命じている。政治的な意味以上の情熱を「本」にかけていた思わせる内容であった。

「徳川体制の神格化と『井上主計頭覚書』の家康阿弥陀論」平野寿則
・筆者が論の前提としている「井上主計頭覚書」の内容が紹介されない上に、偽書検討もないまま論が進むため、主張は理解できても消化不良感が残ってしまう。これは本当に史料として扱って問題ないものなのだろうか…。

「徳川家康と連歌」入口敦志
・家康と連歌の関係が目的で読んだ『武家権力と文学』と内容が変わらなかった。

「徳川家康と本草学」宮本義己
・家康の趣味の一つである薬作り及び香道について論じる。細川忠興の書状もあるなど、史料検討の幅が広く、割と楽しめる内容であったが、家康と薬についての情報が多く載る『言経卿記』の紹介・引用がなかったのが残念。

「徳川家康の武具」宮崎隆旨
・徳川家康に関する博物館・美術館での展示によく赴き、図録を購入している人にはほぼ既知の内容。

「徳川家康と狩猟」横山輝樹
・頁数も少なく、検討内容も狭い。家康と狩猟の関係について論じるのに10頁では全く足りない。家康はもとから鷹狩をよくしており、大坂の陣の後だけ数え上げているのが変。

「徳川家康の肖像画ー神として、人として」松島仁
・家康が死後どう描かれたかについて検討している。比較対照として載っているのが秀吉の事例だけなのが残念。文章の説明だけではイメージが掴み辛いので載せて欲しかった。家康の肖像画の白描(紙形)として紹介されていた絵にある衣紋の一つを「転法輪」と書いていたが、あれは山科言経が家康とともに考案した「丁子唐草葵」の「丁子」の部分のハズ。実際に家康を見て描いたとされる「白描(徳川記念館蔵)」の容貌がなかなかワイルドだった。

第三章 芸能史
「徳川家康と能」
・家康が能をよく鑑賞していたのは知っていたが、今川時代からずっと特定の能楽師(観世)が側近くにいたというのには驚いた。日記で確認できる家康が演じた能の演目は「野宮」「雲林院」「松風」「三輪」「熊野」「東北」「仏原」であり、女体の遊舞的な能が多い傾向があるらしい。

「徳川家康と雅楽ー元和元年二条城舞楽上覧の意味するもの」武内恵美子
・家康は宮中の雅楽の装束などを新調しており、雅楽の保護にも動いていたのだが、筆者が『言経卿記』などを参照していないため、その点の指摘がいっさいない。元和元年の二条城での舞楽上覧に焦点を当てているため、家康と雅楽の関係を論じていても、内容は狭い。

「徳川家康と茶の湯」佐藤豊三
・おおざっぱに家康と茶の湯の関係を知るには手頃な内容と分量。

「徳川家康が生きた時代のいけ花ーたて花、抛入、立花」小林善帆
・家康といけ花の関係を示す史料が極小であるため、タイトルの通りに「いけ花」についての論が展開され、家康の他、秀忠、家光の抛入について述べることで本の題名に寄せているが、本の趣旨である「家康像」にはあまり関係ない内容である。これを載せるくらいなら、研究者もいる家康と着物の関係についての論が欲しかった。

「徳川家康と囲碁・将棋」増川宏一
・家康が囲碁・将棋を愛好したのは、当時の大名の娯楽の一つでもあったのだから、ごく普通の話である。また、家康が囲碁・将棋の接待を諜報活動に利用していたなどと書いているが、盤上に向き合っている棋士にそんな余裕があるのだろうか。別に家康だけが囲碁・将棋を接待に活用したワケではないのは、筆者自身が引用している細川幽斎の接待でも明らかである。本因坊の贈答関係をあげてそのコネクションの広さを取り上げているが、そのメンバーは家康のコネクションともかぶっている。本因坊が独自に形成したコネではなく、家康を介して広がった付き合いではないのだろうか。

新たな「家康像」を提示するには物足りない内容であったが、その一歩として「文化・芸能」を取り入れたのは評価に値する。今年の大河のせいか、個人的には家康主導ではなく秀忠主導であった可能性が高いと思う大坂の陣への言及が多いのが気になった。家康に関係性が低い戦いをメインのように取り上げる必要はないと思う。主に編者のせいで★は3つ。
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2015年08月02日

大坂城の太刀盗難事件:聖徳太子のお告げと頼朝ゆかり?の一文字

『多聞院日記』を読んでいたところ、妙な条に行き当たった。
(2016年8月25日に史料「兼見卿記」を追加)
(2018年9月24日に史料「片桐貞隆宛秀吉書状」を追加)

天正十年
●三月廿三日
「仙學坊語ヽ(云)先年此十年モ前歟、參川國明眼寺ノ可心ト云僧法隆寺ニ来テ、一年程在寺テ太子傅ノ談義ヲ聞了、彼寺ハ太子ノ御建立也、昔ヨリ無亂寺也、岡崎殿家康ト云歸依僧也、十年先ノ正月二日ノ夜ノ夢ニ、聖徳太子マノアタリ對可心ニ仰ヽ浄天下者三人アリ、義景ハ望トモ用(私云器用ノ事歟)無レハ不可成、信源(玄)ハ望ム雖武無慈悲、不可成、信長一人ニ可歸也、吾頼朝ニ遣テ太刀弥(ハヒコル)一天ニ、其太刀熱田ノ社ニ可在之、早々信長ヘ可遣ト見テ夢サメヌ、希代ノ事也、乍去夢ナレハト打過ル處、又同十五日ノ夜ノ夢ニ、何トテ先日被仰付太刀ヲハ不遣哉ト厳ク仰ト見了、雖然可申上事いかゝと過行所ニ又同二月五日夜ノ夢ニ太子仰ヽ、度々申付ニ何トテ太刀ヲハ不遣ソ、何ニ不隨下知、汝ヲ可有成敗仰ト見テ、無力先明眼寺ヨリアツ田迄ハ三里アル間社参テ尋ル處、其太刀在之ヲ取テ、歸ニ村井長門守ニアヰテシカゝゝノ夢ヲ語ニ、早々可注進之由申間、家康ヘモ此事語テ、則太刀ヲ持参テ信長へ申上ル處ニ、我モ慥ニ如申夢ヲ見了、近比大慶也トテ、天下存分ナラヌ(ハカ)太子御建立ノ寺ヲハ可有再興由有契約ト語テ、此事深可有隠蜜之由先年申セシカトモ、我事ナレハ度々人ニ語了、今思ヘハ希代夢也ト云々、其可心ト云者ハ、法隆寺歸ニ是ヘモ来、歸國ノ後モ度々預状了、于今堅固ナルヘシ、今四十四五ノ人ナルヘシ、利根才學ノ仁也、妻帯ノ僧也ト、」

武田氏が織田信長に滅ぼされた話題の次に載せられているもので、『多聞院日記』にしては長文である。内容をおおざっぱに訳すと、次のような意味になる。

○「仙學坊が言うには、十年くらい前に三河国の明眼寺の可心という僧が法隆寺に来て、一年ほど太子傳を学んでいった。彼の寺は聖徳太子が建てた寺で昔から戦にも巻き込まれない寺だった。岡崎の徳川家康も可心に帰依している。(この可心が)十年前の正月二日に見た夢で、聖徳太子を目の当たりにした。聖徳太子が言うには、天下を治める者は三人いる。(長尾)義景に望んだのだが、用(私が思うに「器用」のことか)がなくて出来なかった。(武田)信玄にも望んだが、武勇があっても慈悲がなくて出来なかった。信長一人にはできるだろう。私(聖徳太子)が頼朝にやった太刀「弥(ハヒコル)一天ニ(意味不明)」が、熱田神宮にある。早くこれを信長の所に持って行きなさい、と聞いたところで夢が覚めた。奇妙な事だと思ったが、夢だからと何もしないでいたら、同じ月の十五日に、どうして太刀を(信長に)持って行かないと厳しく(聖徳太子)に言われた。それでも何もしないでいたら、二月五日にまた聖徳太子が夢にあらわれて、何度も言っているのにどうして太刀を持って行かない!従わないならお前を成敗する!と言われて、可心は明眼寺から熱田まで三里の道のりを行き、その太刀を手に入れた。その帰りに村井貞勝に会い、夢のことを語った。それは早く信長に言った方がいいと言われた。家康にもこれを語り、その太刀を持って行き、信長に(夢のことを)話した。すると、信長も確かに同じ夢を見たと言い、これは目出たいことだ、天下を手に入れたら太子の建てた寺を再興しようと約束された。このことを(信長に)誰にも話さないよう言われたが、(可心)はたびたび人に話した。今思うと不思議な夢であったと(可心は)言っていたそうだ。その可心という者は、法隆寺の帰りにここ(興福寺)にも来て、三河へ帰った後もたびたび書状を寄越す。今も健在で、年齢は四十四、五歳の人だ。賢く才能のある人だ。妻がいる僧であるとのことだ」

『多聞院日記』の著者は仙學坊から聞いた話としてこの「聖徳太子の夢」の話を記している。織田信長が武田勝頼を滅ぼしたため、仙學坊という僧侶が『多聞院日記』の記述者英俊に、そういえば…と話したのだろう。これだけだったら、荒唐無稽な話だと笑い飛ばすところだ。何故なら、この二ヶ月後には本能寺の変が起きて、せっかくの聖徳太子の加護も空しく、信長が死んでしまうからだ。
しかし、ここにある「頼朝ゆかりの太刀」が引っ掛かった。実は同じ『多聞院日記』の7年後、天正十七年九月三日にこういう条があるのだ。

ーーー

●九月三日
「関白殿先段大事之刀盗取終ニ不知云々、依之男女數多ハタ物ニ被上了、浅野弾正カヲイモ腹切、諸方以外震動、一段御機嫌悪シ様子、狂乱ノ始了(也カ)云々、頼朝ノ守刀一文字無類ノ重寶也ト、在リ所于今シレスト了(云々カ)、」

とうに信長は亡く、秀吉の天下となっている。この天正十七年は、五月に鶴松が誕生した年。その年に大坂城では「頼朝の守刀盗難事件」が起きた。こちらもおおざっぱに訳す。

○「秀吉の大事な刀が盗まれ、その行方はついに分からなかったようだ。そのため、多くの男女が磔になった。浅野長吉の甥も腹を切り、あちこちで大きな動揺が起きた。(秀吉の)機嫌は非常に悪い様子で、狂い始めたかのようであるという。(盗まれたのは)頼朝の守刀一文字という他に類のない宝だという。どこにあるかは今も分からないらしい」

この「頼朝ノ守刀一文字」が可心が信長に渡した「太刀」であるかどうかは分からない。だが、「頼朝」「太刀」という部分は一致している。そして、この盗難事件には続きがある。翌天正十八年だ。

●五月晦日
「於京都尊教院順源房搦取、子細ハ関白殿去年失タル刀尊方ニ在之由、則坊ヘ尊ノ状ニテ宥禅房ニ被渡ヨト申来、則取出渡之、宥禅房モ中坊ヨリカラメ、内衆モ同前ト云々、言語道断、寺門瑕瑾、沈思ノ事、如何可成行哉、」

これもおおざっぱに訳す。

○「京都において尊教院順源房が捕えられた。理由は去年秀吉の所から盗まれた刀が、尊教院にあったからだ。直ぐに興福寺へ尊教院の書状に(興福寺の)宥禅房に(太刀を)渡したとあったとの知らせが来た。直ぐに(太刀を)取り出して(知らせて来た使いに?)渡した。宥禅房も中坊(=奈良奉行)によって捕えられた。(宥禅房の)内衆も同じように捕えられたそうだ。言語道断のことである。興福寺に傷がついた。憂慮すべきことだ。成り行きはどうなるだろう」

この条により、頼朝の太刀を盗んだのは「尊教院の順源房」で、盗まれた太刀は「興福寺の宥禅房」に預けられていたことが分かる。恐らく怒り狂った秀吉が徹底した捜索を命じたのだろう。盗人は捕まり、太刀は秀吉のもとに戻った。太刀が興福寺の僧侶の所にあったため、『多聞院日記』に犯人の捕縛が書き残された。
順源房がどうして太刀を盗んだのかは分からないが、実は大坂城は「盗み」がしやすい状況にあったらしい。下の記事は続史料大成『多聞院日記』に附録として載っている『蓮成院日記』の天正十七年九月の記事である。上記の九月三日と同じ「太刀盗難事件」を記しているが、内容が少し異なっている。

●「関白殿御秘蔵之御腰物不見付、去廿五六日比於大坂邊數十人御成敗由也、御寵愛女房達ヲヤヽ・ヲヰト両人・御近習・御帳臺以下ハ出入無之聞、被召籠被成御糺間處、刀在所ハ無存知歟、誰々トモ出合、酒宴在之由白状間、不及實否、歴々衆御成敗ト云々、」

以下、同様に訳す。

○「秀吉の秘蔵の刀が行方不明になり、先月の25、26日に大坂で数十人が処刑された。(秀吉)寵愛のヲヤヤ、ヲイトの二人と近習・北政所?以外の出入りはなかったため、(彼らを)捕えて問い質したところ、刀の行方は知らなかったようだ。(しかし)誰とでも出会える酒宴を開いていたことを白状したため、本当か嘘かには関係なく、身分の高い人達も処刑されたとのことだ」

「誰々トモ出合、酒宴在之」を分かりやすく訳せば、乱交パーティになるだろうか。「御帳臺」が秀吉の正室である北政所を指すかどうかは分からない。大坂城でこのような乱れた行為があり、女達が処刑される事例は文禄二年十月にもう一度ある。
「太閤大津へ御越ト、唱門師払ノ儀アリ、於大坂在陣ノ留守の女房衆、妄ニ男女ト之義問、金銀多取候罪□依テ也」「於大坂若公ノ御袋家中女房衆、御留守ニ曲事在之由聞食、御成敗ノ義、一両日在之ト、孝蔵主ハ伏見へ被帰候」(『時慶記』―『河原ノ者・非人・秀吉』からの孫引き)
この文禄二年は秀頼誕生の年で、「御袋」は茶々(淀殿)のこと。天正十七年の「誰々トモ出合、酒宴在之」で数十人が処刑されているにも関わらず、再び「妄ニ男女ト之義」があり、茶々の周囲にいた女房達が処刑された。どうやら、大坂城は秀吉の不在時には監督が行き届かなくあるヌルさがあったようだ。これは、秀吉亡き後、家康が大坂城西の丸に入ってから、大坂城の奥への男性の出入りを禁止する法度が奉行衆三人(前田玄以、増田長盛、長束正家)によって出されている(『豊臣秀頼』より)ことからも推測できる。
そして、女性達が殺されているように、犯人である僧侶達も同じ運命を辿る。

●六月六日
「一昨日四日歟於東寺尊教院順源ヽ并宥禅ヽ・下部以上三人ハタ物ニ上了、超昇寺父ノ禅門ハ腹切、順源ヽ兄弟衆ハ皆以生害、一類一時ニ果了、」

○「一昨日四日に東寺において尊教院順源院と宥禅院、その家来の三人が磔にされた。超昇寺父の禅門は腹を切り、順源院の兄弟は全員殺された。一族の者が一度に果ててしまった」

「超昇寺父ノ禅門」が誰の父であるかは不明だが、「一類一時ニ果了」から順源院の父親ではないかと思われる。順源院の一族ばかりが殺されているから、主犯はこの僧侶だったのだろう。彼らの処刑でこの盗難事件は幕引きを迎え、以後、盗難事件の話題は『多聞院日記』に載らなくなる。

ーーー

しかし、これだけの死者を出したにも関わらず、この「頼朝の守刀(一文字)」は秀吉所有の名刀として全く知られていない。秀吉所有の刀剣類を記した「太閤御物刀絵図」などに、この「頼朝」ゆかりの太刀は見当たらないのだ。この太刀の存在は『多聞院日記』でしか、(今のところ)確認できない。(*注:『兼見卿記』で確認できたため、下に追加)そして、問題なのは、一番最初にあげた聖徳太子のお告げ?で信長に渡された頼朝ゆかりの太刀が、この盗難にあった太刀かどうか、である。
恐らく同一の太刀ではないかと思われる。

聖徳太子のお告げは兎も角、この三河の明眼寺はその後名を変え、twitterで教えて頂いたのだが、妙源寺として現存している。この寺は浄土真宗の寺でありながら、一向一揆の際に徳川家康に味方した寺で、境内に「太子堂」が今でもある。(建造物の残りは非常に良いが、仙學坊の語りにあるような聖徳太子建立の寺院ではない)http://www.pref.aichi.jp/kyoiku/bunka/bunkazainavi/yukei/kenzoubutu/kunisitei/0005.html
「太子堂」がある寺院の僧侶が、夢で聖徳太子のお告げを聞いたと主張するのは、不自然ではない。家康の祖父の代からが庇護を受けてもいて、家康との関わりは『多聞院日記』の内容と完全ではないが一致する。
聖徳太子のお告げ云々は信用できないとしても、冒頭の『多聞院日記』の内容は細部の情報がそれなりに正確である。仙學坊が話した通り、可心はお告げの話を度々人に語ったのだろう。信長が武田を滅ぼしたことで、その話が余計に広まった可能性は高い。そして、太刀の盗難に関わった宥禅房は興福寺の僧侶である。
信長が畿内(=天下)を勢力下に置き、武田を滅ぼしたことで、可心が献上した太刀とその謂れ(聖徳太子+天下+頼朝)には一定の説得力がついてしまった。信長亡き後にその太刀を手に入れた秀吉が、その太刀を大事に「秘蔵」してもおかしくはない。僧侶の間では太子信仰が盛んである。「聖徳太子」のお告げがあったとされる太刀を、順源房は何故大坂城から盗み出したor盗ませたのか…。

この頼朝の太刀の「頼朝+聖徳太子云々」は恐らく可心の創作?だろう。仙學坊は「十年くらい前」に可心からその話を聞いている。天正十年から十年以上前なら、信長が畿内へ進出し始めている頃。「天下=畿内」を信長に、という聖徳太子のお告げをつけて太刀を献上するには良いタイミングだ。家康もその創作を承知の上で、信長への太刀の献上を仲介したのではないか。
家康は名刀を数多く所有しており、大坂の陣で燃えた名刀も探させて再刃させている。その名刀の中にこの「頼朝の太刀」はない。源頼朝を尊崇する家康が、頼朝ゆかりの太刀を見逃す筈はない。可心の創作を知ってたから、家康はあの太刀を探さなかった…というのは飛躍し過ぎか。
刀剣類の「謂れ」はΣ(- -ノ)ノ エッ!?というようなのが普通だのに、この「頼朝の太刀」の聖徳太子の話は人口に膾炙されていない。太刀も残らず、謂れも失われたのは、最終的な権力者となった家康が「事実」を知っていた…のなら、面白い。
ただ、一方でこの可心の「創作」を秀吉のみならず、順源房らも信じた結果の盗難事件であったのならば…、この話は「創作」に巻き込まれた人々の悲劇にもなる。

全て仮定の話ではあるが、この当時の話題にしては補強する史料や条件が揃ったので、まとめてみた。

ーーー追加1

『多聞院日記』以外にこの大坂城太刀盗難事件を記した史料を見つけたので、以下に掲載する。公家の吉田兼見が残した『兼見卿記』の記事である。「頼朝の守刀」という記載はないが、関係者と時期が完全に一致するので、同じ刀の盗難事件を記しているのは間違いない。

天正十八年
●五月卅日
「庚午、御祈祷行事四座、北政所殿(ねね)東殿御書到来云、明日日神七人待之事、承訖、子細者、去年紛失之御腰物、今度被尋出之也、 関白御気色無御別義、政所殿御仕合可然様ニ御祈祷之儀也、次ニ東殿息刑部少輔(大谷吉継)為祈念、一人代官待之事申来、日待御祈祷之儀心得存之由、返事申訖、殿原衆以上八人、神事行水已下仕而、今夜可罷出之旨申付畢、」

吉田兼見は公家であるが、吉田神社の神主でもある。そんな兼見の所に北政所(秀吉の正室、ねね)と彼女に仕える東殿(大谷吉継の母)から「祈祷」を依頼する書状が、5月30日に届いている。ここに記された「去年紛失之御腰物」は、先にある「北政所東殿」からして『多聞院日記』が記す大坂城から盗まれた「頼朝の守刀」に間違いない。上の『多聞院日記』の同年同月の記事に犯人の捕縛と刀の発見が記されている。この刀に対する秀吉の執心は死者を出すほどであったから、興福寺で見つかった刀が「今度被尋出之也」と直ぐに知らされた可能性は高い。そして、刀が見つかった故に、北政所は兼見に祈祷を依頼した。次に簡単に訳す。

○「庚午、祈祷行事の四座を行った。北政所殿と東殿から書状が届いたとのことだ。明日、日神七人待の祈祷を頼むとのことで、承った。その理由は、去年、盗まれた刀が見つかったからで、関白(秀吉)の機嫌が良くなるよう、北政所殿が上手くできるように願う祈祷である。次に東殿は息子の大谷吉継のための祈念であり、一人による祈祷を申し込まれた。日待の祈祷を行うこと、分かりましたと返事を出した。殿原衆の八人に神事のための行水をして、今夜来るように申し付けた」

『多聞院日記』以外で太刀の盗難と発見が確認できた。よって、この大坂城からの太刀盗難事件は、実際にあったことと断言できる。北政所が太刀が見つかって直ぐに秀吉の機嫌が良くなるように依頼していることから、この盗難事件に対する秀吉の怒りの凄まじさが分かる。『多聞院日記』の「狂乱ノ始」という書き方は、事実だったのだろう。北政所が祈祷を依頼した理由は、犯人である僧侶に厳しい罰が下らないようにするためか、それとも自分に罰が及ばないようにするため、だろうか。「政所殿御仕合可然様ニ」と、自身が上手くやれるように願っているところが気になる。北政所といえば、秀吉に対して意見が出来る数少ない存在として知られているが、この祈祷依頼からは、寧ろ、秀吉を恐れている気配が伺われる。『多聞院日記』の「御帳臺」が彼女だった場合、盗難事件の責任者は北政所となるので、この件に関しては北政所は秀吉に強く出られない立場だったのかもしれない。
日待は徹夜の祈祷である。七人での祈祷を依頼した北政所は、翌日の6月1日に兼見に「銀子一枚」を支払っている。東殿は「五十疋」。ただ、東殿は「息刑部少輔祈念之義」をもう一度追加していて、更に「五十疋」を支払っている。この大谷吉継のための祈祷が、刀の盗難事件に関係しているかどうかは分からない。大谷吉継が病となって体調を崩すのは慶長年間あたりなので、この祈祷の理由は病ではないと思われるが、体調不良はよくあることなので、断言はできない。北政所と同じ日に祈祷を依頼していることから、大谷吉継が盗難事件があった日に大坂城にいて責任を問われる立場にあった可能性も考えられる。が、『兼見卿記』に祈祷理由が書いてないので、推測をするにしても他の史料との突き合わせが必要である。取り敢えず、今回は可能性の部分を指摘しておくに留める。

ーーー追加2

天正17年カと年次比定が確定していない書状であるが、大坂城から「刀・脇差」が盗まれた件を記している書状であるため、追加した。
片桐貞隆宛の朱印状で、内容からして大坂周辺の国々に出されたものと思われる。

「成簀堂古文書 片桐文書」(豊臣秀吉文書集)

● 猶以御代官所之儀も右同然に候間、能々可相改候也、
 急度仰出候、
一御台所人藤大夫と申ものゝむすめ、御内にめしつかハされ
 候処、御座敷ニおかせられ候御こしの物・御わきさしぬす
 ミ候ニ付て、親の藤大夫ちくてん候間、方々被成御糾明候
 事、
一其方分国中、一在所をきり屋内をさかし、其上地下人・他
 所の者堅相改、其在所の者又ハ他所の者にても不苦ものハ、
 地下人請ニ候て一札をさせ可申候、少も不審なるもの於在
 之者、からめとり可上候、
一右藤大夫と申ものハ、とし六十斗之者ニ候、あたまをそり、
 さまをかゑ候事も可有之候、若糾明令無沙汰、自余の口よ
 り其方分領にて於尋出者、知行被召上、則其方事も可被召
 失候条、成其意、精を入可相改候、不可有由断候也、
  八月廿五日 (朱印)
   片桐主膳正とのへ

宛先の片桐主膳正は、片桐且元の息子片桐貞隆である。
秀吉の時代には播磨国に所領があり、その知行地用に出された文書であろう。
年次を欠くこの書状が「天正17年カ」と比定されているのは、この年に大坂城で上記の刀の盗難事件があったからだろうか。
内容を簡単に訳す。

○ なお、代官についても右と同様であるので、よくよく調べて必ず報告するように
一、御台所人の藤大夫という者の娘を(大坂城?)城内で働かせていたところ、御座敷に置いてあった(秀吉の?)刀と脇差を盗んだため、親の藤大夫が逃亡した。方々で探すようにしなさい。
一、その方の分国内で、在所ごとに?屋内を探し、その上、地下人やよそ者を厳しく調べ、その在所の者であってもできるものは、地下人に請け負わせて(身元を保証する)書付を出させなさい。少しでも不審な者がいたら、捕えて(大坂に?)連れて来るようにしなさい。
一、右の藤大夫という者は、年は六十歳くらいである。頭を剃って、変装していることもあるだろう。もし追求して連絡がなく、他からその方の領内でお尋ね者が報告された場合、知行を召し上げた上に、則、その方も捕えてクビ?にする。その意を成して(=藤大夫を捕えるように?)、調べに励み、油断しないようにしなさい。

上の史料では「太刀の一文字、御腰物」の盗難にしか触れていないが、この書状では「刀と脇差」が盗まれている。
また、犯人は台所人藤大夫の娘で、僧侶ではない。
探索の対象となっているのは、父親の藤大夫。
内容からして娘は既に捕えられているのだろう。
この盗難が上の盗難事件と同一であるかは不明。
同一であった場合、娘が盗みの実行犯で、僧侶尊教院順源房は主犯となる。
天正17年9月3日に興福寺に「関白殿先段大事之刀盗取終ニ不知云々、依之男女數多ハタ物ニ被上了」と伝わった。
藤大夫の捜索は8月25日に命じられている。
9月3日に数多くの男女が処刑されたとあるが、この中に娘と藤大夫が含まれているのだろうか。
日付からして、藤大夫はまだ捕まってなさそうではある。

上記の盗難事件と同一との確証はない。
ただ、日付が近く、盗難された物が「刀」とかぶっているので、載せた。
別の盗難であったのなら、大坂城から2度も刀が盗まれていることになる。
刀以外に「金」の盗難もあったようで、上記の「誰々トモ出合、酒宴在之由白状間」と合わせて城内の警備と風紀のユルさが窺える。

マズいと思ったのだろう。
天正17年8月付の「定」(「本丸鉄門番ニ付定」(山中文書))で大坂城内への人の出入りが規制されている。

● 定 御本丸鉄門番ニ付定
一とりの上刻より、明るたつの刻まて、女房とも一切城中の
 出入あるへからさる事、
一夜中に状文の出入、番衆として書中を見候て、手くりに取
 次、とヽけ可申事、
一御用候てまいり候女房衆こしの事は、とをし可申、いて候
 時ハおくより印にて出し申へき事、
一諸奉公人の事、小姓一人・さうりとり一人めしつれ可入之、
 但御用の物もたせ候ハヽ、そのものはあらためとをし可申
 事、
一不断御用被仰付候ともから、其主人にうけこハせ、若党・
 小もの入申へき事、
一夜中に御よう被仰出に付てハ、当番の輩書状を御門番とし
 て可相届事、
一当御門番の外、おとこのたくひ一切ふせるましき事、
 天正十七年八月 日 (朱印)

刀の盗難を受けての「定」に違いない。
とりの上刻は午後5時くらいで、たつの刻は午前8時くらい。
女性は夜間の外出が禁止となった。
逆に言えば、これ以前は規制されてなかったのだろう。
確かに盗みはしやすそうだ。



大坂城の太刀盗難事件を補強する史料を追加。

今後も関連する資料が見つかれば、載せていきます。
posted by アリノリ at 21:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 徳川家康関連

2015年03月19日

徳川家康・秀忠の上洛(=京都着)・下向(京都出立)

家康・秀忠父子の上洛(=京都着)と下向(=京都出立)

『言経卿記』を読むと、徳川家康と息子秀忠の上洛・下向に一定のパターンがあるように思えたので、『家忠日記』『織豊期主要人物居所集成』他を使って、天正十年〜慶長十一年までの二人の動きを書き出してみた。京都に入った後大坂に動く場合や、直に大坂入りするときも「在京」扱いとしている。(○、◎に家康と秀忠のおよその在京期間を記し、●に二人が共に在京している期間を示す)
*追加:家康・秀忠の動向に「秀康」も加えてみた。家康や秀忠と違って在京期間が分かり辛いが、分かる範囲内で書き出してみると、徳川親子の動きが連動しているのが読み取れる。


天正十年(1582)
 五月十一日 家康、岡崎を出立
   十五日 家康、安土着
   廿一日 織田信忠・家康、上洛
 六月二日  本能寺の変
   四日  家康、大濱着    ○家康:短期在京

天正十二年(1584)
十二月十二日 *御儀伊(秀康)、人質(名目上は養子(猶子))として上洛→大坂へ

天正十四年(1586)
 十月十八日 大政所(秀吉母)、岡崎着
   廿日  家康、出立
   廿六日 家康、大坂着
 十一月八日 家康、下向
    十日 家康、大高着    ○家康:短期在京

天正十五年(1587)
 七月廿九日 家康、岡崎を出立
 八月十三日 家康、田原大津着  ○家康:短期在京

天正十六年(1588)
 三月十四日 家康、岡崎を出立
   二十二日 家康、京都在
 四月十四日  聚楽第行幸
   廿七日 家康、駿府着
 六月廿二日 家康、出立←理由:大政所煩い、北条氏規上洛?
 九月四日  家康、田原大津着  ○家康:約四ヶ月在京

天正十七年(1589)
 二月廿八日 家康、出立
 五月廿七日 鶴松、誕生
 六月七日  家康、田原大津着
 十二月五日 家康、出立←理由:小田原攻め
   十八日 家康、吉田着    ○家康:約三ヶ月在京

天正十八年(1590)
 正月七日  秀忠、出立←理由:織田信雄女との祝言
   廿五日 秀忠、下向     ◎秀忠:短期在京

 七月二十九日 家康、*秀康の結城跡目を了承
(8月以前に徳川は関東へ移封)
 十月 家康・*秀康は葛西大崎一揆鎮圧へ

天正十九年(1591)
 閏正月廿二日 家康、上洛(秀忠同道?)
 三月十一日  家康、下向(秀忠、在京)
 十一月廿九日 秀忠、下向    ○家康:約一ヶ月在京
                 ◎秀忠:約十一ヶ月在京 ●重複:約二ヶ月

天正廿(文禄元)年(1593)
 二月廿四日 家康、上洛←理由:朝鮮出兵
 三月十七日 家康、名護屋へ。秀康も同道。
 八月十五日 秀忠、上洛予定←理由:大政所の死去
 九月五日  秀忠、上洛
   廿一日 秀忠、下向    ○家康:短期在京(但し、三月から在名護屋)
                ◎秀忠:短期在京 ●重複:なし

文禄二年(1593)
 八月三日  秀頼、誕生
 八月廿九日 家康、大坂着
 九月五日  家康、伏見へ←理由?:羽柴秀次、熱海へ出立
   同日  秀忠、出立
   十七日 秀忠、上洛
 十月十一日 秀次、熱海より戻る
   十四日 家康、下向
 十二月廿三日 秀忠、下向   ○家康:約二ヶ月在京(但し、八月まで在名護屋)
                ◎秀忠:約四ヶ月在京 ●重複:約一ヶ月(閏九月あり)

文禄三年(1594)
 二月廿四日 家康、上洛    
 六月?   *秀康、上洛    
 八月二十四日 *秀康、家康の京屋敷訪問 ○家康:約十ヶ月在京 ●重複:なし

文禄四年(1595)
 三月八日  秀忠、上洛
 五月三日  家康、下向
 七月八日  秀次、高野山へ=秀次事件
   廿四日 家康、上洛
 九月十七日 秀忠、お江を娶る 
 十月一日  家康・秀康・秀忠、家康の伏見屋敷で伊勢物語の講釈を聞く
                ○家康:約九ヶ月在京
                ◎秀忠:約九ヶ月在京 ●重複:約八ヶ月

文禄五(慶長元)年(1596)
 正月?   *秀康、結城へ下向
 二月廿五日 秀忠、下向
 六月前?  *秀康、上洛
 六月六日  秀忠、上洛
 九月五日  家康、下向
 十二月十五日 家康、上洛  ○家康:約九ヶ月在京
               ◎秀忠:約三ヶ月在京 ●重複:約三ヶ月

慶長二年(1597)
 六月十六日 秀忠、下向
 十一月十七日 家康、下向
 十二月四日 秀忠、上洛   ○家康:約十一ヶ月在京
               ◎秀忠:約七ヶ月在京 ●重複:約五ヶ月

慶長三年(1598)
 二月前?  *秀康、下向
 三月十五日 家康、上洛
 三月前?  *秀康、上洛
 七月十五日 秀忠、在京(→この後、八月十八日に下向か?)
 八月十八日 秀吉、死去   ○家康:約九ヶ月在京
               ◎秀忠:七ヶ月?在京 ●重複:約四ヶ月?

慶長四年(1599)
 家康、通年在京(*秀康も通年在京?)
 秀忠、在京なし       ○家康:一年在京 ●重複:なし

慶長五年(1600)
 六月十六日 家康、下向←会津へ出兵(*秀康も関東へ)
 九月廿四日 秀忠、上洛(伏見へ)
   廿六日 家康、淀城に
   廿七日 家康、大坂城に  ○家康:約八ヶ月在京
                ◎秀忠:約三ヶ月在京 ●重複:三ヶ月

慶長六年(1601)
 四月十日  秀忠、下向
 八月?   *秀康上洛→越前へ    
 十月十二日 家康、下向    ○家康:約十ヶ月在京 
                ◎秀忠:約四ヶ月在京 ●重複:四ヶ月

慶長七年(1602)
 二月十四日 家康、上洛
 五月?   *秀康、上洛
 九月?   *秀康、下向
 十月二日  家康、下向
 十二月廿五日 家康、上洛  ○家康:約九ヶ月在京 ●重複:なし

慶長八年(1603)
 二月十二日 家康、将軍就任
 三月前?  *秀康、上洛
 五月?   *秀康、下向
 十月十八日 家康、下向   ○家康:約十ヶ月在京 ●重複:なし

慶長九年(1604)
 三月廿九日 家康、上洛
 六月    *秀康、上洛
 七月?   *秀康、下向
 八月十四日 家康、下向   ○家康:約五ヶ月在京 ●重複:なし

慶長十年(1605)
 二月十九日 家康、上洛
 二月    *秀康、上洛→以後、伏見に長期滞在か?
 三月廿一日 秀忠、上洛
 四月十六日 秀忠、将軍就任
 五月十五日 秀忠、下向
 九月十五日 家康、下向   ○家康:約七ヶ月在京
               ◎秀忠:約二ヶ月在京 ●重複:二ヶ月

慶長十一年(1606)
 四月六日  家康、上洛
 九月廿一日 家康、下向   ○家康:約五ヶ月在京 ●重複:なし

慶長十二年(1607)
 三月一日 *秀康、伏見を出立し越前へ
 閏四月八日 *秀康、病没
               ○◎家康・秀忠とも上洛なし

以後、慶長十六年まで家康の上洛はない。
天正十年から慶長三年まで、家康の上洛はときの権力者である織田信長と羽柴秀吉の都合によって、その期間や時期が決定している。文禄二年まで、家康・秀忠ともに在京期間は短く、領国にはどちらかがいる状態になっている。しかし、文禄三年から家康の在京期間が大幅に伸び、秀忠も文禄四年から慶長三年まで、父親ほどではないが在京期間が長い。移動に要する日数を加えれば、二人は揃って三ヶ月かそれ以上、江戸を空にしている。
秀吉没後に二人の在京重複がほとんどなくなるから、この領主の領国不在は徳川にとっては迷惑且つ危険なことであったろう。

文禄二年に名護屋から戻り、大坂に着いた家康はそのまま江戸に戻る予定であった。
(『家忠日記』の著者松平家忠は家康を迎えるために、秀忠を九月五日に見送った後も江戸に残っている)
家康は天正十八年に関東へ移ったばかりであるのに、天正廿(文禄元)年には朝鮮出兵のために名護屋へ狩り出され、この文禄二年はおよそ一年半ぶりの帰国なのだ。しかし、家康は十月まで京都に留め置かれる。同時期にちょうど秀次が不在である。家康は秀次の出立に合わせて伏見へ行き、戻って来た秀次と入れ替わる形で帰国している。
秀次の不在を家康が埋めたように見えるが、この秀次の不在の始まりは、秀吉の禁中能にもかぶっていて、家康はこれに参加している。
家康は秀次が不在だから京にとどめ置かれたのか、禁中能のために在京していたのか、よく分からない。
翌文禄三年から没するまで秀吉は家康を長く在京させていて、江戸へは短期間しか戻れていない。
そんな家康の短い不在期間に「秀次事件」が起きる。
秀次事件の知らせを受けて急いで上洛した家康は、そのまま慶長三年の三月まで二年以上、江戸に戻れなくなる。秀吉没後はより一層、在京の必要性が増し、ようやく京都に長くいる必要がなくなるのが、慶長十二年以降。以後、家康は江戸ではなく、駿府を拠点とする。
(家康は慶長十年から秀康に伏見を任せて、西国大名や朝廷とのあれこれも任せるつもりだったようだ。手始めとして、秀康の娘を毛利輝元の息子と婚約させている。しかし、秀康の体調悪化と病没により、家康は元和2年に死ぬ直前まで朝廷対応を引き受けるハメになる)

家康は関東に移動し江戸を新たな拠点にしてからこそ、在京期間が長くなる。
これでよく新領の統治に支障が出なかったと思う。他の秀吉系大名の新領地であったような一揆は関東では起きていない。家康の不在が長いせいで知行割が遅れたり、領地替え故のトラブルもあったので全く問題がなかった訳ではない。それでも、これだけ当主が留守をしていて大きな問題が生じなかったのは、徳川配下の代官の手腕か、家康を在京させている秀吉側の配慮が行き届いていたのか。
いずれにしても、秀次事件前後の「家康の在京期間の長さ」は、豊臣(羽柴)政権下における家康の役割を考える上でも重要であろう。

○追加1:不明となっている秀忠の下向時期など、分かりましたら、追加します。慶長六年の分を追加しました。
○追加2:秀康の動向を追加しました。
○追加3:慶長7年の秀康上洛時期を5月に修訂しました。←『舜旧記』より
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2014年05月25日

『徳川家康』ーその手紙と人間ー 桑田忠親

★★★☆☆

図書館で借りて一度読んだが、手元に置いておきたくなり、古本屋で文庫を購入した。とうに絶版になっているため、手に入れたければ古本を探すしかない。
著者の桑田氏は研究者であったが、一般向けの戦国時代の本も多数書いている。これもその1つ。
家康の「手紙」からその人物像を書き出していくという趣旨の本であり、著者が書く家康の素顔とやらは、ありがちな腹黒狸である。
しかし、著者が書くように書状からその人のずる賢さが読み取れるかというと、必ずしもそうではない。戦国時代の書状は挨拶や返事を除けば、ほぼ最低限の事柄しか記さず、詳細は使者から聞いて欲しい、というのばかりで、手紙には詳しい事柄や心情はほとんど記されないからだ。だから、差出人がどんな意図があってこの書を出したのか、は前後の事情から「推測」するしかなく、著者もその方法で徳川家康の人物像を書き出している。
一例として、本に永禄十二年とある手紙を載せてみる。

  なおなお、前々より御知音の事に候間、すこしも不沙汰あるまじく候。
  この書、見分申すまじく候へども御推量御よみあるべく候。
 其の方御身の儀、無沙汰これあるまじく候。委細、作左衛門申すべく候。
 小平太を以て申すべくと、存じ候へども、さきへ越し候間、申さず候。
 この内書を御かくし、もっともに候。恐々謹言。

  五月十一日                      家康 御判
 岡次郎右 参

この書状を読んだだけで徳川家康の人となりが分かるだろうか。というか、そもそも何について書いているのか分かるだろうか。この書状の内容を理解するには、先ず、宛名の「岡次郎右」が誰で、永禄十二年に今川と徳川の間で何があったか知らなければならない。
この岡次郎右は今川氏の家臣の岡部次郎右衛門尉正綱である。桶狭間の戦いは永禄三年であり、家康は永禄五年に今川から離反して織田と同盟関係を結んでいる。永禄十一年十二月に武田氏が駿河に侵攻、義元の息子今川氏真は瀬名氏らに叛かれ、掛川城へ逃げ込む。家康も武田と呼応して遠江に攻め込み、この掛川城を包囲する。が、氏真とその家臣らは海上ルートを通じて今川に従い続ける遠江の国人領主らと連携し、この籠城戦をよく耐えた。
氏真は家臣らの命を保障するのと引き換えに、永禄十二年の五月に掛川城を開城して家康に引き渡す。
これが永禄十二年の出来事である。
ただ、本にはこの日付のみの書状を「永禄十二年」のものとしているが、どうもこれは誤植のようだ。何故なら、次に掲載されている上杉謙信への手紙の解説に「翌年の永禄十二年」とあって、永禄十二年の翌年が永禄十二年というおかしな表記になっている。その上、永禄十二年五月といえば、上記のように岡部正綱が仕える氏真が家康と対立&交渉をしている時期だ。そんな時期に今川家の家臣が家康と通じるだろうか。そんな時期だからこそ、手紙の遣り取りがあったとも考えられるが、どうなのだろう。
手紙の内容は、通じてきた正綱のことは粗略に思っていない、と伝えるものである。
(どのみち、永禄十二年の後に翌年の永禄十二年とあるのはおかしいので、時間があるときに図書館で徳川家康文書の研究でも見て確認して来よう)
この岡部正綱は氏真が逃げた後も、頑強に武田氏への抵抗を続けた。そのことが逆に評価され、後に信玄に招かれて武田家臣となっている。武田氏滅亡後は徳川に仕えた。家康が今川の人質であったときに仲が良かったとの話もあり、上記の書状もその関係を踏まえたものであろう。
書中の「作左衛門」は本多作左衛門尉重次、「小平太」は榊原小平太康政のことである。
長くなったが、これが宛名の人物に関する前後の状況である。
この書状から分かるのは、今川家臣の岡部正綱が、主家が完全にダメになる前に家康と接触していて、家康も彼の内通を了解していたということだ。ただ、上記のような正綱の戦い振りからして、この接触は今川家のためであった可能性もある。たとえ敵対していても、交渉ができるルートを確保しておくのはごく当たり前のことだ。実際、大名としての今川家は掛川城の籠城戦で終わってしまうが、氏真自身は北条→徳川の庇護のもと1614年まで長らえる。
また、今川家の旧臣らは、家康の駿河獲得によって、岡部正綱のように武田経由徳川行きした者が多数いて、正綱が特殊な例という訳ではない。

敵方の家臣と通じる書状といえば、最近、伊達政宗が佐竹配下に裏切りを促す書状が見つかったというニュースもあった。この家康の書状も戦国大名としてはごくありきたりのもので、内通を伺わせる書状だけ上げて、家康の個性を見出すのは無理がある。これ以外の書状も、確かに家康の動静は分かるが、そこに個性が見受けられかというと、正直微妙である。敢えて、個性を伺わせるものを上げるとするなら、最後の方に載せられている身内宛の書状だろう。
大坂の陣の後、家康は千姫に手紙を送っている。

  返すがえす、御わづひ、あんじまいらせ候。めでたく。
 御わづらひ、御心もとなくおもひて候て、藤九郎まいらせ候。何と御いり候や。
 くわしく承り候べく候。くわしく藤九郎申しまいらせ候べく候。
                                大ふ
  ちょぼ 申し給へ

「大ふ」は家康の署名。宛名の「ちょぼ」は千姫の侍女である。彼女の名の下に「申し給へ」とあるのは、この内容を千姫に伝えてくれ、という意味。
実は家康は大坂の陣の後、この千姫の侍女「ちょぼ」と自筆で手紙の遣り取りをしている。孫が嫁いだ先を潰してしまったのもあろうが、家康はこの手紙で千姫に対し、使いの藤九郎に病状を詳しく言うように伝えている。大坂の陣の後、千姫は具合を悪くしていた。様子を聞いて、手製の薬でも調合&処方するつもりだったのかもしれない。
ちょぼとの遣り取りは頻繁だったようで、

  返すがえす、たびたび御ふみ、御うれしく見まいらせ候。
 このはる御よろこび、いつにもすぐれ、めでたく思ひまいらせ候。
 さては、御そくさいにならせられ候よし、めでたくおもひまいらせ候。
 われわれも、そくさひにて御いり候まゝ、御心やすくおぼしめし候べく候。
 めでたく、かしく。
                           ヽヽ
  ちょぼ 申し給へ

これが家康の絶筆となる最後の手紙とある。千姫の具合が良くなったのを喜んで、自分も息災だから安心して欲しいと書いてあるが、この手紙を書いた正月に家康は発病し、同年の四月に没する。
家康の身内宛の手紙はこの本にもあまり載っておらず、ちょぼ経由千姫宛以外では、側室に宛てた次の手紙くらいだ。

 返すがえす、めでたく思ひまいらせ候。
 さいせう、いよいよよく候よし、うれしさ、御すもじ候べく候。
 かるがると、いでき候へば、心やすく、めでたく、うれしく候こと、
 御すもじ候べく候。めでたく、かしく。
                            家
  おかめ
  あちゃ

さいせう、とは側室お亀の方の子義直のことで、これも病気が良くなって良かったという内容である。興味深いのは、宛名に二人の女性の名が並べて書いてあるところだ。母であるおかめの横に「あちゃ」とあるのは「阿茶局」のことで、同じく家康の側室である。宛名に彼女の名もある場合、阿茶局もこの手紙が読める。側室への手紙を側室が読めるようにするのは、手紙の内容もあるだろうが、「阿茶局」が家康に徳川の「奥」を任されているからだろう。また、任されている証拠にもなる。
この手紙は慶長十六年のもので、この時点で家康には正室がいない。家康には築山殿と旭姫が正室としていたが、二人とも諸事情から徳川の「奥」は預かれなかった。では、誰が徳川家の「奥」を仕切っていたかといえば、この「阿茶局」であるようだ。家康との間にできた子どもは小牧長久手の陣中で流産してしまい、以後、彼女は子どもができない体になってしまった。ために、西郷局の死後、彼女が生んだ秀忠と忠吉を養育し、先夫との子を秀忠に仕えさせた。ドラマや小説でも滅多に取り上げられることがない女性だが、大坂の陣では和議の使者を勤め、家康の死に際しても彼女だけはその有能さを惜しまれて剃髪を許されなかった。天皇家に嫁入りする秀忠の娘和子の守役をつとめ、天皇から従一位民部卿を賜り、秀忠の死後にようやく出家した。
このような経歴と合わせて見れば、別の側室宛の手紙に彼女の名があるのも理解できる。家康の実質的な正室はこの「阿茶局」として間違いないだろう。

身内宛の書状はちょぼ宛千姫向けのがもう一通載っており、それも彼女の具合が良くなったのを喜ぶものだ。これを表面的なものと読むか、家族の情が感じられるものと読むか、は、実は受け止める側、解釈する側の問題であって、書いた当人は無関係だ。
それでも、大坂の陣の後、千姫にこのような手紙を出していたことを知っていれば、家康に対するイメージや印象は違ってくると思う。
それもあって、今回は書状を引用して長めに書評を書いた。
上記の永禄十二年?に関しては分かり次第、追記を載せる。

*追記:『徳川家康文書の研究』を確かめたところ、岡部正綱への書状は「永禄十一年」とされていた。上の永禄十二年は、やはり誤植のようである。
posted by アリノリ at 18:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 徳川家康関連

2014年03月20日

『ジャパン・ブルー』青の文化と家康小袖の再現 NHK名古屋放送局編

★★★☆☆

徳川美術館が収蔵する家康の小袖を「再現」する企画を追った本である。
前に人々の服装が「結構」になったのは家康以来、という家康の侍医による文章を読んでから徳川家康の衣服に興味を覚えた。何か関連本がないかと探したところ、この本があったので古本を購入した。(平成元年出版の本で既に絶版?になっているもよう)

江戸幕府初代将軍である徳川家康縁の品々は、家康の死後、子供達の所などに遺品として分配された。当然、東照大権現の遺品は大事に扱われたため、保存状態の良い物が多い。しかし、衣類が四百年もの歳月に耐えるのは難しく、色の退色や布地の劣化は免れない。
企画では、「花重文辻ヶ花染小袖」と「葵紋散槍梅文辻ヶ花染小袖」が再現対象となり、ただ単に見た目が同じ物を作るのではなく、できるだけ当時と同じ材料と手法を使っての「再現」挑戦となった。その作業過程は、織りの解析から始まり、織りだけで一年、染めには一度失敗するなど、困難を極める。
本に文章を寄せているのは、藍の生産者、染めの職人などの再現に携わった人達と、「藍」について世界的、民俗的、芸術的に語る専門家の人達である。
私がこの本を手に取った理由は、上記の家康以来の「結構」であったため、家康について触れる部分がごく一部であったのが残念だ。だが、再現品以外にも「家康の小袖」が幾つか掲載されていたのでよしとしよう。
本の中に「現存する辻ヶ花小袖が、華麗でどちらかといえば女性的」とあるように、家康の小袖も「女物」と見紛う可愛らしい図柄の物が多い。しかも、それらは家康自身が発注して作らせている。「桔梗の花大らかに、一つ所に五つ三つなど重ねて」という注文は、再現した「花重文辻ヶ花染小袖」の柄とほぼ同じで、再現品も含めて、本には二つの桔梗柄の小袖の写真が載っている。
「女物」に見えるせいか、同じ桔梗柄の小袖が先日の大河ドラマ「軍師官兵衛」でも、秀吉の正室おねへの贈り物の1つとして出ていた。
徳川家康の遺品には「藍」の着物が多いと文中にある。「藍」を好むは家康の嗜好が派手ではなく地味であったとの認識に繋がりやすい。しかし、再現の様子を見れば、絹織物も含む家康の藍染めが決して「安い」品物でないのがよく分かる。文中でも度々触れられているように、家康の小袖は、見た目は華美ではないが、手が込んでいて「品が良い」のだ。

家康の時代に全盛を誇った辻ヶ花染めは、より手間のかからず、華美な色彩や模様が施せる友禅染めに取って代わられる。木綿の普及や徳島藩での藍生産の推奨によって、藍染めは武士階級だけでなく広く庶民の物となり、日本人の衣類の色「ジャパン・ブルー」として定着する。

『慶長記』にあるように、「小袖の結構になり候事、家康公よりはじまり候事、人はしらず」となるのだろう。
posted by アリノリ at 20:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 徳川家康関連

2014年03月06日

徳川家康の通説と近年の疑義・修正

徳川家康に関する「通説」に対し、疑義や否定がなされている事柄について、分かり易く一覧で紹介する場が必要であると感じたため、ここに個人的に見つけたものをあげておく。通説に疑義が差し挟まれているのは他にも幾つかあるが、特に「史料で確認ができている(できていない)」ものに絞った。


1、「清洲同盟」という名称
 織田と徳川の間に成立した同盟を示す言葉である。しかし、当時の史料で家康が清洲城に赴いた事実を確認できるものはない。ドラマや小説では清洲城で信長と家康を会わせる場面がよく描かれるが、この「清洲城での同盟成立」を裏付ける史料はないことから、織田と徳川の同盟を「清洲同盟」と呼称するのはどうか、という指摘がある。

2、「七武将襲撃事件」:石田三成の逃げ込み先
 武功(武断)派の七武将に襲撃されたとき、石田三成は徳川家康の邸に逃げ込んだという話は広く流布しているが、これは、現在完全に否定されている。石田三成が逃げ込んだのは家康の邸ではなく、伏見城内の曲輪か自邸であり、既にwikiの記事にもそうある。家康はこの件に関しては仲介者として関わった。

3、「方広寺鐘銘事件」
 これも既にwikiに記事があるが、「国家安康」の四字は、豊臣家から銘文作成の依頼を受けた清韓という僧侶が、隠し題として「家康」の字を敢えて組み込んだものであり、意図せず入ってしまった文字ではない。清韓はよかれと思って家康の字を入れたと弁明しているが、諱(いみな)の使用は避けるのが通例であり、彼は家康方が豊臣家に圧力をかけるよい口実をつくってしまった。

4、大坂城の堀の埋め立て
 大坂冬の陣の講和条件の1つに大坂城の堀の埋め立てがあった。ドラマや小説では家康が外堀だけを埋める約束を反古にして内堀まで埋めてしまったと描かれることが多いが、講和の時点で「本丸だけを残して二の丸、三の丸の堀を埋めること」、また、「本丸だけを残して二の丸、三の丸、惣構の破却」は決まっており、豊臣方もこれを承諾していた。ただ、外堀を埋めるのは徳川方、二の丸・三の丸は豊臣方の担当であったが、二の丸・三の丸の方まで徳川方が埋めてしまったため、これが後世に脚色されてしまったのだろう。


*参考:『定本徳川家康』『関ケ原前夜』『関ケ原合戦と大坂の陣』『大坂落城戦国終焉の舞台』


歴史上の定説や通説は、新資料の発見や史料の解釈、史料に残された字・語句をどう読み取るかで変わるものである。ここにあげた疑義や否定も数年で変わる可能性があり、これらはあくまでもブログの日付時点のものであることはご承知頂きたい。ただ、上の2〜4に関してはドラマや小説でよく使われる「通説の方が誤っている」でほぼ間違いない。
posted by アリノリ at 18:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 徳川家康関連