『多聞院日記』を読んでいたところ、妙な条に行き当たった。
(2016年8月25日に史料「兼見卿記」を追加)
(2018年9月24日に史料「片桐貞隆宛秀吉書状」を追加)
天正十年
●三月廿三日
「仙學坊語ヽ(云)先年此十年モ前歟、參川國明眼寺ノ可心ト云僧法隆寺ニ来テ、一年程在寺テ太子傅ノ談義ヲ聞了、彼寺ハ太子ノ御建立也、昔ヨリ無亂寺也、岡崎殿家康ト云歸依僧也、十年先ノ正月二日ノ夜ノ夢ニ、聖徳太子マノアタリ對可心ニ仰ヽ浄天下者三人アリ、義景ハ望トモ用(私云器用ノ事歟)無レハ不可成、信源(玄)ハ望ム雖武無慈悲、不可成、信長一人ニ可歸也、吾頼朝ニ遣テ太刀弥(ハヒコル)一天ニ、其太刀熱田ノ社ニ可在之、早々信長ヘ可遣ト見テ夢サメヌ、希代ノ事也、乍去夢ナレハト打過ル處、又同十五日ノ夜ノ夢ニ、何トテ先日被仰付太刀ヲハ不遣哉ト厳ク仰ト見了、雖然可申上事いかゝと過行所ニ又同二月五日夜ノ夢ニ太子仰ヽ、度々申付ニ何トテ太刀ヲハ不遣ソ、何ニ不隨下知、汝ヲ可有成敗仰ト見テ、無力先明眼寺ヨリアツ田迄ハ三里アル間社参テ尋ル處、其太刀在之ヲ取テ、歸ニ村井長門守ニアヰテシカゝゝノ夢ヲ語ニ、早々可注進之由申間、家康ヘモ此事語テ、則太刀ヲ持参テ信長へ申上ル處ニ、我モ慥ニ如申夢ヲ見了、近比大慶也トテ、天下存分ナラヌ(ハカ)太子御建立ノ寺ヲハ可有再興由有契約ト語テ、此事深可有隠蜜之由先年申セシカトモ、我事ナレハ度々人ニ語了、今思ヘハ希代夢也ト云々、其可心ト云者ハ、法隆寺歸ニ是ヘモ来、歸國ノ後モ度々預状了、于今堅固ナルヘシ、今四十四五ノ人ナルヘシ、利根才學ノ仁也、妻帯ノ僧也ト、」
武田氏が織田信長に滅ぼされた話題の次に載せられているもので、『多聞院日記』にしては長文である。内容をおおざっぱに訳すと、次のような意味になる。
○「仙學坊が言うには、十年くらい前に三河国の明眼寺の可心という僧が法隆寺に来て、一年ほど太子傳を学んでいった。彼の寺は聖徳太子が建てた寺で昔から戦にも巻き込まれない寺だった。岡崎の徳川家康も可心に帰依している。(この可心が)十年前の正月二日に見た夢で、聖徳太子を目の当たりにした。聖徳太子が言うには、天下を治める者は三人いる。(長尾)義景に望んだのだが、用(私が思うに「器用」のことか)がなくて出来なかった。(武田)信玄にも望んだが、武勇があっても慈悲がなくて出来なかった。信長一人にはできるだろう。私(聖徳太子)が頼朝にやった太刀「弥(ハヒコル)一天ニ(意味不明)」が、熱田神宮にある。早くこれを信長の所に持って行きなさい、と聞いたところで夢が覚めた。奇妙な事だと思ったが、夢だからと何もしないでいたら、同じ月の十五日に、どうして太刀を(信長に)持って行かないと厳しく(聖徳太子)に言われた。それでも何もしないでいたら、二月五日にまた聖徳太子が夢にあらわれて、何度も言っているのにどうして太刀を持って行かない!従わないならお前を成敗する!と言われて、可心は明眼寺から熱田まで三里の道のりを行き、その太刀を手に入れた。その帰りに村井貞勝に会い、夢のことを語った。それは早く信長に言った方がいいと言われた。家康にもこれを語り、その太刀を持って行き、信長に(夢のことを)話した。すると、信長も確かに同じ夢を見たと言い、これは目出たいことだ、天下を手に入れたら太子の建てた寺を再興しようと約束された。このことを(信長に)誰にも話さないよう言われたが、(可心)はたびたび人に話した。今思うと不思議な夢であったと(可心は)言っていたそうだ。その可心という者は、法隆寺の帰りにここ(興福寺)にも来て、三河へ帰った後もたびたび書状を寄越す。今も健在で、年齢は四十四、五歳の人だ。賢く才能のある人だ。妻がいる僧であるとのことだ」
『多聞院日記』の著者は仙學坊から聞いた話としてこの「聖徳太子の夢」の話を記している。織田信長が武田勝頼を滅ぼしたため、仙學坊という僧侶が『多聞院日記』の記述者英俊に、そういえば…と話したのだろう。これだけだったら、荒唐無稽な話だと笑い飛ばすところだ。何故なら、この二ヶ月後には本能寺の変が起きて、せっかくの聖徳太子の加護も空しく、信長が死んでしまうからだ。
しかし、ここにある「頼朝ゆかりの太刀」が引っ掛かった。実は同じ『多聞院日記』の7年後、天正十七年九月三日にこういう条があるのだ。
ーーー
●九月三日
「関白殿先段大事之刀盗取終ニ不知云々、依之男女數多ハタ物ニ被上了、浅野弾正カヲイモ腹切、諸方以外震動、一段御機嫌悪シ様子、狂乱ノ始了(也カ)云々、頼朝ノ守刀一文字無類ノ重寶也ト、在リ所于今シレスト了(云々カ)、」
とうに信長は亡く、秀吉の天下となっている。この天正十七年は、五月に鶴松が誕生した年。その年に大坂城では「頼朝の守刀盗難事件」が起きた。こちらもおおざっぱに訳す。
○「秀吉の大事な刀が盗まれ、その行方はついに分からなかったようだ。そのため、多くの男女が磔になった。浅野長吉の甥も腹を切り、あちこちで大きな動揺が起きた。(秀吉の)機嫌は非常に悪い様子で、狂い始めたかのようであるという。(盗まれたのは)頼朝の守刀一文字という他に類のない宝だという。どこにあるかは今も分からないらしい」
この「頼朝ノ守刀一文字」が可心が信長に渡した「太刀」であるかどうかは分からない。だが、「頼朝」「太刀」という部分は一致している。そして、この盗難事件には続きがある。翌天正十八年だ。
●五月晦日
「於京都尊教院順源房搦取、子細ハ関白殿去年失タル刀尊方ニ在之由、則坊ヘ尊ノ状ニテ宥禅房ニ被渡ヨト申来、則取出渡之、宥禅房モ中坊ヨリカラメ、内衆モ同前ト云々、言語道断、寺門瑕瑾、沈思ノ事、如何可成行哉、」
これもおおざっぱに訳す。
○「京都において尊教院順源房が捕えられた。理由は去年秀吉の所から盗まれた刀が、尊教院にあったからだ。直ぐに興福寺へ尊教院の書状に(興福寺の)宥禅房に(太刀を)渡したとあったとの知らせが来た。直ぐに(太刀を)取り出して(知らせて来た使いに?)渡した。宥禅房も中坊(=奈良奉行)によって捕えられた。(宥禅房の)内衆も同じように捕えられたそうだ。言語道断のことである。興福寺に傷がついた。憂慮すべきことだ。成り行きはどうなるだろう」
この条により、頼朝の太刀を盗んだのは「尊教院の順源房」で、盗まれた太刀は「興福寺の宥禅房」に預けられていたことが分かる。恐らく怒り狂った秀吉が徹底した捜索を命じたのだろう。盗人は捕まり、太刀は秀吉のもとに戻った。太刀が興福寺の僧侶の所にあったため、『多聞院日記』に犯人の捕縛が書き残された。
順源房がどうして太刀を盗んだのかは分からないが、実は大坂城は「盗み」がしやすい状況にあったらしい。下の記事は続史料大成『多聞院日記』に附録として載っている『蓮成院日記』の天正十七年九月の記事である。上記の九月三日と同じ「太刀盗難事件」を記しているが、内容が少し異なっている。
●「関白殿御秘蔵之御腰物不見付、去廿五六日比於大坂邊數十人御成敗由也、御寵愛女房達ヲヤヽ・ヲヰト両人・御近習・御帳臺以下ハ出入無之聞、被召籠被成御糺間處、刀在所ハ無存知歟、誰々トモ出合、酒宴在之由白状間、不及實否、歴々衆御成敗ト云々、」
以下、同様に訳す。
○「秀吉の秘蔵の刀が行方不明になり、先月の25、26日に大坂で数十人が処刑された。(秀吉)寵愛のヲヤヤ、ヲイトの二人と近習・北政所?以外の出入りはなかったため、(彼らを)捕えて問い質したところ、刀の行方は知らなかったようだ。(しかし)誰とでも出会える酒宴を開いていたことを白状したため、本当か嘘かには関係なく、身分の高い人達も処刑されたとのことだ」
「誰々トモ出合、酒宴在之」を分かりやすく訳せば、乱交パーティになるだろうか。「御帳臺」が秀吉の正室である北政所を指すかどうかは分からない。大坂城でこのような乱れた行為があり、女達が処刑される事例は文禄二年十月にもう一度ある。
「太閤大津へ御越ト、唱門師払ノ儀アリ、於大坂在陣ノ留守の女房衆、妄ニ男女ト之義問、金銀多取候罪□依テ也」「於大坂若公ノ御袋家中女房衆、御留守ニ曲事在之由聞食、御成敗ノ義、一両日在之ト、孝蔵主ハ伏見へ被帰候」(『時慶記』―『河原ノ者・非人・秀吉』からの孫引き)
この文禄二年は秀頼誕生の年で、「御袋」は茶々(淀殿)のこと。天正十七年の「誰々トモ出合、酒宴在之」で数十人が処刑されているにも関わらず、再び「妄ニ男女ト之義」があり、茶々の周囲にいた女房達が処刑された。どうやら、大坂城は秀吉の不在時には監督が行き届かなくあるヌルさがあったようだ。これは、秀吉亡き後、家康が大坂城西の丸に入ってから、大坂城の奥への男性の出入りを禁止する法度が奉行衆三人(前田玄以、増田長盛、長束正家)によって出されている(『豊臣秀頼』より)ことからも推測できる。
そして、女性達が殺されているように、犯人である僧侶達も同じ運命を辿る。
●六月六日
「一昨日四日歟於東寺尊教院順源ヽ并宥禅ヽ・下部以上三人ハタ物ニ上了、超昇寺父ノ禅門ハ腹切、順源ヽ兄弟衆ハ皆以生害、一類一時ニ果了、」
○「一昨日四日に東寺において尊教院順源院と宥禅院、その家来の三人が磔にされた。超昇寺父の禅門は腹を切り、順源院の兄弟は全員殺された。一族の者が一度に果ててしまった」
「超昇寺父ノ禅門」が誰の父であるかは不明だが、「一類一時ニ果了」から順源院の父親ではないかと思われる。順源院の一族ばかりが殺されているから、主犯はこの僧侶だったのだろう。彼らの処刑でこの盗難事件は幕引きを迎え、以後、盗難事件の話題は『多聞院日記』に載らなくなる。
ーーー
しかし、これだけの死者を出したにも関わらず、この「頼朝の守刀(一文字)」は秀吉所有の名刀として全く知られていない。秀吉所有の刀剣類を記した「太閤御物刀絵図」などに、この「頼朝」ゆかりの太刀は見当たらないのだ。この太刀の存在は『多聞院日記』でしか、(今のところ)確認できない。(*注:『兼見卿記』で確認できたため、下に追加)そして、問題なのは、一番最初にあげた聖徳太子のお告げ?で信長に渡された頼朝ゆかりの太刀が、この盗難にあった太刀かどうか、である。
恐らく同一の太刀ではないかと思われる。
聖徳太子のお告げは兎も角、この三河の明眼寺はその後名を変え、twitterで教えて頂いたのだが、妙源寺として現存している。この寺は浄土真宗の寺でありながら、一向一揆の際に徳川家康に味方した寺で、境内に「太子堂」が今でもある。(建造物の残りは非常に良いが、仙學坊の語りにあるような聖徳太子建立の寺院ではない)
http://www.pref.aichi.jp/kyoiku/bunka/bunkazainavi/yukei/kenzoubutu/kunisitei/0005.html「太子堂」がある寺院の僧侶が、夢で聖徳太子のお告げを聞いたと主張するのは、不自然ではない。家康の祖父の代からが庇護を受けてもいて、家康との関わりは『多聞院日記』の内容と完全ではないが一致する。
聖徳太子のお告げ云々は信用できないとしても、冒頭の『多聞院日記』の内容は細部の情報がそれなりに正確である。仙學坊が話した通り、可心はお告げの話を度々人に語ったのだろう。信長が武田を滅ぼしたことで、その話が余計に広まった可能性は高い。そして、太刀の盗難に関わった宥禅房は興福寺の僧侶である。
信長が畿内(=天下)を勢力下に置き、武田を滅ぼしたことで、可心が献上した太刀とその謂れ(聖徳太子+天下+頼朝)には一定の説得力がついてしまった。信長亡き後にその太刀を手に入れた秀吉が、その太刀を大事に「秘蔵」してもおかしくはない。僧侶の間では太子信仰が盛んである。「聖徳太子」のお告げがあったとされる太刀を、順源房は何故大坂城から盗み出したor盗ませたのか…。
この頼朝の太刀の「頼朝+聖徳太子云々」は恐らく可心の創作?だろう。仙學坊は「十年くらい前」に可心からその話を聞いている。天正十年から十年以上前なら、信長が畿内へ進出し始めている頃。「天下=畿内」を信長に、という聖徳太子のお告げをつけて太刀を献上するには良いタイミングだ。家康もその創作を承知の上で、信長への太刀の献上を仲介したのではないか。
家康は名刀を数多く所有しており、大坂の陣で燃えた名刀も探させて再刃させている。その名刀の中にこの「頼朝の太刀」はない。源頼朝を尊崇する家康が、頼朝ゆかりの太刀を見逃す筈はない。可心の創作を知ってたから、家康はあの太刀を探さなかった…というのは飛躍し過ぎか。
刀剣類の「謂れ」はΣ(- -ノ)ノ エッ!?というようなのが普通だのに、この「頼朝の太刀」の聖徳太子の話は人口に膾炙されていない。太刀も残らず、謂れも失われたのは、最終的な権力者となった家康が「事実」を知っていた…のなら、面白い。
ただ、一方でこの可心の「創作」を秀吉のみならず、順源房らも信じた結果の盗難事件であったのならば…、この話は「創作」に巻き込まれた人々の悲劇にもなる。
全て仮定の話ではあるが、この当時の話題にしては補強する史料や条件が揃ったので、まとめてみた。
ーーー追加1
『多聞院日記』以外にこの大坂城太刀盗難事件を記した史料を見つけたので、以下に掲載する。公家の吉田兼見が残した『兼見卿記』の記事である。「頼朝の守刀」という記載はないが、関係者と時期が完全に一致するので、同じ刀の盗難事件を記しているのは間違いない。
天正十八年
●五月卅日
「庚午、御祈祷行事四座、北政所殿(ねね)東殿御書到来云、明日日神七人待之事、承訖、子細者、去年紛失之御腰物、今度被尋出之也、 関白御気色無御別義、政所殿御仕合可然様ニ御祈祷之儀也、次ニ東殿息刑部少輔(大谷吉継)為祈念、一人代官待之事申来、日待御祈祷之儀心得存之由、返事申訖、殿原衆以上八人、神事行水已下仕而、今夜可罷出之旨申付畢、」
吉田兼見は公家であるが、吉田神社の神主でもある。そんな兼見の所に北政所(秀吉の正室、ねね)と彼女に仕える東殿(大谷吉継の母)から「祈祷」を依頼する書状が、5月30日に届いている。ここに記された「去年紛失之御腰物」は、先にある「北政所東殿」からして『多聞院日記』が記す大坂城から盗まれた「頼朝の守刀」に間違いない。上の『多聞院日記』の同年同月の記事に犯人の捕縛と刀の発見が記されている。この刀に対する秀吉の執心は死者を出すほどであったから、興福寺で見つかった刀が「今度被尋出之也」と直ぐに知らされた可能性は高い。そして、刀が見つかった故に、北政所は兼見に祈祷を依頼した。次に簡単に訳す。
○「庚午、祈祷行事の四座を行った。北政所殿と東殿から書状が届いたとのことだ。明日、日神七人待の祈祷を頼むとのことで、承った。その理由は、去年、盗まれた刀が見つかったからで、関白(秀吉)の機嫌が良くなるよう、北政所殿が上手くできるように願う祈祷である。次に東殿は息子の大谷吉継のための祈念であり、一人による祈祷を申し込まれた。日待の祈祷を行うこと、分かりましたと返事を出した。殿原衆の八人に神事のための行水をして、今夜来るように申し付けた」
『多聞院日記』以外で太刀の盗難と発見が確認できた。よって、この大坂城からの太刀盗難事件は、実際にあったことと断言できる。北政所が太刀が見つかって直ぐに秀吉の機嫌が良くなるように依頼していることから、この盗難事件に対する秀吉の怒りの凄まじさが分かる。『多聞院日記』の「狂乱ノ始」という書き方は、事実だったのだろう。北政所が祈祷を依頼した理由は、犯人である僧侶に厳しい罰が下らないようにするためか、それとも自分に罰が及ばないようにするため、だろうか。「政所殿御仕合可然様ニ」と、自身が上手くやれるように願っているところが気になる。北政所といえば、秀吉に対して意見が出来る数少ない存在として知られているが、この祈祷依頼からは、寧ろ、秀吉を恐れている気配が伺われる。『多聞院日記』の「御帳臺」が彼女だった場合、盗難事件の責任者は北政所となるので、この件に関しては北政所は秀吉に強く出られない立場だったのかもしれない。
日待は徹夜の祈祷である。七人での祈祷を依頼した北政所は、翌日の6月1日に兼見に「銀子一枚」を支払っている。東殿は「五十疋」。ただ、東殿は「息刑部少輔祈念之義」をもう一度追加していて、更に「五十疋」を支払っている。この大谷吉継のための祈祷が、刀の盗難事件に関係しているかどうかは分からない。大谷吉継が病となって体調を崩すのは慶長年間あたりなので、この祈祷の理由は病ではないと思われるが、体調不良はよくあることなので、断言はできない。北政所と同じ日に祈祷を依頼していることから、大谷吉継が盗難事件があった日に大坂城にいて責任を問われる立場にあった可能性も考えられる。が、『兼見卿記』に祈祷理由が書いてないので、推測をするにしても他の史料との突き合わせが必要である。取り敢えず、今回は可能性の部分を指摘しておくに留める。
ーーー追加2
天正17年カと年次比定が確定していない書状であるが、大坂城から「刀・脇差」が盗まれた件を記している書状であるため、追加した。
片桐貞隆宛の朱印状で、内容からして大坂周辺の国々に出されたものと思われる。
「成簀堂古文書 片桐文書」(豊臣秀吉文書集)
● 猶以御代官所之儀も右同然に候間、能々可相改候也、
急度仰出候、
一御台所人藤大夫と申ものゝむすめ、御内にめしつかハされ
候処、御座敷ニおかせられ候御こしの物・御わきさしぬす
ミ候ニ付て、親の藤大夫ちくてん候間、方々被成御糾明候
事、
一其方分国中、一在所をきり屋内をさかし、其上地下人・他
所の者堅相改、其在所の者又ハ他所の者にても不苦ものハ、
地下人請ニ候て一札をさせ可申候、少も不審なるもの於在
之者、からめとり可上候、
一右藤大夫と申ものハ、とし六十斗之者ニ候、あたまをそり、
さまをかゑ候事も可有之候、若糾明令無沙汰、自余の口よ
り其方分領にて於尋出者、知行被召上、則其方事も可被召
失候条、成其意、精を入可相改候、不可有由断候也、
八月廿五日 (朱印)
片桐主膳正とのへ
宛先の片桐主膳正は、片桐且元の息子片桐貞隆である。
秀吉の時代には播磨国に所領があり、その知行地用に出された文書であろう。
年次を欠くこの書状が「天正17年カ」と比定されているのは、この年に大坂城で上記の刀の盗難事件があったからだろうか。
内容を簡単に訳す。
○ なお、代官についても右と同様であるので、よくよく調べて必ず報告するように
一、御台所人の藤大夫という者の娘を(大坂城?)城内で働かせていたところ、御座敷に置いてあった(秀吉の?)刀と脇差を盗んだため、親の藤大夫が逃亡した。方々で探すようにしなさい。
一、その方の分国内で、在所ごとに?屋内を探し、その上、地下人やよそ者を厳しく調べ、その在所の者であってもできるものは、地下人に請け負わせて(身元を保証する)書付を出させなさい。少しでも不審な者がいたら、捕えて(大坂に?)連れて来るようにしなさい。
一、右の藤大夫という者は、年は六十歳くらいである。頭を剃って、変装していることもあるだろう。もし追求して連絡がなく、他からその方の領内でお尋ね者が報告された場合、知行を召し上げた上に、則、その方も捕えてクビ?にする。その意を成して(=藤大夫を捕えるように?)、調べに励み、油断しないようにしなさい。
上の史料では「太刀の一文字、御腰物」の盗難にしか触れていないが、この書状では「刀と脇差」が盗まれている。
また、犯人は台所人藤大夫の娘で、僧侶ではない。
探索の対象となっているのは、父親の藤大夫。
内容からして娘は既に捕えられているのだろう。
この盗難が上の盗難事件と同一であるかは不明。
同一であった場合、娘が盗みの実行犯で、僧侶尊教院順源房は主犯となる。
天正17年9月3日に興福寺に「関白殿先段大事之刀盗取終ニ不知云々、依之男女數多ハタ物ニ被上了」と伝わった。
藤大夫の捜索は8月25日に命じられている。
9月3日に数多くの男女が処刑されたとあるが、この中に娘と藤大夫が含まれているのだろうか。
日付からして、藤大夫はまだ捕まってなさそうではある。
上記の盗難事件と同一との確証はない。
ただ、日付が近く、盗難された物が「刀」とかぶっているので、載せた。
別の盗難であったのなら、大坂城から2度も刀が盗まれていることになる。
刀以外に「金」の盗難もあったようで、上記の「誰々トモ出合、酒宴在之由白状間」と合わせて城内の警備と風紀のユルさが窺える。
マズいと思ったのだろう。
天正17年8月付の「定」(「本丸鉄門番ニ付定」(山中文書))で大坂城内への人の出入りが規制されている。
● 定 御本丸鉄門番ニ付定
一とりの上刻より、明るたつの刻まて、女房とも一切城中の
出入あるへからさる事、
一夜中に状文の出入、番衆として書中を見候て、手くりに取
次、とヽけ可申事、
一御用候てまいり候女房衆こしの事は、とをし可申、いて候
時ハおくより印にて出し申へき事、
一諸奉公人の事、小姓一人・さうりとり一人めしつれ可入之、
但御用の物もたせ候ハヽ、そのものはあらためとをし可申
事、
一不断御用被仰付候ともから、其主人にうけこハせ、若党・
小もの入申へき事、
一夜中に御よう被仰出に付てハ、当番の輩書状を御門番とし
て可相届事、
一当御門番の外、おとこのたくひ一切ふせるましき事、
天正十七年八月 日 (朱印)
刀の盗難を受けての「定」に違いない。
とりの上刻は午後5時くらいで、たつの刻は午前8時くらい。
女性は夜間の外出が禁止となった。
逆に言えば、これ以前は規制されてなかったのだろう。
確かに盗みはしやすそうだ。
大坂城の太刀盗難事件を補強する史料を追加。
今後も関連する資料が見つかれば、載せていきます。