NHK大河ドラマ「真田丸」「どうする家康」に登場したため、そこそこ知名度がある女性であろう。
彼女については、史料集が2015年に発行されている。
白嵜顕成、田中祥雄、小川雄『阿茶局』(文芸社)
https://honto.jp/netstore/pd-book_27445431.html
阿茶局の子孫の方が専門家に依頼して作成された本である。
子孫の方の本にありがちな「贔屓」がなく、信頼がおけるものだと個人的に評価している。
一次史料をほぼ網羅しており、阿茶局を知るにはこれで十分である。
しかし、史料本であるが故に、慣れない人間には、やや難しいという難点がある。
「どうする家康」に阿茶局が登場して以降、ネット上に彼女に関する情報が載せられるようになっているが、編纂物由来の情報ばかりで、当時の手紙や日記をほとんど参考にしていなかった。
中には不正確な情報を史実のように断定しているものまであるので、ここに史料を使った阿茶局の情報を書いた。
以下に、阿茶局について、生年から順に年表形式で載せた。
阿茶局に関しては、慶長5年まで一次史料がないため、それ以前は全て信頼性を欠く情報となる。
そのため、以下に記す、慶長5年前の情報は、全て「かもしれない」情報なのはご承知おき願う。
<阿茶局年表> ( )内は阿茶局の推定年齢
1555年 誕生(1歳)『幕府祚胤(そいん)伝』
武田氏家臣飯田氏の娘としてこの年に生まれる、とされるが、『幕府祚胤伝』情報なので正確性の保証はない。よって、( )内の年齢は推定年齢となる。数え年表記のため、1歳から始まる。
1574年 長男守世誕生(20歳)『寛政重修諸家譜』
これ以前に神尾忠重に嫁ぎ、守世を生む。『寛政重修諸家譜』情報なので、これも正確性はあまり保証されない。
1577年 夫神尾忠重死亡(23歳)『幕府祚胤伝』
神尾忠重死去の史料はもう1つあり、どちらが正しいのかは不明。
1579,1583年 守世がお長(秀忠)の小姓となる『譜牒餘録』『寛永諸家系図伝』
史料が2つあり、どちらが正しいか不明。
1579年 家康が阿茶局を召し出し、以後、戦いに供奉させる(25歳)『幕府祚胤伝』
家康が阿茶局をそば近くに置くようになった時期は不明で、編纂物の史料上でもこの1579年と1582年の2つがある。
1582年 阿茶局が家康に近侍(28歳)『柳営婦女伝系』
家康が信州に打ち入ったときに息子を連れて庇護を申し出たとする。家康が駿府にいた頃に彼女を好いていたため、母子ともに仕えるようになったと続く。勿論、信憑性はない。
1584年 阿茶局が小牧の陣で流産(30歳)『幕府祚胤伝』
『幕府祚胤伝』では、陣中で懐胎(妊娠)して戦場で流産とある。これも信憑性は不明。
1588年 夫神尾忠重死去(34歳)『寛政重修諸家譜』
この年に神尾忠重が死亡していた場合、これ以前に阿茶局が家康に仕えていた可能性はあったとしても、陣中で妊娠&流産は否定される。
1589年 西郷局、死去(35歳)『家忠日記』
お長(秀忠)と福松(忠吉)の母である西郷局が亡くなる。後に阿茶局は秀忠の「母代」と記される。見ず知らずの女性に後継の息子を託すとは考えられないので、この時点以前から阿茶局が家康に仕えていた可能性はかなり高い。
1590年 家康から伝達役を任されるようになる『幕府祚胤伝』
「御隠密之御用向、従奧執政江伝達蒙」とあり、家康が奥にいる(=表にいない)ときには、「隠密之御用向」の伝達役を任されたとある。事実かどうか不明。
1591年 お長が元服して「秀忠」となる(37歳)『光豊卿記』
秀吉の一字をもらい、お長は「秀忠」を名乗る。秀忠は1590年に上洛して秀吉と会っており、秀吉は秀忠を「一段利発」と書状で誉めている。秀忠の移動に阿茶局がついていたかどうかは不明。
1598年 羽柴秀吉、死去(44歳)
1599年 家康養女蓮姫の婚姻で介添をつとめる(45歳)『譜牒餘録』
蓮姫は徳川家康の異母妹の娘(父は松平康直)で、家康の養女として有馬豊氏に嫁いだ。蓮姫の介添役は阿茶局と本多正信とされる。『譜牒餘録』も一次史料ではないため参考程度となるが、阿茶局は後に秀忠養女の婚姻にも関わっている。
ーーここから史料の確実性が上がる
1600年 関ヶ原の戦いの際、大坂城にいた(46歳)『徳川美術館所蔵文書』『木村宗右衛門先祖書』
7月、大坂城にいた阿茶局は反徳川勢力に大阪城から退去させられ、淀の木村勝正に匿われた。そのため、後に木村家から相続面で頼まれごとをされた。阿茶局はこの時のお礼か、木村家に書状を出しているので、木村勝正に保護されたのは確かなようだ。その後、関ヶ原から戻った家康に上京を指示され、家康のいる京へと向かったらしい。
1601年 北野社の裁定に関わる(47歳)『北尾社家日記』
北野社で起きた殺人事件に関する家康の裁定を北政所に通知する役目を果たす。阿茶局が政治的な事柄に関わっていたと分かる最初の史料。
1604年 義演が品物を贈る(50歳)『義演准后日記』
1605年 同上(51歳)『義演准后日記』
1608年 秀忠養女喜佐姫(秀康の娘)の婚姻に関わる(54歳)『毛利家文書』
秀忠養女が毛利秀就に嫁ぐ際に、本多正信とともに随伴する者の書立を作成している。
1610年 梵舜が品物を贈る(56歳)『舜旧記』
1611年 家康が阿茶・お亀に書状を出す(57歳)『徳川美術館所蔵文書』
9男義直(母はお亀)が疱瘡にかかった際、家康が「おかめ あちゃ」と宛名に二人の名を書いて義直の病を案じる書状を出している。義直の母ではない阿茶局の名があるのは、彼女が家康の奥を預かる正室格の立場だったからだろう。
1612年 崇伝が品物を贈る(58歳)『本光國師日記』
1613年 崇伝が家康への取次を依頼(59歳)『本光國師日記』
1614年 大坂冬の陣(60歳)『駿府記』『当代記』
阿茶局が京都から家康のいる茶臼山に移動し、京極忠高の陣中で本多正純と豊臣方との交渉にあたる。『駿府記』『当代記』ともに後世の編纂史料であるが、家譜などに比べると信憑性がやや高いとされる。
1615年 大坂夏の陣(61歳)『本光國師日記』『駿府記』
『本光國師日記』によれば、大坂夏の陣が終わった後、阿茶局は千姫とともに京都の寺院巡りをしている。その後、『駿府記』に千姫とともに江戸に下向したとある。千姫は秀忠の娘なので、秀忠の「母代」である阿茶局にとっては、孫と言える。
1616年 家康が病没(62歳)『本光國師日記』
家康が正月に病に倒れる。阿茶局は江戸にいたようで、すぐに江戸から駿府へと戻った。駿府にいる阿茶局に対し、貴族や蜂須賀家から品物が贈られる。
1617年 義直が品物を贈る(63歳)『源敬様御代御記録』
義直が阿茶局に3回にわたって着物を贈っている。この贈答はこの後もずっと続く。
1620年 秀忠娘和子入内(66歳)『幸家公記』
和子の入内に付き従った阿茶局が朝廷から従一位に叙される。貴族の日記に阿茶局の記録があり、大坂の陣の際に城から脱出した「るり」という女房が彼女に仕えていることが分かる。
1626年 和子が皇子を出産(72歳)『中村通村日記』
息子神尾守世が和子の皇子出産を知らせるため下向する(=江戸に向かう)という記事に、「一位=阿茶局」が秀忠の「母代」であると記されている。
1632年 秀忠、死去(78歳)『寛政重修諸家譜』
阿茶局が剃髪(=出家)。
1635年 毛利家が銀子などを贈る(81歳)『公義所日乗』
毛利家が家臣の帰参問題でたびたび阿茶局に贈答を行っている。
1637年 阿茶局、死去(83歳)
阿茶局の書状は『本光國師日記』などに多数残されているが、大雑把に動向が分かる情報に絞った。
贈答を記してあるのは、贈答が重要な人物に対して行われるものだからだ。
阿茶局が有能な女性として紹介されるのは一連の活動を見れば分かると思う。
彼女は大名家の娘ではなく、大名に仕える立場の武家の娘である。
勿論、家康や秀忠の後ろ盾があってこそではあるが、その出自で大名や朝廷とのやりとり、戦の交渉などに関わっている。
相手の大きさを考えて欲しい。
並の女性にできることではない。
しかも、阿茶局は家康との間に子をなしていないし、出身家も大身ではない。
それなのに重用されたのは、単純に「有能」だから、であろう。
もしかしたら他の理由があったのかもしれないが、残る史料からはそう結論づけるしかない。
それが、阿茶局という女性だ。
参考:『幕府祚胤伝』『柳営婦女伝系』https://dl.ndl.go.jp/pid/945825/1/1
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