2022年12月25日

家康の誕生日について

徳川家康の誕生日は、通説では旧暦の天文11年12月26日である。
この日付は、西暦では1543年1月31日となる。
ネットで検索したところ、この誕生日を寅年寅の月寅の日寅の刻生まれと紹介する例がいくつもあった。
朝野旧聞裒藁(国立公文書館:https://www.digital.archives.go.jp/file/2549777.html)などを確認したところ、生年と日付を壬寅(みずのととら)と記す史料はあったが、寅の月、寅の刻は見当たらなかった。
寅の刻は現在の午前4時前後。(前後の幅はかなり大きい)
寅の月とされるのは一月。
月と刻限の根拠は何かも気になるとことではあるが、今回の記事の本題は「寅」ではない。

この記事の本題は、<家康の誕生日を「天文11年12月26日」としたのは、後世の神君史観or徳川史観であり、実際の誕生日は違う>とする説への反証である。

家康の誕生日は「天文11年12月26日ではない」とする説の根拠は、家康が記したとされる「都状」である。
写しではあるが、ネット上でも同じ史料が見られる。
(宮内庁書陵部図書寮文庫:https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Detail/1000307090000
都状とは、陰陽道で行われる祭りの際に読み上げられる祭文である。
家康の都状は、慶長8年2月12日に家康が将軍に就任する際に書かれたものとされる。
(参照ー大日本史料:https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/1201/0001?m=all&s=0001

そこに家康の年齢が「61歳」とあるのが、上の後世の創作説根拠である。

慶長8年に61歳であると、生年は天文12年となる。
当時は、生まれたときに1歳となり、その後は毎年正月に年をとる数え方になる。
分かりづらいので、下に天文11年に生まれた場合の数え方を用意した。

天文11年12月26日(1543年1月31日) 誕生1歳
天文12年正月(1543年2月) 2歳
天文13年正月(1544) 3歳
<中略>
慶長6年正月(1601) 60歳
慶長7年正月(1602) 61歳
慶長8年正月(1603) 62歳
<中略>
慶長19年正月(1614) 73歳
慶長20年正月(1615) 74歳
元和元年7月(1615) 74歳(7月に改元)
元和2年正月(1616) 75歳
元和2年4月17日(1616年6月) 死去

見ての通り、天文11年に生まれると、慶長8年2月には62歳になるので、都状の年齢が正しい場合は天文12年の生まれとなる。
この都状は家康が書いたものだから、慶長8年に61歳が正しい。
よって、「天文11年12月26日」生まれは、家康の誕生日を寅年寅の日にするための後世の創作だ、という主張がある。
しかし、家康の年齢を示す史料はもう一つある。
家康の晩年の側近金地院崇伝が記した『本光国師日記』である。
(参照ー大日本史料:https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/1224/0325?m=all&s=0325&n=20

崇伝は家康の没年齢を「75歳」と記す。

家康が駿府(静岡)で病没したのは、元和2年4月17日である。
この日付については、その場(駿府)にいた崇伝や山科言緒らが日記に記しているほか、複数の寺社や貴族の日記で確認できる。
没したときの年と日付は動かない。
そのため、崇伝の記述に従えば、75歳から逆算した天文11年が家康の生年となる。
家康の生年は、家康の都状では天文12年、崇伝の日記では天文11年となり、同時代史料で矛盾が生じている。
どちらかが誤っているのは確かだとしても、どちらが正しいのかの判断は難しい。
現代なら家康本人の記述を信用するのだろうが、当時の事情から崇伝の記録も正しい可能性があるのだ。

現代人にとって誕生日が特別なように、昔の人々にとっても誕生日は重要であった。
(参照ー論文「近世における誕生日」https://cir.nii.ac.jp/crid/1390009224089587968?lang=ja
天皇や貴族は誕生日に祈祷や祝いを行っており、江戸幕府将軍も誕生日の行事があった。
この論文にあるように、『鹿苑日録』慶長8年12月26日に家康の「将軍正誕生御祈祷」が行われている。
(参照ー『鹿苑日録』82コマ:https://dl.ndl.go.jp/pid/1921072/1/82
『鹿苑日録』をさかのぼって読んでいくと、室町幕府将軍も誕生日の祈祷をさせているのが分かる。
鹿苑寺での誕生日祈祷は、室町位幕府将軍から続く将軍の伝統であった。
秀忠が将軍に就任すると、家康の祈祷はなくなり、秀忠の誕生祈祷が始まる。
『本光国師日記』慶長17年4月7日の書状案から、鹿苑寺だけでなく、崇伝も秀忠の「誕生日之祈祷」を行っていたのが分かる。
(参照ー本光国師日記:https://www.digital.archives.go.jp/file/3143638.html
崇伝の日記を読んでいくと、占いや吉凶判断の依頼が目につく。
相手や内容によるが、その際に崇伝が相手の生まれ年・干支・誕生日を確認する例がある。
寺社での祈祷には生まれ年や誕生日が必要で、『義演准后日記』には家康の娘督姫と子供たちの生年月日が記録されている。
『本光国師日記』は慶長15年からの記述であり、崇伝が家康の誕生日祈祷をした記述はない。
しかし、家康の没年齢を「75歳」と記すからには、崇伝が家康の生年を「天文11年」と認識していたのは間違いないだろう。
先に書いた通り、崇伝は祈祷や占いのために対象者の生年月日を知らなければならない立場にあった。
寛永8年1月4日には、徳川和子(秀忠娘。後水尾天皇皇后)の「徳日(=衰日)」の問い合わせに答えるため、養珠院(家康側室お万)に和子の年齢と干支を尋ねて、正確な年齢と干支を記録している。
そんな崇伝が家康の生年を誤るだろうか。
誤る可能性は低いと思われる。

では、生年を間違えたのは、当人(家康)か、側近の僧侶崇伝か。
双方とも信用がおけてしまうため、自分にはどちらとも言いかねる。

また、将軍の「誕生日の祈祷」は、当人の「誕生日」に行わなければ意味がない。
室町幕府将軍から続く「誕生日の祈祷」に偽りの誕生日を使用する理由はないので、日付の「12月26日」はほぼ確定で良いだろう。
生年については、上記の2つの史料から「天文11年と天文12年」が候補となる。
崇伝の日記は、江戸幕府が編纂した『朝野旧聞裒藁』と『徳川実紀』に使用されているので、家康が「天文11年12月26日」に生まれた、という通説は、崇伝が記した没年齢から逆算して出てきたのかもしれない。
他の(失われた)記録からの可能性も当然ある。

つまるところ、家康の生年月日は、
崇伝を信用するなら、天文11年12月26日で、家康を信用するなら、天文12年12月26日、となる。

当時の人の生年月日の1年違いは誤差の範囲内である。
これは「神君史観」や「徳川史観」なのだろうか?

徳川家康の関連史料は膨大なので、全てを把握することは誰にもできない。
よって、1つだけの史料で「断定」できる事柄は数少ないと言える。
今後、どちらかに確定できる史料が出てくれば良いのだが、「よりによってこの二人で、一次史料に書き残したことが違う」という案件なので、なかなか難しいのではないだろうか。

追加史料:徳川義直編纂の「御年譜」
http://e-library2.gprime.jp/lib_city_nagoya/da/detail?qf=&q=%E5%BE%A1%E5%B9%B4%E8%AD%9C&start=1&sort=%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%AB_STRING+asc%2C+METADATA_ID+asc&dispStyle=&fifq=&tilcod=0000000005-00001088&mode=result&category=
家康の息子義直の編纂史料である。
「御年譜」は家康の生涯を簡潔に記したもので、これにも家康の没年齢があり、「75歳」となっていた。
義直は家康が病没する際に駿府城にいた。
崇伝と同じ場にいた息子も家康の生年を「天文11年」と認識していたため、追加史料としてリンクを貼っておく。
posted by アリノリ at 20:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 徳川家康関連
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