2019年05月10日

結城秀康に関する史料 その6

秀康の「おもり」の記述が『家忠日記』にあったので、記載する。

○日記『家忠日記』:天正十四年五月十三日丁未

雨降、吉田ニ御逗留也、右分振舞也、
おきいさまの御もり小右衛門尉、伊藤殿案内者ニこし候、
ミあけ小ちゃハん五つ、此方ゟ持鑓二本出候、

●訳
雨が降った。
吉田に(朝日姫が)逗留された。
右の分を振る舞った。
おきい(秀康)さまのお守りの小右衛門尉が伊藤殿の案内人として来た。
土産に小さな茶碗を5つ(持って来たため)、こちらから鑓二本を渡した。

*解説と検討
天正14年(1586年)5月、秀吉の妹朝日姫が家康に嫁ぐために浜松へとやって来た。
その途上、三河国吉田(現:愛知県豊橋市)で雨が降ったために、前日に吉田に到着した朝日姫は、もう一日吉田に逗留した。
朝日姫には秀吉家臣が従っており、11日の『家忠日記』で名が確認できる。
浅野長政(長吉)、富田一白、伊藤太郎左衛門尉、滝川益重の4名である。
「おきいさまの御もり」である「小右衛門尉」は、「伊藤殿」の案内人として来ていた。
「伊藤殿」は「伊藤太郎左衛門尉」のことであろう。
秀吉家臣4名のうち3名は実名他の情報が分かるのだが、この伊藤太郎左衛門だけ実名すら不明である。
秀康は天正12年12月に11歳(実年齢)で上京して大坂に入り、天正13年10月には「侍従」となり参内している。
この時点で「元服」して「秀康」を名乗っている筈であるが、『家忠日記』では「おきいさま」表記である。
記述者の家忠は秀康の「侍従任官」を知らなかったのか、それとも、「御もり」の小右衛門の前に「侍従」表記はおかしいからだろうか。
小右衛門は伊藤殿の道案内として朝日姫の一行に加わっている。
吉田で松平家忠に会った小右衛門は、家忠に「土産」として「茶碗5つ」を渡した。
返礼として家忠は「持鑓」二本を小右衛門に与えている。
誰彼構わず土産を渡したりはしないだろうから、小右衛門は家忠とはそれなりの付き合いがある知り合いか、親族なのだろう。

先に上げたように、『家忠日記』には文禄3年(1594年)6月16日に「同普請、結城三州様ニふる舞にてこし候」とあり、秀康が普請のために上洛した家忠に「振舞=接待」をしている。
秀康が家忠以外の者にも「振舞」をしたのかどうかは不明。
家忠は妻が家康の母於大の方の姪である。
秀康の母お万の方の母は、於大の方の妹?ともされる。
徳川の親族であるから秀康が特に接待したのか、それとも、普請に関わる人達をまとめてねぎらったのか、上の記述だけでは何とも言えない。
ただ、小右衛門が家忠に土産を渡していることから、秀康の側近くにいる者達と家忠の間には何らかの繋がりがあったのは確かだろう。
小右衛門は道案内だけでなく、徳川に秀康の情報などを伝える役目もあったと思われる。

posted by アリノリ at 20:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 結城秀康
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