★★★☆☆
江戸城には「明暦の大火(1657年)」で焼失して以後、天守閣がない。時代劇でよく「江戸城」として映る天守閣は姫路城のものである上に、そもそも1657年以降に天守閣があったら、それは「江戸城ではない」のだ。今でも「お城=天守閣」というイメージが強いが、天守閣は戦の際に使用する場であって日常生活を送るための建物ではない。そのため、江戸城は長い戦のない時代において、「必要ではなかった」故に天守閣を持たないまま、幕末を迎え、今に至る。
しかし、お城は将軍や藩主の住まいであり、政治の中心となる場でもある。天守閣ではなく、どこで暮らしと政治が営まれていたかといえば、それは「本丸御殿」である。
「本丸御殿」は文字通り、城の本丸に建てられた「御殿」で、将軍や藩主の住居と政庁を兼ねる平屋の建造物だ。江戸城の場合、大奥もここに含まれるため、非常に広大な「御殿」となる。全国の大名達は参勤交代で江戸に滞在している間、年に何度か登城する必要がある。だだっ広い「本丸御殿」の内部を年に数回行っただけで把握できるワケがなく、供の者も御殿内にまではついて行けない。初登城ともなると御殿は迷路そのものとなった。おまけに「御殿」は日本家屋であるのだから、襖や建具は移動可能であり、実際に儀式のたびにそれらは外されたり、位置を変えたりした。
そのため、大名らは迷わないように「間取り図」を手に本丸御殿に入った。その絵図には本丸御殿の俯瞰図と、障壁画や杉戸の絵の説明が書き込まれており、大名達はこれを見ながら御殿の廊下を歩き、目的の部屋へと向かったのだ。もし、江戸城を再現するなら、江戸時代にほとんど存在しなかった天守閣ではなく、この本丸御殿を建てて、大名達のように絵図を片手に歩いて回るのも楽しのではないだろうか。(季節ごとに建具や襖を移動して分かり辛くするという手も使える)
著者はこの「間取り図」や作事方が残した図面など、多いとはいえないが、新たに発見されることもある資料を用いて「本丸御殿」のインテリア(=室内装飾)を描写していく。
著者は章を4つに分け、第一章で「本丸御殿」に関して説明し、第二章で将軍の仕事場である「表」について述べ、第三章では将軍のプライベート空間の「中奥」を取り上げ、最後の第四章で「大奥」について記す。天守閣が焼けたように、本丸御殿もたびたび火災に遭っている。その度に立て替えられた御殿は、建て替える度に内部装飾がリニューアルされた。また、将軍の私的な空間である「中奥」は将軍の代替わりにより、主の「お好み」が変わると、部屋の使い方、作りや障壁画が変更された。
将軍ごとに変わる空間の様を、著者は資料が残る「三代、四代、五代、六代、八代、十代、十一代、十二〜十四代」について記す。将軍にもよるが、彼らは自分に合わせてプライベート空間を作り替えさせており、先代と同じままということがあまりない。そして、将軍の注文は意外と細かい。大奥の障壁画の話ではあるが、家慶がキクイタダキの数を十三羽から十羽に変更させている例がある。
最後の「大奥」は一層資料に制限があるため、インテリアが確認できる場所は少ない。そして、ここも部屋の主が変わる度にリニューアルされた。
「本丸御殿」では、政治の舞台となる「表」、将軍が暮らす「中奥」、女達が集う「大奥」と、公的な場と私的な場が繋がっていた。実はインテリアはその公的→私的空間を「区切る」機能を持っており、表→中奥→大奥と移動していくと、視覚で分かる形で装飾が変化していくのだ。
「御殿」としては一体化していても、「空間」としては分けられている「本丸御殿」。
特に私的な空間は代ごとに様変わりしたという事実が、興味深かった。
2016年03月14日
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