★★★★☆
『多聞院日記』に、秀吉勢力が金商人(金貸し)を捕えたと思ったら、放し、また捕えるなど、妙なことを繰り返している記事が続くときがあった。秀吉の朝鮮出兵のさなかであったため、その関係か?と推測はしたが、『多聞院日記』の内容だけでは推測以上のことができなかった。該当する内容を取り上げた論文も見つからず、何だろう?と気になっていた。
そこへ出版されたのが、この本である。目次の「ならかし」にー金商人ーの項目があり、気になっていた部分を取り上げてくれていると確信できたため、購入した。この本のおかげで金商人の捕縛、解放、また捕縛の理由が分かった。
豊臣秀吉といえば、豪勢な城を作り、大名や貴族に気前良く「金」を配るなど、金払いがよい太っ腹なイメージがある。秀吉の時代に京都は景気がよくなり、町並みが拡充し、人口も増えた事実もあり、経済政策が上手かったかのようにも見える。確かに彼は信長が貴族の抵抗により廃止を止めた洛中の関所をなくし、天正19年には座も廃止した。聚楽第、大坂城、伏見城の相次ぐ造営は、今で言う公共事業として周囲の人々を潤したのは間違いない。しかし、秀吉は同時期に「朝鮮出兵」も行っており、そのための出費も正確な額は全く不明であるが膨大であったのは確かだ。勿論、出兵した大名の負担も大きかったため、秀吉自身がどの程度の金銭的を負ったかは分からない。それでも出費ゼロは有り得ない。
金商人たちはそれに巻き込まれたのだ。
大和を治めていた羽柴秀長は、奈良の町人らに金商人を通して強制的に金を貸し付け、利子付きでそれを回収していた。この強制的な貸し付けと回収は、一家心中や一揆発生の噂に繋がり、秀吉は天正19年に「徳政」を出した上で金商人を捕えて事態を収拾しようとした。しかし、天正20(慶長元)年、再び、奈良で騒動が起こる。奈良の町人らが南京奉行の井上源吾に捕えられたのだが、一部が逃れて、秀吉側近(木下半介ら)に直訴に及んだ。その訴状により、井上源吾が金を貸して毎月利子を「過分に」回収していたことが分かる。この訴えにより、奈良の町人たちは自由の身になったが、その後、再び捕えられ、京に連れて行かれた。この金貸しをめぐるごたごたは文禄3年まで続き、結果的に奈良の金商人はその多くが没落し、一方、井上源吾は慶長5年に死去するまで南京奉行の座にあった。
奈良の町人や金商人から集められた金は、羽柴秀長や井上源吾の懐にも入ったようであるが、当然、秀吉の方にも回っている。そして、一部が朝鮮出兵用の造船費用に使われたことが史料から明らかになる。
つまり、奈良での強制貸し付けと過分な利子回収は、秀吉・秀長兄弟とその配下がもうけるため、朝鮮出兵の費用にも流用するために行った「支配者による政策」だったのだ。
羽柴秀長の死後、その手元には金子が五万六千枚あまり、銀子は数知れず、銭は何万貫も残されたと『多聞院日記』は記す。
時代劇ならば、完全に退治されるべき悪役の所行である。
『落日の豊臣政権』は、この「ならかし」以外にも、天変地異、秀次事件、後継者問題を取り上げ、秀吉政権の不安定さを記していく。これらは同時代の史料を読めば分かる事柄であるが、今までまとめて読める本はなかった。「ならかし」以外にも町人や貴族から見た秀吉政権の横暴さが色々と伺える内容でもあり、豊臣政権が早い段階で継続不可能になった理由がおのずと見えて来る内容でもある。
個人的に抱えていた疑問が解決したのもあり、出てくれてありがとう!皆におススメしておきます!と言える本なのだが、史料慣れしていない人にはちょっと読み辛いところもあるかもしれない点は記しておきます。
ーー以下、この本に関係するかもしれない秀吉勢力についての史料の補足
・座:本能寺の変後、秀吉は金銭と引き換えに座の特権を承認し、諸役の免除をしている。が、天正19年に座を廃止する。これは座の特権自体も否定することになる。金銭と引き換えに特権を保証された「座」は払い損である。抗議しなかったのだろうか。
・悪銭:本願寺の日記に「金子ノ箱、三百枚入ノ箱十、五百枚入ノ箱八アリ」と記されているように、大坂城に金銀が大量に蓄財されていたのはよく知られた事実である。であるのに、そんな超お金持ちの豊臣関係者が何故か吉田兼見への支払いに「悪銭=質の悪い銭」を用いている。しかも、支払いのうち何%かが悪銭という可愛げのあるものではなく、「千疋悉悪銭=全て悪銭」という非常にタチの悪いものであった。支払っているのは、大政所(秀吉母)、北政所(秀吉室)、金吾(小早川秀秋)、東殿(大谷吉継母、北政所侍女)、孝蔵主(北政所侍女)である。銭の選定を誰がしているのかは不明だが、全てを「悪銭」で払うのは間違いなく意図的なものだ。ちなみに、貰う方の兼見は銭での支払いを嫌がっている。
参照:「16世紀後半京都における貨幣の使用状況」https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kiyo/20/kiyo0020-kawato.pdf
・日蓮宗:織田信長は安土宗論で負けた日蓮宗(法華宗)の日bを逼塞させたが、秀吉はこれを天正13年7月に解いた。当然、タダではなく、日蓮宗側は相応の御礼を支払うことになる。しかし、その「礼物調達」が難しいくらい「過分=高額」で9月にはそのための勧進をしている。京都の町衆に信者が多い日蓮宗の寺院が調達不可能な金額がいくらかは分からない。ただ、勧進を必要とするほど「高額」であったのは確かだ。
ここ最近読んだ天正年間の史料に以上のようなことが立て続けに現れていた。『落日の豊臣政権』の内容を更に裏付けるものであろうと思われたので、ここに記しておく。ケチと言う言葉は徳川家康によく使われるが、豊臣(羽柴)秀吉とその周囲は、それを上回る「がめつい」人々であった…のかもしれない。そして、これは豊臣だからこうだったのか、それとも、当時の大名ではよくあることだったのか。
どうも前者の可能性が高いような気がする。
2016年03月07日
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これは果物(マルメロ、柑橘類など)の砂糖漬けの事ではないでしょうか。
昨年12月23日に展示を終了した、
熊本県立博物館の展示「細川コレクションー南蛮文化と細川家」において、
忠興書状に現れる「南蛮漬物」が果物(マルメロ、柑橘類など)の砂糖漬けだと説明されていたのを見た記憶があります。
展示品についての資料などは持ち合わせておらず提示できないのが残念なのですが…。
>「びいどろ南蛮漬物」
twitterの方でも同じ展示をご覧になられた方から砂糖漬けとのご指摘をいただきました。今の南蛮漬けとは真逆の味付けと中身が、ほぼ同じ名前なのが面白いですね。
徳川家康は「砂糖」の献上を度々受けていますが、この果物の砂糖漬けは、高級品のガラスの器にぜいたくこの上ない甘味を入れた超高級品ということですか。
黒田長政は随分と奮発したようですね。
細川家でも確認できるとなると、家康が許可を与える朱印船貿易での入手品の可能性がありそうです。
貴重な情報をありがとうございました。