2015年12月06日

『京都に残った公家たち』華族の近代 刑部芳則

v★★★☆☆

明治二年、版籍奉還と同日に、いわゆる「華族令」が公布された。これにより、「公家」と「武家」という区別はなくなり、諸侯と貴族は同じ「華族」という括りにまとめられた。明治政府は「華族」に対し、天皇の側近くにあって勉学にも軍事にも励み、庶民の手本となるような立派な在り方を期待した。しかし、「華族」となった公家たちの何割かは上京した天皇に従わず、京都に残った。
彼らはどうして京都に残ったのか。
細かく見れば事情は家ごとに違うのだろうが、だいたいが先祖代々暮らし続けた場を離れることへの抵抗感が強かったようだ。東京に行った公家の中にも病気になると療養のために京都に戻る者もいた。天皇と同様に東京に住居を移せば、祖先の墓の守もできなくなり、菩提寺も新たに必要となる。しかも、この変化は彼らが自ら望んだものではなかった。急に変われと強制されて即変われたら、それは寧ろ、伝統を担う「公家」の中では特異な存在だろう。
それでも「華族」となった公家たちは髪を切り、天皇に渡す写真に姿を残し、洋装を着て、新たな知識を得るための勉強を始め、新しい時代に順応しようとした。帝国議会の設立に合わせて憲法も学んだ。
しかし、元公家たちは政府から支給される家禄では生活できず、借金を重ねた。借金の理由は様々であるが、華族としての対面を保つには家禄が少なかったのが大きい。が、単なる散財もあり、また、投資に失敗するものや旨い話に騙された者もいた。
私がここで何度も取り上げた『言経卿記』も、このとき借金にまみれになった山科家が宮内省に250円で買い上げてもらった「旧記」の中に入っていたものではなかろうか。山科家は楽・装束のほかに日記の記述も家職の一つになっていた。先祖代々のものを手放したのは山科家だけではない。ある者は屋敷、ある者は土地を、と京都に残った公家たちの家計は非常に厳しかった。
政府も陳情を受けて彼らの救済に乗り出したが、それでもまた借金をしてしまう者もいた。同じ公家華族であっても、戊辰戦争にも参加して政府で官職の地位を得た四条隆平は、「皇室の藩屛」となる責任感を持つべきだと意見書を提出した。四条家は山科家とも姻戚関係のある家であるが、隆平は尊王派として早くから活動しており、維新後はすんなりと政府の一員となっていた。彼のように積極的に動く人間からは京都に残った公家たちは、情けなく見えていただろう。だが、同時に、この隆平は奈良県令の際に先頭に立って寺院破壊をすすめた人物でもある。藤原氏の氏寺興福寺も彼の「廃仏毀釈」で塀や建物、仏像が失われた。歴史・伝統を象徴する公家が、自らが寄るべきところであったものを壊していくのも明治の一面なのだ。
暫くしてから、明治天皇は公家華族たちに一度捨てさせた蹴鞠・衣紋・雅楽などの伝統文化を担わせるようになる。天皇の即位や祭りなどで、有職故実などの知識が必要になったためだ。他の武家華族、新華族にはできない分野の継承と研究。以前と変わらぬ分野で公家華族は再び、ある程度の価値ある存在となる。しかし、明治での断絶は大きかったように思われる。公家華族たちは天皇の近くに侍るときがあることはあったが、それは年に数度であり、かつてのように日常的に傍にいることはなくなった。もはや、明治以後の天皇は明治以前の天皇とは全く違う存在となり、宮中文化・王朝文化は失われた。
天皇と日本の文化・伝統(=公家)は離れ、太平洋戦争後は公家華族も地位と家職では食べていけなくなった。

実は日本は天皇を中心として形成してきた伝統文化を、とっくの昔に9割以上消失しているのではないか、と思う内容であった。
posted by アリノリ at 11:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本史関係(書評)
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