近世の研究者が書く安土・桃山・江戸初期は、信用したらマズい、というヾ(-_-*) オイオイな本が多い気がする。要注意著者であった
以下、長めの箇条書きにして記す。
1、定義がまだ定まっていない「徳川史観」という用語を使用している。
この用語は使用者によって意味が違ってしまっており、現在、宣伝に用いる出版社が幾つもあるが、安易に使うのは止めた方がいい用語になりつつあると思う。私見で最初に見た徳川史観の説明は「関ケ原から大坂の陣までの期間について、徳川氏による天下統一は当然であったとする見方を止めよう」というものであった。この『豊臣秀頼』では「徳川氏によって、淀殿と豊臣秀頼の実体はゆがめられた」という使い方になっている。また、著者の表記は徳川史観ではなく、徳川中心史観であり、徳川史観と同じなのかどうかいっさい説明はない。混乱するので、先ず徳川史観の定義付けをきちんとするか、「〜史観」という使い方自体を止めた方がいいのではないだろうか。
2、伊達政宗と石田三成の間柄を「心底からの信頼関係にあったはず」と記すが、その根拠?として前に置かれている資料が伊達政宗書状の「奥底懇に可得貴意候」の部分。これだけでこの両者の関係を信頼関係と書いていいのだろうか。というかこの二人の「信頼関係」についてほんの少しでも触れている本を初めて読んだ。伊達政宗に詳しい方に意見を聞いてみたい。
3、江戸時代の書札礼に従って「花押→朱印→黒印」の順に厚礼→薄礼としているが、戦国〜江戸初期においては、この黒印と朱印の上下は研究者によって解釈が違っている。そのため、朱印を使わず黒印のみを使ったところに秀頼の矜持をみるのは、やや無理がある。
4、慶長十七年以降、秀頼の所に年頭の礼に向かう公卿の数が増加して朝廷と大坂の交流が盛んになったとしているが、比較対照に必要な京都所司代への言及がない。公卿らが江戸幕府の出張所たる京都所司代にも同数行っていたら、交流は同じ程度に盛んとなり、公家が豊臣に靡いたとは言えない。また、家康と面会して以降、それまで減少傾向にあった秀頼の所ヘ行く公卿の数が増加するのならば、それは「家康に従った秀頼」なら大丈夫という判断ではないだろうか。
5、大坂冬の陣の講和条件の一つ「大坂惣堀うめ申すべき事」の「惣堀」を秀頼方は外郭堀である「惣構え」と捉えたが、家康方は「惣堀=全ての堀」と捉えたため、両者の間で認識差が生まれたとある。惣堀を「惣構え」と捉えることは可能で、他に同様の事例があるのか、についていっさい触れていないので、この解釈が妥当かどうか全く分からない。
(*著者も自信がなかったのか、文中で「源頼朝と同様に秀頼のことを『羽柴秀頼』と書いた資料がない」と主張しながら、「羽柴秀頼」と書いた史料が発見されれば自説を撤回するとしていた。これは早速否定されている。ただ、twitterで得た情報なので( )書きとしておく)
豊臣と徳川の政権が関ケ原から大坂の陣の前まで並立していたとする、いわゆる「二重公儀体制」で豊臣秀頼と淀殿の立ち位置をフォローをしようとしている。そのため、著作全体に特に目新しいところはなく、日頃から歴史関係の専門書を読まない人向けな内容である。説明・検討不足な点はそれもあるだろう。
ただ、豊臣秀頼は無能ではないと主張して復権を目指すのを目的としながら、徳川の攻勢に対処しきれない様や秀頼側のマイナスも指摘している所は良。冒頭に自業自得で滅びたのではないと書いているが、滅びた要因を徳川方だけに押し付けてはいないのだ。また、秀吉、石田三成、諸大名についても、全方位をまんべんなくちくりと刺している。豊臣方でありながら、石田三成の忠義に触れず、寧ろ、彼の天下人への野心を指摘しているのは珍しいだろう。
肝心の「二重公儀体制」についても、徐々に徳川に侵食されていることは否定していない。淀殿が伊勢神宮の遷宮を差配する際には徳川家と連携して動いていたとしていて、豊臣公儀を肯定しつつもその弱さも同時に示している。
著者は、最後に、秀頼が生き延びたという伝説が薩摩などに残るのは、大坂方に与せず秀頼を見捨てた西国大名らの自己正当化があるのではないかと記す。
これは「淀殿と秀頼像の歪曲」にも言えることで、この二人に問題があったから豊臣は滅びた。だから、自分達は悪くないと言った方が都合がいいのは、何も徳川だけではないのだ。寧ろ、豊臣恩顧の大名らにとってこそ、二人や豊臣秀吉が愚かであった方がいい。それは今年の大河ドラマ軍師官兵衛を見ても分かる。
著者は冒頭で「徳川中心史観から離れて」、と書いているが、これは視点の範囲を非常に狭める言葉だ。最後の西国大名らの自己正当化への言及とも矛盾する。関ケ原、大坂の陣の勝者は徳川だけではないのだ。敗者とならず、生き延びた全ての大名、武将らも勝者で豊臣方が悪い方が都合がいい。つまり、著者の言う徳川中心史観は、潰れなかった各家の自己正当化のための「自家中心史観」の一部であり、歴史上、特に珍しくもない、非常によくある現象なのだ。
それを徳川中心史観として、徳川だけを悪者にする方が公平さを欠いているのではないだろうか。
また、著者が冒頭で憤るように歪曲された描写がよくあるのは、何も淀殿と秀頼だけではない。
ネット上で見掛けた戦国無双なるゲームがもととなったアニメの秀忠の容貌は、今まで秀頼のそれと描写されていたのによく似て太って愚鈍そうである。確認したところ、あからさまに愚かな悪役にするためのデザインと設定であったが、さて、秀頼と淀殿に対するフィクションでの扱いにも憤っていた著者はこれをどう見られるのだろうか。
秀頼と淀殿と同じく、徳川が悪い方が都合がいい人達もいるのだ。
山本博文氏のことですか?
第5章「三条河原で惨殺された豊臣秀次の妻子」の最後のページ(39ページ)に「いずれにせよ秀次の血筋は根絶やしにされた。他に隠された庶出子がなかったのなら・・・の話なのだが。」とあります。しかし、真田信繁(幸村)の側室に隆清院(豊臣秀次の娘)という女性がいて、信繁とのあいだには御田(女子)と幸信(男子)がいたはずです。ネットで「真田信繁の子孫」というサイトを見てください。この事実はかなり有名な事実で、NHK大河ドラマ「真田丸」でも秀次の娘を海外へ逃す場面があったと記憶しています。「豊臣家」の専門家である福田先生が知らないはずがないと思いますが。。。