2014年08月23日

『言経卿記』に見る徳川家康:文禄三年その一

4、文禄三(1594)年その1 徳川家康(52歳) 山科言経(51歳) *実年齢

正月大
 廿八日、丁未、天晴
  石河日向守ヘ礼二百文持罷向了、即対顔了、吸物・酒有之、
  二百文被返之、礼ニ可来ナレトモ沓路之間、先同前ニトテ被返了、
  次 江戸黄門(秀忠)ヘ可参之由申處ニ、去廿三日関東ヘ俄ニ御下向也云々、
  従 太閤(秀吉)様御イトマ也云々、

山科言経は正月も末日に近くなってから、石川家成の所に(恐らく新年の)挨拶に行き、二百文を渡した。のだが、返されている。仕事上やその他諸々で、お付き合いのある相手に年始や年末や折々にお金や物品を渡すのは、『言経卿記』でよく見るし、当時の通例でもある。そんな中で、お金を返しているのは珍しい。「先同前ニトテ」とあるから、前に貰ったからいいと石川家成が遠慮したのだろうか。別の記事では遠慮しないで貰っている。
次に秀忠の所に行くつもりだと家成に言ったら、廿三日に俄に(急に)江戸に戻ったと告げられている。「従 太閤様御イトマ也云々」とあるから、秀吉の命令で帰ったらしい。下の記事にあるように翌月に家康が上洛しているため、命令で交替したのだろう。

二月大
 廿四日、壬酉、天晴
  江戸亜相(家康)申刻ニ御上洛之間、罷向対顔了、柳原(淳光)被行了、

 廿五日、甲戌、天晴、夜雨
  江戸亜相(家康)ヘ罷向了、柳原同被行了、餅・吸物・酒有之、移刻雑談了、

柳原淳光はよく言経と一緒に家康の所を訪れている。前に家康と言経が長ーく雑談していたときもいたから、この三人で何か盛り上がるネタがあったのだろうか。廿五日に「移刻」とあり、はじめ「亥刻」の誤りかと思ったが、どうやらこれは「刻を移す」という意味のようだ。一刻は二〜四時間あるから、刻が移っても話すのは長話になる。

三月小
 十日、己丑、天晴、晩雨
  江戸亜相(家康)昨日南方ヨリ上洛云々、今日罷向対顔了、夕食有之、
  相伴了、細川幽斎(藤孝)同相伴了、□碁有之、見物了、

家康が「南方」から京に戻って来ている。この南方は「吉野」のことで、吉野の花見から帰ったのだ。この少し前から、細川幽斎の名が『言経卿記』によく表れる。家康の所に行くと幽斎がいて一緒に夕食を食べているという展開が幾つか見られる。言経自身も個人的に付き合いがあったようで、幽斎から書物を借りたりもしている。言経と幽斎を繋いだのも梅庵(大村由己)のようで、文禄二年に同じ連歌の会に出ている。その会には「今川氏真」も参加している。
この文禄三年で特徴的なのは、家康と寺院や公卿の付き合いが一気に増えることだ。そのきっかけはどうも幽斎にあるようだ。同じ三月の記事にこうある。

 十二日辛卯天晴
  江戸亜相(家康)ヘ罷向、細川幽斎ヘ御出也、一昨日ヨリ約束也、
  予亦可来由、内々幽斎ヨリ被申了、先亜相ヘ罷向、午刻ニ同道了、幽斎ヘ御出也、
  相伴之衆、江戸亜相・予・幽斎・金森法印(長近)・南禅寺三長老・相国寺兌長老・
  古田織部正・医師盛芳院(吉田浄慶)・碁打理玄・将棋指(大橋)宗桂等也、
  終日濟々之振舞也、亥刻ニ各被帰了、

家康の所を訪ねると、家康は幽斎の所に行こうとしていた。一昨日とあるから、前の十日のときに約束していたのだろう。言経も同道して幽斎を訪ねると、そこには上記のようなメンバーがいた。そして、このとき家康は南禅寺や相国寺に招かれたようで、後日、あちこちを訪ねる記事が続く。
三月十五日に相国寺、五月四日に吉田兼見、同六日に知恩院、八日に相国寺、九日に南禅寺、十一日に医師了頓、十二日に柳原淳光、廿日に商人龜屋榮任、廿一日に相国寺、廿五日茶人宗喝、廿九日竹田定加、六月廿四日医師一鷗(南條)宗悦(虎)、などなど。寺院、公卿、医師、商人らと幅広く交際をするようになっている。文禄三年以前の記事にはない特徴であり、これ以降、家康の所に出入りする人々の数が増える。
接待を受けたら返す必要があるので、家康は場所を借りて振舞をしている。

六月小
 廿六日、癸酉、天晴
  江戸亜相(家康)御振舞、建仁寺内常光院ニテ有之、内々可来由有之之間、
  早朝ヨリ乗物ニテ罷向了、人數亜相・柳原・予・吉田三位・同弟シンレウ院・相国寺蕣首座
  ・浅野弾正忠(長吉)・織部古田織部・フナコシ・此三人者太閤衆也、
  其外碁打衆本因坊(算砂)・利玄坊・仙也・仙長・将棋指(大橋)宗桂等也、
  其外碁打・将棋サシ大勢有之、以上相伴衆三十六七人有之、
  朝食・マンチウ・サウメン・アコヤ・瓜・夕食等終日濟々事也、予路地悪之間早帰宅了、

七月大
 二日、戊寅、天晴
  江戸亜相(家康)東福寺内正統院哲長老(惟杏永哲)振舞也、予内々被申之間、
  早朝ニ罷向了、朝食・饅頭・センサイ・干飯・夕食等濟々之儀也、相伴衆、
  亜相・柳原・予・南禅寺三長老・相国寺兌長老・哲長老・有馬法印(則頼)・
  山岡右衛門尉(景友)・玄勝・了頓・宗喝・月齋・榮仁(榮任)等也、
  申下刻ニ各被帰了、

言経は毎回呼ばれて相伴に預かっている。家康が振舞をするときは、特に早朝に出向いている。接待に関する知識を買われてのことだろう。また、家康といえば、『吾妻鏡』を愛読したことで知られているが、言経にも読ませている。

五月小
 廿七日、乙巳、天晴
  江戸亜相(家康)ヘ罷向、碁見物了、吾妻鏡少々讀之、
  冷麺・吸物・夕食有之、暮々帰宅了、

徳川の待遇が良かったからなのか、それとも冷泉為満が経済的に追い詰められたのか、言経は共に朝廷をクビになった友人(妻の兄)の為満を家康に雇ってもらおうと動き始める。(ただ、冷泉為満の妹は本願寺顕如の息子顕尊に嫁いでいて、失職中は言経ともども経済的に支援を受け、生活はできているハズ…)
七月、言経は家康を自分の家に招待して、冷泉為満と引き合わせる。

七月大
 十九日、乙未、天晴、
  冷泉(為満)殿ヘ可有上洛之由、其仔細来廿二日ニ江戸亜相(家康)可有御出之間、
  見ツクロイニ頼入之由申、千下了、

 廿日、丙申、天晴、
  江戸亜相(家康)ヘ罷向、明後日必定可有御出之由申了、同心了、

 廿二日、戊戌、天晴、
  江戸亜相(家康)巳上刻ニ来臨了、則相伴衆、
  亜相・柳原・予・阿茶丸・南禅寺長松院三長老、相国寺養源院兌長老・
  妙壽院蕣首座(藤原惺窩)・了頓・(龜屋)榮任等也、
  朝食・マンチウ・茶子共・餅赤豆入・夕食・キントン等、
  月齋・善阿弥・小姓三人等別座敷ニテ食了、午刻ニ冷泉殿出座、
  宗喝来了、善阿弥者早帰、明日亜相ニテ能有之間奉行也云々、
  下人衆者清六・伊兵衛等座敷ニテ□衆食ヲ申付了、申下刻ニ御帰了、
  跡ニ柳原・月齋相残之間勧酒了、市蔵・弥次・五兵衛・宗珎・呼勧酒了、

言経も接待を受けているのだから、振舞を返す必要がある。顕尊の妻に道具を借りたりして場を整え、言経は家康の他、今まで自分を接待してくれた相手を招いて、食事を出している。ただ、記事中にあるマンチウなども顕尊の妻が提供したものだ。
午刻に冷泉為満を出させて家康に会わせている。当然、これだけでは雇ってはくれないので、この後も冷泉為満の就職活動は続く。言経も多少ペースダウンしながらも一〜三日に一度以上の間隔で家康の所に通う。
そんな中、家康が駕篭から落ちるという事件?が起きる。

八月小
 廿一日、丁卯、天晴、
  江戸亜相(家康)ヘ罷向、所労也、少対顔了、
  帰路五条口ニテノリ物打落了、少々打云々、
  二三ヶ所痛云々、愛洲薬用之、

 廿四日、庚午、天晴、
  江戸亜相(家康)ヘ罷向了、御所労驗気也、夕食有之、
  亜相子息三河守(結城秀康)殿相伴了、十人計有之、

「ノリ物打落」て二、三カ所痛むということは、打ち身である。言経が山科家特製の「愛洲薬」を処方している。三日後に家康の所に行ったときにも「所労」とあり、暫くは身体が痛かったようだ。結城秀康は父親の見舞に来ていたのかもしれない。家康がどうして引き戸がある駕篭から落ちたのかはよく分からない。
そして、この言経の家康通いは、翌九月からよりペースダウンする。理由は非常に単純だが、続けると少し記事が長くなり過ぎるので、文禄三年については二つに分けることにする。以下、次で。
この記事へのコメント
とても面白く拝見しました。
引用分にでてくる柳原というのは、すべめ淳光の事でしょうか?柳原淳光がなぜ家康や近くて言経と親交があったのか、不勉強なため知りたいなと思いました。
Posted by めい at 2016年08月23日 00:30
引用に出てくる柳原はほとんど淳光のことです。確か息子の業光を伴って家康を訪ねたときもありました。淳光が家康・言経と親交があるのは、淳光と言経の家がかつて近所にあったのと、山科・柳原家が同じ近衛派閥に属しているのが理由だと思われます。
また、柳原淳光は近衛前久が家康の所にいたときに、恐らく朝廷からの使いとして三河に赴いています。そのときからの縁もあり、家康と近しかったのではと推測されます。
Posted by アリノリ at 2016年08月25日 19:04
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