2023年10月21日

阿茶局について

阿茶局は、徳川家康の妻(側室)の一人である。
NHK大河ドラマ「真田丸」「どうする家康」に登場したため、そこそこ知名度がある女性であろう。
彼女については、史料集が2015年に発行されている。

白嵜顕成、田中祥雄、小川雄『阿茶局』(文芸社)
https://honto.jp/netstore/pd-book_27445431.html

阿茶局の子孫の方が専門家に依頼して作成された本である。
子孫の方の本にありがちな「贔屓」がなく、信頼がおけるものだと個人的に評価している。
一次史料をほぼ網羅しており、阿茶局を知るにはこれで十分である。
しかし、史料本であるが故に、慣れない人間には、やや難しいという難点がある。

「どうする家康」に阿茶局が登場して以降、ネット上に彼女に関する情報が載せられるようになっているが、編纂物由来の情報ばかりで、当時の手紙や日記をほとんど参考にしていなかった。
中には不正確な情報を史実のように断定しているものまであるので、ここに史料を使った阿茶局の情報を書いた。

以下に、阿茶局について、生年から順に年表形式で載せた。
阿茶局に関しては、慶長5年まで一次史料がないため、それ以前は全て信頼性を欠く情報となる。
そのため、以下に記す、慶長5年前の情報は、全て「かもしれない」情報なのはご承知おき願う。


<阿茶局年表> ( )内は阿茶局の推定年齢

1555年 誕生(1歳)『幕府祚胤(そいん)伝』
 武田氏家臣飯田氏の娘としてこの年に生まれる、とされるが、『幕府祚胤伝』情報なので正確性の保証はない。よって、( )内の年齢は推定年齢となる。数え年表記のため、1歳から始まる。

1574年 長男守世誕生(20歳)『寛政重修諸家譜』 
 これ以前に神尾忠重に嫁ぎ、守世を生む。『寛政重修諸家譜』情報なので、これも正確性はあまり保証されない。

1577年 夫神尾忠重死亡(23歳)『幕府祚胤伝』
 神尾忠重死去の史料はもう1つあり、どちらが正しいのかは不明。

1579,1583年 守世がお長(秀忠)の小姓となる『譜牒餘録』『寛永諸家系図伝』
 史料が2つあり、どちらが正しいか不明。

1579年 家康が阿茶局を召し出し、以後、戦いに供奉させる(25歳)『幕府祚胤伝』
 家康が阿茶局をそば近くに置くようになった時期は不明で、編纂物の史料上でもこの1579年と1582年の2つがある。

1582年 阿茶局が家康に近侍(28歳)『柳営婦女伝系』
 家康が信州に打ち入ったときに息子を連れて庇護を申し出たとする。家康が駿府にいた頃に彼女を好いていたため、母子ともに仕えるようになったと続く。勿論、信憑性はない。

1584年 阿茶局が小牧の陣で流産(30歳)『幕府祚胤伝』
 『幕府祚胤伝』では、陣中で懐胎(妊娠)して戦場で流産とある。これも信憑性は不明。

1588年 夫神尾忠重死去(34歳)『寛政重修諸家譜』 
 この年に神尾忠重が死亡していた場合、これ以前に阿茶局が家康に仕えていた可能性はあったとしても、陣中で妊娠&流産は否定される。

1589年 西郷局、死去(35歳)『家忠日記』
 お長(秀忠)と福松(忠吉)の母である西郷局が亡くなる。後に阿茶局は秀忠の「母代」と記される。見ず知らずの女性に後継の息子を託すとは考えられないので、この時点以前から阿茶局が家康に仕えていた可能性はかなり高い。

1590年 家康から伝達役を任されるようになる『幕府祚胤伝』
 「御隠密之御用向、従奧執政江伝達蒙」とあり、家康が奥にいる(=表にいない)ときには、「隠密之御用向」の伝達役を任されたとある。事実かどうか不明。

1591年 お長が元服して「秀忠」となる(37歳)『光豊卿記』
 秀吉の一字をもらい、お長は「秀忠」を名乗る。秀忠は1590年に上洛して秀吉と会っており、秀吉は秀忠を「一段利発」と書状で誉めている。秀忠の移動に阿茶局がついていたかどうかは不明。

1598年 羽柴秀吉、死去(44歳)

1599年 家康養女蓮姫の婚姻で介添をつとめる(45歳)『譜牒餘録』
 蓮姫は徳川家康の異母妹の娘(父は松平康直)で、家康の養女として有馬豊氏に嫁いだ。蓮姫の介添役は阿茶局と本多正信とされる。『譜牒餘録』も一次史料ではないため参考程度となるが、阿茶局は後に秀忠養女の婚姻にも関わっている。

ーーここから史料の確実性が上がる
 
1600年 関ヶ原の戦いの際、大坂城にいた(46歳)『徳川美術館所蔵文書』『木村宗右衛門先祖書』
 7月、大坂城にいた阿茶局は反徳川勢力に大阪城から退去させられ、淀の木村勝正に匿われた。そのため、後に木村家から相続面で頼まれごとをされた。阿茶局はこの時のお礼か、木村家に書状を出しているので、木村勝正に保護されたのは確かなようだ。その後、関ヶ原から戻った家康に上京を指示され、家康のいる京へと向かったらしい。

1601年 北野社の裁定に関わる(47歳)『北尾社家日記』
 北野社で起きた殺人事件に関する家康の裁定を北政所に通知する役目を果たす。阿茶局が政治的な事柄に関わっていたと分かる最初の史料。

1604年 義演が品物を贈る(50歳)『義演准后日記』

1605年 同上(51歳)『義演准后日記』

1608年 秀忠養女喜佐姫(秀康の娘)の婚姻に関わる(54歳)『毛利家文書』
 秀忠養女が毛利秀就に嫁ぐ際に、本多正信とともに随伴する者の書立を作成している。

1610年 梵舜が品物を贈る(56歳)『舜旧記』

1611年 家康が阿茶・お亀に書状を出す(57歳)『徳川美術館所蔵文書』
 9男義直(母はお亀)が疱瘡にかかった際、家康が「おかめ あちゃ」と宛名に二人の名を書いて義直の病を案じる書状を出している。義直の母ではない阿茶局の名があるのは、彼女が家康の奥を預かる正室格の立場だったからだろう。

1612年 崇伝が品物を贈る(58歳)『本光國師日記』

1613年 崇伝が家康への取次を依頼(59歳)『本光國師日記』

1614年 大坂冬の陣(60歳)『駿府記』『当代記』
 阿茶局が京都から家康のいる茶臼山に移動し、京極忠高の陣中で本多正純と豊臣方との交渉にあたる。『駿府記』『当代記』ともに後世の編纂史料であるが、家譜などに比べると信憑性がやや高いとされる。

1615年 大坂夏の陣(61歳)『本光國師日記』『駿府記』
 『本光國師日記』によれば、大坂夏の陣が終わった後、阿茶局は千姫とともに京都の寺院巡りをしている。その後、『駿府記』に千姫とともに江戸に下向したとある。千姫は秀忠の娘なので、秀忠の「母代」である阿茶局にとっては、孫と言える。

1616年 家康が病没(62歳)『本光國師日記』
 家康が正月に病に倒れる。阿茶局は江戸にいたようで、すぐに江戸から駿府へと戻った。駿府にいる阿茶局に対し、貴族や蜂須賀家から品物が贈られる。

1617年 義直が品物を贈る(63歳)『源敬様御代御記録』
 義直が阿茶局に3回にわたって着物を贈っている。この贈答はこの後もずっと続く。

1620年 秀忠娘和子入内(66歳)『幸家公記』
 和子の入内に付き従った阿茶局が朝廷から従一位に叙される。貴族の日記に阿茶局の記録があり、大坂の陣の際に城から脱出した「るり」という女房が彼女に仕えていることが分かる。

1626年 和子が皇子を出産(72歳)『中村通村日記』
 息子神尾守世が和子の皇子出産を知らせるため下向する(=江戸に向かう)という記事に、「一位=阿茶局」が秀忠の「母代」であると記されている。 

1632年 秀忠、死去(78歳)『寛政重修諸家譜』
 阿茶局が剃髪(=出家)。

1635年 毛利家が銀子などを贈る(81歳)『公義所日乗』
 毛利家が家臣の帰参問題でたびたび阿茶局に贈答を行っている。

1637年 阿茶局、死去(83歳)


阿茶局の書状は『本光國師日記』などに多数残されているが、大雑把に動向が分かる情報に絞った。
贈答を記してあるのは、贈答が重要な人物に対して行われるものだからだ。
阿茶局が有能な女性として紹介されるのは一連の活動を見れば分かると思う。
彼女は大名家の娘ではなく、大名に仕える立場の武家の娘である。
勿論、家康や秀忠の後ろ盾があってこそではあるが、その出自で大名や朝廷とのやりとり、戦の交渉などに関わっている。
相手の大きさを考えて欲しい。
並の女性にできることではない。
しかも、阿茶局は家康との間に子をなしていないし、出身家も大身ではない。
それなのに重用されたのは、単純に「有能」だから、であろう。
もしかしたら他の理由があったのかもしれないが、残る史料からはそう結論づけるしかない。
それが、阿茶局という女性だ。


参考:『幕府祚胤伝』『柳営婦女伝系』https://dl.ndl.go.jp/pid/945825/1/1
タグ:阿茶局
posted by アリノリ at 20:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 徳川家康関連

2023年07月24日

結城秀康史料年表

結城秀康史料年表

秀康関連の史料(書状、日記)を年表順に並べた。
年欠の書状については、年次が推定できるものだけ載せてある。
推定文書には年号の後に「カ」を付けた。
史料内容については、簡単なメモ解説が年次毎にある。

●天正12年
9月8日:秀吉書状(前田家所蔵文書)
家康惣領子十一ニ成候
9月17日:脇坂甚内宛 秀吉書状(龍野神社旧蔵文書)
家康嫡子
11月13日:伊木長兵衛宛 秀吉書状(伊木文書)
家康実子
同日付:池田丹後入道他宛 秀吉書状(荒尾文書)
家康実子
同日付:土蔵四郎兵衛尉宛 秀吉書状(大阪城天守閣)
家康実子
11月18日:前田又左衛門尉宛 秀吉書状(後撰芸集)
家康実子
12月6日:『家忠日記』
雨降、御きいさま上へ御越候
12月12日:『家忠日記』
雨降、濱松御きい様羽柴所へ養子ニ御こし候
12月22日:『多門院日記』
家康息(九才)上洛、筑州猶子也
12月25日:『兼見卿記』
民部卿法印へ為歳暮罷向、今朝三州徳川人質ヲ召具坂本へ下向、淀マテ送ニ被出也、
12月26日:『多聞院日記』
大坂へ家康ノ息(九才)為養子被入、筒井ノ小屋ヲ借テ被置之、一館明トテ、筒井坊并被官衆震動也、
12月:『顕如上人貝塚御座所日記』
三川家康ノ實子、(十二月)廿日比京着、石川伯耆守供、近日大坂へコサルヽト云々、家康ノ息(御義伊ト云)廿六日ニ大坂ヘコサルヽト云々、供千計云々、石川伯耆守供也、息ノ名ハ御義伊ト云、石川伯耆守罷上、これハやかて罷下ヘシト也、大坂にて筒井ノ家ニヲカルヽト云々、

ーメモー
天正12年は、秀康のことが書状・日記で確認できる最初の年となる。
人質として秀吉のもとへ行くためで、寺社、貴族の日記にも記述がある。
秀吉と家康の関係がどうなるかは、中央でも注目されていたようだ。
秀吉は、秀康のことを「惣領子」「嫡子」「実子」と書状に記す。
11月の書状で実子と表記が変わるのが気になるが、この時点では秀康(お義伊)が家康の嫡子(後継)であった可能性はある。
12月12日に浜松を出立したお義伊は、石川数正とともに26日に大坂に着き、筒井定次の屋敷に置かれたようだ。
ーーー

●天正13年
1月11日:『顕如上人貝塚御座所日記』
徳川息御義伊へ御音信、小袖二・道服一、石川伯耆守へ小袖二、其外杉田へ小袖一、御使寺内相模、
1月13日:『顕如上人貝塚御座所日記』
御義伊ニツキテ罷上杉田新兵衛、為参詣マイラレタルヲ聞付ラレテ、メサレテ御對面、鳥目五百疋進上、志トテ黄金一包、子共ノ言傳トテ鳥目少々あけらるゝ也、御肴一献盃被下之了、やかて國へ被下由物語也、
1月22日『顕如上人貝塚御座所日記』
御義伊より使小姓、石川伯耆守使ト両人被参也、御對面一献、
2月14日:秀吉書状(本多記録御用所本)
おきい上洛候
4月18日:『顕如上人貝塚御座所日記』
徳川息御義伊殿、秀吉御陣見廻ノタメニ、雑賀へ御越也、石伯モ供ト云々、
10月6日:『兼見卿記』
殿下御参内〜中略〜次二兵衛少将、殿下之甥、御對面御禮之義同前、次徳川息侍従、次うき田八郎侍従、次五郎左衛門尉侍従、次越中守侍従、次三吉侍従(信長御息)、次武衛侍従、次毛利河内守、次蜂屋侍従、各御對面終而、在一盞之儀、美濃守(殿下舎弟)天盃頂戴之、此外御通也、各相濟殿下御退出〜後略〜
11月17日:某宛自筆 秀吉書状(豊太閤真蹟集)
於義伊なとも迷惑

ーメモー
天正13年、家康と秀吉の交渉はあまり進展していない。
秀康の情報は、主に本願寺の記録に残る。
徳川家中に一向宗門徒が多いためか、お義伊つきの上田新兵衛の参詣が確認できる。
本願寺は天正11年から三河の一向宗寺院の関係で徳川方と接触を開始している。
徳川の動向が気になるのか、継続して日記に情報を載せている。
秀康は10月6日に参内し、「徳川侍従」となる。
家康の臣従はうまく進まず、秀吉の書状には「於義伊なとも迷惑」と記されている。


●天正14年
5月13日:『家忠日記』
雨降、吉田ニ御逗留也、右分振舞也、おきいさまの御もり小右衛門尉、伊藤殿案内者ニこし候、ミあけ小ちゃハん五つ、此方ゟ持鑓二本出候、

ーメモー
天正14年に秀吉の妹朝日姫が家康に嫁ぐ。
その際、秀康の「お守り」小右衛門尉が伊藤秀盛の案内として同行している。


●天正15年
4月9日:羽柴左衛門尉他宛 秀吉書状(赤木文明堂)
徳川三河侍従

ーメモー
家康の臣従後、秀吉は九州へ出兵している。
秀康も従軍しており、「跡つめ」を「被仰付」ている。
秀康は「徳川」であり、「三河守」は、家康が使用していた官職でもある。
この段階では、秀康が徳川の嫡男だったのかもしれない。


●天正16年
4月15日:織田信兼等二十三名連署起請文写(聚楽亭行幸記)
三河少将豊臣秀康
11月17日:茶会自筆交名(豊太閤真蹟集)
ゆうきせうせう

ーメモー
天正16年の聚楽第行幸には豊臣秀康で署名してあるが、同年の11月の茶会では、「ゆうきせうせう=結城少将」と秀康の名字が「結城」になっている。
美作津山藩の『浄光公年譜』には、天正17年に結城家の世継に決まったとあるが、それより1年早く秀吉は秀康を「結城」と記す。
天正16年(4月16日以降)に、秀康は結城の養子となった?のだろうか。


●天正17年

ーメモー
天正17年は、秀康に関する日記・書状が(まだ)見当たらない。
『家忠日記』で、天正17年5月から、お長の表記が「若君」、つまり、家康の後を継ぐ嫡男として記されるようになる。
天正16年に秀康が結城になった関係から、嫡男が変更されたのだろうか。
ただし、天正14年以来の秀忠登場(in家忠日記)なので、それ以前にお長が嫡男となった可能性もある。


●天正18年
天正18年カ?5月22日:平岩七之助宛 秀康書状(古沢文書)
天正18年カ?5月22日:鳥居彦右衛門宛 秀康書状写(古文書二)
上2通は小田原の戦い関連の書状か?
6月1日(6月5日?):『天正日記』
かのとひつじ 天気よし きしゆく たてとの内々にて、この方へ御こし、ゆふき様より御たのみ也
6月2日(6月6日?):『天正日記』
さる ふる たてとの、ゆふき様、御ちそう、ふろたくべしと仰出さる
6月4日(6月7日?)
大との様ゆふきさまたてとの御一所に殿下へ御こし也
7月29日:黒田勘解由、水野和泉守宛 家康書状(水野文書)
結城跡目之儀、三河守ニ仰付段、
9月:知行目録、寄進状、知行充行など
天正18年カ?10月11日:平岩主計宛 秀康書状写(松濤棹筆二十八)
天正18年カ?10月11日:平岩主計宛 秀康書状写(松濤棹筆二十八)
上2通は葛西大崎一揆関連の書状か?
11月4日:『天正日記』
くもる 本町の地わり少々なほる 少将様はじめて御つき御むかひ御案内に大助出す
12月12日:寄進状

ーメモー
天正18年カ?の4通の書状は年欠で、内容から天正18年と推測されているものである。
『天正日記』は、内容と日付が『家忠日記』ほかと一致せず、偽書との疑いがある。
しかし、蓮沼啓介「校訂天正日記の史料価値」https://cir.nii.ac.jp/crid/1520572357857556224で、( )内のように日付を改めれば内容が他史料と矛盾しないと指摘されていた。
この論文を参考にして、( )内に日付を記した。
『天正日記』の内容が正しい場合、秀康は小田原に在陣していて、伊達政宗を出迎える役目を担い、秀吉との面会に向かう政宗に家康と共に付き添ったことになる。
7月29日の家康書状では、結城晴朝が隠居して、秀泰に結城の5万石を継がせることを家康が了承している。
秀康はこれより前に「結城」と記されているため、養子と跡目の相続は同時ではなく段階を経て行われた、か、この書状の年次が天正18年より前か、のどちらかである。(この家康書状は、年欠)
また、葛西大崎一揆へ出陣する際に、秀康は初めて江戸に来ている。


●天正19年

ーメモー
天正19年も、秀康に関する日記・書状が(まだ)見当たらない。
次の天正20年の当人の書状に「去年よりの煩い、散々だったが」とあるので、長く患っていたのかもしれない。


●天正20年(文禄元年)
1月20日:松平又七宛 秀康書状(谷森健男氏所蔵文書)
〜前略〜随而自去年之煩、散々式候得共、〜後略〜
2月:知行充行、知行充行写

ーメモー
秀康は長く患っていたが、秀吉の唐入りのために家康とともに?名護屋へ向かう。
その前に知行充行を急いで出していったようだ。


●文禄2年
5月20日:徳川家康等二十名連署起請文(東京国立博物館)
江戸大納言
〜中略〜
結城少将
文禄2年カ5月23日:長谷川惣大夫宛 秀康書状写(秋田藩家蔵文書五十)

ーメモー
8月3日に秀頼が生まれ、家康は8月29日に大坂に着いている。
秀康の動向は不明だが、文禄3年6月までには京都に戻っている。


●文禄3年
6月16日:『家忠日記』
同普請、結城三州様ニふる舞にてこし候、
8月21日:伏見大光明寺建立勧進書立(相国寺文書)
一、百石 江戸大納言
〜中略〜
一、弐拾石 ゆうきの少将
8月24日:『言経卿記』
江戸亜相へ罷向了、御所労験気也、夕食有之、亜相子息三河守殿相伴了、十人計有之、

ーメモー
秀康は、普請作業に励む松平家忠に振る舞いをしたり、駕籠から落ちて体を痛めた父親を見舞ったりしている。


●文禄4年
3月28日:『式御成之次第』
 式御成之次第
夫御成之儀被相定候付而
 〜中略〜
亜相(家康)御禮御進物之次第
 〜中略〜
結城少将(結城秀康)殿
 〜中略〜
御相伴之事
 〜中略〜
 同丹後 少将殿  足打
 同結城 少将殿  足打
 〜後略〜
7月20日:織田信雄等三十名連署起請文(木下文書)
羽柴結城少将
10月1日:『言経卿記』
伏見ヘ冷同道罷向、与右衛門尉所ニテ休息了、次 江戸亜相ヘ罷向、水無瀬黄門伊勢物語講尺之内也、則聴聞了、次夕食有之、相伴衆、水無瀬・予・冷・江戸黄門・同参河守・伊達侍従等也、亥下刻ニ帰宅了、

ーメモー
『式御成之次第』は、秀吉が家康の屋敷へ「御成」したときのものである。
秀康は「徳川」の一員として秀吉に進物を出しつつ、「結城」の者として接待を受ける立場にもなっている。
また、『織田信雄等三十名連署起請文』で、かつては豊臣だった姓が羽柴へと変わったのが分かる。


●文禄5年(慶長元年)
1月、3月:知行充行、知行充行写、寺領充行
慶長元年カ6月5日:三川様宛 秀忠書状(個人所蔵文書)
12月:知行充行

ーメモー
文禄5年1月の知行充行状は多い。
出陣や病、在京で対応できていなかった分を、この時期に集中して出したのだろう。
ただ、3月の知行充行写の後、12月まで期間が空く。
慶長元年カと推定になるが、6月5日の秀忠の書状で「明日伏見でお会いしましょう」とある。
3月13日より後〜12月まで結城を離れ、在京していたようだ。


●慶長2年
10月10日:加藤主計頭書状写(後撰芸葉十)
羽柴三州宛

ーメモー
加藤清正が朝鮮出兵の様子を秀康に知らせている。
先に秀康の方が書状を出しており、その返事。
次の浅野長慶の書状案も同じで、朝鮮出兵組と日本に残る大名らの間では多数の書状が交わされている。


●慶長3年
1月4日:浅野長慶書状案(浅野文書)
羽柴三河他宛
慶長3年カ2月:結城秀朝定書、秀朝安堵状
慶長3年カ8月7日:中納言様宛 秀康書状(服部玄三所蔵文書)
10月3日:秀忠様宛 秀康書状(越葵文庫文書)
11月21日:知行充行

ーメモー
浅野長慶の書状は、多数の大名へ向けてのもので宛名の一人が秀康である。
内容は朝鮮情勢。
慶長3年のわずかな間、秀康は養父の晴朝から一字をもらって「秀朝」と改名していたらしい。
ただ、同年中には「秀康」に戻している。
慶長3年8月18日に秀吉が病没した件と関係する?のかもしれない。
だが、慶長3年カ?と年次推定の8月7日(秀吉没前)の書状で「秀康」と署名してあるため、秀吉の死との関わりは微妙である。
秀吉の死により、家康は京都から動けなくなり、秀忠は江戸、秀康は家康の側に、という形ができる。
上の2つの秀康書状はどちらも江戸の秀忠宛で、家康の様子などを知らせている。


●慶長4年
3月3日:吉原奉行中宛 中村一氏書状(静岡県史資料編13近世5)
結城三河守殿御家中之女房上下六人、江雪申理ニ候、吉原相違有間敷候也、
3月22日 三州宛 秀忠書状(大阪城天守閣所蔵文書)
4月8日:『言経卿記』
早暁伏見江戸(ユウキ)宰相殿・森右近家等火事也、右近ヨリ火出也云々、
5月2日『言経卿記』
城織部佑ヨリ知人ーー愛洲藥所望之由有間、十服遣了、結城宰相御内衆也云々、
5月11日:小早川秀秋等三十名連署公家衆法度請状写(旧記雑録後編四十五)
結城宰相
月日不明:黒印状写

ーメモー
秀康家中の女房衆が領国→伏見、伏見→領国のどちらかの移動をしたようだ。
それとも秀康自身が一度結城に戻ったのか、3月22日の秀忠書状に「路次中無何事被御上着候由」とある。
慶長3年11月に知行充行が出ているので、可能性はある。
また、家康を糾弾する『内府ちかひの条々』に、「諸侍の妻子、ひいきひいきニ候て、國本へ被返候事」がある。
もしかしたら、この女房衆の移動がそれに該当するかもしれない。
この場合、女房衆の移動は「伏見→領国」が正しくなる。
伝聞情報ではあるが、4月8日には伏見の屋敷が火事になったらしい。
翌月に秀康の家来が山科言経に愛洲薬を所望しているのは、火事の関係だろうか。
5月11日の署名で、秀康は「羽柴」姓を使用していない。


●慶長5年
6月22日:三州宛 秀忠書状(松江松平文書)
6月23日:多賀谷左近宛 秀康書状(多賀谷文書)2通
7月10日:知行充行
7月14日:金松又四宛 秀康書状(兼松文書)
8月21日:羽作州宛 秀康書状写(譜牒余録五十四)
8月24日:羽三州宛 福島正則書状写(福島家系譜)
8月29日:池田吉左衛門他宛 秀康書状写(黄薇古簡集一)
9月17日:羽作州宛 秀康書状写(譜牒余録五十四)
9月25日:井兵部宛 秀康書状写(中村不能斎採集文書九)
9月28日:羽越州宛 秀康書状(天理大学図書館所蔵伊達文書)
9月28日:羽三州宛 伊達政宗書状(越葵文庫文書)
10月16日:佐州宛 秀康書状写(栃木県庁採集文書三)

ーメモー
知行充行を除き、全て関ヶ原前後関連の書状。
年次が特定できる秀康書状の数が最も多いのがこの慶長5年である。
家康もこの時期の書状の数は多い。
宇都宮で対上杉を任された秀康は、あちこちと連絡を取り合っている。


●慶長6年
1月4日:結城宰相宛 秀忠書状(越葵文庫文書)
4月18日:宰相宛 秀忠書状(福岡市博物館所蔵文書)
8月13日:越前宰相宛 秀忠書状(越葵文庫文書)
8月23日:大関左衛門督宛 秀康書状(大関)文書
9月9日:知行充行、知行充行写
9月11日:寄進状写、定書写
9月15日:知行目録写
11月9日:寄進状
12月9日:黒印状

ーメモー
慶長6年は、秀忠の書状が3通ある。
1月の書状では、秀康の越前拝領を喜び、4月のものでは秀康と会いたいと伝え、8月には秀康の目の具合を心配している。
どうやら、関ヶ原の後、秀康は目を患っていたようだ。
8月23日の書状によれば、越前を拝領した秀康は伏見を経由して8月14日に越前に入っている。
新しい領国に移ったため、知行充行などが多数出されている。
ただし、秀康に従って越前入りした結城の家臣は少なかった。
12月9日の黒印状では、越前入国の際に大量の金銀が納められているのが分かる。


●慶長7年
3月5日:伝馬定書
4月14日:寄進状写
5月27日:『舜旧記』
今日三河守殿依社参、二位卿俄豊國へ越也、予脚気ニ足痛故不参、次三河守殿奉納、銀子五枚、二位殿ヲソクテ三河守殿早ク社参也、
7月5日:『言経卿記』
伏見ヘ冷・倉部発足了、先結城宰相殿(内府息)ヘ罷向、自倉部ユカケ二具進了、盃酌云々、次内府ヘ罷向、夕食有之、
9月10日:黒印状
9月11日:黒印状
11月15日:結城宰相宛 秀忠書状(個人所蔵文書)

ーメモー
秀康は領国支配のため、4月までは越前にいたようだ。
5月には伏見へ来ていて、秀吉を祀る豊国社に参詣している。
秀康の豊国社参詣はこの1回だけで、前日には家康の母於大の方の参詣が確認できる。
家康も伏見におり、徳川として礼を示すための参詣だったらしい。
11月の秀忠書状で、秀康が金沢城への落雷を報告しているのが分かる。
秀康の越前入りは、対前田家のためもあったようだ。


●慶長8年
1月9日:知行充行、知行充行写
1月10日:寄進状写、寄進状
1月21日:寄進状
2月12日:寄進状、寄進状写、禁制、禁制写
2月28日:寄進状
3月25日:『慶長日件録』
大樹参内也、〜中略〜次扈從衆五人、越前宰相、豊後宰相忠興、播磨少将、京極少将、安芸侍従等也、〜以下略〜
4月4日:『言経卿記』
殿中御能有之間、〜中略〜次大樹(御袴・肩衣)御出座、次相伴衆各被参了、三宝院准后(素絹)、両人上之段也、四方也、中之段(ニテ)烏丸亜相・日野亜相〜中略〜越前相公(結城、大樹子息)〜以下略〜
5月2日:判物
慶長8年カ7月17日:神田修理亮宛 秀康書状(神田文書)

ーメモー
慶長8年は家康が将軍に就任する年である。
秀康は再び3月には伏見におり、家康の参内などの関連儀式に参加している。
5月には越前に戻ったようだ。


●慶長9年
慶長9年カ2月23日:越前宰相宛 秀忠書状(個人所蔵文書)
慶長9年カ6月1日:越前宰相宛 秀忠書状(越葵文庫文書)
慶長9年カ6月16日:堀帯刀宛 秀康書状(佐藤行信氏所蔵文書)
慶長9年カ6月17日:越宰相宛 秀忠書状(南部晋氏所蔵文書)
7月1日:伝馬手形
11月12日:知行充行
慶長9年カ11月25日:永見淡路守宛 秀康書状(知立明神文書)

ーメモー
この頃から、秀康の体調が思わしくない。
秀忠の書状は3通とも秀康の煩いを気にかけており、堀帯刀宛の当人の書状でも病で会えなかったことを詫びている。
最後の永見淡路守宛は秀康の双子の兄弟とされ、その死去についての書状である。
ただ、文書の最後が「以上」で締められており、書式として妙な感じがする。


●慶長10年
慶長10年カ1月9日:越前宰相宛 秀忠書状(武生市立図書館所蔵文書)
2月7日:知行充行
慶長10年カ2月17日:本多上野介?宛 秀康書状(お茶の水図書館所蔵文書)
3月15日:『言経卿記』
大外記(中原)師生来、右大将殿任槐有之歟之由申、同兄弟越前宰相モ黄門ニ拝任之由申、
5月8日:島津陸奥宛 秀康書状(島津文書)
慶長10年カ5月18日:大方彦左衛門尉宛 秀康書状(大方文書)
慶長10年カ5月18日:秀康書状(秀康公御代御秘蔵御書付類)
慶長10年カ5月22日:宮川五助宛 秀康書状(水野家文書)
慶長10年カ5月26日:円光寺床下宛 秀康書状(三岳寺文書)
6月10日:越前中納言宛 秀忠書状(越葵文庫文書)
慶長10年カ6月27日:由井甚太郎宛 秀康書状写(水野家文書)
慶長10年カ6月29日:由井甚太郎宛 秀康書状写(水野家文書)
慶長10年カ6月30日:本目権十郎宛 秀康書状写(古文書二)
7月26日:『公卿補任』
前参議從三位源秀康、七月廿六日任権中納言

ーメモー
慶長10年は秀忠が将軍に就任する年である。
秀康も中納言となり、この年に推定される書状も増加する。
しかし、病は悪化しており、秀康は腕が痛くて花押が書けず、印判で書状を出している。


●慶長11年
1月1日:多賀谷左近大夫宛 秀康掟書(多賀谷文書)
慶長11年カ2月2日:本多美濃宛 秀康書状写(中村不能斎採集文書十)
慶長11年カ2月5日:本多美濃宛 秀康書状写(中村不能斎採集文書十)
慶長11年カ2月12日:多賀谷左近大夫宛 秀康書状(多賀谷文書)
4月18日:越前中納言宛 秀忠書状(芦浦観音寺文書)
5月16日:『輝資卿記』
玄仍所へ越前中納言殿之御祈祷之連歌ニ罷出候、夜中迄酒宴、
5月18日:『慶長日件録』
午刻、伏見行、越前中納言殿へ、冷泉令同心、向彼亭於書院有御振舞、雖然御腫物之故無御對面、予進物薫衣香袋三ツ進之、冷泉中将、定家真筆三代集之抜書、被懸御目之、及晩天帰蓬畢、
6月2日:『慶長日件録』
午刻為勅使、越前中納言之亭へ向、於東福寺遊山之間帰京、
6月3日:『慶長日件録』
為勅使向越前中納言亭、薫衣香袋廿拝領也、仍持参、即中納言令頂戴給、後有振舞、中納言殿今日月待、無食也、仍無相伴之義、忝之由御返事申入畢、
6月4日:『慶長日件録』
未刻、越前中納言殿より御使被下、御書并帷子五拝領、即返事申入、高田遠江守宛所遣了、御使名字高田平左衛門、
7月7日:『慶長日件録』
早朝伏見へ行、前大樹へ御禮ニ参、御對面也、次越前中納言殿へ参、依御所労、無御對面、
慶長11年カ7月7日:松平飛騨守宛 秀康書状(三宅文書)
慶長11年カ8月4日:秀康書状(平成六年『古典籍下見展観大入札会目録』)
慶長11年カ8月16日:蒲生源左衛門宛 秀康書状写(新編会津風土記三)
慶長11年カ9月2日:秀康書状(毛谷黒滝神社文書)
慶長11年カ9月21日:江雪老宛 秀康書状(藩中古文書三)
10月1日:越前中納言宛 秀忠書状写(武家事紀三十二)
慶長11年カ12月26日:稲葉三十郎宛 秀康書状(館山市立博物館所蔵文書)

ーメモー
家康の上洛に合わせて秀康も伏見にいる。
病状は改善しておらず、秀忠は書状で心配しており、里村玄仍の所では秀康の快癒を願って「御祈祷之連歌」が行われる。
秀康の書状では具合が悪く会えなかったことを詫びる文言が目に付く。
『慶長日件録』は船橋秀賢の日記で、秀賢は天皇の勅使として秀康に「薫衣香袋廿」を持参している。
おそらく、秀康が家康から伏見を任される立場になったためであろう。


●慶長12年
2月21日:羽柴陸奥守宛 秀康書状(島津文書)
3月5日:毛利伊予守宛 秀康書状(長府毛利文書)
3月9日:児玉若狭守他宛 秀康書状写(萩藩譜録こ二十六)
慶長12年カ3月19日:福原勝三郎宛 秀康書状写(萩藩譜録こ二十六)
慶長12年カ3月26日:津軽右京宛 秀康書状(佐藤文書)
4月6日:知行充行写
4月28日:『御湯殿上日記』
みかわのかみわつらいさんさんにて、きとうに御かくら申さるる、ふ行とうの辨なり、
閏4月13日:『鹿苑日録』
片主越前へ、自秀頼公三州御見廻被相越ト云、一説又三州早御遠行故、為弔慰被相越ト云、両説有之、不知其實、予相煩故不出門戸、不知虚實、
閏4月14日:『義演准后日記』
傳聞、去八日三河守死去云々、将軍子息也、去三月五日ニハ、尾張國守下野守死去、相續凶事、珍事々々、三河守ハ越前一國ノ主也、
閏4月15日:『鹿苑日録』
片主御出、昨日自越前帰宅ト云々、三州遠行必定ト云々、御若衆其外御近所ニ伺候之衆、當座ニ三人戴腹シテ御伴、其外六七人モ有之ト云々、
閏4月:『パジェー日本耶蘇史』
そは謁見式の當日、公方の長子になるが、正室の出にあらざるにより、位を継ぐ能ハざりし越前侯の凶報達したるに、上野殿ハ、公方若し此事を知らば、謁見の式ハ延期せられ、接待も厚からざるべきを前知し、國君が謁見の前に此報に接せざらん為に全力を盡し、越前より来れる書状は総べて之を押へ、接見の時刻を引き上げたるべしとなり、此非常なる親切ハ、大に宣教師の利益となりたり、
6月5日:『鹿苑日録』
東法印亦此三日上洛ト云々、大御所様御機嫌甚以難窺之、是亦無餘儀、両所迄捐館之上者、御愁嘆不及言語、下々至小身迄、無不愛其子、況於大人乎、

ーメモー
病の秀康に、家康は寒い越前ではなく上方で養生するように伝えていた。(2月21日書状)
やや回復したので帰国したが、秀康は閏4月8日に越前で病没する。
4月28日の「お神楽」は、秀康の治癒を願って行われている。
その前の4月25日に、「さきのしやうくん(家康)より、ねんとうの御れゐとて、しろかね二百まい、…」(『御湯殿上日記』)とあるので、この神楽を依頼したのは家康の可能性が高い。
家康が天皇に納める白銀は毎回100枚で、大坂の陣のときでも同額である。
通常より多い100枚は秀康のためのものだったであろう。
しかし、神楽の甲斐なく、秀康は病没した。
片桐且元が、秀頼の使いとして見舞い、もしくは弔問に行っている。
『パジェー日本耶蘇史』で、本多正純が宣教師との謁見を優先して、秀康死去の知らせが直ぐに家康に届かないよう妨害していたのが分かる。
『鹿苑日録』には、「家康さまのご機嫌を伺うのがとても難しくなっている。仕方のないことだ。忠吉さまと秀康さまのお二人を亡くされたのだ。そのお嘆きは言うことが出来ないほどだろう」とある。


注意:秀康の書状や秀康宛の書状はまだ存在するが、年未詳のため、載せなかった。
年未詳のそれらは『近世初期大名の身分秩序と文書』で確認できる。
posted by アリノリ at 20:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 結城秀康

2023年03月19日

飯尾連龍後室(お田鶴の方?)は討死したのか?

飯尾連龍後室(お田鶴の方?)は討死したのか?

飯尾連龍後室(お田鶴の方?)には、徳川勢と戦って討死したという話が残る。
城の女主が侍女たちとともに果敢に戦って戦場で討死する。
戦国時代らしい悲劇であるが、実際には、ほぼない出来事である。

引間(ひくま)城の「お田鶴(たづ)の方」の話も、「事実」とは断定できない。
引間城は浜松城の前身で、お田鶴の方は城主飯尾(いのお)連龍(つらたつ)の妻とされる。
連龍については書状他の史料があり、存在が確かめられる。
しかし、その妻(室)については、実在を保証する史料が後世の二次史料に限られる。
女性は系図でしか存在が確かめられない事例も多いため、そこは大きな問題ではない。
問題なのは、⑴彼女の存在が認められない二次史料と、⑵彼女の存在が認められる二次史料の2つがある、ことだ。
どちらも家康が遠江に進出した永禄十一年(1568)十二月十八日の出来事を記す。
この出来事で、家康は引間城を手に入れるのだが、⑴と⑵で入手方法が異なる。
17世紀後半(1673〜84年)に編纂されたとされる『浜松御在城記』が両方の説を併記するので、下にそれぞれの概要を書いておく。
(参照ー国立公文書館『浜松御在城記』:https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/result?DEF_XSL=default&IS_KIND=summary_normal&IS_STYLE=default&DB_ID=G9100001EXTERNAL&GRP_ID=G9100001&IS_START=1&IS_TAG_S1=all&IS_NUMBER=100&LIST_TYPE=default&IS_LIST_ON_OF=off&LIST_VIEW=&ON_LYD=on&IS_SORT_KND=asc&IS_SORT_FLD=sort.tror%2Csort.refc&IS_KEY_S1=%E6%B5%9C%E6%9D%BE%E5%BE%A1%E5%9C%A8%E5%9F%8E

⑴飯尾連龍室が不在
 家康が遠江の安間村に陣を張っているとき、引間城の江間安芸守が江間加賀守を殺害したと、加賀守の家来が知らせてきた。その家来小野田彦右衛門が江間安芸守を切り殺したと急いで伝えに来たので、家康は早速引間城に乗り込んで、事態を収束させた。
安芸守は甲斐の武田に通じ、加賀守は家康に通じていたため、喧嘩となったのだ。加賀守の子孫は紀州の頼宣に仕えた。

⑵飯尾連龍室が存在
 一説に、飯尾豊前守の後室(未亡人)が浜松を任されていた。家康は後藤太郎左衛門と松下與右衛門を使わして、城を開け渡せば扶持や家来については保証しようと伝えたが、後室は承知しなかった。徳川勢が攻めると、味方の手勢三百人が手負死人となり、城の兵も二百余人討たれた。後室も侍女を左右に引き連れて出て、十八人がひとつ所で討死したと、板倉家の記はある。しかし、ある人の記には、これは大河内兵庫助の合戦のことで時代も違うとある。手負死人が三百もいれば、名のある人も十や二十あまりが討死しているべきだ。ことに乗龍(連龍?)の北の方は、今川家の人なので人質として駿河にいるべきだ。もしくは、(江間)安芸守の妻などのことだろうか。


⑴は引間城を任されていた飯尾連龍の家臣が内部分裂を起こし、それに乗じて家康が城を接収したとなっており、⑵では、下ることをよしとしない飯尾連龍後室が徳川勢と戦って討死した、という内容である。
⑵については、文章中に疑問が提示されており、江戸時代から説として疑問視されていたのが分かる。
「板倉家の記」には、この後室討死の話があると記してあるが、自分が確認ができた板倉家の家譜の類いにはなかったので、この「板倉家の記」がどの板倉家の記なのかは不明。
また、続く「ある人の記」は、ある人が特定できないため、確認ができない。
同じ「家康による引間城の接収」でありながら、⑴は家臣しか出てこず、⑵では後室にしか出番がないなど、話の展開が全く違う。
これを他の史料で見てみると、次のようになる。

⑴と似た展開を載せる史料
新城市誌資料10『菅沼家譜』ーhttps://dl.ndl.go.jp/ja/pid/3010611/1/1(国会図書館)
菅沼主水の「貞享書上」
江間加賀守の子孫の「貞享書上」他ー朝野旧聞裒藁46https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000048536&ID=M2018042315173125538&TYPE=(国立公文書館)

⑵とほぼ同じ展開を載る史料
「曳馬拾遺」ーhttps://trc-adeac.trc.co.jp/Html/ImageView/2213005100/2213005100200010/m002/
「官本三河記」
「三河記大全」ー朝野旧聞裒藁46https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000048536&ID=M2018042315173125538&TYPE=(国立公文書館)

それぞれの史料について簡単に説明すると、以下の通りになる。

「朝野旧聞裒藁(ちょうやきゅうぶんほうこう)」は、江戸幕府が1819〜1841年に編纂した徳川氏の事績を集めた史料集。
「貞享(ていきょう)書上」は、江戸幕府が徳川家と縁のある諸大名や庶民に1683〜1684年の間に提出させた古文書・家伝類。
『菅沼家譜』は、家康の遠江侵攻に従った菅沼家(菅沼定盈の系統)の家譜。
貞享書上を提出した菅沼主水はその子孫。

菅沼家の記録では、江間安芸守と江間加賀守は互いに陣を構えて戦っていて、加賀守が戦で殺害されている。
定盈(さだみつ)の功に触れるなど菅沼家よりの部分があり、小野田彦右衛門が家康に知らせる場面がない、などのオリジナリティがある。
対して、紀州徳川家に仕える江間加賀守の子孫は、「浜松御在城記」の「⑴」とほぼ同じ内容の貞享書上を提出している。
つまり、先祖が関わった家の史料では、⑴の系統を採用しているのだ。

対して、「⑵」を記す史料は『浜松御在城記』か、共通する史料を参照しているらしく、内容が類似する。
『三河記大全』という書物では脚色が増える差分はあるが、展開は同じ。
山鹿素行の『武家事紀』(1673年の序文あり)は、⑵を採用して、後室と十八人の女性の討死の部分のみを載せる。

⑴は内部分裂で、⑵は徳川との戦いである。
⑴と⑵の妥協をはかったのが、『浜松御在城記』の「もしくは、安芸守の妻などのこと」という部分だ。

では、どうして、同じ出来事に全く別の話が残ったのか。
原因は、浜松城の丑寅の西の方角に「御台塚」という場所があったためではないだろうか。
「御台=御台所=妻」+「塚=墓」=そこそこ身分の高い女性(妻)の墓があるのだから、そういう女性がここでなくなったのだろう、とたやすく連想が働く。
現在、この「御台塚」は存在せず、正確な場所は分からない。
そのあたりは、椿屋敷とも呼ばれていたらしく、江戸時代の浜松城図にも「ツバキ」と記されている部分がある。
「御台塚」「椿屋敷」という地名から、⑵のような「物語」ができた可能性はある。
2022年に地元の徳川家康関連の伝承を調べたとき、かなり多かったのが「地名や名字を説明するための家康伝承」であった。

「この地名は家康が○○したので、こういう地名になりました」
「この名字は家康に○○してあげたのでいただきました」

というパターンである。

御台塚がある。
椿屋敷という地名だ。
もともと引間城は飯尾家の城であった。
家康が遠江に来たときに現地勢力と争いがあった。

この複数の条件から、飯尾後室討死の話が作られても不思議はない。

また、『浜松御在城記』が指摘するように、実際に引間(曳馬)城は「大河内兵庫助=大河内貞綱(さだつな)」により占拠された歴史がある。
これは1512年の話で、今川氏と斯波氏の争いが背景にある。
今川と斯波は遠江をめぐって対立しており、今川氏に引間荘代官(曳馬城)を任されていたのが飯尾賢連(かたつら,連龍の祖父)であった。
大河内貞綱は1516年にも飯尾を追い出して引間城を占拠&籠城をするが、翌年、今川氏親(うじちか,義元の父)により城は落とされ、貞綱は自害した。
「御台塚」がこちらの関連からできた可能性はあるだろう。

⑴と⑵を比較すると、⑵の方が伝承性が高いと思う。
引間城は、⑴内部分裂して家康の所有となったのか、それとも、⑵徳川が飯尾連龍の後室と戦って手に入れたのか。
どちらも確たる資料はない。
ただ、⑴と⑵の2つを示す「史料」があり、これにより2つの説ができる。
そして、全く別の展開を示す史料が2つある以上、飯尾連龍後室の討死は「事実」とは断言できない。
飯尾連龍後室の討死はあくまでも説の一つに過ぎない。
これだけは確かなことだ。
posted by アリノリ at 20:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 徳川家康関連

2022年12月25日

家康の誕生日について

徳川家康の誕生日は、通説では旧暦の天文11年12月26日である。
この日付は、西暦では1543年1月31日となる。
ネットで検索したところ、この誕生日を寅年寅の月寅の日寅の刻生まれと紹介する例がいくつもあった。
朝野旧聞裒藁(国立公文書館:https://www.digital.archives.go.jp/file/2549777.html)などを確認したところ、生年と日付を壬寅(みずのととら)と記す史料はあったが、寅の月、寅の刻は見当たらなかった。
寅の刻は現在の午前4時前後。(前後の幅はかなり大きい)
寅の月とされるのは一月。
月と刻限の根拠は何かも気になるとことではあるが、今回の記事の本題は「寅」ではない。

この記事の本題は、<家康の誕生日を「天文11年12月26日」としたのは、後世の神君史観or徳川史観であり、実際の誕生日は違う>とする説への反証である。

家康の誕生日は「天文11年12月26日ではない」とする説の根拠は、家康が記したとされる「都状」である。
写しではあるが、ネット上でも同じ史料が見られる。
(宮内庁書陵部図書寮文庫:https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Detail/1000307090000
都状とは、陰陽道で行われる祭りの際に読み上げられる祭文である。
家康の都状は、慶長8年2月12日に家康が将軍に就任する際に書かれたものとされる。
(参照ー大日本史料:https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/1201/0001?m=all&s=0001

そこに家康の年齢が「61歳」とあるのが、上の後世の創作説根拠である。

慶長8年に61歳であると、生年は天文12年となる。
当時は、生まれたときに1歳となり、その後は毎年正月に年をとる数え方になる。
分かりづらいので、下に天文11年に生まれた場合の数え方を用意した。

天文11年12月26日(1543年1月31日) 誕生1歳
天文12年正月(1543年2月) 2歳
天文13年正月(1544) 3歳
<中略>
慶長6年正月(1601) 60歳
慶長7年正月(1602) 61歳
慶長8年正月(1603) 62歳
<中略>
慶長19年正月(1614) 73歳
慶長20年正月(1615) 74歳
元和元年7月(1615) 74歳(7月に改元)
元和2年正月(1616) 75歳
元和2年4月17日(1616年6月) 死去

見ての通り、天文11年に生まれると、慶長8年2月には62歳になるので、都状の年齢が正しい場合は天文12年の生まれとなる。
この都状は家康が書いたものだから、慶長8年に61歳が正しい。
よって、「天文11年12月26日」生まれは、家康の誕生日を寅年寅の日にするための後世の創作だ、という主張がある。
しかし、家康の年齢を示す史料はもう一つある。
家康の晩年の側近金地院崇伝が記した『本光国師日記』である。
(参照ー大日本史料:https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/1224/0325?m=all&s=0325&n=20

崇伝は家康の没年齢を「75歳」と記す。

家康が駿府(静岡)で病没したのは、元和2年4月17日である。
この日付については、その場(駿府)にいた崇伝や山科言緒らが日記に記しているほか、複数の寺社や貴族の日記で確認できる。
没したときの年と日付は動かない。
そのため、崇伝の記述に従えば、75歳から逆算した天文11年が家康の生年となる。
家康の生年は、家康の都状では天文12年、崇伝の日記では天文11年となり、同時代史料で矛盾が生じている。
どちらかが誤っているのは確かだとしても、どちらが正しいのかの判断は難しい。
現代なら家康本人の記述を信用するのだろうが、当時の事情から崇伝の記録も正しい可能性があるのだ。

現代人にとって誕生日が特別なように、昔の人々にとっても誕生日は重要であった。
(参照ー論文「近世における誕生日」https://cir.nii.ac.jp/crid/1390009224089587968?lang=ja
天皇や貴族は誕生日に祈祷や祝いを行っており、江戸幕府将軍も誕生日の行事があった。
この論文にあるように、『鹿苑日録』慶長8年12月26日に家康の「将軍正誕生御祈祷」が行われている。
(参照ー『鹿苑日録』82コマ:https://dl.ndl.go.jp/pid/1921072/1/82
『鹿苑日録』をさかのぼって読んでいくと、室町幕府将軍も誕生日の祈祷をさせているのが分かる。
鹿苑寺での誕生日祈祷は、室町位幕府将軍から続く将軍の伝統であった。
秀忠が将軍に就任すると、家康の祈祷はなくなり、秀忠の誕生祈祷が始まる。
『本光国師日記』慶長17年4月7日の書状案から、鹿苑寺だけでなく、崇伝も秀忠の「誕生日之祈祷」を行っていたのが分かる。
(参照ー本光国師日記:https://www.digital.archives.go.jp/file/3143638.html
崇伝の日記を読んでいくと、占いや吉凶判断の依頼が目につく。
相手や内容によるが、その際に崇伝が相手の生まれ年・干支・誕生日を確認する例がある。
寺社での祈祷には生まれ年や誕生日が必要で、『義演准后日記』には家康の娘督姫と子供たちの生年月日が記録されている。
『本光国師日記』は慶長15年からの記述であり、崇伝が家康の誕生日祈祷をした記述はない。
しかし、家康の没年齢を「75歳」と記すからには、崇伝が家康の生年を「天文11年」と認識していたのは間違いないだろう。
先に書いた通り、崇伝は祈祷や占いのために対象者の生年月日を知らなければならない立場にあった。
寛永8年1月4日には、徳川和子(秀忠娘。後水尾天皇皇后)の「徳日(=衰日)」の問い合わせに答えるため、養珠院(家康側室お万)に和子の年齢と干支を尋ねて、正確な年齢と干支を記録している。
そんな崇伝が家康の生年を誤るだろうか。
誤る可能性は低いと思われる。

では、生年を間違えたのは、当人(家康)か、側近の僧侶崇伝か。
双方とも信用がおけてしまうため、自分にはどちらとも言いかねる。

また、将軍の「誕生日の祈祷」は、当人の「誕生日」に行わなければ意味がない。
室町幕府将軍から続く「誕生日の祈祷」に偽りの誕生日を使用する理由はないので、日付の「12月26日」はほぼ確定で良いだろう。
生年については、上記の2つの史料から「天文11年と天文12年」が候補となる。
崇伝の日記は、江戸幕府が編纂した『朝野旧聞裒藁』と『徳川実紀』に使用されているので、家康が「天文11年12月26日」に生まれた、という通説は、崇伝が記した没年齢から逆算して出てきたのかもしれない。
他の(失われた)記録からの可能性も当然ある。

つまるところ、家康の生年月日は、
崇伝を信用するなら、天文11年12月26日で、家康を信用するなら、天文12年12月26日、となる。

当時の人の生年月日の1年違いは誤差の範囲内である。
これは「神君史観」や「徳川史観」なのだろうか?

徳川家康の関連史料は膨大なので、全てを把握することは誰にもできない。
よって、1つだけの史料で「断定」できる事柄は数少ないと言える。
今後、どちらかに確定できる史料が出てくれば良いのだが、「よりによってこの二人で、一次史料に書き残したことが違う」という案件なので、なかなか難しいのではないだろうか。

追加史料:徳川義直編纂の「御年譜」
http://e-library2.gprime.jp/lib_city_nagoya/da/detail?qf=&q=%E5%BE%A1%E5%B9%B4%E8%AD%9C&start=1&sort=%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%AB_STRING+asc%2C+METADATA_ID+asc&dispStyle=&fifq=&tilcod=0000000005-00001088&mode=result&category=
家康の息子義直の編纂史料である。
「御年譜」は家康の生涯を簡潔に記したもので、これにも家康の没年齢があり、「75歳」となっていた。
義直は家康が病没する際に駿府城にいた。
崇伝と同じ場にいた息子も家康の生年を「天文11年」と認識していたため、追加史料としてリンクを貼っておく。
posted by アリノリ at 20:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 徳川家康関連

2019年05月10日

結城秀康に関する史料 その6

秀康の「おもり」の記述が『家忠日記』にあったので、記載する。

○日記『家忠日記』:天正十四年五月十三日丁未

雨降、吉田ニ御逗留也、右分振舞也、
おきいさまの御もり小右衛門尉、伊藤殿案内者ニこし候、
ミあけ小ちゃハん五つ、此方ゟ持鑓二本出候、

●訳
雨が降った。
吉田に(朝日姫が)逗留された。
右の分を振る舞った。
おきい(秀康)さまのお守りの小右衛門尉が伊藤殿の案内人として来た。
土産に小さな茶碗を5つ(持って来たため)、こちらから鑓二本を渡した。

*解説と検討
天正14年(1586年)5月、秀吉の妹朝日姫が家康に嫁ぐために浜松へとやって来た。
その途上、三河国吉田(現:愛知県豊橋市)で雨が降ったために、前日に吉田に到着した朝日姫は、もう一日吉田に逗留した。
朝日姫には秀吉家臣が従っており、11日の『家忠日記』で名が確認できる。
浅野長政(長吉)、富田一白、伊藤太郎左衛門尉、滝川益重の4名である。
「おきいさまの御もり」である「小右衛門尉」は、「伊藤殿」の案内人として来ていた。
「伊藤殿」は「伊藤太郎左衛門尉」のことであろう。
秀吉家臣4名のうち3名は実名他の情報が分かるのだが、この伊藤太郎左衛門だけ実名すら不明である。
秀康は天正12年12月に11歳(実年齢)で上京して大坂に入り、天正13年10月には「侍従」となり参内している。
この時点で「元服」して「秀康」を名乗っている筈であるが、『家忠日記』では「おきいさま」表記である。
記述者の家忠は秀康の「侍従任官」を知らなかったのか、それとも、「御もり」の小右衛門の前に「侍従」表記はおかしいからだろうか。
小右衛門は伊藤殿の道案内として朝日姫の一行に加わっている。
吉田で松平家忠に会った小右衛門は、家忠に「土産」として「茶碗5つ」を渡した。
返礼として家忠は「持鑓」二本を小右衛門に与えている。
誰彼構わず土産を渡したりはしないだろうから、小右衛門は家忠とはそれなりの付き合いがある知り合いか、親族なのだろう。

先に上げたように、『家忠日記』には文禄3年(1594年)6月16日に「同普請、結城三州様ニふる舞にてこし候」とあり、秀康が普請のために上洛した家忠に「振舞=接待」をしている。
秀康が家忠以外の者にも「振舞」をしたのかどうかは不明。
家忠は妻が家康の母於大の方の姪である。
秀康の母お万の方の母は、於大の方の妹?ともされる。
徳川の親族であるから秀康が特に接待したのか、それとも、普請に関わる人達をまとめてねぎらったのか、上の記述だけでは何とも言えない。
ただ、小右衛門が家忠に土産を渡していることから、秀康の側近くにいる者達と家忠の間には何らかの繋がりがあったのは確かだろう。
小右衛門は道案内だけでなく、徳川に秀康の情報などを伝える役目もあったと思われる。

posted by アリノリ at 20:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 結城秀康